ショパンコンクール-ピアノ編

コンクールに使われるピアノにも、昔とは隔世の感を感じます。

ピアノがコンクールの舞台で求められる要素も出尽くしたのか、各メーカーもそれに沿ったマシンを送り込んでくるようで、ずいぶん横並び的でクセがなく、そのあまりに整然とした感じは感心半分、つまらなさ半分といったところ。
あえて冒険は避けて、確実に点を取りに行く野心的なコンテスタントから選んでもらわなくてはいけないから、楽器もこうなるんだと言われたらそれまでなんですが。

今回の布陣は、スタインウェイD(2台)、ヤマハCFX、カワイSK-EX、ファツィオリF278の5台だったようですが、ざっくり言えばどれも極端な差はなく、少なくとも昔の「スタインウェイか、ベーゼンドルファーか」みたいな違いはなく、こうなるともう僅差の中の、ほんのちょっとした違いでしかないような印象です。

スタインウェイにはシリアル番号の下3桁が300と479という2台があり、479のほうがやわらかな深みのある音、300のほうが華やかでキラキラ系〜というような違いを感じました。
〜あくまでPCで聴いた感じで、会場で実物の音を聴いたらどうなのかわかりませんが。
300のほうは、以前の別会場での予選(予備予選?)の映像では真上からのアングルがあり、それで驚いたのは高音側の2つのセクション(アグラフが無くなる部分)には、ものすごい量の止音のためのフェルトが不気味なまでに挟み込まれていて、これはよほど訳ありなのかな?とも思いました。
それでスタインウェイがもう一台追加されたのか?と勘ぐりたくもなりますが、真相はわかりません。

とはいえスタインウェイも近ごろはかなり優等生タイプで、ヤマハはちょっと庶民的?、カワイは以前の純朴なトーンが修正されて洗練方向に、ファツィオリは前回のショパンらしい音作りが裏目に出たことの反省から何か対策されたのかもしれないけれど、どこか響きがこもるというか、もう一皮むけてほしいような感じがしました。

動画をチラ見している限りでは、選ばれるのは圧倒的にスタインウェイ、ついで前半はヤマハでしたがなんと2次で敗退、カワイとファツィオリを選ぶ人はときどきいるという感じでした。
ところが、優勝者が使ったのはファツィオリでしたから、見事に前回の雪辱を果たしたというべきでしょう。

カワイは何人かロシア人も弾いていたけれど、これはプレトニョフ先生がご贔屓ということが効いているのか?
新しいSK-EXもカワイのサロンでしばらく触ったことがあるけれど、以前のカワイ臭はかなり除去されているあたりは、相当な努力の跡が感じられたものでしたが、コンクールの舞台での音を耳を凝らして聞いていると、華やか系のヤマハより上質で気品を感じる瞬間も多々あり、全体としては他のピアノに遜色ないものへ仕上がっているように思います。

あとは、イメージもあるんでしょうね。
コンテスタントにすれば過去の実績や他者のチョイスも気になるはずで、前回まではカワイとファツィオリは優勝者を出しておらず、人間だからどうしてもそういったことまで考えてしまうところもあるだろうと思います。
今回の優勝でファツィオリの信頼性が上がるのか、たまたまなのか…。
二回目の挑戦だったホジャイノフは、以前はヤマハを弾いていましたが、今回はスタインウェイになっていたりと、使われるピアノにも時の運みたいなものがあるんでしょうか。

今回の優勝者がファツィオリだったことから、入賞者のガラ・コンサートでは2位以下の人もピアノ交換はなく、全員がファツィオリを弾いていましたが、違う人が代わる代わる弾くとよくわかりますが、ふくよかな上品なピアノである部分と、どうも音が抜け切れないもどかしさみたいなものと、両面を感じました。
重ね着したシャツをあと一枚脱いだらいいような感じ…。
ただプレリュード終曲の最後の最低音部のDの3連打などは美しく、こういうところにファツィオリの品質が出ているように思いました。

ついでに、ピアノオタク的などうでもいいことを付け加えると、ヤマハのCFXは目に見える細かなところが変わっていました。
大屋根の縁の部分に付けられる装飾の段は、これまでは普通とは逆方向(逆台形)につけられていたのがCFXのさりげない特徴でしたが、今回は段そのものがなくなっており、ただの板切れみたいな素っ気ない形状になっているのは些細なことだけれど驚きました。
さらに、CFの時代からCFXまで、ヤマハのコンサートグランドの大屋根の蝶番(開閉のための左サイドに並ぶ金属部品)は長らく手前に2つ、中央と後部に1つずつ、計4つが使われていましたが、それが3つに減らされており、さらに大屋根を留めるL字型のフックもなくなっています。
簡略化なのでしょうが、まさか、ショパンコンクールの舞台に持って行く勝負をかけた一台に、たかだかそんなことでコストダウンというのも不思議で、これらは何を意味しているのか。

