突然映らない

コロナ禍で在宅時間が増えたことに伴い、人から強く勧められてAmazonPrimeVideoとやらを見る習慣ができて、半年ほどが過ぎたでしょうか。
はじめは「そんなものは必要ない」と思っていたけれど、映画は嫌いじゃないし、経験してみるとすっかりハマってしまい、もはやこれがあるのが当たり前の生活になりました。

やることといえば、専用のスティックを購入してテレビに突き刺すだけ。
ある程度予想はしていたけれど、そこにはなんともおびただしい量の映画やドラマ、その他いろいろで溢れかえっており、ある種の恐怖さえ覚えるほどした。
きっと今どきの人は「当たり前」のこととして顔色一つ変えないのでしょうが、何事も遅れているマロニエ君は、ただもう唖然とするばかりでした。

はじめはあまりの種類/量に、どこから手を付けていいのかもわからないほどでしたが、人は慣れればそれでも不平不満はいろいろあるようで、Netflixのほうがあーだこーだ…といろいろ違いがあるようです。
人間の欲とは際限がないもので、差し当たりマロニエ君はAmazonPrimeVideoだけでも十分以上ですが。

そんなわけで、これまでなら決して見ることのなかったであろう映画やドラマをずいぶん観ました。
こんなことをしていると、当然一枚一枚をレンタルしたり、ましてDVD購入する筈がなくなり、もはや時代遅れというのも、すべてを肯定はしないけれどわかるような気はします。
音楽CDは個人的には少し違う意味があると思いますが、一般的には当然同じ流れの中にあるはずで、この分野のビジネスが萎むのも当然の成り行きですね。

ところで、つい先日、このAmazonPrimeVideoが突如として映らなくなりました。
昨日まで映っていたものが、なぜか今日はダメになっており、理由がまったくわからない。
パソコンも同じで、メールが突然、なんの前触れもなく送受信できなくなったりすることがあり、あれはたまりません。
誰でもそうかもしれませんが、マロニエ君は殊の外この手のトラブルには弱いので、人一倍こたえるというか、ひどい時には頭痛や吐き気がするほどパニック的な感じに陥ります。

何をどうしたら良いかもわからないし、カスタマーセンターなどに電話しようにも、今どきはどこも簡単には電話番号さえわからないようになっているので、それを突き止めることからが解決への手順なので、もうウンザリ!
運よく電話番号がわかったとして、これがまたなかなか通じない。鬱陶しいガイダンスを聞きながら要件に応じて番号を押したりしなくてはなりませんが、大抵失敗もするので、やり直しだなんだと一度で済んだためしがない。

そして判で押したように「…尚この電話はサービス品質向上のため録音させて…」みたいなことを何度も聞かされ、そんなこんなで気分は最悪、時間的にもかなりの長時間に及んだりすることしばしばで、いったんトラブルが起きると、こういう一連の苦痛のコースが待ちうけているわけで、しかもそれはいつも突然のことなので、毎回終わった時には(誇張でなく)寝込んでしまいたいほど疲れます。

で、AmazonPrimeVideoですが、それが発覚したのが夜中の0時過ぎで、何をどう操作してもダメ、スティックを抜き差ししてもダメ、ネットのルーターなどの電源を入れなおしてもダメで、自分で思いつく限りの対処法もなくなり万事休すというところでした。
ネットは幸い繋がっているので、解決法などを検索してみますが、そもそもあんなもの、書き方も文章もよくわからないし、役に立ったことはほとんどありません。

Amazonにログインしても埒が明かず、それでも真夜中にあれこれとやっているうちに、自分でもどこをどうしたものか、トラブル解決のためのチャットというのがあったので、そこに一縷の望みを託してやってみたら、時間は夜中の3時頃だというのに、電光石火のごとくパッと返事が来たのには驚きました。
で、映らないことを訴えてやりとりを何往復かしたところで、電話番号を書いたら先方からかかってくるという文言があり、ここぞとばかりに電話番号を書き込んだら、すぐに電話がかかってきました。
こんなとき、人の声を聞くと、もうそれだけで半分以上救われた気がするもの。

