ワクチン接種

新型コロナのワクチンについて。
ピアノ関連ではないことですが、こんな時期でもあるので少しばかり。

ワクチン接種は強制ではないので、当然ながらその判断は個人に委ねられています。
マロニエ君の知る限りでも、多くの方はあらかた接種を終えつつありますが、いまだに迷っている人、あるいは頑として打たないという考えの方などもおられるようです。

打たないという人の理由は、いうまでもなく短期間で開発されたワクチンの安全性が不充分である、不明な点が多い、副反応が心配、アレルギー体質…等々さまざまです

たしかにワクチンは絶対のものではないし一定のリスクもある、未知のものだというのもそうでしょうし、現にそれによる健康被害も出ていれば、一説には死者さえ出ている由で、不安要因はもちろんあると思います。
それでも大多数の人が打っているのは、それをも凌駕するコロナウイルス(しかもますます凶暴化)への恐怖がより大きいからで、もしこれにに感染した場合の恐ろしさとワクチンに対する不安を天秤にかけて、その選択になっていると思います。

実際にコロナに罹ったという人の話を人づてに聞いたのですが、高熱や呼吸困難が10日も続くと、ついには「死をすぐそばに感じ、家族との別れまで覚悟した」ほどだそうで、そこから快癒するか死に至るかは、時の運といえば言葉が軽すぎるかもしれませんが、でも実態はそういうことなのだろうと思います。
俳優の千葉真一さんも、体力と健康には自信があるからワクチンは打たないと言われていたそうですが、もしワクチンを打っていたら、少なくとも亡くならずに済んだのでは?などとも言われてますよね。

マロニエ君もワクチン接種は終えましたが、そこに至るにはずいぶん悩みました。
しかし、完全な引きこもり生活を覚悟できるはずもなく、まして無人島にいるわけでもないので、現実的な社会生活のこと、そしてもし感染した場合のさんざん苦しみ抜いて最悪死に至る可能性もあること、周囲に及ぼすであろう多大な迷惑、あるいは治っても生涯治らないこともあると言われる後遺症に悩まされることなどを考え併せると、「どっちがマシか?」という二択での結論に達したわけです。

マロニエ君の知る限り「打たない」という結論に至っている人は数人おられて、それは一つの判断だから尊重すべきですが、そこにはひとつの共通点みたいなものがあるようにも感じます。
それは、だいたい医師や医療関係者に知り合いがいて、そこから否定的な情報を得た人だったり…。
患者としてではなく、プライベートな関係での「裏話の情報」としてワクチンの否定的な話を聞かされると、かなり大きな影響があるようですが、実際には医師の間でも意見は分かれているようです。

そんな話を聞く側にしてみれば、相手はれっきとした医師で、しかも個人的な関係から自分は表には出ない特別な情報を知り得たと感じる筈で、トドメは「自分は絶対に打たないし、自分の家族にも決して打たせない」というようなもので、そんな話を聞かされればすっかりのみ込まれ、自分も打たないとなるのもわかります。
しかし、肯定的な意見の医師も多くおいでのようだし、このさきブースターとかいって3回目が打てるチャンスが来れば、こうなったらマロニエ君は進んで打つつもりです。

マロニエ君の知るドクターの話によれば、少しでも危険や心配があればダメだというのなら、そもそも薬というのに100%安全なものはなく、どんな薬でも常にごく僅かな比率で危険性や薬害みたいなものは必ずあるのであって、コロナ以外ではほとんど表に出て来ないだけだといわれます。
あるいは、別の病気で苦しんでいる時に「新薬がある」などと聞けば、危険は承知でも投与を希望する人は少なくないようですが、ワクチンに限ってのみ慎重になるのは、なんだか不思議なような気もします。

もはや皇族方でもワクチン接種をされており、海外の王族や要人も同様で、事ここに及んでもなお自分ひとりリスクにこだわって踏ん張ってみたところでナンセンスなような気もするし、やはり先にも書いたようにコロナ感染という大事に至るよりは、比較の問題として考えるほかはなく、いまや次々に出てくる変異株に関しては、そのワクチンすら充分ではないということですから、こんな世界的パンデミックの中でワクチンを打たないということのほうが、自分だったらよほど恐ろしいことに思えてしまいます。

