またもテレビで…

もうお腹いっぱいになっていた筈なのに、ショパン・コンクールの番組がまたもNHKで制作・放送され、やっぱり無視できない情けなさで不本意ながらも見てしまうことに…。
ただし、気がついたのが放送開始後、約30分経ったころで、新聞で見つけてすぐ録画したので、2時間番組のうち1時間半しか見られませんでした。

今回は日本人出場者にフォーカスするのではなく、コンクール全体を捉えた番組構成で、その点ではこれまでとは違った面白さがありました。
スタジオには男女のNHK司会者と、審査員をつとめたピアニスト、小説家の平野啓一郎さん、そして現地でコンクールを聴いたという若手ジャーナリスト、計5人によるお話と進行、さらにその折々に演奏の様子を紹介していくというものでした。

ちなみに、平野さんといえばショパンとサンドとドラクロワらを中心とした、ショパンの晩年から死までの数年間を描いた小説『葬送』の作者で、むろんマロニエ君も読みましたが、当時のパリの空気や芸術家のありさまが活き活きと描き出されており、4冊にもおよぶ長編力作ですが、非常に充実した作品であることは、ご存じの方も多かろうと思います。
とりわけショパンやドラクロワの芸術家としての活動の様子、さらにはそれらを取り巻く人物を、体温を感じるぐらいリアルに目の前に蘇らせた手腕や、史実の綿密かつ膨大な調査力、さらには死に至るまでのショパンの筆舌に尽くしがたい病との戦いなどが克明に描かれ、知らないことも数多く、この小説から得るものは非常に大きい稀有な作品でもありました。

番組の話に戻ると、コンクールも終わって一定の時間が経過したいま、コンクール全体を総括するようなものでしたが、なんだか結果に評価が後から追加されたような印象もあり、しかもテレビ特有の表面的なもので、聞くに値する自分の見解をゆるぎなく仰るのは平野さんただひとりで、職業柄もあるのでしょうがさすがだと思いました。
あとは正直どうでもいいようなものばかりで、やたらと褒め称えてさえいれば間違いないという感じで、いかにも現代のテレビらしい無難なきれいごとだけの世界でした。

あれこれ出てきた演奏については、個人的には10月に毎夜聴いていたときの評価が覆ることはなく、不思議なまでに同じ印象で、当時感じたことを再確認するにとどまりました。

ここではあえて固有名詞は出しませんが、当時からいいなと思っていた人は、やはり今回見てもそう感じたし、変だな…とか、どこがいいの?過大評価じゃない?と思うものは、やはりどんなにスタジオで賞賛されても(中には「会場でも話題になるほどの名演だった」などといわれても)、個人的にはまったく同意できないし、さほどピアノに深く入り込んでいない多くの視聴者はこんな言葉のやり取りを鵜呑みにしてしまうのかと思うと…なんだか危うい感じを覚えました。

時代とともに「ショパンの演奏も変わる」ということは当然だと思いますが、それが精密技術による楽譜の再構築のようになって、演奏者の自由な感性が羽ばたく余地が著しく狭められているとしたら、それこそコンクールという競技化/スポーツ化の弊害ではないかと感じます。
芸術の世界まで民主化・平均化の波が押し寄せているようですが、逆に世界の統治情勢はエゴと覇権主義が横行し、その民主主義さえかなりヒビが入っているという現実は皮肉です。

芸術が内包する真髄を追い求めることより、加点の得られる対策された解像度の高い演奏が主流となってしまうのはいかがなものか。
有無を言わさぬ音楽の喜びとか、人の内奥に触れてくるような、あるいは魂を揺さぶられ、心の痛みさえも美しく転嫁されるような演奏はかげをひそめ、審査員という独特な権力集団に頭をなでられるようなものをどれだけ提示できるかが問題。
ショパンには特有の言語があり、それをどれだけ雄弁に語れるかが問題だと思っていましたが、その点もかなり変質している気がします。

言語という言葉が出たついでに感じたことを言っておくと、件の平野さんはやはり小説家という言語と思索のプロだけあって、自分の感性、切り口、話の説得力はもちろんですが、思考のベースが圧倒的に広いから、彼の言葉には、ちょっとしたことにも真実と明快さと深さを感じるし、この点は他の人を圧倒していました。