そこにたどり着くまでが大変ですが、いったん会話すれば、とても感じ良く応対され、結果からいうとものの10分ほどで解決できました。
先方の指示にはこうでした。
TVをOFFにして、スティックと、それに連なる電源(コンセント)を両方抜いて、1分ほどして再び差し込んでみる。
するとどうでしょう!
あんなに長々と悪戦苦闘してどうにもならなかったものが、きれいに映って、操作にもサッサッと反応するように回復しているではありませんが。要するに自分で試していなかったことは、スティックの電源を抜いてみる…たったこれだけでした。

こんなとき、電話の向こうのオペレーター(というのかな?)がまさに地獄に仏のように思えますね。
幸い、今回は簡単に解決できてよかったけれど、だいたいこの手のトラブルは神経がやられる感じがします。
さすがに疲れ果てて、それから何かを観る気はしませんでしたが、安心を胸に就寝しました。
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旧型新型

NHKには硬軟あわせて、クラシック音楽を取り扱う番組がいろいろとありますが、その最も入門風の番組のひとつが終了し、それに代わる新しい番組が、タイトルもMCも一新してスタートしたようです。

はじめは、これが「あれの後継番組」ということにすら気づかず、建前としては「後継番組ではない」という前提なのかもしれませんが、事実上はやはり後継でしょう。
マロニエ君に言わせるとその内容というのは、あきらかに以前のものより見劣りの甚だしいものになりました。

MCである某演奏家は前番組にもしばしばゲスト出演され、タレント顔負けのテレビ的トーク術やふるまいが番組制作者の目に止まって、ついにひとつの番組を任されるまでにご出世あそばしたということなのか。

数回ほど視ましたが、あまりのつまらなさに我慢の限界を感じ、ついには録画リストからも外すことに。
クラシック音楽を主軸にくだいてわかりやすく楽しい番組にするという番組のありかたは結構なことだと思うけれど、どう考えても前の番組のほうがはるかに楽しめたし、シンプルながら内容があり、そこから学ぶべき点も多々ありました。
そんな美点が新番組では大胆にえぐり取られ、ただ大衆に媚びるようなようなものになり、テレビ界のことは知らないけれど、目先のウケ狙いばかりで、MC役の俗っぽさが中心の番組にしか見えません。
スタジオの装置もやたらごちゃごちゃと雑貨屋のようで、目にうるさく、視線も内容も焦点が定まらず、こうなってくると番組が何をいいたいのかさえも、もはやわからないけれど…まあそれはこれぐらいで。


話題を変えて、先週は知人が購入したイースタインのBが、整備というか調整にもあらかた一区切りがついたということで、見せていただくことになり、現在ピアノが置かれている倉庫に行ってきました。
技術者さんの惜しみない尽力の甲斐あって、なかなか好ましい、生まれの良いピアノであることがより鮮明となり、やはり昔のピアノは誓って懐古趣味ではなく素晴らしい資質があったということを再確認することに。

長旅を経て届いたばかりのときは、まだどこかよそよそしい感じもあったし、なにしろ60年という長い年月を過ごしてきたピアノでもあり、近年はほとんど弾かれることもなくなっていたとかで、深い眠りから未だ醒めずという印象も少なくありませんでした。
それでも、その中からなんとも美しい上品な声が聞こえてきたことは、以前にも書いたとおりです。

それが、こういった古い良質なピアノがお好きな技術者さんが腕まくりされて、数日にわたる入念な整備・調整を受けることで、往時を偲ばせるような輝きを、かなりいい線まで取り戻したという感じでした。

このイースタインも、我が家でお預かりしているワグナーも、ともに約60年を経過したピアノですが、弦もハンマーも新品時のもののようですが(酷使されなかったということもあるかもしれませんが)それでとくに不足はなく、麗しい美音を響かせて、今も人を楽しませてくれています。
少しお歳は召したけれど、まだまだ充分に美しく、上品な言葉遣いや所作の美しさは健在といった感じです。