自分が感染することがまず怖いこともありますが、他者にうつす可能性も常に否定出来ないことを考えたら、もしもそれがもとで落命でもされようものなら、きっと生涯耐えられないものが残るでしょう。
それを思うと、ワクチンは自分の為でもあるけれど、人にうつさないためにも自分がうつらないようにするという意味合いがあって、ワクチン接種は社会性の高いものだとも捉える必要があるように思います。
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自分の感性で-2

ずいぶん昔、学生だったころ、まだお元気だった頃の岡本太郎画伯が講演においでになったことがありますが、そこで力説されていたことは、芸術作品に相対するときに大切なのは自分の感覚の反応であり、それに正直になることだというようなことでした。
「人がなんと言おうと、関係ないんだ」「わかるとかわからないじゃなく、何かを自分で感じることなんだ」「それが他の人と違っていてもいい、大いにかまわない!」「そこを恐れちゃいけない!」というような言葉の連発で、多少極端な感じもありましたが、仰せの内容は概ね頷けることばかりでした。

おかしかったのは「日本人は絵を見るときに真っ先にどこを見るかというというとサインを見る」「美しい焼き物を見てもその姿を鑑賞しようとせず、すぐに裏返して銘を確認したがる」「ヘタクソな絵だなあ、なんだこんなもの!」と思っていたらピカソと聞いたとたん「ヘエ〜、ホオ〜!」と手のひらを返したように感心してありがたがる、こんな馬鹿げたことはないんだというような熱弁でしたが、まったく同感でしたが、それは今も一向に廃れていない事実だと思います。

ピアノ選びに話を戻すと、いきなり自分の好みとか言われても、雲をつかむようなものかもしれません。
とはいえ、他人の評価、ブランドへの過度な依存ばかりではダメで、大切なことは弾き比べでしょう。
それをしなければ、日本のピアノ選びには敷かれたレールがあって、まずは大御所のヤマハがあって、ちょっと下にカワイ、でもシゲルカワイは特別でこれだけはヤマハより上、みたいなヒエラルキーがあり、ほぼ選択の余地なく決まってしまいます。

ただ、一部の聞き慣れないブランドのピアノの中には、生産国さえ怪しげなものもあったりするので、本当に粗悪品では困りますが、まずは先入観なしに自分の五感で体験してみて心地良いと感じる楽器をパートナーとして選ぶという基本姿勢があるかどうか、これに尽きるのではと思います。
それが怪しげなものかどうかの調査は、その後でネットなどでやればいい。
とにかく自分でいろんなピアノを可能な限り触れてみて、比較してみないことには始まりません。

日本人の癖ですが、冒険心が薄いというか、むしろこれを嫌がり、おもしろみのない評価だけが高いらしいものを疑問も感じずに欲しがる傾向があると思います。

どんなに変なピアノでも、よしんばポンコツでも、素晴らしい先生がおられて、音楽が好きで、適切な練習を積めば、それがピアノのせいで何かがダメになるなんてことはマロニエ君にはおよそ考えらません。

では、良いピアノとはどんなピアノか?
音がいいこと、弾き心地がいいこと、表現力云々などの通り一遍のことはもちろんあります。
でも、それより大切なのはピアノが嫌いにならないピアノであることだと思います。
なぜわざわざこんな事をいうかというと、そういうピアノがあまりに多く(おまけに信頼も勝ち得て)横行しているから、よほどの意志がなければ、ほぼそういうピアノを買うハメになってしまうのです。

もうすこし具体的にいうなら、弾く人の気分を楽しくさせるピアノ、暇さえあれば触れていたい気にさせるピアノ、どこか生き物みたいで友達のようなピアノ、シンプルに愛着を覚えるようなピアノ、音を出すだけでも喜びで心が慰められ、ますます音楽やピアノを弾くことが好きになるようなピアノ、人の幸福の感情にそっと触れてくるようなピアノ。

悪いピアノはいうまでもなくその逆で、人の感情と交わらずいつも乖離したもの、無機質で機械的で無表情で、耳や神経が疲れる音を無遠慮に出して、結局たのしくないから、最終的にピアノを嫌いにさせてしまうようなピアノです。
しかも、多くの先生方はそんな装置みたいなピアノを「よく鳴る、弾き応えのある一流品」だと思い込み、それがすべての基準となっていて、別のピアノの良ささえもわからなくなってしまっている…のみならず自信をもってダメ出しまでしてしまうのですから、こうなると打つ手はありません。
鳴るピアノというのは、ただギャンギャンいうだけのピアノじゃないということぐらい、せめてお分かりいただきたいものですが、とても無理なので、、やはりピアノ選びはそういう人達は介在させずに、自分で時間をかけて選ぶべきだと思います。