いっぽう、SK-EXでは側板内側の化粧版が遠目にあまりに地味なのでご自慢のバーズアイではなくなったのか?と思いましたが、よく見ると目の細かいバーズアイのようでもあり、これははっきりと確認は取れませんでした。
ただ、この部分は昔の人が着物の羽織の裏地に凝ったように、さりげない贅沢で目を楽しませる部分だから、もう少しわかりやすいものにしたらと思います。
わかりやすいといえば逆もあって、大屋根の蝶番はカワイは4つですが、それがイヤでも目に飛び込んでくるようなハデハデしい形状のものになっており、これは本来できるだけ目立たない工夫をした方がいいものだと思うのですが、それをあんな金ピカの寺院みたいにするセンスというのはよくわかりません。

カワイのセンスでマロニエ君が好きなのはフェルトの色。他のピアノがいずれも原色のハデな赤を使っているのに対して、カワイ(SK)のそれはちょっとくすんだ感じの大人の色で、これはフレームやボディの色とも調和して品格を感じていいなと思います。

〜以上、今回のショパンコンクールについてはひとまずこれで一区切りとします。
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終わりました

ショパンコンクールがついに終わりました。

勝者はマロニエ君としてはいささか意外な人でしたが、審査結果については昔から物議を醸すのもこのコンクールの伝統だったなぁと思い出し、よくわからない価値観がはびこっているらしいことがあらためてわかったような気がしました。

やはり不可解なのは、何をどう審査しているのかということが不透明なこと。
演奏芸術の判断を透明化するなんてできるわけがないと切り返されそうですが、マロニエ君が感じるのは判断が演奏の可否一つに絞られているのか、それ以外の要素も入り組んでいるのかという点で不透明さを感じます。

純粋にショパンらしさか、好き嫌いの分かれない優等生か、飛び抜けた技術か、ピアニストとしての将来性か。
さらには人種や国籍や師弟関係なども絡んでいるのかも。
まあ、そのどれもであるし、どれでもない、ということなんでしょうね。
せめて、判断基準をブラックボックス化せず、誰が何位になった主たる理由ぐらいは聞きたいところです。

マロニエ君の見るところ、ピアニストとしての器の大きさと質感でいうと、反田さんが一番だっただろうと思います。

ただ、気になる点もないではなく、とくにファイナルでは「準備したものを本番で失敗せずに成果を出す」という一点に関して言えば、それは素晴らしい演奏だったようで、ご本人からもそんなふうなコメントがありました。
しかし、個人的にはソロの時と違って、コンチェルトでは、これまで反田さんに感じてきたある種他を圧するような印象が少し薄く、全体的に作品が求めるものとは少し齟齬があるように感じるなど、反田流がつきまといました。
それでも上手いから、ぬかりない準備と抜きん出た技術力によって、それなりにキメてはみせたという印象。
協奏曲では、そこがより顕在化して、ショパンはそっと席を外すのではないかという感じは受けました。

つまるところ、やはり反田さんの本領はショパンではなく、自然に備わっているものと勉強して身につけたものの違いみたいなものが、やはり最後に出てしまったのでは?と個人的には感じました。
人間関係でもそうですが、なぜかソリの合わない人というのはいるもので、それはどちらのせいでもなく、世の中には常にそういうことはあるもので仕方のないことだとは思います。

周知のように、ショパンのコンチェルトは2曲とも20歳頃の作品で、したたるような感受性が切々と織りなす、繊細巧緻なこわれやすい美の世界。それでいてオーケストラとの恊演だから、ある程度の華麗さも求められる。

この曲が有する悲しいまでの美しさ、儚さ、品格、固有のノーブルな響き。
後期の作品ならあるていどのクオリティと精神的な深いものをもって丁寧に仕上げれば、なんとかなる作品もあるかもしれないけれど、若いころの作品にはよりピュアなもの、傷つきやすい感受性に導かれるような一途で献身的で演奏であることが必要なように思います。

反田さんに話を移すと、どうしてもショパン独特の美の連なりとか移ろいや機微に敏感というより、やや分析的すぎたこと、この稀有な天才に対するシンプルな共感性や謙虚さの不足を違うもので補おうと努力されていたように見受けられました。

そのいっぽう、ピアノからオーケストラへと引き渡していく瞬間など、どうだ!といわんばかりに何度も手を上げたり空を回したりと、その振る舞いがやや過剰でオレ様的に見えてしまう審査員や聴衆もあったのではないかと、気になる場面もあったり。

気になるといえば、あれだけ上手いのに、全体の流れという点では必ずしも聞き手を乗せてくれる人ではなく、要所要所でビシッとキメていくことのほうに重きが置かれて、曲の気分に反するようなときがあり、そこらがもう少し自然に素直に聴けるようになったらと思います。