この2台、実はここで書くのがちょっと憚られるような破格値でした。
それに運送費や整備を加算しても、普通の中古ピアノよりお安いプライスでした。
にもかかわらず、ちょっと他には代えられないような素晴らしい本物の音を奏でており、これって何なんだろう…と考えさせられるものが大いにありました。

これよりも比較にならないほど高額の、しかも、まともに木材さえ充分に使っていないような工業製品としてのピアノが、その実体に反して信頼と支持を集めて堂々と売買されるという事実。
世の中にはこういうことはいくらでもあるんだと言われればそれっきりですが、だとしてもあまりに釈然としないものがあることを、あらためて学んだような気もします。

とりわけ、最近のピアノを構成する材料の質の低下は、巷間思われているどころではなく、「低下」という言葉さえ適当ではないないほどのものになっているようです。

いつだったかTVニュースでウナギがとれないからといって、ナマズや魚のすり身をそれに見立てて、いかにもそれっぽく、タレをつけて蒲焼きにしてご飯の上にのっけて、それを「おいしい!ほとんどわからない!」などといって楽しげに食べている様子を見たことがありますが、ふいにそんなことを思い出しました。
それをわかって楽しむぶんにはいいけれど、そうとは知らされずに食べさせられて、そこにウナギと同じ値段を要求されたんじゃたまりませんよね。
ただし、そうなると「ピアノの定義とは何か?」という事になって、そこを法的に突き詰めればこちらが負けるのかもしれませんけどね…。
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楽譜を新調-補筆

先回、楽譜のことを書いたのでそれにまつわること。

マズルカの楽譜を新調したパデレフスキ版は、製本は日本で行われたものだったので、むかしの輸入品のような品質(紙質も悪く、破れやすかったり、どうかするとページが外れたり)からすれば、ずいぶんキチンとしたきれいな本です。
それでも、本としてはまったく問題がないわけでもない。

紙の綴じ方の大事なところに歪みみたいなものがあるのか、どんなに強く、何度ギュウギュウに開いても、いつしかぺら〜んとめくれてきたりと、つまらないところで使いにくい。
また、国内出版社の楽譜は印字・印刷が鮮明で見やすいのに対して、パデレフスキ版は、全体にぼやっとしていて、これが日本並みにきれいだったらどんなにいいだろうと思います。

その点では輸入物はあまりきれいじゃないことのほうが多く、中でもフランスの楽譜などは音符は小さく、おまけに何度もコピーを重ねたように不鮮明で、まるで際どい筋から手に入った極秘文書のよう。よくあんなもので売り物になるなぁと思うし、最近は買わないけれど昔のペータース版などは、紙はバサバサであっという間にぼろぼろになり、一冊などはついに真ん中から真っ二つにちぎれてしまったりと、それはもう惨憺たるものでした。

また出版社によっては、糊がはみ出して、ページによってはそのはみ出した糊部分をわずかに破りながら開かざるを得ないものがあったりと、まあとにかく満足なもののほうが少ない印象があります。
そういう意味では日本の楽譜は、海外物に比して日本製品がいかに良心的な作りかと思わせる確かなクオリティがあり、楽譜ひとつからでも、あまたの日本製品が海外で高い評価を得ている理由がわかる気がします。
その点では、印字の鮮明さやページの美しさ、製本の確かさ、妥当な金額と内容の信頼性というトータルでは、ウィーン原典版などは総合点は高いですが、あれも日本で製本されているものなので、これも日本製と見るべきか?