たしかに人に聞いたほうが早いし、簡単かもしれませんが、お気に入りのピアノは恋人を探すぐらいのつもりで頑張ったら、必ずそれだけの価値のあることだと思いますよ。
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自分の感性で-1

楽器として価値あるピアノを選ぶとは、どういうことなのかあらためて考えてみました。
おそらく、多くの方が自分の好みで選ぶという、普通のことをされていないのではないか?と思ってしまうからです。

これが別に電気製品ぐらいなら、他者のオススメや口コミで決めてもいいけれど、ピアノはそう頻繁に買い換えるものでもないし、しかもピアノ次第で、それを弾く人のその後の音楽への関わり方にも大きな影響を与えてしまうものなので、ただ道具として使うのか、楽器と付き合っていくのか、その在り方はさまざまだろうと思います。

自分の好みや感性に合う、これぞという対象が決まっていれば結構なことですが、多くの場合、ピアノを買うといっても、はっきりしているのは予算ぐらいで、さしあたりどれを買って良いのかわからないというケースが少なくない。
それにもう一つの問題は、いろいろなピアノを弾き比べるところのできるピアノ店があまりにも少ないということで、購入者にとっては非常に不幸なことだと思います。
ヤマハもカワイもあるのは自社製のピアノだけで、違いはサイズとグレードと価格の違いだけですから、それじゃあ本当の比較になりませんしね。

それとマロニエ君が感じることは、そもそもピアノを買う動機の多くは、子供がピアノのおけいこを始めたからとか、あるいは電子ピアノからアコースティックピアノにアップグレードしようというようなお勉強目的で、シンプルに音楽もしくはピアノのある生活を楽しむためという一番大事なものがごっそり抜け落ちている感じ。
しかも、このお堅い感じが日本人は好きですよね。
練習して結果を出すための大事な道具だから、シロウトの勝手な好き嫌いではダメで「専門家から見ても間違いないと言われるような、後悔しない、確かなものを買っておきたい」という、一見真面目な皮を被った欲張りが優先され、だから先生や経験者の意見に重きを置くという流れが生まれるのだろうと思います。

先生に相談する人の心理とは、相手は文字通りピアノを教えてくれる専門家なのだから、楽器選びについても詳しいハズで、そのアドバイスに従っておけば間違いないというどうしようもない先入観があり、これがまずもって間違った道に入ってしまう最初の第一歩のように思います。

むろん、先生にも楽器に通じた素晴らしい方はおいでなのですが、しかしそれは極めて例外的なケースであり、大半はピアノの本当の良し悪しなんぞには甚だ疎い方がほとんどで、分かる人の割合は白いライオンが生まれるよりも稀でしょう。

これはピアノだけに見られる珍現象で、他の楽器の場合は楽器の目利きからメンテも自分でやるし、持ち運びもできるから楽器に対する愛着とか、興味や知識が必然的に豊富ですが、ピアノの場合は自分じゃ1cmも動かせないもので、いつも神社の鳥居みたいに同じ場所にデンと身構えているだけ。
内部の調整はお金を払って専門家に頼むだけ。
したがって、常に体だけ移動して楽器はそこにあるものを否応なく使うというスタイルなので、楽器に対する愛情や興味が育たず、いうなれば学校にある運動器具ぐらいの感じじゃないでしょうか?
だからそうやって長年過ごしてきたピアノの先生に楽器の相談などしても、これほどムダなことはなく、むしろトンチンカンな意見によって自分のピアノ選びを邪魔されるだけ。この実態をご存じない方はびっくりされると思いますが、マロニエ君の経験から言えばこれはまぎれもない現実なのです。

ピアノ選びというのは道具選びという側面も少しはあるとしても、大事なことは長いお付き合いのパートナー選びでもあるわけで、だったら恋人やペットを選ぶのにいちいち人に相談して、その通りのものに決定するんですか?といいたいわけです。

ピアノの購入というのはもっと気軽で、直感的で、楽しい気持ちから事を進めていいんじゃないかと思います。
肩肘張らず、あれこれつまらないことに欲張らず、生活を豊かにするためのツールとして、ほがらかにピアノを買ってみようかという気分や環境こそが大切では?