場所も日本じゃないのだから、謙虚さを滲ませるばかりがプラスとは思わないけれど、ショパンの音楽、そして保守勢力の強い審査員のお歴々を認めさせるには、もう少し「音楽的な育ちの良さ」みたいなものは必要だったかもしれないとも思います。

優勝者(ブルース・リウ)は、恥ずかしながら毎夜の時間的な制約の中で、ほとんどノーマークの人だったから、優勝と聞いて「え、だれそれ?」という感じで、あらためて動画を見てみたところ、お顔だけは覚えがあり、演奏もきれいだったけれど優勝に値する器とは思えず、最後にこういうオチになるから、やっぱり私はコンクールなんて嫌いです。
ブレハッチ、チョ・ソンジン、そして今回の方といい、何だかショパンの名の下にピアノの優等生を探す会みたいでもあり、ま、もういいやって感じです。
今回は、柄にもなくズルズルと毎晩コンクールウォッチを続けてしまったマロニエ君でしたが、あー、やめたやめた!というか…ま、終わったんですけどね。

最後に。
反田さんは個人的には好んで贔屓にしたいタイプのピアニストではないけれど、上手いし光るものがある人である事には疑いなく、しかもこういう国際コンクールになれば、オリンピックと同じでナショナリズムが刺激されて、やはり反田さんには日本人初の優勝者になって欲しかったし、その資格は充分にあると今も思っているだけに、2位という結果はただただ残念でなりません。
それも、優勝者の演奏を聞いて「ああ、これじゃ仕方ないな…」と納得させられる2位であるならサッパリ諦めもつくというものですが、そうでもないぶん後味のいいものにはなりませんでした。

ご当人はずいぶんと喜んでおいでのようですが…内心はさぞ悔しいことだったろうと思います。

ただ、反田さんのような型破りなピアニストには、今後の長い演奏活動を考えると、優勝というピカピカの栄冠をまっすぐ与えられることより、2位に甘んじる悔しさのほうが、さらなる奮起のためのいい養分になるのかもしれませんね。
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動画配信を見て…3

ショパン・コンクールの3次が終わり、決勝への日本人出場者も決定したようです。

反田さん小林愛美さんのお二人はまあそうかな…というものだったし、外国人については、あれこれいうほどつぶさに見ていないので詳しくはわからないけれど、何度か見た人に関してはほぼそんなもんだろうと思うもので、いまのところとくに異論は感じない、妥当な結果じゃないかと思います。

ポーランドのヤコブ・コシュリク氏は入っているし、前回末尾に書いた「中国系カナダ人」とは、JJ Jun Li Buiという人で、顔立ちが東洋系であることとLiという文字が入っていることで勝手に中国系だろうと思っただけで、もしかしたら韓国系かもしれませんが、いずれにしろ、それは大して重要なことではないですね。
名前の読み方もよくわからないし、何かでチラッと見たのはダン・タイ・ソンのお弟子さんでわずか17歳とのことですが、曲のツボを外さない演奏は、なるほどね…と思いました。
この人はずっとカワイを弾いていましたが、決勝でもそのままカワイでいくのか、ピアノを替えるのか?
ピアニストというのはある程度出来上がると、あとはそうそう成長はしないものですが、17歳ならこの先数年はまだスケール感が広がる伸びしろは充分ありそうです。

YouTubeには、動画配信の他に、コンクール関連の解説風のものが無数にあって皆さんの熱心さにはびっくりですが、今どきらしいというか、多くの動画で語られるのはあれもこれも褒めちぎりで、要するに何が言いたいのかちっともわからないものばかり。
コンテスタントやそのファンに気を遣っているのか、下手なことを言って予想が外れたら恥をかくという用心なのか、そのあたりよくわかりませんが、ま、それは余談です。

マロニエ君は、別に予想して当ててやろうと言うような気持ちなんてまるでないし、またこのコンクール関連に限らず、すべて自分が感じたことをひたすら正直に書いているだけで、それが結果に反しようが、予想が外れようが、大方の意見とは相容れないものだろうが、そんなことは一向にかまわないし、そういうことに斟酌したり安全を踏んでおこうなどとするつもりも毛頭ありません。
これだけはこのブログの一貫したスタンスですので、念のため。

ところで、決勝進出枠が10人だったものが12人に拡大されたんだそうで、これはちょっと増やし過ぎじゃないの?というのが率直な印象でしたが、そのぶん敗者復活の可能性も広がるのかもしれないし、ポーランドの国家をあげての大イベントが少しでも長く続くための方策なのかな?などとあれこれ想像は尽きません。
以前はオーケストラと共演できるのは6人でしたから、2倍になったというわけですね。