製本や紙質、使いやすさでは、全音楽譜出版社のものはさすがに安定しており、開くのにもさほどの苦労もせずに済むし、それなりのタフさも備えていおり、おそらく使い勝手や耐久性も考慮されているんでしょうね。
音楽之友社もそれに準じるし、総じて日本のものは使いやすく、かつしっかりしている感じでしょうか。
輸入物ではヘンレ版などはさすがはドイツ製故か、まあまあ使いやすく、内容的な信頼度は高いけれど、むかしは今よりも質は劣ったし、例えば海外のものはどうして表紙をもう少し厚手の頑丈なものにしないのかなど不思議です。

とにかく楽譜でいやなのは、クリップで留めるか、他の楽譜で左右を押さえるかしないと、開いた状態がどうしても維持できないもので、弾いている最中に、絶えずそんな余計なエネルギーを使わされるのはゴメンです。中には相当頑固に、まるでこちらに反発してくるような楽譜があって、必要なページを安定して開くだけでも、力の限り押し付けたり、楽譜そのものを逆方向にへし折れるほど強く曲げたりと、ほとんど虐待に近いようなことをあれこれやってみますが、それでもなかなか思い通りにはなりません。

たとえば春秋社の楽譜などは製本が頑丈なのはいいけれど、これが楽に使えるようになるには「数年」はかかり、やっとそうなったときには、楽譜の方ももうヨレヨレです。

これまでにも何度か怒りも極まり、アイロンでもかけてみようかとか、金づちで叩いてみようか、あるいはダンボールに挟んでクルマで踏みつけてみようか…などとあれこれ思ったこともありますが、そこまでしたらさすがに本が壊れそうで、まだ実行には至っていませんが。

楽譜というものは、まず譜面台に置いて必要なページを労せず見られるということが、基本的な機能であるはず。
そんな当たり前のことができないために、なぜこんなよけいな苦労をしなくちゃいけないのかと思うし、これは子供の頃から長年不便に感じていることですが、いらい何十年経とうとも、巷ではどんなに技術革新がおきても、こんな単純なことが旧態依然として変わらないのは、まったく解せません。

最近は、その解決の一つなのか(本物は見たことがありませんが)テレビや動画でよく目にするタブレット端末に楽譜が映しだされ、それをピアノの譜面台のあたりにピョコッと立てて、演奏しながらチョンと指先で触れると先のページに進むようですが、あれもなんだか…。だいいち、必要時に書き込みなんかできるんですかね?

プロのピアニストが、他者との共演とか暗譜が完全でない場合に、補助的に見る程度の事なら便利なのかもしれませんが、個人的に鑑賞者の立場で言わせてもらうなら、本番の演奏でああいうものを使っている光景というのは、偏見かもしれないけれどビジュアルとしてはあまり心地よくはありません。
いま演奏している人が、手はピアノの鍵盤上を動きながら、目は液晶画面ばかりを見ているということが、スマホなどに通じるものがあって肌感覚でいやなんだと思いますが、これがつまり「偏見」なのかもしれませんね。
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楽譜を新調

いつだったか、どうしようもないナマケモノのマロニエ君としては、珍しくショパンの難儀なマズルカ(op.59-1/2/3)を仕上げることを目標にしてさらっていると書きました。
その進捗と成果のほどはおよそ自慢できるようなものではないけれど、柄にもなく久々に頑張ってみるのも悪くないというような気になり、ひところやっていましたが、また最近はモチベーションが降下。
とはいえ、自分にとって少し荷の勝った曲(ここが大事で大曲などはダメ)を丁寧にさらって、細部まで詰めていくというのはとてもためになるということを身をもって実感できました。

それにまつわる楽譜のお話。
我が家の楽譜は安さと手軽さから国内版が少なくなく、これぞというものは気に入った輸入版を買い増ししていました。
ショパンでも大事なものはパレデフスキ版などを使っていたのですが、マズルカは非常に大事なのに国内版の全音版と音楽の友社版と春秋社版しかなく、ここはちょっと油断していました。
マロニエ君はもともとの考えとして、ろくに美しい演奏のための真の研究もしないで、ただ楽譜の版にだけこだわるのは、どこか「木を見て森を見ず」という気がしていたし、むしろ、それにとやかくいう人に限って、音楽の最も大切な作法をわきまえなかったり、版云々とはほど遠い演奏をされるものだから、ますますこの点に反発を覚えるところがありました。
「自分は一定以上のレベルを有し、版の些細な違いを重視するほど専門的なんだ」というポーズの趣があり、それが鼻についてばかばかしいと感じることしばしばでした。