これを買っておけば、上達して本格的な曲を弾くようになっても耐えうる性能を有しているとか、将来買い替えの場合にもこのメーカーなら手放す際も需要があるとか、あるいは教室や先生が使っているものと同じブランドにすることばかりに安心感を覚える、といった価値基準しかなく、先生、技術者、知人や経験者、楽器店の営業マン、ネットの口コミなど、要は人の意見ばかり。
そうなるのは「失敗したくない」という思いに執着しすぎる。

そもそも、ピアノなんてよほど得体のしれないヘンなものでもない限り、明確に失敗なんてことはないし、業者さんは「故障したら?保証は?…」なんて購入者にすれば気になるようなことを仰るけれど、ピアノは昔の輸入車じゃあるまいし、まず故障なんてしませんし、もしも問題が起こったとしても、爆発するわけじゃなし直せばいいだけのこと。

ネットのQ&Aなどを見ていると、取るに足らないようなことが、さももっともらしくネチネチと書き綴られていますが、大半は無知な人を脅して、翻弄して、自分の価値観を押し付けて楽しんでいるようにしか思えません。
あげくに、有名メーカーの新品を買うことが最良で、これに勝る事はないかのごとく言われるのは、あまりにも視野の狭いお話です。
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これはもしや…

この時期に何故?と思うような異様な長雨が続き、コロナとの二重苦で堪りません。

さて、昨年の予定だったショパンコンクールが始まった由で、本選は二ヶ月後という、これまでにないパターンのようですね。
会場も、おなじみのワルシャワ・フィルハーモニーではなく、どこかは知りませんが(調べればわかるんでしょうけど)、よりコンパクトな会場で、ずいぶん雰囲気が違うようです。

皆さんよく動画を見ておられるようですが、マロニエ君はコンクールというものがもともと性に合わないので殆ど見ませんが、そうはいってもショパン・コンクールというのはやっぱり特別だから、それなりの興味はあるけれど、絶えず配信動画を見守ろうというまでの熱意はないので、ときどき思い出したように該当する動画を探しだしては、まだら見をする程度です。

今回注目の日本人出場者は、うわさによれば、反田恭平さんと、ユーチューブで人気の角野隼人さん、それに二度目の挑戦である小林愛実さんでしょうか。

何かの書き込みで「反田恭平さんの演奏がすごかった」というような事を目にしたので、どんなものか聴いてみたくて動画を探しましたが、この手のことがひどく苦手なマロニエ君は、なかなか見つけることができず、昨日ようやくその動画にありつきました。
曲目はノクターンop.62-1、エチュードop.10-8/25-5、マズルカop.56、バラードNo.2。
ベタな曲を上手く回避した、巧みな選曲ですね。

なるほど、反田さんの従来の演奏にくらべるとグッと丁寧さが加わり、はじめのノクターンなどはそれが極まって聴いていることらも苦しいような印象がありましたが、これをなんとか持ちこたえ、次のエチュードになると彼の忍耐がいくぶん解放されたような感じがありました。全体に反田調を封印したコンクール用の演奏で挑んでおられたようですが、途中から少し疲れが出てきたのか、最後のバラードでは彼の本性らしきものもチラチラと出ていたようにも感じました。
これは悪いと言っているのではなく、人によっては「乗ってきた」とみる向きもあるかもしれませんが、マロニエ君には疲労から制御力が少し緩んだようにも感じられました。
それも当然で、世界が注視する中、ショパンコンクールという最高権威の場で弾くというのは並大抵のことではないし、しかもやり直しの効かない一発勝負、おまけに期待の星ともなるとその重圧は尋常なものじゃないだろうと思います。
拭いても拭いてもすぐにまた額にあふれ出てくる珠のような汗がそれを裏付けているように見えました。

率直な印象として(個人的に好みのショパンではないけれど)、これは、もしかしたら彼が日本人初の優勝者になるかもしれないと予感させるものがあり、予選段階から日本人でそんなことを感じたのはこれまでで初めてでした。

