続・オトコの性分

オトコの性分というからには、やはりピアノの技術者さんにもちょっと触れてみたくなり、ほんの一部だけ。

この世界は、技術=男性という昔のイメージを引きずっているためか、まだまだ圧倒的に男性が多く、女性はかなり少ないと感じます。

そんな男性ばかりの中、めったにおられない女性の技術者さんに接する機会がありましたが、やはり前回の医師の例と同様、ここでもはっきりと男女のちがいを感じることに。
ただの雑談なら女性全般はおしゃべりが上手で自然だけれど、仕事や専門分野となると一転して、男性よりよほど口数が抑えられて静かに集中してお仕事をされる印象です。
男性は説明すること自体が好きなのか、専門的なことほど饒舌で嬉々となるけれど、女性は専門的なことは必要なこと以外、なにもかも言葉にする必要はないと感じておられるよう見受けられます。

男性は自分の知識を語ることや、専門家として頼られたりが好きで、一度困難であることを充分伝えた上で自分だから解決できたなど、相手の不安を煽っておいて安心させたりと、とかく自己アピールには余念がありません。
それを含めての雑談のようですが、女性は雑談はあくまで雑談で、仕事とはきっぱり区別されているような潔さがある。
男性は雑談/仕事の境界があやふやで、おまけに自意識みたいなものが常時うごめいており、なにかと自己宣伝に結びつけるのが習慣となっている人が珍しくないと思います。

中には本業の技術より、トーク術のほうがよほど得意な方もおられ、ピアノの技術というのは一般的にすぐわかりにくい面もあるためか、徹底して人当たりのいい誠実一途な演技を貫き、その巧みで耳触りのいいトーク術によって成り立っていることもあったり。
それでもお客さんを良い気持ちにさせて仕事には困らないという、違った意味のテクニシャンもおられ、男のジマンもここまで行けばひとつの才能かもしれません。

そんなことを言いつつも、お陰でどれほど多くの勉強をさせてもらったかわからないのも事実で、感謝もしているのですが、ここで言っているのは感謝とはまた別次元の話ですのでそこは悪しからず。


…と書きながらふと思い出しましたが、技術者さんの専門的な話は、興味ある者にとってはおもしろいことが多いのも事実ですが、それでもマロニエ君が言われてあまり気持ちの良くないワードがあったりします。
それも男性特有のもので、いちいち「名前は言えませんが」「メーカーは言えませんが」「場所は言えませんが」という、言えませんがずくしでお話されるタイプ。
おっとりした方はあまりそれは仰いませんが、こういう前置きが好きな人はだいたい自己愛の強い宣伝大好きさんです。

それも自然なことなら受け入れられるのですが、大半は「え、なんで?」「べつに言ってもいいのでは?!」と思うようなことでも、この「…は言えませんが」がほとんど呼吸のようにクセになってしまっている。

マロニエ君は別になにがなんでもそこを聞きたいというのではなく、こういう話の切り出し方に違和感を覚えるということで、むやみにもったいぶって楽しんでいるようにしか聞こえません。
本当に言えないことなら、そこをうまく迂回して話をする方法はいくらでもあるはずです。

例えば普通に「ある先生のお宅に伺った時に」ですむことを、「これは…ちょっっとお名前は言えませんが、実は先日も、かなり有名な先生なんですが…」とえらく大げさにいうのは、言葉のチョイスのセンスがないばかりか、言えないという言葉を口にする時が、心なしか嬉しそうでささやかな快感が潜んでいるようです。

自分の話は、現場人しか知り得ないとっておきのウラ話で、それを特別に教えてあげましょうという得意の現れで、それを含めて気分がいいんだろうなと感じるわけです。
さらに、自分は知っていることを、目の前の相手は知ることができないという「差」が生まれ、その権限は自分の手中にあり、それを行使できるところに子供の駄菓子ほどの優越感があり、それが見えてしまっていることを、ご当人はまったくお気付きじゃないご様子。

マロニエ君に言わせれば、名詞だけ伏せても具体的な事象をべらべら喋っている段階で、秘守義務はすでに一部破られていると思うのですが。

それと男はビビリさんで保身が身についているから、万が一、自分がその情報漏洩の発信源になることをなによりも恐れ、予防線を張っておくというのも気持ちとしてはわかりますが、それは裏を返せば、こちらが思慮なく安易にバラす可能性があるという危険を前提としており、自分は目の前の人から信用されていないという事実を鼻先につきつけられているようで、これも対人マナーの上では非礼の一種であると思うのです。

言えないことは、言い換えなどの処理を声に出す前に頭の中ですべきで、相手を前に書類を黒く塗りつぶすような発言は良策とは思えませんが、この手のオトコは言えないと言うのが快感だから打つ手なしです。
「そんなに言えないような話なら、はじめから聞かなくて結構です!」と言ってやりたいところですが、実際にはそう切り口上で返すわけにもいかないので、まだそう言ったことはありませんが。

