狙いのズレ?

久しぶりにCDをまとめ買いしました。
まとめ買いというのは、それで割引率が良くなるからなのですが。

その中のひとつは、サン=サーンスのピアノ曲集、ピアニストはイタリア人のマリオ・パトゥッツィという人であまり知らない人だし、とくべつサン=サーンスのピアノソロが聴きたいというわけではなかったけれど、使われているピアノが1923年のプレイエルとジャケットに大書されており、そこにつられての購入でした。

期待を込めて再生ボタンを押したところ、出てくる音は予想に反していやにまろやかな音でしたが、せっかく買ったのだからと何度も繰り返して聴きましたが、さすがはプレイエル!と思うものはふわんとした響きと上品な音色だけで、もっと妖しい魅力を期待していたのでやや肩透かしをくらった気分。

その理由として想像されたのは、現代流にあまりにも徹底して調整された新品ピアノのようで、ハンマーもおそらく交換済みでしょうし、今風に均一な音作りがなされた結果という感じで、これはピアノの基本の調整方法としては正しいのかもしれないけれど、精度を凝らしてまとめ上げることをやり過ぎた感じがあり、それではこの時代のプレイエルの魅力は却って隠れてしまっているような気がしてなりませんでした。

誤解を恐れずに言うと、戦前のプレイエルに現代の精密な調整を駆使して、少しの傷やムラをも消し去ることがどこまで正しいのかマロニエ君にはわからないし、いい意味でのアバウトさとか大胆さも封じられているような気がしてなりません。
姫路城が大修理の後、漂白剤で洗濯したように真っ白になり、線やカーブなどはあり得ないほど完璧なラインになったけれど、それで却って味わいや風格を失ったように個人的には感じたことなどを連想して思い出しました。

スイスのルガーノでセッション録音されているようですが、こういう音質を求めたのであればなにもわざわざプレイエルを使う必要はなかったのではと思うのですが、しかしこのCDはジャケットにも「PLAYED ON A 1923 PLEYEL」と記され、この楽器を使ったところが特徴のようだから、やはりプレイエルへのこだわりはあったことは確かなようです。

では何が正しいプレイエルかをマロニエ君ごときが正確にわかっているとも言い難く、良し悪しを決めつけるつもりはありませんが、でも…なんとはなしに直感として「なにか大事なところが違っているのではないか…」というのが残るのです。

とくにフランスのものは、他に類を見ない洗練された感性と美意識が危ういところで成立しているものが多く、それをドイツや日本式の理詰め一筋の方法論で、整然とアイロンを掛けたように処理することは、本当に正しいことなのかはわかりません。

マロニエ君にとってのプレイエルの原点は、コルトーによる一連の録音ですが、ああいうシックで華やか、可憐かと思えばどこか酒場の匂いもしたり、明るく軽やかさでありながら、そのすぐとなりにシリアスな憂いが張り付いているような、美しさの中に屈折した要素が絡みこんだ音がプレイエルで、それを現代の録音で聴きたいのですが、これがなかなか実現しません。

というのも、他にも何枚か現代に録音されたプレイエルのCDは持っていますが、どれも似たり寄ったりで、やはりそこには時代の反映があり、ピアノ技術者にしろ、背後に控える技術者達にしろ、どうしてもキズやムラを嫌って除去しないといられないのだろうと思います。

マロニエ君はCDを聴く際のボリュームは平生やや絞り気味ですが、最後の手段として試しに大きくしてみたら、ここではじめてフワンとした響きにプレイエルらしさというか、フランスピアノならではの独特の香りを感じることがはじめてできました。
しかし個人的にはこれだけでは食い足りなくて、このピアノの魅力は音そのものの陰影や屈折にあると思うことに変わりはなく、ここに聴くプレイエルもより弾き込んでいけば、やがて旨味成分が出てくるのかもしれません。

数少ない例外は、東京の某ピアノ店がプレイエル(たしか3bis)を販売目的で動画にしてアップしているものがありますが、これが本当に素晴らしく、やはり中には、マロニエ君のイメージ通りの個体もあるんだなぁ…と思いますが、それが優れたピアニストの演奏+楽曲+CDというそろった形ではまだありません。
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シンメル椅子

暇つぶしにヤフオクを見ていたら、シンメルの椅子という珍品が目に止まりました。

シンメルはドイツ最大のピアノメーカーとされており、車でいうとフォルクスワーゲンみたいなものでしょうか?