というのも、ショパンコンクールというものは、つまるところは圧倒的テクニックが判断の大勢を占める世界だと思うからです。
ただ、その圧倒的テクニックをいかにショパンの作品の現代的枠組みと作法からはみ出さないよう、礼儀正しく用いることができたか、そこに尽きるんだろうと思います。
現代的というのはショパンコンクール向けと言い換えてもいいけれど、昔風のショパンらしい繊細で儚く、詩的で即興性にあふれた表現というものが重要な価値ではなくなり、許される範囲でより華麗にピアニスティックに、そして偏った個性や型破りな解釈などがなく、普遍性をもった完成度とリアリティにあふれた演奏であることだろうと思います。

つまり表向きなんと言おうとも現実にはテクニックが第一、さらにそれをショパンの作品上に問題を起こさないような統御力を兼ね備えたテクニックで安定して弾き進めることができれば勝ち残っていけるのだろうし、最終的に輝き抜ければ優勝できると思うのです。
そのためには審査員の反感を買わないスタイルを遵守することも大切でしょう。

その点では、反田さんはこれらの要件をかなり満たしている人のようで、タフなメンタルもお持ちのようだし、なにより安心感さえ覚えるへこたれないテクニックの裏付けは、これまで常にどこか不安を伴ってしまう日本人にはなかったものかもしれません。
そこが全体として頭一つ出ており、だからこれはもしかして優勝もあるんじゃないかと思ったわけです。
その一例が、並のピアニストなら自分のテクニックをいかに滞りなく発揮されるかに心血を注ぐわけで、疲れてくるとそこに乱れが出たりするものですが、本当に弾ける人というのは逆で、持てる技巧を音楽的な仕上がりのためにセーブすることのほうへもエネルギーを振り向ける。そのため、疲れたり気が緩んだりすると、その制御が危うくなってつい技巧が疾走してしまうわけで、反田さんの場合も後半は少しそれを感じたわけです。
もちろん、それは問題にならない程度のものではありましたが。

彼は(叱られるかもしれないけれど)決して美しいとはいえないちょっとアウトロー的な異質な風貌と、ピアノにうってつけの大きな手がもたらす技巧的優雅など、ビジュアルのインパクト性にも事欠かず、いうなれば不思議なスター性があり、これらは他の日本人出場者のだれもが及ぼない要素となっているようにも思います。

ネットによると、すでに予選は終わって結果が出ているようですが、反田さんは当然としても、なんと13人!もの日本人が通過していることに、相変わらずの苦笑を禁じえませんでした。
端から優勝など目指さず、ピアノに打ち込んできた自分の思い出作りに出場する人が多いのは日本は世界随一で、故中村紘子さんも著書の中で、そのような心持ちでワルシャワにやってくることに目を丸くしたようなことを書いておられたことを思い出します。

もちろん、コンクールじたいが応募資格さえ満たせれば誰が出てもいいものではあるのだけれど、「小さい頃からのあこがれで、ワルシャワのあの舞台で弾けただけでも感激ですぅ…」みたいな言葉を残して、大半が去っていくのは、個人的にはなんだか奇妙にしか思えません。

今回は本選が二ヶ月後というのは、それだけ練習時間がたっぷり与えられたわけでもあり、それだけに後半はより高度な戦いになるのかもしれません。
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ピアノはピアノ?

このところ、技術者さんとの会話やピアノ好きの方とのメールのやりとりを総合すると、近年のピアノがいかに安価に、使い捨ての道具のように割り切って作られているかを、あらためて再確認させられました。
楽器としての価値をスッパリと見切って、原価と生産効率の追求が再優先、もはや格安家具に近いものと考えておいたほうがいいようです。
ちなみにこれは日本のピアノメーカーの話であり、海外メーカーのことはよくわかりませんが、こちらもウワサでは高級品でも驚くような事実もあるようですが…。

まず大前提として言えることは、「ピアノの大半は木で出来ている」というほぼ常識であったはずのものは、すでにして早い時期に崩れ去ったということがあるようです。

大きなものではボディの主たる構成部分から、果ては小さなパーツに至るまで、我々が「木で出来ている」と信じて疑わなかったものは、安価な合板やMDF(木のクズやチップを使って整形したもので、ホームセンターなどで安く売っているもの)が当然のごとく使われるのは常識、それらが厳密に木であるか否かは議論の余地はあるとしても、少なくとも普通の人が普通にイメージするような「木」ではないことは確かなようです。
そして、そういう事実に今さらいちいち驚いたり嘆息したりするほうが、時代遅れのウブで無知といったところまで事態は進んでいるようで、技術者さんでさえすべての方が認識されているわけではないようです。
(場合によっては、塗装屋さんなどのほうが詳しいこともあるようです)

