聞こえてくるもの-2

どうでもいいような、前回の続きです。

むかし何かで読んだ記憶があるのですが、CD等を聴くにあたって、ひとりのピアニストの演奏や音楽に対して、真剣に耳を傾けたいときには、オーディオの音量は必要最小限に絞るべしとありました。
そうすることによって、音圧や迫力で誤魔化されることなく、ピアニストの有する演奏フォルムとか構成力、音色やダイナミクスの相対性が明瞭化され、細部や表現の機微、テクニック等、演奏者の本質がより見えやすいというものでした。

当時、大きめの音にしてその音の奔流に身を任せるようにして聴く快感はもちろんあったけれど、夜間など小さい音で聴く時に「ハッ」と思うようなものが聴こえてくることが何度もあり、見えなかったものがスッと姿を現すような感じを受けるような瞬間があることを経験していたので、それは経験的にすぐ納得できました。

これを演奏する側で、生来理解していたのがショパンではないかと思います。
数々の文献で伝えられるショパン本人の演奏とは、音が小さめで陰影に富み、繊細な音色変化やデリカシーを極めた精緻で気品にあふれるタッチ、霊感に満ちた歌わせ方などを身上としたようです。
当然、大会場を好まず、ほどよいサイズのサロンでの演奏にこだわったのも、自明のことだと思われます。

この法則(といっていいかどうかわかりませんが)は現代の音響に優れたホールと高性能なコンサートグランドをもってしても、基本は変わらないものがあると思います。

なんであれ、大きすぎる音は、それを聴く側の判断を鈍らせるという思いは変わりません。
楽器の良し悪しや、調整の結果についても同じで、本当に見事な腕を有する調律師さんは、大抵ごく小さな音で調律されるあたりにも、それは見て取れる気がします。
逆にフォルテやフォルテシモを多用して調律される方は、音のどこにピントを合わせて調律されるのかと思いますが、素人のマロニエ君がそれを言っても詮無いことでしょう。

もしもマロニエ君がピアノ技術者だったら、条件が許せば、最終チェックの中にもう一つ項目を増やして、蓋類を全閉にして音を聞いてチェックするということをするかもしれません。

また、ピアノの蓋すべてを閉じた状態の音というのは、音響的にどうこうというのを別にして、個人的にはこれはこれの良さみたいなものがあって、決して嫌いではないのです。
もちろん楽器本来の音としては、大屋根まで開けた状態のことであるのは言うまでもありませんが。
ただ、現実的にテレビドラマのセットじゃあるまいしグランドの大屋根はもちろん、アップライトの屋根なども開けた状態なんて、こんな状態で常用するなんてあるわけがない。
なので、フタ類を閉じた時の音も日常では結構重要なものになると思うわけです。

くわえて今日の社会では、近隣への騒音問題も生活マナーとして配慮が求められる中、せめて一定の割合だけでも閉じた状態で弾くことはそれほど間違いでもないだろうと思うのです。
そのとき最大の問題は楽譜立てがないことですが、これは以前にも書いたので多くは繰り返しませんが、音を最小化するため譜面台じたいを閉じた前屋根の上に置いて弾かれる方もありますが、個人的にあれだけはイヤなんです。
なぜなら、あの形にする(あるいは元に戻す)のは結構面倒だから、いったんそれにしたらマロニエ君の性格上それっきりになり、前屋根を開けることはまずなくなるはずで、それではせっかくのピアノが開かずのピアノ状態になってしまう可能性大で、それは絶対にしたくない。
だいいち見た目もヘンな獅子舞のようで不格好なことこの上なく、さらに多くの場合ここに暑苦しいカバーが挟まれ、ピアノの上はそこらじゅう楽譜やチラシなどが積み上がる。
こうなるとピアノの上はちょうどいいな物置きの場となり、鉛筆や消しゴム、可愛くもない小間物など、無いほうが絶対いいようなモノがごちゃごちゃ集まって、みっともないし、せっかくのグランドの意味も半減。

さらに、ただでさえ高い位置にあるグランドの譜面台は、このスタイルによって、さらに何センチも上へと移動することになり、椅子の低いマロニエ君など考えただけでも首が痛くなりそうで、これだけは断じて御免被りたいわけです。