日本ではドイツピアノといえばいくつかの最高級クラスばかりが有名で、それ以下の価格帯は国内大手メーカーが一手に担っているので、シンメルは出会うチャンスは極めて少ないようです。
2〜3度、ちょっと触ったぐらいの経験しかありませんが、ヤマハでいうとSシリーズ、カワイならSKシリーズぐらいのピアノメーカーというイメージで、おぼろげな記憶ではドイツ製品らしい堅実で確かなピアノという感じだったような。

マロニエ君は個人的に、いわゆる高級メーカーのセカンドブランドというのはピアノにかぎらず嫌いだから、その辺を狙うのであればシンメルなどはよほど検討の余地あるメーカーじゃないかと思いますが、どうこう言えるほど詳しくもないので、あくまでイメージですが…。

あ、今回は椅子の話でしたので、そちらに戻ります。
出品されていたのは背もたれのないコンサートベンチ風のデザインで、色は茶系、座面はベロアのファブリック、足には細かい溝などが丁寧に彫り込まれており、中古ですが目立ったキズや痛みなく、使用感もなくはないけれど大切に使われたのか、全体的にいい感じでした。
高さ調整は、よくある丸いつまみではなく、手動の鉛筆削り機の取っ手のようなものを回すタイプで、それがまた繊細な感じでした。

オークションの終了は深夜でしたが、狙ってしまうと朝からそわそわします。
幸いあまり注目されていなかったようで、当方を含めて4件の入札の結果、望外に安く落札することができました。
ただ、送料のみで5000円以上!とずいぶんかかりましたが、物が大きく出品者の方が遠方で、まさに列島縦断という感じだったので、そこはやむを得ないところでした。

開梱してみると、足は取り外された状態だったので、まずは組立作業。
あれ?と思ったのは、どこにもSCHIMMELという表記がなく、この点については確認する手立てがありませんが、細部の造りや木目の塗装も美しく、座面は4/5/4と13個のボタンで止められており、ファブリックの感じもしっかりしたものでした。
というわけで、思いがけず良い買い物ができたと満足しています。

ところが、まったく問題がないわけではなく、マロニエ君は椅子の高さが低い方なのですが、この椅子は最低でも少し高めで、そこに若干の残念さがありました。
しかし、足は上記のように装飾も施されているし、下部にはそれぞれ金具までついているような作りなので、これを切り落とすのも気が引けるから少しガマンするか、どうしても低くしたい場合は木工職人さんにでも相談してみるか…。
ただ、座り心地はファブリックだけにとてもよく、ある意味、革よりも好ましい感触です。

ちなみに、車のシートでも部屋のソファーでも、素材は「本皮」が最高級と思っている人が昨今とても多いようですが、本当のフォーマルというか格式あるものは昔からファブリックであり、例えがいささか大げさですが皇居や国会の椅子、歴代天皇の御料車などはシート素材は伝統的にファブリックしか使われず、決して皮は使われません。

1980年代ぐらいまでのベンツは、内装やシートの素材で最も格上なのは目の詰まったベロア仕様で、レザーはその下の扱いでしたが、時流には逆らえないのかレザー人気には抗しきれず、現在ベロア仕様は姿を消したみたいです。
ファブリックのいいところは、表面の当たりがいかにも優しいことと、革のように滑らないので包み込まれるような安定感があります。

皮のシートのあのヒヤッと冷たい感じと滑る性質は、皮は高級というイメージに掻き消されるのか不思議なほど問題にされませんが。
そういえば象牙鍵盤が珍重されるのは、希少性もさることながら、その風合いや汗を吸って滑らないという実利も兼ねているようですが、かたや滑るレザーを大好きだったりするのは笑ってしまいます。
いずれにしろ、これらは生き物の犠牲の上に成り立つものであることも、当節なら考慮すべきかもしれません。