むろん、どの版を使うかが大事じゃないとは言いません。
でも、それ以前にもっと大事なことは、作品の本質や美しさに敏感であることで、どんな版の楽譜からでも、いわばその条件の下で、美しい音楽的な演奏ができるよう努めることのほうがはるかに大事だと思っているし、その基本は今も変わりはありません。
どんな楽譜を使っても、妙なる調べやフレーズの歌いまわし、全体のニュアンスや個々の作曲家の個性をセンスよく捉えて、自分の解釈とし、それを出す音に置き換えることは、版をあれこれいうよりもっと手前にある根本問題だと思うのです。

アンドラーシュ・シフの著書によると、かのアニー・フィッシャーはそういうこと(版)にあまり頓着せず、なんでも弾いていたとあり、しかもそれが彼女の手にかかると、あれだけのかけがえのない素晴らしい演奏となるわけだから、本当に大事なものは作品から何をどのように汲み取るかだと思います。

基本はそういう考えなんですが、さすがにそれまで使っていた全音版は、事細かに見だすと問題も少なくないことが次第に浮かび上がってきました。
校訂を専門家に丸投げしているのか、フィンガリングなどやたら教義的で実際の演奏に即したものとは思えず、必要以上に指を変えたり、特定の動きにこだわったり、なんでわざわざこんなに弾きにくい指使いに固執するのか納得出来ない点も多いように感じました。
音楽の友社版のフィンガリングはこれとは対照的で、およそ工夫というものがなく、本当に作品を美しく弾かせるためには違うような気がしたし、春秋社版に至っては使う気にもなれず、そんなこんなで、これまでの経験から一番好きだったパデレフスキ版を買うことにしました。

今、ショパンの楽譜を新調するなら、多くの人(とくに学校関係者やそれに連なる人たち)はエキエルのナショナルエディションを一押しとするのでしょうし、たしかショパンコンクールなどでもこれが指定でしょう。
いくらかは持っているけれど、あれは…どうもあまり好きになれないのです。

マロニエ君ごときがいうのもおこがましいけれど、ショパンの楽譜としては多くの資料や研究結果の集成として、現在では最高権威のような地位に登りつめ、学術的に見たら最善なのかもしれないけれど、なんだかしっくりこないし、何が何でもショパン解釈の覇権をポーランドが握るんだという執念みたいなもののほうを強く感じてしまいます。
ショパンのセンスや美意識という観点からするといまいち違和感があって、こっちはただ好きで勝手に弾いているだけなんだから、やはり好きなものを買うべきという結論に達して、値段はほとんど同じでしたが、店頭で比較してパデレフスキ版にしました。

さて、そのパデレフスキ版ですが、まずフィンガリングが合理的で、すべてを縛らず、自由なところは自由にさせる。
しかも、装飾音やアクセントなど大事な点はよりショパンらしさが強調できるようなものになっているところなど、さすがだと思います。
音の間違いと思ったところや、数種あってこれが一番いいと感じていたもの、これはおかしいんじゃないか?と疑問に感じていたところ(しかも日本の楽譜はそういうところは、どういうわけか?妙に共通していたり)などが、ほとんどこちらの思惑通りに記されていたりと、同意できる点が多いのはやはり快適で、やっぱりこれにしてよかったと思いました。

それにしても近ごろの楽譜はお高いですね。
昔から楽譜は安いものではなかったけれど、最近は数が出ないのか、ずんと値上がりして薄いものでも数千円したりで、軽い気持ちでの衝動買いはできません。
ヘンレ版のベートーヴェンのソナタを今揃えようとしたら、軽く1万円オーバーですから、おいそれとは買えないものになりました。それでも全ページ数からすれば、まだ安いほうかも。
価格的な理由から、変な国内版を買う人も多いようですが、気持ちはわかります。
いちど隣県の田舎のブックオフで、どういうわけか未使用のヘンレ版の楽譜がズラリと並んでいて、価格も1/3ぐらいだったので、つい目の色変えて、ふつうなら必要ないようなものまで買ったこともあるほど。