一般に音楽だけをやってきた人は専門分野においては立派だけれども、その話はどれもがどこかで聞いたような言葉の使い回しであるし、独特の匂いや調子があるだけで、視野の狭さを感じないわけにはいきません。とりわけ社会学的な要素が欠落しており、ただピアノ道の家元のコメントのようで魅力を感じません。
こうして同じ場所・同じテーマでの話を聞いてみると、小説家というのは思索や感じたことを言葉とするのに無駄がなく、しかも思考の原野が断然広い。よって他者とはまるで脳の使い方が違うなぁというのが、明確な差となって現れていました。

あの差を見ると、マロニエ君がもしどちらかになれるとしたら、意外かもしれませんが小説家のほうがいいなあと思ってしまいました。
そもそも音楽はマロニエ君にとっては趣味としては最高ですが、プロの音楽家になりたいとはどうしても思わないのです。
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巨匠たちのショパン-2

シモン・バレル。
ロシアからアメリカに亡命したピアニストで、1947/1949年のカーネギーホールのライブですが、まず音があまりよろしくない。
昔から、ロシアのピニストは技巧が優先される演奏だったことを窺わせる演奏で、大半の曲は疾風のように早いテンポで弾き上げられていきます。
なんとか当たり前に聞こえるのは幻想曲やop.27-2のノクターンぐらいなもので、黒鍵や即興曲第1番などは、まるで一人レースみたいに極限的なスピードで、車だったらいっぺんでパトカーに赤色灯を回されるような、暴走運転的でこれはやり過ぎとは思うけれど、この時代の自由な雰囲気の中で、ピアニストが自分の個性としてそうしていたことはなんとなくわかるし、不思議にあまり不快感はありませんでした。
この時代は、40代のホロヴィッツなども同じステージに立っていたかと思うと、なんという時代かと思いますね。

ベンノ・モイセイヴィッチ
この人もロシア出身のピアニストで、一世を風靡とまで言えるかどうか、その正確なところまではしらないけれど、ともかく歴史に名を残すピアニストには違いなく、ラフマニノフを得意として親交もあったようです。
やはり当時としてはテクニシャンだろうと思われるし、随所にエレガントな表現などもあるものの、ショパンとしては全体に平凡、24の前奏曲などは詩情に乏しく聴こえるし24曲のキャラクターの弾き分けがさほど感じられませんが、スケルツォやバルカローレになると技巧がものを言うところもあるからか、まとまってくる感じ。
では、ただお堅く弾いているだけかというと、決してそうではないし繊細な部分もきちんとあって決して悪く無いんだけれど、なぜか気がつくと集中が途切れてしまうものがあります。
礼儀正しさみたいなものが全体を覆っていて、演奏から何か深く染み入ってくるようなものが薄いもどかしさがあり、ベテランピアニストが長年の演奏経験から熟練の手さばきを披露しているだけという印象を受けるのはマロニエ君だけだろうか?と思ったり。

アルフレッド・コルトー
20世紀前半の言わずと知れたショパン弾きの代表格。
音が流れだした途端に漂いだす強烈なニュアンスに惹き込まれ、ショパン演奏として一世を風靡したことに納得、その実像がありありと目の前に立ち現れてくるようです。
もちろん、しばしば言われたことで、あれ?っと思うところや、これはちょっとヘンでは?というところもあるけれど、でも、ところどころに「これ以外にない」と思わせる揺るぎない決定的な瞬間があって、聴き手はそれで完全にノックアウトされてしまう。
なにより心地いいのは、ショパンに揉み手して、忖度して、なにがなんでも歩み寄り、作品のご機嫌を取ろうとするのではなく、この人の主観が、精巧なパーツがピッタリと適合するように、作品と同化している、いわば借り物ではない点。
そのぶん溌剌として、確信があって、説得力が強い。