何度も話が放浪してとりとめもない文章になってしまっていますが、要は繊細な音にこそ敏感になり、常に聞き耳を立てることは、通常の演奏中の音色にも注力する習慣にもなるので、決して悪いことではないと思うわけです。
せっかく練習を積んで曲をなんとか弾けるようになっても、自分の出している音が曲調にマッチしているかどうかに気づいたり考えたりする人は、意外と少ないように思いますが、音に対する自分のセンサーはどの角度から見ても大切だと思います。
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聞こえてくるもの-1

調律その他が終わって、技術者の方が帰られたあと、しばらくして落ち着いて弾いてみた時に「あれ?」と感じることってありませんか?
調律師さんと一緒にひととおり確認し、納得したはずなのに、自分ひとりになってみるとどうも少し違っていたような…見落としていたものが今ごろになって発覚してくるような、あの感じ。

この原因はいろいろあると思うのですが、まず思いつくことのひとつが、作業時と普段との、ピアノの状態はじめ、こちらの感じ方もなにかいつもとは違いがあるように思います。

調律師さんが作業をされるときは、鍵盤蓋も譜面台もピアノ本体から外されて、屋根は全開、左右の拍子木も下口棒(鍵盤下の細長い棒状のパーツ)もなく、棚板の上に鍵盤一式がむき出しに載っているだけの状態なので、音は盛大にあちこちから溢れでて、いきなりオープンカーにでも乗せられるようなもの。
それで「ちょっと弾いてみてください」などといわれても、普段とはまるで違うわけで、判断に困ることしばしばなのです。

ピアノは音が出てくる方向や抜け方が違うだけで、音質やタッチ感まで印象がコロコロ変わるので、この特殊な状態で判断しろと言われても、ざっくりしたことはともかく、平常時に重要になってくる細かな事に関しての判断というのはどだい無理な話。

これがもしステージで、数時間後にコンサートというならそれで結構なんでしょうが、素人が自宅でトロトロ弾くにあたって、進んでこの大げさな状態にすることはまずないし、仮にあるにしても鍵盤蓋や拍子木(鍵盤両脇の木のブロック)まで外すことはありません。

前屋根も開けない状態、すなわちグランドの場合、鍵盤蓋以外はすべてを閉じた状態で弾くと、当然ながら音量は最もおとなしく、鳴りも本来のものとは言えないわけですが、でも「だからこそ聞こえてくるもの」というのもあるように思うのです。
音はくぐもって、ボリュームも当然落ちますが、全閉状態にすることは生々しい直接音が遮断され、そのピアノが発する音のある面の真実を繊細に聞き取れるということは「ある」ように思うのです。

音の不揃いや、変な雑音や、キメ細かいところの鳴り方などは、あまりあけすけな状態だと却って目立たなくなったり掻き消されたり。
技術者さんの中には、こんなことをいうと一笑に付される方もおいでかもしれませんが、少なくともマロニエ君はそう感じるのです。
調律や整音をするときに楽器を全開にするというのは、作業上の基本だろうし、そうでなくてはならない理由のほうが圧倒的に多く、だからそうするのは当然なわけですが、でも、全閉にしてこそ聞こえてくるものの中にも、なにか大事なものが潜んでいるような気がするわけで、それが冒頭に感じる「あれ?」じゃないかと思うのです。

そういう経験が何度かあったものだから、こんなになにもかも開いていてはわからないというような事をいうと、調律師さんはすぐに察して、拍子木、下口棒、鍵盤蓋、譜面台を全部取り付けてくださいます。
で、弾いてみて、なにか感じるものがあればそれを伝えると「わかりました」となって、手直しのためにまたそれらをひとつひとつ外すことになります。
とくに鍵盤蓋や譜面台を付けたり外したりとなると、キズをつけないよう、取り扱いにも置き場にも留意しながらの作業となり、そこからまた椅子を後ろへずらしてアクション一式を引っ張りだして、針刺しをしたり、あれこれのネジを緩めての追加作業となり、それが終わったら、またひとつひとつを取り付けて、試弾という途方もない作業の繰り返しになります。

こうなってくると、マロニエ君は甚だ気が弱いので、それを何度も繰り返させるほどの泰然とした神経は持ち合わせていないし、だいいちそこまでのものを求めるほどの何様でもあるまいに、しだいに申し訳なくなって「はい、これで結構です」と言ってしまうのです。
もっと厳密にいうと、申し訳ないだけではなく、そういう要求に値しない自分ごときが、なんどもなんども労力を要するやり直しを求めることは、おそらく技術者さんにとっては滑稽だろうと思うし、もしマロニエ君がそちらの立場だったら、きっとそんな気持ちになってしまうだろうことを想像すると、もう耐えられなくなり、そこそこに打ち切ってしまうのです。

