自分の感性で-2

ずいぶん昔、学生だったころ、まだお元気だった頃の岡本太郎画伯が講演においでになったことがありますが、そこで力説されていたことは、芸術作品に相対するときに大切なのは自分の感覚の反応であり、それに正直になることだというようなことでした。
「人がなんと言おうと、関係ないんだ」「わかるとかわからないじゃなく、何かを自分で感じることなんだ」「それが他の人と違っていてもいい、大いにかまわない!」「そこを恐れちゃいけない!」というような言葉の連発で、多少極端な感じもありましたが、仰せの内容は概ね頷けることばかりでした。

おかしかったのは「日本人は絵を見るときに真っ先にどこを見るかというというとサインを見る」「美しい焼き物を見てもその姿を鑑賞しようとせず、すぐに裏返して銘を確認したがる」「ヘタクソな絵だなあ、なんだこんなもの!」と思っていたらピカソと聞いたとたん「ヘエ〜、ホオ〜!」と手のひらを返したように感心してありがたがる、こんな馬鹿げたことはないんだというような熱弁でしたが、まったく同感でしたが、それは今も一向に廃れていない事実だと思います。

ピアノ選びに話を戻すと、いきなり自分の好みとか言われても、雲をつかむようなものかもしれません。
とはいえ、他人の評価、ブランドへの過度な依存ばかりではダメで、大切なことは弾き比べでしょう。
それをしなければ、日本のピアノ選びには敷かれたレールがあって、まずは大御所のヤマハがあって、ちょっと下にカワイ、でもシゲルカワイは特別でこれだけはヤマハより上、みたいなヒエラルキーがあり、ほぼ選択の余地なく決まってしまいます。

ただ、一部の聞き慣れないブランドのピアノの中には、生産国さえ怪しげなものもあったりするので、本当に粗悪品では困りますが、まずは先入観なしに自分の五感で体験してみて心地良いと感じる楽器をパートナーとして選ぶという基本姿勢があるかどうか、これに尽きるのではと思います。
それが怪しげなものかどうかの調査は、その後でネットなどでやればいい。
とにかく自分でいろんなピアノを可能な限り触れてみて、比較してみないことには始まりません。

日本人の癖ですが、冒険心が薄いというか、むしろこれを嫌がり、おもしろみのない評価だけが高いらしいものを疑問も感じずに欲しがる傾向があると思います。

どんなに変なピアノでも、よしんばポンコツでも、素晴らしい先生がおられて、音楽が好きで、適切な練習を積めば、それがピアノのせいで何かがダメになるなんてことはマロニエ君にはおよそ考えらません。

では、良いピアノとはどんなピアノか?
音がいいこと、弾き心地がいいこと、表現力云々などの通り一遍のことはもちろんあります。
でも、それより大切なのはピアノが嫌いにならないピアノであることだと思います。
なぜわざわざこんな事をいうかというと、そういうピアノがあまりに多く(おまけに信頼も勝ち得て)横行しているから、よほどの意志がなければ、ほぼそういうピアノを買うハメになってしまうのです。

もうすこし具体的にいうなら、弾く人の気分を楽しくさせるピアノ、暇さえあれば触れていたい気にさせるピアノ、どこか生き物みたいで友達のようなピアノ、シンプルに愛着を覚えるようなピアノ、音を出すだけでも喜びで心が慰められ、ますます音楽やピアノを弾くことが好きになるようなピアノ、人の幸福の感情にそっと触れてくるようなピアノ。

悪いピアノはいうまでもなくその逆で、人の感情と交わらずいつも乖離したもの、無機質で機械的で無表情で、耳や神経が疲れる音を無遠慮に出して、結局たのしくないから、最終的にピアノを嫌いにさせてしまうようなピアノです。
しかも、多くの先生方はそんな装置みたいなピアノを「よく鳴る、弾き応えのある一流品」だと思い込み、それがすべての基準となっていて、別のピアノの良ささえもわからなくなってしまっている…のみならず自信をもってダメ出しまでしてしまうのですから、こうなると打つ手はありません。
鳴るピアノというのは、ただギャンギャンいうだけのピアノじゃないということぐらい、せめてお分かりいただきたいものですが、とても無理なので、、やはりピアノ選びはそういう人達は介在させずに、自分で時間をかけて選ぶべきだと思います。

たしかに人に聞いたほうが早いし、簡単かもしれませんが、お気に入りのピアノは恋人を探すぐらいのつもりで頑張ったら、必ずそれだけの価値のあることだと思いますよ。
続きを読む