ちなみにショパンのマズルカ全集は、ナショナルエディションもパデレフスキ版も、ともに4000円強といったところで、ひきつるほど高額ではありませんでした。
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戦慄の事実

知人から、ヤフオクの中にびっくりな記述があったということで教えていただいたのですが、それは…ちょっと笑い話では済まされない戰慄の内容でした。

書かれたのは、以前からいろいろなピアノの出品を続けておられる技術者の方ですが、おそらくどこにも属さず、ご自身の工房でさまざまなピアノの整備や修理をされ、必要な場合には塗装も施すなどしてコツコツ仕上げては、出来上がったものを順次ヤフオクに出品されているようです。
他では見ることのないような珍しいピアノがあるので、マロニエ君も以前からなんとなく注目していた人です。

その人があるピアノの説明の余談として、次のようなことを書いていました。
古いピアノの「響板の割れ」についてです。

人様の文章なので、そのままコピペというわけにもいかないので、マロニエ君なりに書き換えてご案内すると、まず、古いピアノには響板の割れというのがあるが、それらは衝撃などで物理的に割れているものではないこと。
響板は柾目に切り出された松やスプルース材が貼り合わされて一枚の響板となりますが、これが古くなると木が縮み、その結果、貼り合わされたところにわずかな隙間ができることを「響板割れ」というけれど、これは音にはさほどの影響はないという説明でした。

これを補修するには、隙間部分を整形して(削って広げて)埋め木をしていくわけですが、そのためには全ての弦を外しての大作業となるために、費用も中古ピアノがもう一台買えるほどの金額になる。
なので、響板割れ(言葉が適当とは思いませんが、経年によって生じる隙間)は楽器本来の価値を大きく損ねるものでもなく、あまり気にする必要はありませんよという意味のようです。

で、ここからが本題ですが、さらに余談のようなかたちで響板の話が続き、これが衝撃の内容なのです。
曰く、この方は最近、某大手メーカーの廉価モデルを廃棄するために解体されたそうですが、響板をハンバーで叩いても割れないので、さすがは世界的な某社だと感心していたら、なんとそれは普通のベニヤ合板の上に、いかにも松材の響板であるかのような化粧板が貼られていただけのものだった…とありました。
「まさか!?」と言いたいところですが、マロニエ君は「それはあるかも…」というのが素直な印象でした。
そもそも、この方がネット上で匿名でもないのにわざわざウソを書いているとも思えませんし、同社の化粧板加工や木工技術は世界に冠たるものだから、そういうふうに見せかけて作るなどは造作も無いことでしょう。

ここでは廉価ピアノとあるので、同社のピアノがすべてとはいいませんが、大切な木の繊維を壊してしまう人工乾燥でさえ疑問視されているというのに、ベニア合板の上に松材の化粧板を貼り付けてウソの見た目を作り出すなんざぁ、いやしくも世界に冠たる楽器メーカーが絶対にやってはならないことだと思いますし、もはや近隣他国の粗悪品を云々する資格ももはやありません。

実はマロニエ君は、かねがね某社の近年のピアノの音を「響板がベニヤなんじゃないかと思うような音」と幾度となく口にしてきたものですが、それはあくまで比喩的な表現のつもりで、まさか本当にベニア合板を使っていたなどとはさすがに思わず、せいぜい普通ならハネられてしまうようなものでも、平然と使っているのだろう…ぐらいな程度でした。
しかも廃棄するほどのピアノということは、新しいものとも思えず、ずい分前からやっていたことと思われ、それなりの長い実績があるのでしょう。
世に欠陥住宅というのは裁判沙汰にもなって有名ですが、欠陥ピアノというのは問題にはされません。べつに人命に関わることでもないし、それっぽい音が出てさえいれば問題発覚の恐れもないということなんでしょうか。