それに、あれこれと細かい注文をつけて果たしてそうなったところで、弾いていれば、時が経てば、いずれまた変わってくるのだから、大筋で自分の求めることが達成されていれば、もうそれでじゅうぶんだろうと思うようにしています。
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酷使するには

YouTubeであれこれ動画を見ていると、学生だかピアニストだかわからないけれど、ヨーロッパに暮らす今風の日本人がピアノレンタルのためのピアノ選びのために、あるピアノ店を尋ねるというのがありました。

すると、その店の人も日本人で、さまざまなピアノを試しながら雑談するシーンがありました。
確か、ピアノはヤマハとカワイとかなり古いスタインウェイだったかな。

その二人の会話の中に、膝を打つようなやり取りが。
このブログを書くにあたり、もう一度見なおしてみようと思ったのですが、もうわかりませんでしたし、そうむきになって探すほどのものでもないので、細かい点で正確ではないところもあろうかと思いますがお許しください。

PCのスピーカーからでも、ヤマハとカワイはよく整った溌剌とした感じの音だったのに対して、古いとはいえスタインウェイは全く違っており、人間でいうとまず教養ある大人というか、もっと深いところから湧き上がってくるやような落ち着いた音で、その一点だけでもこれが西洋の一流品なんだなと思いました。
弾くという入力に対して、構造から発する単純な反応だけでなく、そこに楽器としての何か深い受け止めみたいなものが介在している感じがあり、そこが本物たる所以なんだろうと思いました。

ところが、その試奏者がいうには、コンクール前などは日に10時間ぐらい弾くんだそうで、そうなってくるとあまりいいピアノというのも酷使による消耗などを考えるともったいないというようなことを言われ、店の方もそこは同感の様子で、消耗品等のパーツの値段がまるで違うからそれはありますね、みたいな感じの会話でした。
で、さらにうろ覚なのですが、お店の人が言うには、できれば練習用と仕上げ用のピアノは区別したらいいというようなことを言われていたのが記憶に残っています。
これはマロニエ君もかねがね思っていたことだったので「だよね~!」と思ったわけです。

趣味で良いピアノを手に入れて、ほどほどに弾いて楽しむような使い方ならいいけれど、試験だコンクールだというような人達の場合、それを指の訓練から曲の練習まで、あらゆることに酷使すれば、当然ピアノはみるみる消耗してしまい、はっきりいってもったいないだけ。

もちろん反対意見があるのは承知です。
日ごろから良いピアノに触れるメリットは…といった一般論・正論はわかっているけれど、とはいえ、それをタクシーみたいに酷使して数年でダメにしてしまうようなら、個人的にはもったいないとしか思いません。

その技術者さんも、ピアノの消耗品は車のタイヤが走れば擦り減るのと同じ…みたいなことを仰ってましたが、そこから連想するのは、ドリフトやサーキットでの限界的なドライビングの腕を磨くのには、スピンやクラッシュの事を考えて、それなりの練習用車両を使うのが常道で、いきなりポルシェやフェラーリを使うなんてことは普通はないと思います。
(ドバイあたりの大富豪なんかだったら知りませんが)

よって練習用ピアノはオンボロでいいと短絡的なことを言うつもりはありませんが、どこかで割り切って目的に適ったものでいいというのは、現実的にやはりあるんじゃないかと思うし、良い楽器にはそれに応じた敬意を払ったつきあい方というのがあるだろうとも思うわけです。

ちなみに、その動画主さんは、あれこれ試し弾きしながらカワイを「男性的な音」といい、スタインウェイを「中性的」と評されたのはなるほどと思いました。
ヤマハの音に「女性的」というコメントは無かったけれど、その流れで言わせてもらえば、ヤマハって強いて言えば、勝ち気でパワフルな女性の声のような音だなぁとも思います。

カワイのまろやかな音が男性の声なら、音の中に針金でも入っていそうな鋭いヤマハの音は、それなりのインパクトもあるので、これじゃないと満足されない方もおいでのようで、そういう人達には、カワイの深さとか、まろやかさをもった音には物足りなさしか感じられないらしく、そういう話はずいぶん耳にしました。