モーリッツ・ローゼンタール
コルトーより少し年長のポーランドのピアニストで、20世紀前半ショパン弾きといわれたひとり?
陶酔感にみちたショパンで、今日ではまず聴くことのできない主情が前面に遠慮なく出た演奏であるが、さりながら特異なことはなにもないという名演。
ひたすらショパンに忠誠を誓ったかのような演奏スタンスで、しかも本質的にもほとんど古臭さがないのは驚くばかり。注意深く、デリカシーに富み、それでいて非常によく歌い、様式感もしっかりしている。
ポーランド人ピアニストによるショパンとしては、現代のそれよりもよほど洗練された印象。ただし、都会的かというと必ずしもそれはなく、そこはコルトーが一枚上手かもしれないが、歴史的なショパン演奏としては一聴に値する美しい演奏。

ウラディーミル・ホロヴィッツ
聴き慣れた大戦以降の演奏ではなく、1930〜1936年の演奏であるために、ホロヴィッツとしてはとにかく若々しさが最も印象的に聴こえてくる。4曲のエチュード、3曲のマズルカとスケルツォ第4番だが、ホロヴィッツといえども、若い頃はこんなにキチンと弾いていたのかと思うほどオーソドックスな演奏で「らしさ」はときどき感じる程度、後年では彼の看板でもあったデモーニッシュな印象はさほどでもない。
ただ、その尋常ではない指さばきの確かさと輝きは、やはり桁外れのピアニストであることをいまさらながら思い知らされ、いかなる部分においてもなんの苦もなくサラリと乗り越えていける特別な技巧には、舌を巻くばかり。
ショパン演奏としてどうかということより、この天才の凄さにため息が出るばかりでした。
ふと、近代ピアニズムの夜明けは、この人からではないか?と思ったり。
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おぞましさ!

ネット動画をあてどもなく見ていると、運悪く、個人的に不愉快に感じる投稿に行き当たりました。
そして見なきゃいいのに、見てしまったのです。

それは不要になったピアノを、処分費用を安く済ませるために、なんと自分で解体し廃棄するというもの。

ピアノが不要となって処分するというのは珍しいことではありませんが、業者に問い合わせをしたところ値は付かず、逆に引取料として数万円…という金額を提示され、そんな出費になるなら「自分で解体して火葬場送りにする」という宣言のもと、その作業経過を動画にしてアップしているというものでした。

興味のない人にしてみたら、ピアノはジャマな粗大ゴミなのかもしれません。
とはいえ、個人レベルでそれを破壊しつくして処分行為に及ぶこと、さらにはそれをオモシロ動画としてアップするという文化の心のかけらもない感性には、嫌悪感と残酷性のみを覚えました。

その対象となったピアノは、見るからにどうしようもないようなオンボロなどではなく、むしろじゅうぶんにキレイな感じの、つやつやした木目のアップライト(しかもメーカーは今はなき日本の優良メーカー!)で、その家では不要品かもしれませんが、楽器として廃棄するようなものではなく、まだまだ使えそうに見えるいい感じのものでした。
マロニエ君の身近だったら、解体処分なんてあまりに可哀想で、後先考えずにもらってくるかもしれません。

撮影者の男性と、作業を手伝う知人らしき男性が、なんの躊躇もないまま、平然と会話をしながら作業はスタート。
ピアノの知識もないようで、手順も何もないまま手当たりしだいにネジというネジを外し「あ、これ真鍮なんだ!」「真鍮ってメルカリで売ればカネになるか?」みたいな会話とともに、作業は情容赦なく進み、アクションも外さずに鍵盤をボコボコ引き抜いたり、フタでも何でも外れたら無意味な歓声を上げるなど、それはもう目を背けたくなるようなもので、動悸を覚えました。
真鍮ネジでメルカリという発想があるのなら、ピアノ殺害という道ではなく、どうして「タダで差し上げます」ぐらいのことはできなかったのかと思います。

解体のほうは、室内でできる事が終わると、外のベランダのようなところに運び出され、よりハードな段階に突入。
弦はすべてバチバチに切断され、電動ノコで鍵盤蓋から何から羊羹でも切るように何もかもがザクザクに切り刻まれてしまい、ピアノに対して何の感情もない、興味のかけらもない人だからこそ出来ることでしょうけど、それってすさまじいもんだと思いました。
ふと、バラバラ殺人ってこんなものだろうか…と思ってしまうようなもの。