ただ、決勝は協奏曲の1番か2番かのいずれかで、圧倒的に1番を弾く人が多いから、いかにあの魅力的な名曲といえども、そうそう何回もあの「シ、ミーレミーソ、シ、シ、シ…」を繰り返して聴かされたんではたまらない気もします。
もう、この際だから、決勝でも演奏曲目を増やしたらどうかと思います。
「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」と「ドン・ジョバンニの変奏曲」はソロでも弾いている人がいたから、たとえば「ポーランド民謡による幻想曲」と「クラコヴィアク」をセットで演奏しても良い、というのはどうかと思ったり。


少し戻って、3次の演奏を視聴しましたが、反田恭平さんはなかなか見事で、黒光りのするような凄みもありました。
テクニック、風格、細部に至るまでの磨き込みなど、完全に頭一つ出ているように思ったし、ピアノも楽々と太く鳴っているし、コントロールも思いのまま、なにもかもがワンランク次元が違うなと感じました。

小林愛実さんは、全体に注意深さが行き過ぎた感じで、前に「端正で気品すら感じる」というようなことを書きましたが、上半身を動かさない修行みたいで、さすがにちょっとやりすぎじゃないか…という感じも受けました。
おまけに、24の前奏曲では曲数も多いのに、曲ごとにそのつどしっかり区切って整えてからようやく次に進んでいくというのが、この作品にふさわしい弾き方なのか?と疑問でした。
個人的には、この作品にはもう少し各曲のキャラクターの対比や即興性、さらにいうなら全体で一つの曲のかたまりという雰囲気もほしく、あまりにひとつひとつを慎重に片付けていく様子に疲れてきましたが、やはり演奏家という立場の人は、聴く人を疲労させてはいけないのではないか?と思います。

YouTubeというのはありがたいもので、何度でも繰り返して任意に楽しむことができますが、小林さんと反田さんは共にスタインウェイの479を弾いていますが、出てくる音の違いには愕然とするばかりです。
とくに重量感や腰の座った鳴らし方では、飛行機でいうと737と777ぐらいの違いがあり、小柄な方というのはハンディがあって、そこは如何ともし難いものがあるように思います。

意外だったのは、演奏後のインタビューで反田さんは「やりたいことができなかった、あとで号泣した」なんていう意外な発言があるかと思えば、小林さんはあんなにも用心深い演奏だったにもかかわらず「1次、2次と楽しめなかったものが、3次で初めて音楽を楽しめた」と仰るあたり、なにがなんだかさっぱりわかりませんでした。
穿って見れば小林さんは、ソロが終わっての釈明のようにも聞こえるし、反田さんは大逆転を見据えた布石のようにも思えなくもないですが、まあ、そこをあまり深くつついても意味ないことで、決勝の演奏そのものに注目すべきですね。

今日は、ショパンの命日だったんですね。
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動画配信を見て… 2

ショパンコンクールのことを書いてみたことで、自分自身も少し興味がでてきて、その後も少しずつ見るようになりました。

繰り返すようですが、全員なんて到底不可能なので、とりあえず日本人数人(敬称略)の断片的な印象。

[反田恭平]器が大きいことや厚みのある技巧は申し分なく、ソリストとしての押し出し感もあり、独特の野趣までもが魅力になっている人。
音楽作りは緻密で周到、演奏そのものはクオリティが高い健康男子的。
これまでの日本人ピアニストに比べ、なにかと規格外であるのが新鮮で頼もしく、そのスケール感のある手さばきは爽快ですらあるが、逆にシンプルなものを温かく歌い上げて聴くものの心をいざないうような力はもうひとつか?
普段の言動からピアノを演奏する姿勢まで、わざとらしさがなく、この人なりの自然と必然が確固としてあって、その物怖じしない様子まで含めて新しい時代の到来を感じさせる。
ただ、ショパン演奏者として適正かどうかは、やや疑問の余地はあるようで、だからこそ今回ショパンに取り組んでいることが、一つの挑戦のようにも思える。

[角野隼人]音大などを経ず、主にYouTubeで有名になった異才の持ち主で、独特のセンスがあり、編曲や即興など幅広い才能をお持ちの、今まさに時代の寵児たらんとする人。
通常の音楽教育路線を歩んできた人とは一味違う才気とおもしろさがあって、ともかくその人気は絶大だとか。
そんな絶大な人気者に対して苦言を呈するのは躊躇されるが、あえて批判を覚悟でいうなら、指もよく動くしテクニックも相当のものがあることに異論はないものの、あらためて同じ舞台で他の人と聴き比べてみると、やはり音楽一筋でやってきた人とは違うところ…こういう言い方をしていいかどうかわからないが「猛烈に上手いアマチュア」という感じがどこか漂い、プロの演奏としてはもうひとつしっくりこないものが常についてまわって、個人的にはそこが気になる。
たとえばスケルツォの1番とかエチュードop.25-11などで見られる、速いパッセージでの分離の良い爽快な指さばきなどは一聴に値するものではあるけれど、聴いていて立体的なメリハリや曲進行の見通しのようなものがもうひとつで、また、タッチや音色のコントロールなどもやや平坦な感じ。
マロニエ君は、ピアニストになる人が幼少の頃からピアノ一筋で人間的にも偏った育ち方をして、音大に行って、留学して、…というお定まりのコースを歩むべきなどとは微塵も思わないし、だいいちそういうステレオタイプはむしろ嫌いなんですが、現実にそういう人達と比べてみると、これ一筋にやってきた人達の持つ鍛え込み(好きな言葉ではないけれど)がやや足りないと感じたりする。