ちなみにマロニエ君は、幼少期から成人以降までの多感な時期を含む長期間を2台のヤマハ(中学の時に一度買い換えました)にお世話になって来ましたが、それでも、ついに馴染めず愛着も持てないままのお別れとなりました。
少なくとも国内では、ヤマハはピアノのスタンダードのようになっていますが、マロニエ君にいわせるとかなり個性の強いピアノといえるんじゃないかと思いますし、ほんとうは違う好みの方も実は多くいらっしゃるのでは?という気もします。
それでも、これほどピアノ=ヤマハというような基準が出来上がってしまうと、それを打破するのはよほどの意志力がないと難しいものがありそうですね。

なんだか途中から話が変わってしまったようですが、いつものことであしからず。
敢えて本題に戻ると、練習で酷使するにはヤマハは少々のことではへこたれないという意味で、機械としては向いているのかもしれませんね。
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怖い世の中-2

そして今度は、我が家の話。
このたびの猛烈な長雨で、物置にしている部屋の一隅から驚いたことに僅かな雨漏りが発生し、これは困った!ということになりました。

何かというと頼りにしていた職人さんは、あいにく屋根から転落して腰を痛めて仕事を引退されてしまい、見には来てくれましたが怪しいのは空調のためのパイプなどがやたらある屋上付近で、ここへは階段がなく外壁に作り付けのハシゴがあるのみで、そこへ登るのがやっとで、今の身体では登り降りを繰り返す仕事はできないとのこと。
では、だれか信頼できる職人さんなり会社なりを紹介して欲しいと頼みましたが、建築業界もすっかり風景が変わってしまい、あらゆることが分業され様変わりしてしまったそうで、古い人は引退する人も多く、もう横のつながりもなくなり紹介できる相手が思いつかないとのこと。
知り合いの設計士に聞いてみても、似たような話で、かろうじて可能性のある人に聞いてもらったところ、こちらはこちらで骨折で現在入院中!当分は動けないとのこと。

屋根だの外壁だのは、信頼できない業者が絡むトラブルはよく耳にするので、ネット検索などで気楽に依頼しようものならどんな目に遭うかもわからないので考えあぐねていたところ、友人が、そういう時のために地元のテレビ局が各分野のプロを紹介するというサービスをやっているというので、テレビ局がセレクトしている業者ならある程度信頼できるだろうと考え、局のホームページからある業者にたどり着き、連絡を取りました。

すると、その日のうちにさっそく下見に来てくれました。
作業着姿の社長という男性とアシスタントのような若い女性の二人で、さんざん見て、さんざん写真を撮って、件の屋上近くの空調機器の場所にも登ったり降りたりしたあげく、一切所見を言わず、設計図を預かって行きたいというので、さすがにそれは初対面の相手で嫌な気がしたので渋っていると、「では、一冊まるごとではなく、必要なページだけをコピーさせていただきたい」というので、それだけは応じました。

ちなみに、やけに口数の少ない、話していてもほとんど視線を合わさない人でした。
一緒に来た女性はさらにおとなしく、いわれるままに写真を撮ったり、赤外線の小型の機械をやたらあちこちへ当てたりするだけで、ほとんど声も出しません。
それで二時間ほども家の内外に滞在されると疲れるものですが、「では、見積りをメールで送ります」と言い残して帰って行きました。
その帰りぎわに「実際の作業は他の業者に依頼されても構いませんので」という、なんだか妙な、いかにもガツガツしていないよというような言葉が少し気にかかりましたが、その時は早く漏れを止めなくちゃいけないという気持ちばかりが先行していました。

数日後、メールで見積りが送られてきましたが、よくよく見てみると見積内容は「水漏れ診断」のみで、要するに空調の機械部分からどういう経路を経て水漏れとなっているかを「診断するだけ」で「修理は別」というものでした。

にもかかわらず、その金額を見てびっくり。
ほとんど70万円に迫る金額で、繰り返しますが、それは診断するだけの料金なんです。
なるほど修理を別に頼んでもいいはずだろうと、ここにきて納得。
しかも、上には登って行けるのに、診断するだけのために足場を組むことになっており、作業は3日間、1日目は足場の搬入組立、3日目は解体撤収で、診断作業は中1日のみ。