ピアノってダンパーが外されると、ちょっとした衝撃にも響板がゴーンとかガーンとか不気味な響きを発するのが、まるで断末魔の叫び声のようです。

もちろん、いかにマロニエ君だって、すべてのピアノが人から愛されるものだなんて、そんなお花畑みたいなことは思ってはいませんが、とはいえ物には物の、誰が決めたわけでもない値打ちとか、さすがにやってはいけないことといった、暗黙のルールというか節度みたいなものは「ある」と思うのですが…。

もちろん、業者さんは最終処分にあたってはやっていることかもしれませんが、それは人の目に触れない場所での職務としての作業であり、自分の家のピアノをおもしろがって、ゲタゲタ笑いながらやることではなかろうと思います。
まして、その様子が動画に撮られてネットに公開されるとは、このピアノもよくよく所有者に恵まれなかったというほかありません。
おそらく、いつの時期かまでは、その家のだれかが弾いていたピアノでしょうに、ただ使わなくなりその処分代の倹約というだけの理由で、こんな野蛮な行為がスイスイ出来るというあたりが、余計にむごたらしい気がしました。

医者でも自分の家族の手術はできないとか、やはり人間にはそういった感情ってあるものだと思っていました。
ペットの殺処分に嫌悪感を抱きながら、牛肉や豚肉をとくに残酷という意識もなしに食べていたりするわけで、そういう意味では人間は矛盾だらけとは思います。
でも、それらが処分されるときの現場は、普通の人の目には触れられないようになっているのはせめてもの配慮でしょう。

ピアノは冷徹に見れば所詮はモノであって、それを所有者の意志でどうしようが、法に触れないかぎりは自由なんだといえばそうなんでしょうけど、どうしようもなくおぞましい気がしてなりませんでした。

動画の最後に、処分にかかった費用は2000円強というような数字がドーンと出ましたが、こんな残虐行為を敢行しておいて、これだけ安く済んだよ!ということが、そんなにもジマンすることなのか…。
もちろん、人でも物でも最後というのはあるわけですが、そこに「終わり方」というのはあると思います。

関連動画でピアノを解体するというものは他にも出てきましたが、それは役目を終えた古いピアノが、静かに分解されて寿命を全うしたという納得感があり、まだしも「尊厳死」という感じのするものでしたが、それに引き換え、この解体は不幸にも愉快犯に殺害されたという感じでした。
それも、あろうことか近親者の手にかかって!!!

断じてああいう行為は容認できるものではありません。

*********

ときどきメールを頂きますが、思わず膝を打つようなものがありました。
ひとりで読むのはもったいないので、掲載許可を求めたところ快諾していただいたので、以下ご紹介します。


へんな動画おおいですもんね。
世の中なんだか、みょうな合理主義精神がはびこってへきえきしてます。
「断捨離」なんてことばがもてはやされたり・・・
もちろん、いらないものに囲まれていたらいろいろ困った問題が起こる。それは否定しませんし、持ち物は多すぎないほうが精神衛生上も好ましい、とも思います。
でも、いっぽうで、長年ともに時をすごした品物を「捨てる」という行為に なんの躊躇も抵抗も感じない、ましてや破壊してそれを成果と見なすとしたら、それは精神の退廃であると思います。「無用の用」ということだってあるし、そうじゃなくても、物を捨てる、という行為は、そのものにまつわるいろんな思いを捨て去る、ということでもあるわけですから。そこになにも感じない、ただ、「せいせいした」としか感じないひとはわたしはおそろしいと思います。
そのようなひとたちは、人間に対しても「こいつはじぶんの役に立つか?こいつとつきあってるとなにか得することがあるか?」と、そういった観点でしか向き合わないに違いありません。
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巨匠たちのショパン-1

ショパンコンクール以降、あまりにも現代の演奏を聴きすぎてしんどくなり、しばし昔に戻ってみることにして、ブリリアントレーベルのショパン全集を取り出してみました。
全30枚のCDボックスセットですが、No.18以降は歴史的ピアニストによるショパン演奏になっています。
昔の演奏は、個性もあり、キズも、ヘンな癖や表現もあるけれど、音楽への深い世界というものがしっかりしているのか、ともかく現代人のここまでやるか?というような計算高さのようなものがなく、演奏者の正直な心に触れられるようで、その点だけでもホッとします。