[牛田智大]小さい頃から注目され、たしか浜松コンクールでも好成績を収めた人。
とても上手いのだろうし、どれもそつなくまとめてはみせるけれど、なにか意識し過ぎなのか、やや表面的。
曲の深いところに迫るものが薄く、音もドライで、聴いていてなんだか妙な苦しさが伴います。
この人の信じているもの、感じているものが何なのかがもうひとつよく伝わらず、ピアニストとして大成するためのエネルギーばかりを感じてしまうのは…私だけでしょうか?
もちろん、それを言えば他の人も概ね同様ではあるだろうけれど、この方にはとりわけそれをダイレクトに感じるし、それが演奏の魅力を翳らせてくるようで、惜しいような気がするのは見方が意地悪だったらごめんなさい。
むかしから、日本には日本だけで活躍する国内専用ピアニストみたいな人がいるけれど、彼もそのタイプかも。
お顔もカワイイし、キュッとした笑顔も決して忘れないようですし。
 
[小林愛実]小さい頃から注目された人といえば牛田さん以上のお方と思うけれど、潜在力がひとまわり違っていたような印象。
これまで長らくは、上手いんだろうけれどいかにも日本人的な技術偏重タイプの演奏や、上半身を曲げたり反らせたりの大仰な動きなどが苦手だったけれど、今回のショパンコンクールではまったく別人のように抑制的で、端正ですらあり、こんな変貌もあるんだなぁと唸ってしまったが、逆にムリしすぎていないかと心配になったり。
それでも、そのへんが変わってくると演奏にも連動してくるのか、よけいな力技の誇示が影を潜め、あるべきものがあるべきところにあるといった心地よいものになり、一度あったものをここまで作り変えるのは、ご本人も指導者も相当な努力だっただろうと思われる。
ただ、残念なのはタッチや音色のことではなく、全体の音量がいかにも軽量で、それがこういう大コンクールではどうなんだろうと思ってしまいます。
1次か2次かわからないけれど、スケルツォの4番などは素晴らしい演奏だったけれど、幻想ポロネーズは慎重なばかりでこの曲に求められる荘重さがなかったし、アンダンテスピアナートと…でも、どこかピントが合っていなかったような印象をもちました。

[ヤコブ・コシュリク]ひとりだけ外国人を入れると、下馬評での優勝候補と目される人だとか…へぇぇ。
なるほど上手いし、完全武装のような演奏は高評化に繋がるだろうし、ましてポーランド人ともなれば優勝筆頭候補なんだろうけれど、個人的には好きなタイプのピアニストではない。
昔の例を出すなら、ギャリック・オールソンがそうであったように、あまりに大柄なピアニストというのはどこか共通するものがあって、すべてを手の内に収め込んで内向きに処理してしまうようなところがあって、精神的身体的にギリギリのところに寄せていくような体当たり的なスリルがなかったり。
自分の好みでいうと、とりわけショパンでは痩身のピアニストが全神経と趣味の良さで内的ななにかを告白するようなものが好きだから、こういうピアノが小さく見えるような人によるショパンというのは、個人的な好みとしてときめきません。
いずれにしろ安定した大物だなぁと思っていたら、2ndステージの演奏ではかなり不調で精彩を欠き、おや?これはわからないな…という気もしてきたり。

コンクールの方は後半に入り、いよいよ精鋭たちばかりの戦いになってくるようですね。
名前はわかりませんが、中国系カナダ人みたいな人も悪くなかった印象でしたが、3次には入っているんだろうか…。
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動画配信を見て…

ショパンコンクールの続きが始まり、会場もいつものワルシャワ・フィルハーモニーになると、いよいよ始まったんだな!という感じがしますね。

演奏の様子はネット配信されるので、このところち夜中にチラチラと見たりはしていますが、あくまでほんの一部。
これをまともに見ていたら長い時間を取るし集中力も続かないので、これを欠かさず見ているという方がいらっしゃるというのを聞くと尊敬してしまいます。
マロニエ君には、とてもそこまでの頑張りはなく、この人はあまり…などとと思ったら、それを辛抱強く最後まで聴き通すなんてことは性格的にできません。そりゃ、会場にいて、目の前で生演奏なら仕方ないですが、自宅のパソコンの前では到底ムリ。