引退した職人さんにそれを伝えると、びっくり仰天!!!
えらく憤慨して「そんなものに絶対頼んじゃいけない!」と大声で、まるでこちらが叱られるように言われました(実際にももっとひどい言葉も使っていました)が、もちろんいわれなくたってそんなところに頼むほどお人好しではありません。
ちなみに、その職人さん曰く、我が家の状況では、見るだけのために安くもない足場を組むなんて、非常識も甚だしいのだとか。

この文章を書くにあたって、その見積を再度見てみましたが、3ヶ所に赤字で「修理費用は別途となります」「散水用水道水・駐車スペース・電気は無償貸与願います」さらに「雨漏り箇所を判明するための調査費用で、修理費用は別途」と繰り返しあり、後々のトラブルを想定しているのが窺えました。

以降、このメールにはまったく返信も連絡もせずに無視していますが、先方もわかっているのか一切連絡はありません。
おそらく日常的にそんなことばかりやっているんでしょうけれど、それを地元のテレビ局が視聴者へ紹介できる業者としてリストに入れているとは、いったいどうなってるの?と思います。
何事も、すこしの油断もできない、ピリピリした怖い世の中になったものです。

性善説で凝り固まったお人好し日本人は、もう過去の歴史博物館行きで、すべてを疑ってかからなくてはいけない時代になったと認識を改めるべきですね。
人を見ればまずは騙される可能性ありと予防線を厳しく張るのが当たり前となり、これも日本のグローバル化のひとつでしょうか?
これをお読みいただいた方々も、くれぐれもお気をつけくださいね。

ちなみに雨漏りは、ステンレス製のパイプの引き込み口がコンクリートで固められており、そこに数条のひび割れがあったので、ホームセンターで野外用シリコンを買ってきてそこを埋めたら、とりあえず止まったようです。
ちなみにこのシリコンと注入器具合わせて、千円もしませんでした。
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怖い世の中-1

「振り込め詐欺」というものが社会問題化してずいぶん経ちますが、その手口は年々巧妙化しているとか。
魔の手はどこからでも忍び寄るものと頭ではわかっていても、どこかで他人事のような気分があったことも事実でしたが、ついにマロニエ君のよく知る人で、あやうくその餌食になりかけたものの、幸い回避できたという話を聞いて仰天しました。

たびたびニュースなどで伝えられ、じゅうぶん深刻に受け止めているつもりでも、それがいざ身近な知人になどに起こると、俄然リアリティをもってその恐ろしさが迫ってくるものですね。

その人は大手のデパートに用があって電話したところ、直後にそのデパートを名乗る人から連絡があり、ただいまお客さまのカードで数十万の腕時計が購入されましたが、不審に思い、念のため確認の電話だという内容で、電話を傍受されているのか、なぜ電話番号やデパートとの関係が知られたかも不明。
見に覚えのないことなので、もちろん否定すると「わかりました、少々お待ち下さい」といわれて、しばらくそのまま待たされ、再び電話口から語られたのは、売り場を見に行ったけれどもうその人はいなかったとのこと、フロア全体もあちこち見て回ったが見つけられず「大変申し訳ありません」と深くお詫びを言ってくるんだとか。

電話の主はもちろん自分の役職と名前を名乗り、つとめてソフトで丁重な言葉遣いで、いかにもデパートマンらしい物腰の柔らかい完璧な口調で、内容もこちらの損害を案じてのものであるし、自分のカードが不正利用されたという驚きもあってすっかり信用したとのこと。
「では」ということで、これ以上の被害を防ぐには暫時、引き落としの口座の凍結をする以外にないとのことで、そこから先は自分達の力の及ばない領域になるので、銀行協会がそういう場合の処置をしてくれるとのこと。
「大変恐れ入りますが、銀行協会の☓☓さんにお電話していただけますでしょうか?」となり、もう言われるままだったとか。
そちらに電話すると、今度はいかにも金融関係の人らしい、怜悧で引き締まった感じの男性が電話に出て、「どうしましたか?」ということから事情を話すと、「わかりました」ということで、サッサッと銀行名から、口座がいくつあるか、果てはそれぞれの口座番号や残高まで要領よく聞かれたとか。
ここまで書いていてもおかしいと思いますが、当事者は乗せられてわからなくなるんでしょうね。