こういう話し方は、分別ある大人のつもりでしょうが、むしろ子供っぽくしか映りません。
えてして、男の用心深さにはそういう幼稚で肝心なものが抜け落ちているところが往々にしてあり、思慮深いつもりがまるで逆になっている場面は少なくありません。
それもこれも、ジマンしたいという邪念のなせる技でしょう。

女性の口からこの「言えませんが」を聞いた覚えはほとんどないのはナゼか?を考えることはおもしろそうです。

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※何気なく読み返したら、ややキツい感じの文章になっていたようで、そんなつもりはなかったのですが、感じていることをできるだけ文章にして説明しているうちに、ついそうなってしまったようです。
とはいえいまさら書き直すのも大変なので「他意はない」ことをお伝えしてそのままにさせていただきます。
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オトコの性分

このところ、あまりにもショパン・コンクール絡みの話が続いたので、気分転換に別の話題を書いてみることに。

マロニエ君も性別上いちおうは男の端くれで、自分のことは横において言うのもナンですが、男というのはおおよそ見渡してみると、かなりしょうもない部分を抱え持っているもんだなぁ…と思うことが少なくありません。

近年は性別でものを言ってはいけない社会になっているから、こんなことをネタにするのはどうかな?とも思いましたが、巷間叫ばれているような差別や権利の内容ではないし、つい最近もそういうことを考えてしまうことがあったので、あえて書いてみることに。

もちろん、ここで言いたいことは全般的な話であって「個人差」があることはもとより承知していますが、あくまで全体としての傾向ということで捉えています。

まず多くの男は、なんらかのかたちでジマンが好きで自己顕示欲があり、(質や規模は別にして)支配や権力が好き、体裁屋でカッコつける、優秀だと思われたい、そのくせ気が小さく心配性、臆病で保身に汲々とし、体面を重んじ、おまけに相当に嫉妬深いということ。
それらを悟られまいと、知性や正論めいたもので必死にカモフラージュする。
その一方純情でロマンティックで、幼稚で、ときにカワイイ部分もあるともいえますが、オタクの要素もあり、どちらにしろ大半の男性はこんな要素のいくつかには必ず当てはまると思います。

象徴的な違いとして何度か感じたことのあるのが、たとえば医師。
繰り返しますが個人差は無視すると、男性医師のほうがむやみに主導権を握りたがり、相手との上下関係にこだわり、自説を押し付け、支配的で、決めつけや驕りがある。
それに対して、女性医師はそういう事柄が男ほど大事ではないのか全般に真面目で、どちらかというと医学に対して謙虚で、治療のために何をすべきかを無駄なく考え、やたら相手の不安や服従心を煽ることが少ないのは助かります。
これは身内の入院などに際しても、何度も感じたことです。

もちろん例外もあって、ずいぶん昔、紹介されて行ったある病院での初診時、予約しているにもかかわらずやたら待たされたあげく、相対した女性医師のあまりの思い上がった態度に驚愕、直ちに診察拒絶して部屋を飛び出し、1Fの受付でさんざん抗議をして帰った記憶があり、そういう事も稀にはあるけれど、全体としては少ないのではと思います。

何事においても、いちいち説明的で知識や経験をひけらかしたいのは圧倒的に男のほう。
説明している自分が上位で、相手が下という、いまさらのように子供っぽい構図にことさら満足を覚えたりするのも、男によく見られる悪い癖で、端的に言えばエラそうにしたい、今風にいうとマウントを取りたがることが体質化習慣化しているらしい。

会社などでも上司やベテランたちが若い人を相手に、景気の良かった昔の話を武勇伝のごとくにしゃべりまくり、あまりに気分がイイもんだから、何度も同じ話を繰り返していることにさえ気づかず、聞かされる側はゲンナリするパターンなどはよくあるみたいですね。
とくに大したことない男ほど、大風呂敷を広げ威張りちらすのはやめられないみたいです。

コロナになる前は、飲食店などでカップルと隣り合うテーブルになったりすることがあり、真横なのでイヤでもその声が耳に入ってくるのですが、「こりゃ、フラれるのも時間の問題だろう」と思うほど自慢トークのオンパレードで、昔話、交友関係、仕事に至るまで、いかに自分が優秀有能で人望が篤く、仕事でもえらく重い役割を担っている、自分は嫌でもいつもそうなってしまうアハハ…みたいなことを一方的にしゃべり続けていたりする場面に何度か遭遇したことがあります。
女性は表面的には楽しげにへえとかなんとか、お追従笑いと相槌で応じていますが、あんなくだらない話を聞かされるほどの苦痛はないだろうし、その点では大半の女性はアホなオトコの想像を遥かに越えて醒めていますから、後日の女子会のネタ収集にされているのが関の山。
しかもそのオトコ、声のトーンからして、どうやら周囲にも意識して聞かせているようなフシもあり、こんなときほど男の愚かさを如実に感じることはありません。