それを思えば、審査員に求められるのは、公正な判断力や将来の見極めの能力はもちろんですが、まず「忍耐力」なんだなと思います。
いかにショパンの作品が香り立つような傑作揃いだとしても、もうすでに隅の隅まで聴き尽くした曲を、弾く人が変わるたびに何度も何度も繰り返し聴くなんてことは、マロニエ君にはおよそ考えられません。

さて、コンテスタントの演奏についてですが、これはもちろん皆さん立派なものであるし、なによりあの大舞台で、しかも今後の人生を大いに左右する運命と緊張の中でしっかり弾き切るだけの、その技術とメンタルの逞しさに、まず素朴に感服するのが偽らざるところです。
演奏から感じるのは、加点が得られる/得られない演奏とはどういうものかが徹底して研究され、考え抜かれ、おそらくは教師などのチーム単位で練習に励んだ末にこのステージを迎えていると思うと、これはまさにピアノのオリンピック。

いや、オリンピック以上にやっかいなのは、技術の巧拙が数値で出るものではなく、各審査員の主観や心証や好みに拠るところが少なくなく、さらにはアスリートと違って演奏家としての活躍年数は何倍も長く、その長い年月を、このコンクール結果を背負っていくことになると思うと、それは想像を絶する世界だろうと思います。

演奏は芸術であり競技でもあるという不可思議なもので、減点リスクを避けようとするとどうしても無個性化に収斂され、個人差が小さく詰まってきているのも近年の特徴だろうと思います。
個性は極力排除され、見事なまでに磨きぬかれた現代的コンクール用の演奏マナーが中心となり、面白みという点では薄い気がします。
せいぜい、その中で、相対的にちょっと上手い人、ちょっとダメかなと思える人がいるくらいで、まさに伯仲した勝負というのがつまらないといえばつまらない、逆にすごいといえばすごいとも言えるもの。
(ただし、個人的にはそういうオリンピック選手みたいに科学的・分析的に鍛え上げられ、戦いを勝ち抜いてきた強靭な戦士のようなピアニストの演奏に、本物の喜びや慰めが得られるかというと甚だ疑問であるし、そもそもそんな演奏がショパンの精神に適っているかといえばさらに疑問は募りますが、これはもうひとつのお祭りイベントだから、いまさらそんなことを考えても始まりません)

冒頭にも記したようにマロニエ君のような怠け者は、配信動画を全部見るなんてもちろん無理ですが、それでもつまみ食い的に見ていて感じるのは、各人の醸し出すオーラの有無など、ステージにあらわれた瞬間からあれこれ感じてしまうのも正直なところです。
ブラインドテストではないから、やはりコンサートピアニストとして耐えうるなんらかの要素も評価の対象になるだろうと思います。

個別の評価は、なにしろあまり見ていないので、する資格もありませんが、二回目の出場である小林愛実さんがずいぶんな変貌を遂げていることには驚きました。演奏する姿も過剰な動きや表情などがなくなってある種の品位さえ備わっていたし、演奏も繊細さとメリハリが見事に配分されたもので、完成度の高いプロの演奏だと思いました。

反田さんも注目株なので見てみましたが、彼はワルシャワの舞台でも目立ちますね。
恵まれた手のサイズや無駄のない動きなどにも余裕を感じるし、いい意味でのあのふてぶてしいまでの存在感やちょっとワルっぽい感じなど、かつての日本人出場者にはなかったものがあるようです。
演奏は、他に抜きん出ていると感じる時と、ちょっとノリが悪いなと感じる時の両方がありました。
あれだけ上手ければ優勝もあり得ると以前も書きましたが、強いていうと、彼の生来持っている感覚とショパンの作品が求めるそれは、微妙に食い違っているように感じるときもあるので、そのあたりがこの先どうなっていくのかとは思います。
アンダンテスピアナートと華麗なポロネーズの後半などは、終わりに向かって曲が佳境に入っていくのに高揚感と推進力がもうひとつ希薄で、あまりにもひとつひとつを確実にキメようとする感じが出すぎて、そのたびに疾走感が途切れたり、一気に行ってほしいところで一呼吸入れて冷静さを呼び戻すあたり、個人的にはすこし残念だったような気がします。

それでも最有力候補の一人という思いは変わりませんが。
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大井和郎

自室のオーディオ周辺にあるCDもいいかげん聴き飽きてきたので、ちょっと違ったものが聴いてみたくなり、CDの棚を見ていたところ、もう何年も手にしなかった大井和郎さんのリストのCDが目に止まりました。