[ラフマニノフ]が2番のソナタを弾いていたりしますが、これひとつを聴いても彼がピニストとしてもとてつもない巨人で、ショパンにはあまりに尺が大きすぎるのか、表現も雄渾に過ぎてなにか規格が合っていないようなところがあり、すべてがケタ違いのピアニストという印象を受けました。
それもなにか意表をつくことをしようというのではなく、彼自身の内側からいやがうえにも湧き上がるものがあり、しかもそこにはゾクッとするようなデモーニッシュな魔物がうごめいているようで、なんだかちょっと恐ろしいような気になりました。
一聴の価値はあるとは思うけれども、マロニエ君にとっては、そう何度も好んで聴きたいショパンというのとは少し違う、これは別世界です。
おなじCDに収められている[ブライロフスキー]の演奏が、ずいぶん常識的な現実の世界に戻ってきたように聞こえました。

まだ、たった3枚しか聴いていませんが、その中で非常に意外な感じを受けたのが、[ゴドフスキー]の演奏でした。
もともとゴドフスキーをどうこう語れるほどにはよく知らないけれども、この人の名を聴いてすぐに思い浮かべるのは、超絶技巧を用いた多くの編曲や自作で、J.シュトラウスのワルツなどは、聴いているだけでも分厚い技巧を要する、じっとりと汗が滲んできそうなそうもの。とくにショパンのエチュードをもとに、大幅に手を加えてさらに演奏至難にした53の練習曲などはいただけない気がするけれど、とにかくこの時代背景もあるでしょうし、超絶技巧を誇る魔性の人というイメージでした。
そんな強烈なイメージばかりが先行して、考えてみたらこれまでじっくりこの人の演奏を聴いたとは言えず、ましてショパンをどんなふうに弾くかなど、さして関心を持たないままにきたような気がします。

ところが聴こえてきたのは、およそそんなイメージとは裏腹のデリケートな演奏で、「えっ、ゴドフスキーってこういうピアニストだったの?」というものでした。
曲目はop.9-2から始まるノクターンが10曲、それにソナタの2番。
ショパンに対する最上の敬意を払った、繊細で丁寧な語りが切れ目なく続き、あんなとてつもない編曲をやってしまう人とはまるで結びつかず、困惑さえ覚えるほど。
たとえば冒頭第1曲に収められた、あの有名な変ホ長調のノクターンも、ひたすら美しく深い吐息を漏らさずにはいられない演奏で、よほどショパンが好きだったに違いないこと、さらには作品に対する深い愛情と理解があったことを、これひとつを聞いただけでも感じさせられました。
これは1928年の演奏で、90年以上も前のものですが、なんとも素晴らしいものでした。

続いて聴いたのは[ソロモン]。
この人はベートーヴェンなどでそれなりに馴染みのあるピアニストですが、さすがは歴史に残る巨匠というだけあって、ショパンを弾かせてもそれはそれできちんと弾きこなす力を備えた持った人で、違和感なく安心して聴けるタイプの演奏。
マロニエ君が知らないだけかもしれないけれど、この時代のイギリスの音楽家というのはさほど輝けるイメージはなく、その中ではソロモンはかなり有名でもあり数少ない存在だったと言えるのでは。
イギリスの演奏家の多くに見られる特徴のように思いますが、演奏者自身の感覚や個性を前面に出すのではなく、あくまで作品に対して礼節と調和をもった、そつのない演奏スタイルというか、よく言えば誠実で信頼性が高いけれど、いまひとつ強い魅力があればと思わせてしまうところがあり、物足りなさを感じさせないでもないけれど、とはいえ、ごまかしのないしっかりしたテクニックの上に、どの曲も形良い花を手堅く咲かせるという意味では、尊敬に値する立派なピアニストだと思います。