何年も前、とある小規模会場の演奏会で、そのメーカーの高級機とされる中型グランド(しかも新しいもの)が使われましたが、これがもうウソみたいにひどい音で、うるさくいくせに鳴らないし、フォルテではたちまち音が割れるなど、聴く喜びとは無縁のピアノで、しかもレギュラーシリーズより遥か高額なモデルということを思うと暗澹たる気分になりました。
また、別の機会では、同社最新中型機種でしたが、これまためっぽう鳴らず、ピアノの周辺でだけ電子ピアノ風の貧弱な音がしており、コストダウンによる弊害がついにここまで来たかとも思いました。
それでも近づいて眺めれば、キラッキラの高級車みたいな完璧な作りで、今どきの見せるためのインテリアとしてなら充分に役目を果たせそうなものでした。

その完璧な見映えの裏に、果たしてどんないかがわしい事実が隠されていることやら、考えるだけでも恐ろしい。

とくに運送屋さんとか塗装屋さんはお詳しいようで、上記のような事実が判明するのは、解体時やめったにない運送事故などで外装の大きな損傷を修理をするときなどに、アッと驚くような事実を目の当たりにされるようです。
音に直接関係ない足や譜面台や大屋根などは木ではなく、人工素材というのはいまや業界の当たり前かもしれませんが、まさか直接的な音の増幅装置でピアノの命ともいえる響板までベニヤ合板を使用し、見える部分には木目の貼りものをするという悪質さに至っては、驚きを通り越して詐欺行為に近いのでは?と思います。

逆に言うなら、しっかりしたピアノの構造とある種のノウハウと工業的に高度な製造過程をもって作れば、響板の材質がなんであってもそれなりの音になるのかもしれないし、現にカーボンの響板とかでもちゃんとピアノの音にはなるというようなものを動画で見たこともあるので、あとはいかにそれをもっともらしい音に整えるかというところに現代の高度な技術が注がれている気もします。

そういえばこのメーカーのカタログには、抽象的な美辞麗句はふんだんに散りばめられてはいても、具体的にどういう響板を使っているかは、これまで一度もはっきりした記述を見たことがありません。
普及品に対してプレミアムは、「より高品質な材質が使われて、弾く人の表現力をさらに…」みたいな言葉ばかりです。
いざというときの訴訟などに備えて、不利になる言葉は一切使わないということのようにも思えてしまいます。

そういうメーカーがあいも変わらず信頼され人気がある一方で、良質の木材を使って真っ当に誠実に作られた昔のマイナーメーカーのピアノは、鼻にも掛けられないままガラクタ同然の扱いを受けるとは、まさにこの世は無常としかいいようがありません。
近い将来、普通のエンジンの車はなくなると言われていますが、木で作られたピアノも同じ運命なのかもしれません。
ますます昔のピアノは大切にしないといけないという思いが強まるこの頃です。
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ワグナー4

ワグナーピアノはすでに書いていますが、オーナーはベテラン技術者さんであり、マロニエ君はあくまでそれをご厚意で拝借しているにすぎませんから、自分のピアノのように、そうそうあれこれと注文をつけるわけにもいきません。

倉庫での作業が早めに終了せざるを得なくなったこともあってか、搬入いらい、我が家に場所を移して二度にわたってずいぶん長時間調整を重ねられ、お陰様でかなりまとまってきたように思います。
二度目の調整の終わりごろ、次高音にちょっと気になるところがあり、そこを少し指摘したところ整えては頂いたのですが、それでももう少しという感じが残りました。

しばらくこれで弾かせていただこうと思いながらも、どうしても気になって恐る恐る連絡してみると、快く応じてくださり、なんと三たび工具カバンを手に訪問してくださいました。
こっちはお借りしている立場というのに…申し訳ないといったらありません!