こういうシチュエーションでは、聞こえてくる話の圧力と不快感と滑稽さのごちゃ混ぜなもので固まってしまい、こちら側はいちいち目を白黒させるばかりで、とてもじゃないけれど連れと話をする気分にもなりません。
面白いものを聞かせてもらっているようでもあり、迷惑な不可抗力に行き当たったようでもあり、なんとも表現しがたいものがありますが、いくら面白いと入ってもやはりストレスであることには間違いない。

今どきなら「スカッとジャパン」にでも投稿したいところですが、悲しいかなスカッとするオチがないんですよね。
子供っぽいまではいいとしても、ジマンは本人が狙っているような効果が上がるどころか、むしろ逆作用になるということを知って心に刻むべきですね。
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TVを見て

ショパンコンクールと反田恭平さんについては、もう充分に書いたので終わりにしたつもりでしたが、 そんなタイミングでNHK-BSプレミアムで『反田恭平 ショパンコンクールを語る』という番組があったので、ならばもちろん見ないわけにはいかないし、見れば見たでしつこいようですがその感想など。

これまで反田さんについて書いてきたことで訂正したいことは自分としては特にないので、そのあたりは極力重複しないようにしながら、今回の番組を見て感じたことを中心に書いてみたいと思います。

1時間45分という長時間ものでしたが、第一次予選で80人からスタートする国際コンクールであるにも関わらず、徹頭徹尾反田さんひとりに特化した内容で、テレビ番組というものは作り方次第でどうにでもなるものではあるとしても、競い合った他者すべてを遮断して、それによって何かに触れなかったという印象があり、これは正直いって不自然だと思いました。

視聴者としては、反田さんという気鋭の人物がどのような環境で、どんなコンテスタントたちと競って第2位という結果を獲得したのか、それをも凌ぐ優勝者とはどんなピアニストなのか、他のピアニストはどういう演奏をしたのか、さらにはすぐ下に小林愛実さんという4位の日本人がいたことも一言も語られないというもので、なにか作為的な方針の作りだったように感じました。
そこには、そうせざるを得ない理由があったのだろうと却って勘ぐってしまいますが、その点もこれまでに述べてきたことなので、ここではもういいでしょう。
ただ、真実に迫らずにきれいなことだけを並べるという世の風潮は、ますます強まっているように思います。

反田さんは喜びの部分だけをほがらかに語っていたけれど、内心では憤懣やるかたない悔しさもあったのではないかと思いますが、これはあくまでマロニエ君の想像なので、本当のところはわかりませんが。
しかし、もし仮にそうだとすると、それを受け容れて明るく前を向いている彼は、とても立派だったと思います。

さて、反田さんの魅力は、いまさらいうまでもなく突出して上手いことではあるけれど、決してそれだけではないことは多くの人が感じていることでしょう。
一般に日本人でプロを目指してピアノをやってきた人というのは、概ね共通した独特の雰囲気があり、とくに男性に限っていうと、だいたいひ弱で、気取ったイメージで、プライドが高くておまけにクラい…といったら叱られそうですね。
中には、ことさら専門的なことを言ってみせたり、あるいは妙な「天然」ぶりを強調した振る舞いをしたり、要は自分がいかにこれ一筋に打ち込んで、留学して、ああしてこうしてという、普通の人とは違うんだという、特別感を出すことがひとつのスタイル。
それでも、それに見合うだけの演奏をなさるならともかく、大半はひとことでいってイヤミなアピールにほかならず、見ているこっちが疲れてくることも少なくありません。

その点、反田さんは普通の健康男子で、いい意味での野趣がありざっくばらん、ごく普通の口調で、普通に話が出来る雰囲気を持っておられるところがこの世界では新鮮で、この点もウケている理由でしょう。
必要以上に威張ることも、行き過ぎた自己アピールをすることもなく、至って常識的なのだけれど、これがピアノ弾きという種族には意外に難しい。

コンクール対策にも自ら語り、それは相当なものだったようで、ワルシャワには4年住み、曲目の選定にあたっては過去2回の出場者と、成績と、そこで何を弾かれたのかということを徹底的に調べ上げたのだそうで、それは実に800曲にも及んだのだとか。
プログラム構成も評価の対象とは思うけれど、こういうところから曲を選択するというやり方は、いささか馴染めないものでした。
これは今どき国際コンクールを受けるにあたって、一定の結果を残すためには正しいことなのかもしれないけれど、個人的にはこの発言には危惧を感じました。
なぜなら、そのやり方はこの先の日本のピアノ教育界には多大な影響を及ぼすだろうと思われるし、すべては対策こそが最優先され、それが正義として標準化されていくのかと思うと、複雑な気分にならざるを得ません。