なかでも印象に残ったのはベルスーズ(子守唄)で、これ以上ないほど落ち着いていて、全体にたっぷり深く響いていてやわらかな調子が全体に貫かれ、日常とは距離を置いたかのような空気がゆっくりとやわらかに流れていくさまは、やはり大したものだと思いました。
ショパンのベルスーズは、いかに装飾音を見事に弾けるかを見せつけるような演奏の多い中、ソロモンのようにエレガントに徹した演奏は逆に新鮮でした。

続く[リパッティ]は、その流れ出る音からして天才然とした光に満ちていて、ハッとさせられるよう。
くわえて、あの有名なワルツ集に聴かれるよう、全体にこの人の生まれ持った洒脱さが溢れており、ショパンに耳を傾けているつもりが、気がつくと、いつのまにやらリパッティの世界に引き寄せられている。
耳を凝らすと、リパッティ自身のセンスの好ましさ、切れ味よいピアニズムが主軸となって、必ずしもショパン的ではない瞬間も散見されるけれど、魅力にあふれた鮮やかな仕上がりによって、まったくそのように聴こえないばかりか、むしろショパンに直に触れているような気になってしまうところが、このピアニストのカリスマ性だろうと思います。

ブザンソンの告別演奏家では力尽きてついに演奏されなかったop.34のAs-durのワルツも収められていましたが、出だしからものすごいスピードと華麗さで開始され、これがもし同じテンポで、別の腕自慢のピアニストがやったならいっぺんでまゆをひそめられるだろうに、リパッティの手にかかるとそれがむしろ垢抜けた、目から鼻に抜けるような趣味の良い演奏のように聴こえてしまうあたり、やはり大したものだと思いました。
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ショパンの版

『ショパンの楽譜、どの版を選べばいいのか?』(岡部玲子著)という一冊があることを知り、さっそくネットで購入してこのお正月にひととおり読んでみました。

版の問題は、ショパンを熱心に弾かれる方の間で長らく問題とされ、その違いやベストは何かを知りたいと疑問に対する、これはいわば解説書のようなもので、これが決定版という書き方はされておらず、あくまで弾く人が主体的に決めるべきと結ばれています。
著者の方の研究は尊敬に値するもので、価値ある一冊だと感じましたが、弾く人が主体的に選ぶには同曲異版を何冊も使い比べて自分なりの結論を出さなくてはいけないということでもあり、それはそれで大変です。

それでも、この本を読んだおかげで、自分が想像していたものの空洞部分を補填することができ、版の違いというのが実際どの程度のものか、あるいはどういう経緯でそういう事象に至ったか、よりくわしく知ることができたように思います。
それは「初版出版の経緯(出版された国による差異)」「ショパン自身によるレッスン中の書き込み等」「研究者やピアニストによる改変や実践的なアドバイスが後年付加されたもの」「自筆研究に基づく原典主義」などあれこれの要因があること、さらにはショパンの書き癖とか、版による表記方法の統一化によるものなど、あらゆる要素が絡み合っていることがあらためてわかりました。

率直な印象としては、どれが絶対ということもなく、常に疑問や曖昧さがつきまとうのがショパンの楽譜で、そこへ演奏者や時代の好みも絡んでくるわけで、無理にひとつの結論を出す必要はないというか、個人的には現状のままでいいんだろうと思いますし、同時にナショナルエディションが中心的権威を占めようとする現在の風潮には若干の抵抗を覚えます
マロニエ君も書棚を見ればパデレフスキ版、ウィーン原典版、ペータース版、ヘンレ版、ブライトコップフ版、音楽の友版、全音版、春秋社版、そしてナショナルエディションなど、曲によってなんの統一性もなく混在していますが、気分的(音楽的にというニュアンスも含んで)に落ち着くのは個人的にはパデレフスキ版です。
コルトー版はほんの少しはあるかもしれないけれど、多くは立ち読みするだけで、いいなぁと思いながら別のものを買ってしまうのは、おそらく価格的に割高だからというのもあるのかも。

さて…。
その上で、あくまで一介の音楽ファン、アマチュアのピアノマニアの戯れ言として、ご批判やお叱りを覚悟で勝手な言わせていただくと、この版問題は木を見て森を見ず的な、どこか本質が置き去りにされた印象を振り払うことのできないものだと長らく感じていましたが、今回この本を読了することでますますその思い強くするようになりました。
版による違いなんか無意味だ!というつもりは毛頭ありませんし、もちろん大切なことです。しかし、それに目くじらを立て大騒ぎしすぎる気がするし、それほどの差が果たしてあるのか?という思いはどうしても拭えません。