木のしなりが命のハンマーシャンク(ハンマーヘッドに繋がる細い棒)や鍵盤は辛うじて木ではあるものの、ある方の指摘によれば、鍵盤などは一枚の無垢材ではなく、なんと継ぎ接ぎだらけの成型材を、鍵盤のカタチにカットされたものが使われ(写真なども見せていただきました)、まるで年度末の道路工事の補修後のように、並べられた鍵盤のあちこちに違う色や木目が混在しているのが見られます。
しかも鍵盤の縦方向ならまだしも、横方向!?!にもこれがあり、強度や重量バランスなどシロウト目にも不安を覚えるようなもので、これはもはや楽器として末永く大事にするに値するようなものではなく、音階の出る安価な家具やインテリアに近いものとして割り切っていたほうがいいのかもしれません。

ちなみに、これは名も知れぬアジア製などではなく、れっきとした有名メーカーのピアノの話です。

ただし、一説には無垢材には変形などのリスクもあるようで、中には強度や変形防止という正当な目的の場合もあるのかもしれませんが(ピン板などがそうであるように)、それにしてはあまりにも不自然で、どう見てもコストダウンであることは疑いようのないものです。
さらに驚くべきは、少なくとも1980年代バブルの頃にはこういう手法による製造は始まっていたようで、バブルの時代といえば後先考えずに高級品をバンバン作っては右から左に売れていたという狂乱の時代かと思っていたら、こういうごまかしのアイデアや技が着々と発展進行していた時期のようで、その点では根本的にこちらの認識が間違っていたとも言えそうです。
バブル時代とは、金儲けのためにはどんなことでもアリというのが正当化され、良心も誠実さもどこかへ吹っ飛んでいた時代なんだと認識を改めるべきなのかもしれません。

以前書いた、響板(打鍵がピアノの音に変換される、楽器として最も要の部分)がベニヤの積層材というのも写真を見ましたが、これがまたホームセンター並のベニヤのようで、ひどいのではカモフラージュのための木目シールさえも貼っていない開き直りみたいなピアノまであり、そんな冗談みたいな素材の寄せ集めでも、一定の工業技術をもって組み立てさえすれば、ともかくはピアノらしき音にはなることは、ひとつ勉強になりました。

以前、とある演奏会でピアノの音があまりにひどくて「響板はベニヤかと思うほど」と書いたことがありましたが、いま思えばそれは本当にベニヤだったのかもしれないと思います。

蝦夷松だ、シレサだ、どこそこのスプルースだ、自然乾燥だというようなことは、一部の音質向上を追い求める別次元だけの話で、普通にピアノの音らしきものが出ればいいだけなら、これでじゅうぶんという考え方なんでしょうし、それに対してクレームも出ないし、もし不満な人は高級品をドーゾということでしょう。
表面だけきれいに塗装され、そこに有名メーカーのロゴが光っていて、メカニズムの不具合さえなければ、それで安心するのでしょうね。
考えてみれば、数万円のヴァイオリンだってそれなりの音が出て、いちおうの演奏機能は有するわけだから、ピアノも同様ということならわかりやすいですよね。

いくつか目にした写真などは、そんな現実を嘆いた技術者さんがそっと写真をアップされているものだったりで、所有者にはとても伝えられないでしょうし、そういう実態を常に自分の胸に収めておかなくてはいけないというのは、志ある技術者ほどストレスで、ブログなどで少しずつ吐露されているような気がします。

そもそも冷静に見れば、今どきはピアノなんぞ生活必需品どころか、騒音を撒き散らす迷惑品。
防音室やサイレント機能は必要でも、楽器本体に隠された事実がなんであれ、ほとんどだれも興味はないのでしょうね。

考えてみれば、世の中ほとんどのものが効率化とコストの波に晒されているというのに、ピアノだけはピアノらしく作られていると思っている事のほうが、むしろおめでたい幻想だといわれれば一言もありません。
ただ、それならそれで、「人工木材使用」など、もう少し事実を明かせばまだ救われますが、現代のピアノはあまりにも秘密や虚飾が多すぎですね…。
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青天の霹靂