ショパンコンクールが尋常一様なコンクールでないことは先刻承知ですが、出場対策もそこまで先鋭化しなくてはならないというのが、もうこの段階から気持ち的についていけないし、マロニエ君はやはりそれよりは、多少の考慮はあるとしても与えられた条件の中から自分が好きな曲、弾きたい曲、得意な曲を選び出し、それに全力を尽くす…そういうものであって欲しい。
もちろん、コンクールだから結果を出さなきゃ始まらないといえば、それはたしかにそうなんですが…。
これは現場を知らない、シロウトの単なる甘っちょろい理想論かもしれないけれど、ただ、ひとつだけ圧倒的に自信をもって言えることは、だれよりショパン自身がこういうことは最も嫌いだろう、ショパンの精神に反するものだろう…という気がしてなりません。

動画配信で何度も見た反田さんの演奏をあらためて番組内で聴いてみて、やはりそこにはしたたかな準備を重ねてきた者だけが到達する、最高度の技が披露される特別な様子を感じることは出来たけけれど、それはショパンの世界に身を委ねて酔いしれるものではなく、あくまでも世界最高権威のピアノコンクールでのパフォーマンスであり、ご本人も「ピアノのオリンピックでありワールドカップ」と仰っていましたが、まさにそのフィールドで展開された競技のひとコマであると思いました。

ちなみに、例えばですが1980年の映像を見ると、このとき優勝するダン・タイ・ソンの演奏は、音も朗々と鳴り響き、作品が有する自然な山坂やドラマを聴く者は一緒に辿ることができる、音楽上の熱いハートがありますが、そういうものは21世紀以降は完全に消滅したように感じます。

ところで、以前から反田さんは誰かに似ていらっしゃるような気がするのに、それがだれだか一向に思い出せずに悶々としてきましたが、この番組をテレビで見ながら、フッとわかったのは聖徳太子でした。
古いお札で親しんだあの飛鳥時代の人物がピアノを弾いているみたいで、だから反田さんにはどこか日本人の意識の奥底にある懐かしさみたいなものが呼び覚まされてくるのかもしれません。


これでアップしようと思っていたら、翌日夜22時から、今度はNHKのクローズアップ現代で再びショパンコンクールをやるというので、さっそく録画して見てみると、こちらは帰国した小林愛実さんをスタジオに招いて、彼女と反田さんは幼なじみでもあるという二人の挑戦を軸に、小林さんに比較的スポットを当て、反田さんは折りに触れ出てくるといった内容でした。
前日が反田さんオンリーの内容だったので、これで少しはバランスを取ったというところでしょうか。
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受賞者リサイタル

ワルシャワではショパン・コンクールの最後の締めくくりとして、受賞者によるリサイタルというのが行われたようで、反田恭平さんの演奏動画を見たので、いまさらですが少し。

なんども繰り返して恐縮ですが、やはり個人的にさほど好みのタイプの演奏家ではないけれど、そんな個人的な問題はさておいて、日本人離れした大器ぶりを遺憾なく見せつけられるのは確かです。

最も印象に残るのは、それを支える抜群のテクニックと専門家ウケしそうなキメキメの仕上がり。
めっぽう指が回るというだけの人ならいるけれど、反田さんにはそこに日本人サイズを超えるスケールの大きさがあり、国際舞台に於いてもある種の風格さえ感じることのできる日本人ピアニストが出現したという点で、これは素直に注目に値するものがあると思います。
スポーツでも、オペラやバレエでも、すべて日本人は日本人固有の肉体的およびメンタルによって規定されてしまうようなハンディがあり、スタート地点から劣勢を感じざるを得ないような場面を、私たちはこれまでどれだけ見てきたことか。

それを感じなくて済むというだけでも気分がいいのが、大谷翔平選手でありピアノでは反田恭平という人の登場だろうと思います。
外国人に混じって戦う場で、なんらハラハラしないですむ日本人というのは、そうはいません。

恵まれた大きくふっくらとした観音様のような手、その無駄のない動きは美しく、ピアノという大きな楽器に振り回されず、楽に弾いているあたりも頼もしささえ感じるもの。

特に今回は、ホールの隅々まで力強くかつ柔らかく鳴り響かせるために20キロもの筋肉と贅肉をバランスよくつけた由で、まるでアスリートの体づくりさながらですが、考えてみればピアニストもアスリートの一面を併せ持っているわけで、驚きつつも納得でした。
果たして、その効果は絶大というべきで、コンクール本選の時よりも、この受賞者リサイタルでのほうが(録音の関係か、もしくは精神的な余裕か?)その音の充実した鳴りっぷりをはっきりと感じることができ、ひとりのピアニストの姿として際立って頼もしく感動的でさえありました。

会場がワルシャワ・フィルハーモニーではないため、ピアノも例の478ではなく、それよりほんの少し古いスタインウェイでしたが、専門家に言わせると色いろあるかもしれませんが、マロニエ君の耳には遥かに音楽性の豊かな深いものをもったピアノで、ピアニストの演奏をより芸術的なコクのあるものに表現していたように思います。
コンクールで使われたピアノは、とにかく音がクリアではあったものの芸術的とはあまり感じなかったのに対し、こちらのスタインウェイはクリアという面では少し譲るかもしれないけれど、大人っぽく懐の深いものがあり、演奏を聴くには好ましい楽器だったように思います。