「事はスピーディな処置を要することなので、すぐにその通帳(数冊で全財産だった由!)をお預かりにうかがいます」ということになったものの、夫婦でしばし相談して、次第に何かおかしくないか?ということになり、念の為ということで警察に相談したそうです。
すると、その警察の対応が見事で、すぐにこの手の犯罪の専門官が家にやってきて、あっという間に自宅の電話に留守番機能を設置したとか。

通帳受け取りのための連絡があったら、携帯ですぐに我々に知らせて、家にきたら時間稼ぎをしてくださいということになり、それからはもうドキドキだったとか。
ところが、銀行協会を装う犯人が電話してくると、さっきまでなかった留守番電話になっていることで、こんどはなんとフガフガ言うお婆さんのような人から電話があり、しばらく話をするも何を言っているかもわからないまま切れてしまい、それ以降、件の銀行協会からもデパートからも一切電話はなくなり、もちろん通帳を与りに「受け子」が来ることもなかったとのこと。
やはり、犯人側は警戒心が強く、留守番電話になっていることで異変を察知して一斉に手を引いたようで、「あれを渡していたら全財産とられるところだった」んだそうです。
警察に相談したのが運命の分かれ目だったようですね。

冷静に考えれば不自然なことでも、ちょっとした状況で人間は判断力を失うものということなのか。
この場合、もともとはじめは自分からデパートに電話したことと、カードの不正利用発覚という予期せぬことなどで、通常の思考力を奪われ、一刻も早く食い止めるという時間勝負の状況に追い込んだことなどが、まるでジェットコースターにでも乗せられたようになって、考える暇を与えなかったのかもしれません。

でも、本人もなにより感心していたのは、そのデパートマンと銀行協会を演じる二人の男性の見事すぎるトーク術で、敵ながらあっぱれというほど、スバラシイものだったそうです。
「あそこまで言われたら、誰でも信じると思う」んだそうで、普通でも、あれほど見事に洗練されたトークのできる人は、そうはいないんだとか。

これはピアノで言えば、よほど才能があり、日ごろから練習に練習を積んで、コンクールの本番に挑むように万全の準備をしているようなものでしょうね。
犯罪とはいえ、そこまでの高みに達した技巧って凄いですね。
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アマチュアの義務

かつてN響の第一ヴァイオリンを長年勤められた鶴我裕子さんの愉快なエッセーのことは、以前にも一度書いたような気がしますが、先日またパラパラやっていると、演奏者に対して(評価が)一番やさしいのは意外にも同業者で、褒められて一番嬉しいのもこれまた同業者なんだとか。
さらに批評のプロである評論家がいて、最もイジワルなのがアマチュアだとありました。

これって、はじめは意外なような気もしたけれど、一歩踏み込んで考えてみれば「そうかもしれない」と納得したところです。
同業者は文字通りの同業者だからこその甘さ(内心はともかく)もあれば、明日は我が身という保身的な意味を含む同族意識もあるだろうから、ライバルであるけれど理解し合える人達ですからね。

また、評論家は依頼があり、それで文章を書くことで原稿料を得ているのだから、業界で生きていくための複雑な事情や利害が常に絡み込んでいる立場。おまけに時代も変わり、もはや野村光一や吉田秀和や宇野功芳らが活躍できた時代ではないのだから、「心得た内容」が求められ、評論家による実質宣伝記事こそが歓迎され、それでwinwinの関係にあるような雰囲気がプンプンしています。
よって、各人も自分の役割をじゅうぶん心得て、求められることを書いているだけではないでしょうか…。
表向きは批評のプロであることを示しつつ、褒め言葉を散りばめながら、評論家としてのアリバイ作りのためにもやんわり苦言を呈することもしてみせなど、バランス感覚やあれこれの配慮がさぞ大変だろうとご同情申し上げます。
なんにしても、少なくとも思ったまま感じたままを書いていたら、直ちに業界からつまみ出されてしまうでしょう。

その点、アマチュアは文字通りアマチュアなんだから自由だし、「業界との繋がり」なんぞという弱みも縛りもなく、脅しも通じず、純粋に(そして勝手に)音楽を聞いている立場だから、良く言えば最もピュアな聴き手となるのは自明のこと。
そもそも、最もピュアというのは、裏を返せばそれ自体が厳しく、妥協を知らず、ときに残酷であることも世の常です。
宗教においても最も融通がきかず恐れられるのは原理主義者であるように。
それ故、アマチュアが一番手厳しく、情け容赦ないイジワルになることも必然ですね。