青天の霹靂というのはあるものですね。
実際は晴天の下ではなく、蒸し暑い夜の出来事だったのですが、前回に続いての家の中のトラブル。

内容というのが、なにぶんトイレの話なので恐縮なのですがお許しを。
我が家にはトイレがひとつではないのですが、自室に一番近いところにあるトイレをマロニエ君は使っており、それ以外はまずほとんど使いません。

とくだんの理由があるわけではないけれど、やはりトイレは生活の中でも最もプライベートな場所でもあり、普段来客用に使っているものなどはあまり使う気になれないし、とくに夜中などはやはり自分の寝床から離れた場所には行きたくない…などの理由がありました。
また、人によって違いはあるでしょうが、個人的にトイレは気分が落ち着ける場所であって欲しいし、ささやかでもなんらかの息抜き効果みたいなものが欲しい空間でもあります。

それが、ある晩、やけに水の流れる音がするので不審に思って見に行ったら、水がまるで止まらなくなっていました。普通ならタンク内の浮玉を手で動かせば止まったりするのが、今回はそういう問題でもない。
この機材は家を建てた時からのもので、かなり古く、業者さんからこの型は部品がもうないので、ごまかしながら使うだけで、できれば新調されたほうが…みたいなことは言われていたのです。

それでも、とくだん不便もなく使えるので、あまり気にもせず使っていたわけですが、ついに「終わり」というその日がやってきたようでした。
「これは大変な事になった…」と、とりあえず背後の元栓を閉め、翌日すぐに前回来てもらった業者さんはじめ、何軒かに診てもらいましたが診立てはほぼ同じで、機材全体の交換やむなしという結論でついに観念することに。


それにしても家の中の設備が故障するというのは、何であっても嬉しいものじゃないけれど、中でもトイレほどその不便が痛切に感じさせるものもないな…というのをひしひしと知りました。
いつもそこにあって、使えて当たり前ということを疑うことさえしなかったトイレが突如使用停止になるのは、大げさかもしれませんが生活を根本から揺るがす事態。
不便、不快、不安などストレスのオンパレードです。

余談ですが、今回交換の工事を依頼した業者さんは、馴染みのあるまあ良心的なところでしたが、ネットで調べてみると、この業界にも検索サイトなるものがあり、地域、症状、依頼内容など事細かに状況を示した上での一括見積となり、どんなものやら試しにやってみました。
ピアノの運送業者で経験がありましたが、はじめに入力する情報は、それよりもっと詳細なものでした。

すると、ほどなく続々と業者からのメールが入り、そこにはかなり安い金額を提示してくるところがズラリと並んでいて、へー!という感じで、そりゃあ、むろん安いに越したことはありませんが、でも、ただ安ければいいというものでもない。
試しに一軒電話してみたら、2時間ぐらいで見に来ましたが、我が家のトイレはとくだん特殊でもなく、検索サイトに示した内容と何も差はないにもかかわらず、さらりと口にした金額は、検索サイトに示されていた数字のほぼ4倍!
2倍でもどうかと思いますが、4倍ですよ!

あまりの違いに、問い返す気力も失って、そのままお引き取り願いましたが、その後メールで送られてきた正式な見積では「少しお値引きして…」という言葉がついて、当初の提示金額の4倍から3.5倍ほどへと微減してはいましたが、これほど提示金額と違っているのに、まるで悪びれた様子もないのには呆れるほかありません。

世の中がネット社会になり、価格競争が激烈化するのはわかりますが、はじめだけさも魅力的な数字だけで相手の気を引いて、実際にはその何倍もの見積もりを出すとは、同情の余地はなく、極めて悪質だと言わざるを得ません。


やはり実績のある業者に頼むことにしましたが、すぐに工事の段取りを付けてくれて、翌日すぐに工事着工となりました。
開始からわずか3時間ほどで完了、果たしてつやつやとした新品が行儀よく納まっており、ホッとしたのは言うまでもありません。
しかも、使ってみると一回の水量が以前に比べて驚異的に少なく、しかもすばやく確実に流れて行く様は、ひええ!と驚くばかりでした。以前のも今回のもTOTOの製品でしたが、たゆまぬ研究の成果なのか、その進歩には目を見張るものがありました。
トラブル発生から3日以内に解決できたわけですが、おかげで上記の不便、不快、不安もレバーひとつで一気に流してしまえたようです。

他の悩み事もこれぐらいあっさり流れ去っていけばいいんですけどねぇ…。
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