なるほど、簡単に答えが得にくいものであるだけに、学者や研究者がテーマとして取り扱うぶんには興味深いことだろうと思われますが、ショパンが生涯をかけて作り上げたあの圧倒的な美しい音楽は、そんな瑣末なことでは微動だにしないものであるし、しかも最新のものは、あまりに学術臭が強く(イメージですが)必ずしも最良だとも思えないのです。
この本によれば、ウィーン原典版やペータース版はすでに独自の新版を準備中なのだそうで、それはナショナルエディションへの異議ではないかとも思われ、却って期待させられるところです。

聴いていて音に違和感のあるものは、やっぱりシンプルに疑問を感じるわけで、仮に自筆譜がそうなっていたと言われても、さすがの天才ショパンだって、わずかなミスぐらいあるでしょうし、もし生きていたらヒョイと書き換えたりするかもしれません。
文章だって校正という作業があるぐらいですから。
最新版で弾かれたものには、以前は美しかったものが、あきらかに「美しくなくなっている」と感じる例をいくつも聴いてきたし、私はその自分の感覚をどうしてもないがしろにはできません。

一部の人達には、こういうことをことさらにこだわってみせる向きがあり、自分はその違いと重要性がわかるんだとばかりに、そういう人達の声というのは妙に強かったりするので敵いません。

ショパンの音楽は、版がどれであれ、あれだけ輝かしい作品が人類に残されたわけで、個人的にはそれで充分ではないかという気持ちのほうがはるかに勝ります。
現在、最新最良とされるエキエル版(ナショナル・エディション)でも、完全無欠とは思えないし、疑問点を断定するには降霊術でもしてショパン本人に聞くしかないようなことも含んでいるようで、ショパンの音楽を演奏する(あるいは鑑賞する)にあたって、そんな重箱の隅をつつくようなことがどこまで重大かと感じるわけです。

版による違いの例を挙げるとキリがありませんが、例えば「異名同音」として、ある版ではEs(変ホ)を、何版はDis(レ♯)と記されている云々、ショパンの自筆譜はどうなっていて、それも書き癖があって…等々。
それによって和声の意味が変わるなどといえば、音楽理論的に言えばそうなるのかもしれないけれど、実際の曲の中にあってそれがどっちであろうが、そんなことは大した問題とは思えないし、どうでもいいし、そんなことより心を打つ美しい演奏を求めるわけです。

まがりなりにもショパンの楽譜に接していると、そういう箇所は随所に出てくるものの、その表記のわずかな違いで弾き方や考えや表現がまったく変わってしまうなんてことは別にありません(プロの方がどうかはわかりませんが)。
個人的にはショパンを奏する当たって最も大切なことは、彼の音楽に対する美意識と趣味を理解することではないかと思います。

24のプレリュード第2番の左手の表記がどうだとか、4/4拍子か2/2拍子かといったことが例に挙げられていましたが、マロニエ君としてはそれは第1番の直後に来るこの曲を直感的に理解できる人なら、冒頭左の内声に意識をおきつつ右の孤独に満ちた旋律が決然と入ってくること、そうなると曲全体は4/4であれ2/2であれ、沈鬱さを込めてなめらかな流れで弾き進むのは必然であり、表示よりも感性が問われるところ。

むろん完全な音の違い(国内の楽譜にはときどきある)などは論外ですが、それ以外の真偽や経緯のわからない微妙なものが多くあるようだから、それはそういうものを含んでいるということでいけないのかと思います。

言ってしまえば、いい演奏のできる人はどの版をつかってもいい演奏になるでしょうし、その素晴らしさは版によるものではなく、演奏行為の深いところからくるものだと思うのです。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