かように反田さんは稀有な逸材には間違いないけれど、やはり気になる点もあって、その演奏は聴いていてなぜかしら気分的にピタッとこないことが多いのも個人的にはあって、演奏が見事なだけ、それがよけいにひっかかります。
いつもメガネレンズの内側にまで汗がポタポタ落ちるほどの熱演なんだけれど、こちらの耳に届いてくる演奏は情熱的というより説明的な立派さで、曲のディテールの処理や追い込み方にも、聴く者の心を掴んで離さないよう応えてくれとはいえないもどかしさがあり、自分の演奏能力の秀逸さを磨き抜いて披露することの方に興味があるのかな?という感じを受けることがしばしば。
そのまま一気に疾走し、雪崩れ込んでほしいようなところでも、強いて冷静なコントロールを入れ直したりするのは、ときに聴く側はシラケてしまうものですが、そんな期待に反する弾き方をするのが彼なりの別の意味のアピールなのか?

反田さんの演奏の特徴は、曖昧なもののないその引き締まった作り込みにあるようで、自らを律して日々修行に励む、道場の塾頭のような演奏というべきなのかもしれません。
あのヘアースタイルだけでなく、演奏も「サムライ」というわけでしょうか。
同時に、どんなに硬派な人でも、男性はたいてい一皮むけばロマンティックで、叙情性があり、女性とはまた違った繊細さやこだわりがあるものですが、そこが希薄に感じさせてしまうものを感じます。
例えていえば、彼女や奥さんが最もわかって欲しい気持ちとか訴えたいポイントを、どうしても受け付けきれず背中を向けてしまう彼氏や旦那さんみたいで、それがこのピアニストの欠けているところのように思うけれど、もう一回転して、今じゃそれが魅力となっているのかもしれません。

どうやら詩的な人ではないらしいと感じたのは、アンコールで弾かれたシューマン=リストの「献呈」や、グリーグの抒情小曲集から「トロルハンゲンの婚礼の日」などは、最後に歌心もあるんだよとアピールしたかったのか、歌い込みやため方などが少々やり過ぎでわざとらしく、曲のフォルムが崩れそうなところもあったりで、そのへんのバランス感覚についてはやはり疑問として残りました。

極論すれば、ショパンは美意識と洗練、センスとバランスの世界だから、それを備えていないとしっくりこない後味が残るのも納得できたようでもありました。
聴くところによればコンクール出場を念頭に置いて6年がかりで準備し、ショパンの作法を学んだというようなことも仰っていましたが、それでも、どうしてもショパンとは相容れない溶け合わないところがあるのは、これはもうどうしようもないことだろうと思います。

どの曲もまったく見事に弾かれはするものの、ショパンのあの高貴な香りとか、細緻な織物のような美、そこはかとないニュアンスなどがさほど聴こえてくることはなく、これを「ただ楽譜に書かれたものを立派に弾いただけ」と言うつもりはありませんが、反田さんとショパンとは、どんなに歩み寄ろうと教えを受け、努力を重ねても、これ以上のお近づきはムリという壁があるとしか思えません。
そもそもショパンを分かる人は、その点にさほどの努力は必要としないもので、本能的に自分の裡にある何かと照応して自然に理解できてしまうものという気もします。

それでも、マロニエ君はいまでも他の人の演奏と聴き比べてみても、あの中では反田さんが一番だったと思います。
それはショパンコンクールの意義が、ただ単にショパンを上手く弾くというだけでなく、プロのピアニストとしての実力や将来の可能性までもを見据えて評価するというようなことが言われているからです。

これから日本をはじめ、上位入賞者達によってガラ・コンサートのたぐいがあちこちで繰り返されるのでしょうが、1位の人も、2位の反田さんがあれだけの鉄壁の演奏をしながらいつも至近距離にいるとなると、優勝者としてさらにそれより上を求められるプレッシャーを思うと気の毒なような気もしなくもありません。
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やっぱり

プレミアムシアターやクラシック音楽館に登場する演奏家たち(とくに壮年期以上のピアニスト)は、このところショパンコンクールにどっぷり浸かっていた感覚からすると、本来の自由な場所に戻ってきたような安堵を感じたばかりか、逆にある種の新鮮ささえ覚えました。

まずなにより落ち着きがあり、当たり前のように音楽が漂ってくるあたり「ああ、やっぱりさすがだな!」というのが偽らざる素直な感想でした。
なんといっても、そこは自己表現の場であり勝ち負けのためのむやみな緊張はないので、大人のプロが紡ぎだす音や語りがありがたく、やっていることが若い人とは本質的なところで微妙に違うように感じました。

もちろんその中でも好みはいろいろですが、中にはまったく成長の跡のない方もおられ、30年以上も前に有名コンクールに入賞された人などは、その当時から感じていた固有の癖とか表現がドライで好きになれなかったのが、これだけの長い年月を経て少しは味わい深くなっているかとおもいきや、呆気にとられるほど昔そのままで、こんなにも人の演奏とは変わらないものか!と驚かされたり。