ピアノに向かうなり、マロニエ君の気になっている点はすぐに了解していただき、さっそく整音が始まりました。
技術者さんもできるだけ納得した状態にしてあげたいという、その広いお心が身にしみます。

はじめはチョチョッと針刺しでもして、すぐに終わるだろうと思っていたら、だんだん作業にも熱が入り、気がついてみるとわずか1オクターブぐらいの整音だったものが、さらに左右に拡大し、2時間ちかく手を休めることなくやってくださって、果たして半音階で試しに鳴らして見られるだけでもハッとするほど、一段と上品な音になりました。

やはり、ピアノというのは整音ひとつでも、技術者さんが正しい方法で入念にやられると、それだけの結果がしっかり出るものだということがあらためてわかります。
しかし、それには技術者さんの手間と時間、すなわちコストがかかることなので、時代とともにそれを容赦なく省く潮流となってきたことは、実力を発揮できないままの状態でユーザーのもとに届けられるピアノが多いということでもあり、これはピアノにとっても弾く側にとっても非常に不幸なことです。

ピアノの入念な調整や仕上げは、極めて大事だけれどそれだけ人手を要し、しかも結果は弾く人全員がすぐに理解できるとは限らないものなので、見方によっては費用対効果が低く、しないならしないでもビジネスは成り立つという割り切った考えに拍車がかかったのでしょうね。
故障ならともかく、今どきのように極限までコスト/効率を追い求める時代には合わない仕事なんだろうと思います。

ところで、これまで書き落としていましたが、ワグナーピアノの驚くべき点はいくつかありますが、そのひとつとして全音域すべてがしっかりと力強く鳴るところだろうと感じます。
普通はグランドと言っても低音になればなるほど巻線特有の情けない音になって、ビーンとかゴンとかいっているだけのピアノもあれば、高音域も最後の1オクターブなどはカチャカチャいうだけで、パワーも音程も減退する場合が多いけれど、ワグナーはその両端まで少しも曖昧になるところなくしっかりした音だし、高音は最後までパチッとした目の覚めるような音が冴えわたり、音程も明快で曖昧なところがありません。

こういう高音域の張りのある美しさは、たとえばラヴェルのピアノ協奏曲の第二楽章の後半など、繊細な音階の美しさが止めどなく続くような曲では(ちゃんと弾ければの話ですが)、明晰とデリカシーが両立して、ハァァとため息が出るようです。

具体的なお名前は出さないでおきますが、フランスで学ばれて一時代を活躍された日本人ピアニスト(今春、天寿を全うされた由)のCDに、2台のプレイエルを使って録音されたドビュッシーのアルバムがあります。
どうやらご自身所有のピアノでもあるようですが、そのうち前奏曲集第一巻の演奏に使われているのは1962年製のプレイエルの小型グランドの由です。

プレイエルは戦後経営難が続いて、1970年代にはドイツのシンメル社に生産移管されて、ついには名ばかりのプレイエルを作るに至りますが、そういう意味では最終期のフランス製だということだろうと思われます。
とはいえ、この時代のプレイエルは苦境に喘いで他社と合併などを繰り返すなどして、これをもって真正プレイエルを名乗るには、いささか疑問視されるところも感じます。

演奏はフランス仕込みのさすがと思えるものですが、ピアノ自体の音はというと、悪くはないけれどとくに見るべき点もなく、かつてのようなフランス的な享楽と憂いが同居しているわけでもなく、響きもごく普通のややくぐもった印象。
それに比べたら、広島製ワグナーは、音色そのものは往時のプレイエルのようななまめかしさや、エラールのような端正さとは違うけれど、少なくとも湧き上がってくるような響きの点など、たとえば「沈める寺」など、こっちのほうがはるかにおもしろいピアノだったかも…などといろいろと想像させてくれます。

広島製ワグナーの生産が途絶えた1960年代あたりから、大手大量生産のピアノの台頭も佳境に入り、その多大な貢献は計り知れないものがあり、とりわけピアノの普及という点では圧倒的だったと思いますが、同時にこういう楽器臭や個性を色濃く感じさせるピアノが生き残っていられる環境が少しでもあったなら、日本のピアノ界も今とはずいぶん違ったものになっていたことだろうと思うこの頃です。
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