音楽や演奏の発する、それのもっとも純粋な部分のしもべとなり、理想を追い求め、そこから一滴の心の滋養を得んがために、日ごろからどれだけの無駄を費やしていることか。
一文の得にもならないばかりか、むしろ身銭を切って、もしやの瞬間を求めて自由意思によって音楽を聴いているのだから、その評価が厳しくなるのは当然でしょう。
むろん中には、批判のための批判をするようなスノッブで歪んだ心根の輩がいることも事実ですけれど…。

というわけで、同業者というのはつまるところ「足を引っ張る」か「自分のために、相手も褒めておくか」のどちらかである場合が多く、その人達から核心をついた、真の反省や参考に値する評価を得ることは、現実的になかなか難しいのではないかと思います。
コンクールの審査でも、審査員が現役演奏家である場合、本能的に近い将来自分の地位を脅かしそうな人には、いい点を付けないというのは何度か聞いたことがあり、それは審査として間違っているけれども、人間の闇とはそういうものでしょう。

その点、真に信頼に値する批評こそ、実はアマチュアに課せられた役割だとマロニエ君などは思うのですが、世の中というものはアマチュアというものをまずもって下に見る傾向があり、くだらない権威主義が幅を利かせる中で、これが(とりわけ日本では)文化向上の障壁になっていると思います。

例えば、パリの芸術のレベルの高さが奈辺にあるかというと──マロニエ君の想像も多分にありますが、多くの大衆、すなわちアマチュアが下す判断のレベルが高く、彼らは批評家の言うことなど意に介さず、自分の感じたこと受け取ったことがすべて。
すなわち自分達の感性を最大の拠りどころとする総批評家であり、だからそこ彼の地では本物でないと受け入れられない厳しさと信頼性があるのではないかと思います。
この料理は美味しい、まずい、ああだこうだとピーチクパーチクいうように、ごく自然に好き嫌いや感じたことを発言し、当たり前のようにディスカッションを交わす、しかもその大半はアマチュアによるものであって、まず批評家や大勢の意見を確認して、それに従うなんてあるわけがないし、へたをすれば批評家が批評の対象にさえなっていまう。

日本人は芸術を必要以上に高尚で特別なものと捉え、それは特殊な専門領域ように捉えられてしまいますが、それだからダメなんだよねぇ…と思うのです。
どんな人でも自分の好きか嫌いかということ、自分の好みを超越して真に素晴らしいものには感性の何かが反応するというセンサーを持っているのだから、畏れずそれに正直になるべきです。
さらに、いかなる分野であろうと、例えばオタクといえば極端ですが、アマチュアの人達の知識や経験量、その評価の辛辣な厳しさは、生半可なプロなんぞ凌駕してしまう深みと審美眼さえあるでしょう。
本当の批評は、そこに何の利害も絡まない直感に優れた人たちによるものであるべきだとマロニエ君は思います。

かつてアメリカには、演奏家の生殺与奪の権さえもつと恐れられる、批評界に君臨するカリスマ的な御大がいたりしましたが、彼らも結局は陰で薄汚いビジネスが絡んでいたりで、マロニエ君はそんなものはまったく信頼しません。

そのためには頑として自分の意見や感じるところを信じ、権威者の意見を信じないことですが、悲しいかな権威が好きで横並び精神旺盛な日本人にはそこが最も苦手なところ。
聖徳太子の「和をもって尊しとする」のは結構ですが、自分の感じたことも深くしまい込んで必要な意見交換やディスカッションさえできないというのでは、それが本当の「尊い和」であるのかさえ疑問です。
素直な意見を言って的外れだったら笑われないか、無調の音楽を嫌いなどと言おうものなら軽蔑されるのではないか、そういう心配ばかりですが、別に笑われても軽蔑されても構わないじゃないかという腹をくくって欲しい。

マロニエ君は知人などとコンサートに行ったら、休憩時間などではすぐに感想を言いたくてウズウズするのですが、それをいうと大抵は相手の顔に困惑の色が現れ、イチャモンといった捉え方をされるので、しだいに何も言わないよう沈黙するようになりました。
でもこれは悲しいことで、音楽を聞いたり、絵を見たりして、その感想を言ったりするのが鑑賞者の楽しみであるはずなのに、それが相手に迷惑だったり非常識のように捉えられるなんて、ナンセンスの極みだろうと思いますが、それが日本の現状なんですね。
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