〜なーんて、自分はヤフオクで中古品をお安く買っておきながら、こんなエラそうな話をするのは甚だ滑稽で、もし他者がそういうことを書いていたら、マロニエ君もまちがいなくそう思うと思います。
それはそうなんですが、ともかく皮というのは、本来の格式としては最上ではないということを書いておきたかったしだいです。

シンメル椅子-1
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駐車の向き

前回書ききれなかったことで、駐車場でも「えっ?」というようなことがあったで、追記を。
今回の接種会場であるクルーズセンターは、文字通りクルーズ船寄港を受け入れるための施設なので、大きな駐車場の白線の区割りは観光バス用のサイズになっており、普通車には長さも幅もてんで合いません。

駐車場にあてられたのは、要は大型送迎バスの待機場所のようなもので、だから普通車にとっては地面がアスファルトというだけの、ただの広い空き地のようなもの。
GoogleMapの航空写真で確認すると、大型バスが50台くらい止められる広さです。

すでに止まっているクルマ数台も建物入口に近いほうに適当な間隔でパラパラっと置かれていましたが、駐車場の入口から数人の誘導員がいて、こんなに広いのになぜか自由な場所に止められそうにはありません。
誘導員の指示で手招きされるまま奥に進み、ここへと示された場所へ前向きに止めると、すかさず横に近づいてきたので窓をあけると「バックでお願いします!」とやり直しを命じられたわけです。
えっ、なんで?

何度も繰り返しますが、はじめ場所を間違えたのかと思うほどガラガラで、そんな状況でどこに停めようと、どうでもいいような環境で、わけても止め方が前向きだろうが後ろ向きだろうが何の意味もない状況。
それなのに、一度置いたものをわざわざ向きを180°回転させて止め直しをさせるというのはいったい何なのか、どう考えても合理的な理由が見つかりません。
ただヒマだから意味のない指示をして、人を従わせて楽しんでいるようにしか思えません。
あるいはこの係員には「駐車はバックで」という思い込みがあって、そこに前進で止める車があると、それは異端として目に映り、個人的な情緒を乱されたということなのか。

駐車の向きというのは、塀や壁を排ガスで汚さないなど、ワケがあって向きを指定して置かせる場合もないではないけれど、ここでは車の数に対してあまりに広すぎる駐車場で、駐車枠もなく、やり直しを命じてまでバックで止めさせる必要はどこを見渡してもまるでわからないし、その後ろにはフェンスがあって、一本の道があって、さらに向こうには冬の寒い海があるだけ。

そもそも普通車なら100台以上は置けそうなところに、車はわずか5〜6台しかいないのに、この人達はいったい何がしたいのか、マロニエ君は性格的にこういう馬鹿げたことを言われるまま従うということが、普通の人以上に苦痛に感じる性格かもしれません。

ついでながら、日本人は駐車というと「バックで止めるもの」という固定観念というか、それがまるで「駐車の作法」であるかのように思っている人って相当多いと思います。

理由はいくつか考えられますが、たとえば狭い駐車場にキチンと止めるにはバックで置いたほうが、置き方も慎重になるし、物理的にも方向蛇(左右に動くタイヤ)が後であるほうが狭い場所では効率よく置くことが可能というのはわかります。
また、多くの駐車場には車止めがあって、そこにタイヤが当たると、前後のオーバーハングの関係から、車種によっては車の後部がやや飛び出すということもあるけれど、それはあくまで車種によって逆もあるから普遍的な問題ではない。
(ちなみにクルーズセンターのこの広場には車止めなんてまったくありません、念のため)

それよりもマロニエ君が感じていることは、こう言っては申し訳ないけれど、運転の下手な人にとっては駐車は苦手な事の一つで、教習所時代から「駐車はバックで」と刷り込まれて練習し、駐車といえば疑いもなくバックで止めるということが習慣化しているのでは?とも思います。
そのほうが出るときに楽という考えもあるでしょうが、これって難しいことを先に済ませておきましょうという程度のことでしかない。