中にはそういうお方もいらっしゃるけれど、全体としてはコンクールからは遠ざかった世代のピアニストたちは、それぞれに円熟して、若い指さばきだけでないもの、新入ピアニストを寄せ付けない味わいがあるというのが率直な感想でした。

とはいえこの人達も、若い頃は同様の非難に晒されての今があり、俯瞰すれば世代ごとに同じことの繰り返しだと言われれば、そうとも言えるのかもしれませんが。

逆に今の若い方達の美点はというと、個人的にはクリアさじゃないかと思います。
生まれた時から当たり前のようにパソコンが有り、液晶テレビでデジタル放送の鮮明画面を普通に見て育った人達は、めくるめく情報を背負いながら、ああした鮮やかなきれいな演奏をするようになるのかもしれません。
ではそれが、聴いた人の心を打つのか…というとまったく別問題で、ここにもっと素直で豊かな情感が加わってくれば素晴らしい演奏になりそうですが、なかなかそう都合良くはいかないようです。

コンクールは言うまでもなく勝負の場であり、その競っている部分が昔に比べて平均技巧が上がり、いっぽう超弩級の天才や大スターのような人はまずいなくなり、枝葉末節の戦いに変化しているように感じます。
これを簡単に「今回はハイレベルの戦いです!」などというのにも抵抗があります。
そのためか、誤解を恐れずに言うと、若い方の演奏能力は見事だけれど、音楽として自然に心を託せないところがあり、全体があまりに対策的で、コンクール用に加工されたものといった感覚がつきまといます。
せっかくの見事な演奏でも、そこはかとなくウソやキレイゴトに覆われた、その人の感性としては信頼感の薄い感じを拭い去ることがどうしてもできない。

情報社会の時代だから、本来の自分ではなく、これをやったらどうなるかという結果から逆算して演奏しているなと感じるところがあり、解釈の寄せ集めといった感じがあって感性の一貫性がなく、悪く言えば注意のつぎはぎのような演奏。
それがこれでもか!とばかりにやれる人が「すごい人」ということになる。
当然つきぬけた魅力には乏しく、それではどうしても訴える力が弱まるのは致し方なく、聴衆も専門的なことはプロには及ばないとしても、心に刺さってくるものがあるかどうかはわかっているはずでしょう。

むろん尋常ならざる努力を積み上げて出場されたコンテスタントの方々の才能と努力には敬服の念は惜しみませんが、コンクールの動画をみていると、フィギュアスケート重要大会のあの空気とか、地方から勝ち抜いて上に登っていく甲子園みたいなものとだぶってしまい、いうなればピアノ演奏を競技イベント化して見せている気配が昔よりも強くなったように感じるのです。
だからこそ世界的な注目を集めるという効果も生まれているのかもしれませんが。

印象的だったのは、モスクワ音楽院の重鎮であるヴォスクレセンスキー教授がTVインタビューに答えて「現代のピアニストはコンクールに出ないとやっていけない」というようなことを仰っていたことでした。
それは、これからピアニストになるための実際的な現実を素直に述べられたわけでしょうが、ピアニストも要するにコンクール歴がすべてを決する「肩書社会」であり、人の決めた「権威社会」になったということで、そのために過酷な難関をくぐり抜けた有能な戦士のような人だけがそのお墨付きを手にできるわけで、これは一面ではわかる気もするけれど、しがない音楽ファンとしてはやっぱり気持ちはついていけません。
どれだけ素晴らしい演奏ができても、コンクール覇者でないと、ただの無名のピアノ弾きでしかないという意味にも取れるとしたら、ピアニストさえも現代的格差社会という感じです。

なのでコンクールというのは、昔以上に必要とされるものとなり廃れることはないんでしょうね。
そして結果に関する不満や、審査に対する不信感は昔からつきもので、大半の人が納得できた結果というのは必ずしも多くはないような気がします。
審査員として予定されていたマルタ・アルゲリッチとネルソン・フレイレの直前のキャンセル(なんとフレイレはその後死去!)がなかったら、結果は違ったものになっていただろうとマロニエ君は今でも強く考えています。

そこでふと思ったのですが、日本の(自民党)総裁選に議員票と党員票があるように、審査員の評価は主軸としながらも、一部に聴衆票というのも入れてみるのはどうかと思います。
全体の評価の中の、せめて数分の一は聴衆の評価も反映するというもの。
これは裁判における裁判員のようなものでもあるし、なにより、コンテスタントが自立してコンサートをやる場合、チケットを買ってくれるのは審査員ではなく、個々の聴衆なんですから。
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テレビでもピアノ

今年はショパン・コンクール開催で、ピアノネタに相乗りということもあるのか、このひと月ほどでしょうか、TVでもピアノ関連の番組が目白押しだったように感じます。

Eテレの『クラシック音楽館』は、もともとN響定期公演などをメインとする番組ですが、邦人作曲家のピアノ作品を集めた「日本のピアノ」や翌週には「ショパン・コンクールのレジェンドたち」といういずれもピアノに深くフォーカスした2時間でした。