これを買った当時は、さほど惹きつけられるというほどではなかったので、数回聴いただけであとはどこか行方不明みたいな感じだったのですが、数年ぶりに聴いてみると、知らず知らずのうちに自分を取り巻く音楽環境も変わってきているせいか、ここに聴かれる実直な演奏には、妙な安心感と懐かしさみたいなものがあり、それが却って新鮮さを伴って聴こえてきて心地よくなり、それからの数日はこればかり聴きました。

マロニエ君は何度か書いたことがあるかもしれませんが、リストの偉大さというのは自分なりにわかっているつもりで、やはりわかっていないのか、要は趣味が合わないというか、あるところまで行くとどうしてもそれ以上は気持ちが進めません。
膨大な作品の中にはきわめて芸術性の高い曲も存在し、それには他には代えがたい価値と魅力があと思うけれど、同時にマロニエ君がもっとも苦手とする類の有名曲が多くあったり、あるいはやたら技巧的なサーカスのような曲が際限もなくあったりと、自分にとって好ましい曲だけをピックアップする作業も面倒なので、どうしてもリストは疎遠になってしまいます。

久々に聴いた大井さんのアルバムは「リスト 巡礼の年 子守唄」と題するもので、まずホッとすることはマロニエ君が聴きたくないと思っている作品が一つたりとも入っていないことで、さらには大井さんの演奏はいささかも奇をてらわないストレートなもので、どの曲にも正面からまっすぐに向き合っておられる点が、以前よりもことさら嬉しく感じられます。

いろんな手段やアプローチによって何かを狙うようなことはなく、きちんとした美しい文字を見るように曲をストレスなく聴けるというのは、なんと心地よいものかと思います。
厚みも重みもあるし、自然に曲が語りかけてくるような表情もしっかりあって、聴き応えも充実感もじゅうぶん。
あまり意識したことはなかったけれど、マロニエ君は大井さんのCDはほかにも数枚持っていて、とくに好きなピアニスト!として意識したことはなかったけれど、いくつかのリストのほかはハチャトリアンのピアノ曲集があったりと、選曲も独特なので、結局は数枚は買っていたようです。

大井さんに限らず、一見地味でスター然としたピアニストではないかもしれないけれど、こういう信頼感のあるピアニストが、その演奏によって支持され、実力に見合った活躍のできる音楽環境がもっと自然にあればどんなにいいだろうと思います。
コロナとは関係なく、真っ当なピアニストが、真っ当な活躍をできる環境は、ますます失われているようで、マロニエ君の思い違いなら嬉しい思い違いですが…。

大井さんのCDに話を戻すと、この方はマロニエ君の知る限りでは、ベーゼンドルファーを好まれるピアニストで、おそらく私が持っているその他のCDもいずれもそうだったように思います。
たまに聞くと、これはこれで気分も変わっていいなぁと思いました。

今のピアノは良くも悪くもあまりに洗練されきれいすぎて、目指す方向や個性も似たり寄ったりで各社の個性の違いの幅は狭まり、それがひいては芸術表現の幅までもを失っているんじゃないか?という気がします。
もっと率直言うなら、高級電子ピアノのように一糸乱れぬ整った音の出るアコースティック・ピアノというか、本物が電子音に寄って行っているような逆の感じさえあって、だから差し当たりの音は均質できれいだけと、ただそれだけで、演奏によってなにか奥深いものが取り出してこられるような余地がありません。
ピアノに限りませんが、あまりに洗練され過ぎると必要な養分まで失ってしまい、喜びとか感銘といったようなものまでなくなったように思います。
ベーゼンドルファーもヤマハが親会社になって以降は次々に新型が出て、それらはどうなのかわかりませんが、それ以前のモデルにはこのピアノならではの個性というか明確な特徴があったことも再確認できました。

スタインウェイはじめ、今どきのコンサートピアノが淀みないビビッドな音を遠くに飛ばすことに主眼をおいているとしたら、ベーゼンドルファーはボトボトと大粒の水滴が落ちてくるようなところがあり、これはこれでいかにもピアノらしい素朴さがあって、心地よく楽しむことができました。

ベーゼンドルファーというと、やれウィンナートーンだとか、木の音だとか、貴婦人のよう、人の声に近いなどと言われます。
それもそうだろうと思いますが、加えてマロニエ君の印象としては、コンサートピアノに関しては独特の危うさのある美音で、一歩間違ったら毒々しさにもなり兼ねない、その危険地帯で見事にとどまってみせる特徴的な音だと思います。
そのギリギリまで寄せながら留める術を知っているのが、さすがはウィーンの凄さだと思うし、それによってベーゼンドルファーらしい、ただきれいというのとは異質の、ある種の不健康なものの混ざった魅惑の音が成立しているのかもしれない…と思います。
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嫌いで好き

マロニエ君は、あらためて言うまでもなくピアノが好きで、楽器自体も、一流ピアニストの演奏を聴くことも、作品そのものに関心をもって自ら弾くことも、どれもがすべて好きなのに、悲しいかな子供の頃から筋金入りの練習嫌いで、三つ子の魂百までの言葉の通り、それは今でもまったく変わりません。