むしろ前向きに止めて、出庫時にバックで出るほうが、駐車枠内に置くように狙いを定める必要がなく(つまり適当でよく)、要は車がスペースから出られさえすればそれでいいわけだから、このほうが楽でもあるので、どちらが良いかは駐車環境にもより、臨機応変に考えれば良いこと。
単純な話、バックで左右の車に注意しながら枠内へ左右均等に、かつ平行にキチッと収めるより、前向きにスパッと止めたほうがよほど楽なことも多いのですが、たったこれだけのことがこの国ではなかなか理解されない。

近頃の駐車場というのは不気味なほどだれもかれもがバックで駐車しており、なんだか不気味です。

新しい車には駐車アシストのような機能もあるから、ますますバックでの駐車は常識になるのかもしれませんが、とにもかくにもやみくもに「駐車はバックで」という暗黙のルールが染み込んでいるのは間違いない。
ここには日本人お得意の横並び精神も加勢して、みんながバックで止めているからそうしなくちゃいけない、ひいてはバック駐車はキチンとした止め方、前進駐車は行儀の悪い止め方というような気分もあるのかもしれないと思うと、なんだかゾッとします。

だからかどうかは知らないけれど、先のクルーズセンターのように、だだっ広いガラガラの環境でも、一旦置いたものをわざわざ逆向きに置き直しをさせるというのは、当方が「行儀の悪い止め方をした」と思われた可能性もあるのかと思うと、勘違い&邪道も甚だしく、今風に言うと「パワハラ」ではないのか。

実はこの状況、昔だったら「なんのためにバックで止めなくてはいけないのか?」「そうすることにどういう意味があるんですか?」とすかさず問い正すところですが、近頃ではなんでも従っておいたほうが面倒臭くないとか、どうせ納得できるようなアンサーは得られない、さらには普通に質問をしても逆にクレーマーのような変人のレッテルを貼られるのがオチで、正義正論よりも自分の身を守ること、ストレスを避けることを優先するようになり、甚だ不本意な習慣が身についているので黙って従いましたが、今思えば、やはりなぜか?という質問ぐらいはしておくべきだったと後悔しています。

こんなブログにまでくどくどと書くということは、結局はストレス回避はできていないということですからね。
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3回目ワクチン

3回目のワクチン接種、打たずに済むならそれに越したことはないけれど、いまだ収束方向というわけでもないし、迷ったあげくやはり打っておくことにしました。

各メディアによれば、3回目接種にあたってはファイザー希望が圧倒的で、全体の9割ほどに達しているそうですが、こうなった要因のひとつは1〜2回目接種のとき、モデルナの副反応が強いう情報が広く知れわたったためだとか。

一方で、3回目については交互接種の有効性も謳われており、効果の高い組み合わせの一覧表によれば、ファイザー+ファイザー+モデルナというのが最も抗体量が高くなるとあり、東京都下の某市ではこのことを市長と医師が顔出しして、その有効性をくわしく説いたところ市民の理解が得られて、そこでは80%以上の人が3回目にモデルナを選択したという事例もあるとか。

もともとワクチンなんて進んで打ちたくはないけれど仕方なく打つのだから、せめて少しでも効果の高いほうがいいと思い、前2回がファイザーだったので、今回はモデルナを選択したわけです。

送られてきた接種券を見ると、ファイザーは近くの接種会場や病院でも受けられるのに対し、モデルナはマロニエ君の居住エリアではクルーズセンターという博多港の埠頭の最も先にある場所まで行かなくてはなりません。
距離もあり、公共交通機関利用の人は無料シャトルバスなども運行されているようですが、そこは自分の車だからとくに問題ではありませんでしたが。

ネット予約をして会場に行ってみると、もしや場所を間違ったのではないか?…と思うほどガラガラ状態なのにまず驚かされました(それから数日後、この会場は予約なしでも接種が受けられるようになった由)。
このクルーズセンターというのはかつて外国(主に中国)からの巨大なクルーズ船の寄港地として頻繁に使われていた施設ですが、コロナ以降はそんなクルーズ船もすっかりなくなり、そこが接種会場として当てられているようです。