日曜深夜のBS『プレミアムシアター』でもピアノ特集があって、「ザルツブルク音楽祭2021 キーシンリサイタル」「アルゲリッチ&バレンボイム デュオ・リサイタル」、「ツィメルマンの皇帝」「ホロヴィッツ・イン・モスクワ」などが一挙に4時間以上放送されました。

早朝のクラシック倶楽部では、覚えているだけでも江口玲、松田華音、清水和音、クン・ウー・パイク、アンドラーシュ・シフ、小山実稚恵、若林顕、広瀬悦子、務川慧悟、藤田真央、さらにはショパンコンクールにちなんで反田恭平、小林愛実と続きました(敬称略、再放送を含む)など、たて続けでした。
まだあったかもしれませんが(もう思い出せない、少なくともこんなにも集中的にピアノが採り上げられたことは、これまであまりなかったように思います。
そのほかにも『題名のない音楽会』や『CLASSIC TV』なども、やたらピアノを取り扱った内容が多かっようですが、とても網羅はできません。
見た範囲でいうと、内容的には玉石混交で、感銘を受けるものからくだらないと思うものまで、さまざまありましたが、おしなべての感想としては、若い方の演奏はメカニカルで解像度が高いあたりは今風ではあるけれど、どうしても音楽として乗っていけない壁が必ずあり、片やベテランの演奏はときにヘンなときもあるけれど、概ねそのあたりはさすがだなと思います。

『クラシック音楽館』の「日本のピアノ」では、今日ほとんど演奏されることのない昔の邦人作曲家によるピアノ作品(それも特に協奏曲)が現在若手のホープとして活躍する日本人ピアニスト達の闊達な演奏によって3曲紹介されましたが、これらは、なるほど先の大戦前後にかけて書かれた日本作曲界の歴史的意義としては注目すべきものがあるようです。
そんな時代に書き上げられていたという先人作曲家たちの奮励努力には頭が下がるものの、個人的に聴いた感覚としてはおよそ理解不能で、ところどころには赤面するようなところも感じるなど、こんにち演奏される機会がほとんどないのもやむを得ないというのが率直な印象でした。

美術品ならただ見れば済むし、文学なら興味のある人は読めばいいわけですが、音楽の場合は演奏されてはじめて音となるため演奏者と練習が必要となり、さらに協奏曲でオーケストラまで動員するとなると、その多大なエネルギーは簡単なことではなく、これは直接的な収益を求めないで済むNHKにしかできないことだろうなあと思いました。

「日本のピアノ」というからには、楽器としての日本のピアノ発達史にも少し触れて欲しかったのですが、そちらはまったくなかったのは残念でした。
いまやショパン・コンクールの公式ピアノ4メーカーのうち、その半分が日本製ピアノなのだから、それは素直に驚くべきことで、そこに至る日本のピアノ産業の発展や変遷などを辿って検証してみることは意味のあることだと思うのですが。

とくに西洋音楽の素地のない東洋の果ての海に浮かぶ小さな島国が、ピアノという大掛かりな、ただ音階が出ればいいというものではない精妙複雑な西洋楽器の製造に着手し、いつしか一大産業にまで成し得たというのは注目に値することで、これは大げさに言うなら奇跡に近いものがあるのでは?と思うので、それは番組のテーマとしても充分に耐えうるものだと思われ、いつかじっくり採り上げてほしいものです。

それも、できれば現役の大手メーカーだけではなく、消えていった数多の優良なメーカーにも歴史としての光を当ててほしいものです。
日本人はなにかというと「決して忘れてはいけない…」というような言葉を乱発しますが、だったらヤマハカワイだけではない幾多のメーカーや開発者が、いかにしのぎを削って日本のピアノ製造をものにしていったのかということを忘れないためにも、一度きちんと整理してNHKの番としても残して欲しいと思います。
NHKにはファミリーヒストリーという著名人の家系や出自を、本人さえも知らないことまで徹底的に調べ抜いて紹介する番組がありますが、ああいう感じで日本のピアノ発展史もわかりやすく紐解いてもらえたら、かなりおもしろいものになるだろうという気がします。
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離れる時期

このところ、ピアノを弾くのがこれまで以上に気乗りしなくなってしまい、かなり遠ざかり気味かな?といったところです。

というのも、ショパン・コンクールの動画をちょこちょこ見ていると、つい止められなくなって、場合によっては1〜2時間(ときにそれ以上)PCの前に釘付けとなり、気がついたらトイレに立つのも腰がイタタとなるような始末。

だからそっちに時間を取られているというのではなく、あれこれのコンテスタントの鮮やかな指さばきを次から次へこちらの時間が足りないほど大量に見ていると、そのレベルにいつの間にか慣れてしまい、ピアノを弾くとは本来こういうものだというおぼろげな基準ができてしまいます。