昨年12月、マリア・カラスの本を読んだところ、文中に記されているカラスの初期から黄金期にかけてのオペラを無性に聴きたくなりましたが、持っているものは大した数ではなく、HMVのサイトを見たところ、なんと69枚のBOXセットがありました。
しかも、本来の価格は3万円を超すにもかかわらず、期間限定か何か知らないけれど1万円強(新品)となっており、今を逃してなるものかと慌てふためいて買ってしまいました。
実際に、これまで何度も油断して買い逃したCDがあり、あるときに買わないとダメだという教訓があるのです。
いずれもEMIで正規録音されたものにもかかわらず、一枚あたりおよそ160円ほどですから、ちょっと信じられない買い物です。

数日後、みかん箱ぐらいの段ボールが届き、中を開けると緩衝材に守られるようにして赤の素敵なデザインの大型ボックスが鎮座しており、大量のCDに加えてハードカバーの分厚い本まで付属していて、ページをめくるごとに数多の写真が掲載されており、あらためてカラスの美貌と超弩級のスター性に息を呑みました。
マルタ・アルゲリッチが世に知られ始めた頃、その圧倒的な技巧と美貌から「鍵盤のカラス」と言われたそうですが、それも納得です。

さて、これからはしばらくカラスとのお付き合いが始まりそうですが、数が数なので、他のCDとバランスを取りながら聴き進むことになりそうです。


元日は家でゆっくり過ごすつもりでいたら、友人がイオンモールが開いているらしいと言ってきたので、正月早々イオンモールに行くなんぞなんたる無粋なことか!とも思いましたが、他にこれといって予定もなく、暇つぶしに行ってみることに。

最短のモールではかなりの混雑が予想されたので、自宅から20km以上もある地区をあえて選んで、そちらに向かいました。
ところが、モールに近づくとにわかに道路も混雑が目立ち始め、駐車場に入るだけでも裏ルートを使ったりと一工夫が必要なほどでした。

なんとか運良く車を止めてモール内に踏み入れると思わずゴクリ、かつてここで見たことのない人の群れでごったがえしており、まずこれで怖気づいてしまいました。
とりわけコロナからこちら2年間、人混みというものにもかなり遠ざかった観がありましたし。
とくにお目当ての店があるわけでもなく、とりあえず流れでH&Mに入ってみると、なんとレジに並ぶ人の長蛇の列が尋常なものではなく、これまた見ただけでストレスを感じるほど疲れました。

ウロウロしようにも人人人で、それに圧倒され、気疲れしたので、とりあえずお茶でもしたくなりましたが、そのために距離のあるレストラン街へ人の波をかき分けて行くのも煩わしく、近くのフードコートへ行ってみると、こちらはこちらで空きテーブルを探すだけでももう大変、やっと隅の方にひとつ見つけて腰を下ろしますが、おなじみのミスタードーナツやマクドナルドがこれまたウンザリするような大行列。

その最後尾について、忍耐のあげく麦茶みたいな「コーヒー一杯」を買うだなんてまっぴらごめんなので、立ち去ろうかと思っていると、友人は「マックのアプリある?」というので差し出すと、コーヒーとアップルパイを選んでネットからオーダーし、支払いはそのままPayPayで済ませるという、およそマロニエ君ひとりでは思いもつかないテクニックが展開されました。
すると、なんと店の上部にある電光掲示板に、はやくもスマホ画面に表示された注文番号が反映されています。

よく見ると、レジの右手には商品受け取りのカウンターがあり、わずか前にオーダーしたコーヒーとアップルパイらしきものが早くも準備されたようで、スマホの注文画面を見せると、それらが載ったトレイがあっけなく渡されました。

行列の方を見ると、ほとんど前進しておらず、はじめに見たときの最後尾の人のうしろに二人並んでいるに過ぎないのに、我々のテーブル上にはまぎれもない温かいコーヒーとパイが存在しているのですから、これにはいたく感じ入った次第。

これまで店内飲食でも「ネットで注文」というステッカーがテーブルに貼られていたりして、そうすることにどれほどのメリットがあるのかわからなかったのですが、この大行列を前にして、その迅速な効果をまざまざと見せつけられ感嘆してしまいました。

普通に辛抱強く並んでいる方々がお気の毒のようではあるけれど、申し訳なさと爽快感がない混ぜになった不思議な気分でした。

年頭から誠にくだらない話でしたが、今年もよろしくお付き合いくだされば幸いです。
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