弾くことが好きといっても、ピアノの場合、弾く=練習であるのは不可分のこと。
世の中には天才的な人とか、フランスの音楽教育などでは特に初見能力がずば抜けているようで、楽譜を見るなりサラサラ弾けて、そんな場所からはじめられる人だったら、さぞ練習も楽しいだろうなあと羨むばかりですが、そんな譜読みの才能もないマロニエ君などは、地道にひとつひとつの音符を必至に追いかけながら、スローな練習をトボトボと重ねる他ありません。

それでも性懲りもなく挑戦して、まあそれなりに曲がましくなったときの喜びはたとえようもありません。
ただ、最近は暗譜能力が退化したことは非常に情けないことで、当然そのぶんの練習効率も下がります。

若い頃はある程度やっていれば、さして苦労もなく暗譜もいちおうはできていましたが、50も過ぎるとすっかりその力まで減退し、むかしなら指が曲の動きを覚えていくと共に暗譜もできていたものが、最近ではよほど繰り返したものでさえ、記憶に自信のない箇所が必ずどこかに出現して、いつまでも楽譜を閉じられないのは情けない限りで、それでうんざりしてピアノの前を離れることも。

また、本当は基礎練習は欠かせないことなので、ハノンのような指練習とか、全音階4オクターブ両手のスケールを弾くとかしなくてはいけないのでしょうけれど、そんなのはまっぴらごめんで、すべてすっ飛ばしですから、上達しないのも当然といえば当然。
それと、ハノンなどの練習をしないのは、それが嫌いなだけでなく、ピアノの(特にハンマー)を大事にしようと思ったら、同じ音域の白鍵だけを繰り返し消耗させることになり、それで楽器としてのバランスを崩していくのも併せて気になるのです。
車好きが、キツイ段差などを極力避けながら走ることで、サスペンションのブッシュなどのダメージを避けるのと同じ発想ですね。

ピアノの練習で不可欠なのは、合理的かつ自分にとって最適なフィンガリングは最も重要なことのひとつで、信頼できる楽譜を基調にしながら、その上で自分に適した指使いを考えていかなくてはいけませんが、これがまた面倒くさい。
また、弾きやすさだけを探し出せばいいかというと必ずしもそうではなく、やはり音楽である以上、その場所場所においてどういう指使いで弾くことが、その曲に最適なアーティキュレーションあるいはニュアンスやイントネーションを可能にするかということも関係するから、それが即座に整理できないマロニエ君はどうしても試行錯誤となり、自分の心もとない指の都合とできるだけ音楽的な意味を損なわないような最良の妥協点を探す必要があり、稀に楽しいこともあるけれど、大抵は疲れてきて「…今日はもうやめた」となります。
それと、一番いやなのが部分練習であり、片手練習で、これを怠るとゆるぎなく弾けません。

こういうイヤだイヤだの局面をいくつも乗り越えたその向こう側にしか、少しなりとも弾けるようになったときの喜びの地平は広がらないので、(お上手方はそんなご苦労はないのかもしれませんが)ピアノを弾いて楽しむというのは、なんという手間暇と忍耐に対して、やっと得られるわずかなご褒美であることかと思います。

で、ただ一人、任意で、これを日々積み重ねるというのも、なかなかモチベーションが続くものではないから、多くの人はレッスンに通ったり、発表会などを目標に設定したり、あるいは弾き合いのサークルのたぐいに属したりするのでしょうが、マロニエ君というのは幾重にも困ったヤツで、そういうものがどうしても好みではないし、まして人前演奏なんてこれっぽっちもする気がないので、単純にいつまでに仕上げるとお尻を切られることもなく、上記のような慢性型練習嫌いと相まって打つ手なしなのです。

そんなふざけたやり方でも、マロニエ君がピアノを「弾く」ということを細々でも続けている、あるいはそのために上記のような七面倒臭い練習をろうそくの火のようにでも継続しているのは、やはり音楽とピアノがどうしようもなく好きという本能があるからに他なりません。

さらには、滅多にありませんが、ごく稀に自分なりに上手く(技術的というよりは音楽的に自分が求めているように)弾けてしまう時があって、そんな時にはひとり感動して陶然となり、思わず目頭が熱くなることがあるのですが、そういう時はしばらくは曲の世界から現実に戻ることもできにくくなるほど一種のアホ状態になることがあります。
こういう、めったに訪れない偶然がごく稀にあるものだから、その魔力にやられてやめられないのだろうと思います。

何ら生産的なことでもないし、一切人様のお役に立つことでもなく、100%とムダといえば返す言葉もない。
まして進歩しているか退化しているかもわからないけれど、それでも自己満足で続けているということでしょうか。
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