それに引き換え、我に返れば(そんなことははじめからわかっちゃいるけど)そのチンタラオロオロ弾いているピアノなんて、アホらしくなって「やってられない!」という気になってしまうのです。

もちろんそんなことは、いまさら言わなくてもアタリマエで分かりきったことだし、日頃から巨匠はじめ世界のトップの演奏にも日常的に触れているわけだから、とくに今回の動画配信がそう驚くには当たらないというのが普通の理屈です。
それはそうなんだけれど、自分より遥か若い人たちが、かわるがわるにあれだけの高度な演奏を当然のように繰り広げ、それを手を伸ばせば触れられそうな鮮明画像で繰り返し見せつけられていると、いまさらながら、下手な自分がただ「好き」というだけで鍵盤に未練がましく食い下がっていることが、無性にナンセンスというかバカバカしくなるのです。

とくに普段とはまた違う環境でこれだけ集中的に大量の演奏に接し、半ばその世界に入り込んでしまうと、自分のやっている練習なんて、いくら個人の楽しみだなんだと御託を並べてみても、人間そんなにきれいさっぱり割り切れるものでもないから、「あー、やめたやめた!」という気にもなるのです。
そうはならない、強いお方もたくさんおいでと思いますが、マロニエ君は弱いのです。
どれだけ練習しても(しないくせにこういうことを言うのもいけませんが)、どうせこの歳で上手くなるわけはないし、楽しみという言葉のついた欺瞞であり浪費だなぁという思いに苛まれます。

ルーブルなどに行くと(現在はどうか知りませんが)、人目もはばからず画材を広げて堂々と模写なんぞしている人がたくさんいて、その強靭なメンタルに驚きますが、ある日本の画家が言ったことですが、ヨーロッパ人はあんなにも圧倒的な作品を前にして、よくもまあへこたれることもなく自分も絵を描こうなんて思えるもんだ、自分はあんなものをあれだけ見せられたらつくづく嫌になるだけ…というのを聞いたことがあります。

ピカソは父親も絵描きだったけれど、我が子の天才を目の当たりにして自らの筆を折ったという話は有名ですが、それが普通じゃないかと思います。

すごいものを見て衝撃を受けるということは、折りに触れあることですが、アマチュアピアノ弾きの中には、自分がどんな演奏をしているかが一向におわかりにならず、一流ピアニストの演奏会に行こうが、それこそショパン・コンクールの動画を見ようが、まったく別のことのように捉え「あの人達はプロだから」とばかりにあっさり片付けて、自分とピアノの関係性は一切変わらないでいられる、という人が結構いらっしゃることに、これはこれで驚きます。

むしろ世界のトップ連中と自分を関連づけてショック受けたりすることのほうがよほどおこがましい、思い上がりも甚だしいというふうに考える人もいるでしょうけど、マロニエ君にしてみれば、すごいものに接してなにも影響を受けないで通過してしまう人のほうがその100倍もすごいんじゃない?と思うのです。
ショックを受ける、自分が嫌になるというのは、べつに自分と彼らを同列に比較しているわけではなく、ピアノを弾く、あるいは絵なら絵を描くということの本物の世界とはいかなるものかということを、問答無用に眼の前に突き付けられて、その現実の残酷さを思い知り、そのつど打ちひしがれ、その残りのいくばくかは勉強になっているという事でなんです。

ショパン・コンクールの動画を見ていると、自分でも弾いた(というのもおこがましいので、弾く真似事をしたと言っておきましょう)覚えのある曲がたくさん出てきますが、それらは彼らにとって、あまた準備すべき膨大な演奏曲目の中のほんの一部にすぎず、それをあんな衆人監視の中で、高いクオリティをもって弾き通せるという現実の意味するものってやっぱりあるわけで、わかっちゃいてもやっぱり嫌になりますよ。

あれはあれ、で、自分のくだらん練習はちゃんとやろう、なんてヒョイとスマホのアプリを切り替えるようにはできません。
尤も、そんなもの見ても見なくても、もともとマロニエ君は「ちゃんと練習」なんてしないのだから、こんなぼやきをすること事態さらにナンセンスといえばそれもまたそうなんですが、やっぱり気分というのは厄介なもので、ピアノを弾くというのは、ああいうことなんだなという感覚からの回復は、しばらく難しそうです。

ピアニストにもいろいろなタイプがあって、演奏の様子を見て「ああ、自分も弾きたくなってきた…」と思わせてくださるお方もいらっしゃいますが、いっぽう、グールドなんて見た日には、あらゆる意味でおよそ人間ワザではないし、凡人に対する皮肉と高笑いが聞こえてきそうで、ピアノなんて天才以外が軽々しく触ってはいけないものだったんだ、どうもすみません…と思ってしまいます。

〜とかなんとかいいながら、では、まったくピアノに触っていないというほど頑ななものではありませんし、また少しずつ戻るんだろうと思いますが、今はそういう濃淡の片側に振れているということです。
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