10分以上早めに着いたので、予約時間まで待たされるだろうと思っていたら、それもなく、受け付けなど笑ってしまうほどスイスイと進み、あれよあれよという感じで接種となり、すぐに15分間の待機時間に入りました。
前回に比べて、あまりにも人(被接種者)が少なくスピーディに進んで呆気にとられながら、はるか前方に目に入ったのは、出口付近にマイナンバーカードを作るための受付コーナーらしきものがあること。
いつかは作らないといけないと思いつつ、面倒なのでまだ手をつけていなかったのでいいかも…などと思っていたら、そこへまた狙ったようなタイミングでその担当係の方が説明に来られて「まだお済みでなかったら、お帰りにあちらで簡単に手続きが可能ですので、よかったらぜひ」と薦められました。
時間もあったし、ここでマイナンバーカードの手続きも終わるのなら一石二鳥とというわけで、そちらも無事に済ませて、なんだかラッキー!みたいな気分でした。

とはいうものの、TVなどでは菅政権に比べて岸田さんはワクチン接種も進まないなどと言われていますが、実際の接種会場の様子はというと(モデルナということもあるとは思いますが)、こんなにもガラガラで不思議な感じでした。

さて、心配した副反応ですが、3回目はさほどでもないと言われていたし、実際打った当日は打たれた部位に筋肉痛がある程度で、とくにどうということもなかったのでこれで終わった…と思っていたら翌日になって発熱、午前中からみるみる倦怠感が強まり、丸一日静かに休んですごすハメに。
幸いなことに、それは一日のみで、三日目にはスッキリ普通の状態に戻りましたが、そのあたりは個人差もあるのでしょうね。

余談ですが、お役所のすることとはなんとバカバカしいものかと感じる光景もチラホラ。
会場内での行動は、一挙手一投足が監獄のように厳しく監視され、すべて係員の指示通りに動かなくてはならず、ある程度は理解しますが、一部は明らかに必要を逸脱しているという印象もありました。

たとえば、接種後の15分待機するにも、椅子は広大なスペースに一脚ずつ前後左右に間隔をおいて置かれていますが、ほぼ空席なので、どこに座ってもいいようなものだし、人と距離を取るという観点からいえば、できるだけバラバラに座ったほうがいいはずなのに、杓子定規に手前左からキッチリ順番に詰めて座るよう指示され、はっきり「こちらに」と指示されるし、その椅子に行こうとするにも歩く順路まで「こちらからお願いします」と言うあたり、なにか変な圧力がこもっています。
しかし、そこは通路でも何でもなく、ただの椅子と椅子の間であり、そんなことはまったく無意味なこと。
人もいないのだから、どの隙間から行こうと自由であるはずなのに、遮二無二「こちらから」とむやみに従わせるのは明らかにやりすぎで、それは係員が仕事という大義のもとでどうでもいい事まですべて自分の指示通りに人を動かして、密かに楽しんでいるなと感じられるもので、それには頑として従いませんでした。

また、横の壁際にあるトイレに行くにも「必ず係員へ手を上げてお伝え下さい」と念を押され、しかたがないのでそうしたら、わざとらしくサッと近づいてきて恭しげに手を伸ばし、そのトイレを示しながら「はい、では、あちらの右側へお進みください」ときた。見ればトイレは入口が左右に分かれ、左は女性用、右は男性用なのだから右に行くのは当たり前で、こういうバカバカしいことを真顔でやられると、はじめこそ内心で滑稽にも思っていたものでも、だんだん癇に障ってくるものです。
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巨匠たちの…おまけ

書くかどうか迷いましたが、少しだけ。

世の評判は別にして、個人レベルでは苦手なピアニストというのは、誰しもあるはずです。
とはいえ、それが歴史的な大ピアニストともなると、その評価は定着し、燦然と輝き、ファンも多いぶん、こんなところに書くこともためらわれますが、まったくマロニエ君の個人的な好みということで、敢えて書いてみることに。

巨匠たちの遺したショパンのCDを順次聴いていると、ボックスの一番下の部分から3枚出てきたのが、アルトゥール・ルビンシュタインでした。
ポロネーズ集とマズルカ集でしたが、残念ながらマロニエ君にはその良さが見い出せないまま、今回もまた深い溜息とともに終わり、正直いって3枚のCDを聴き通すだけでも意志力が必要でした。
以前も聴いて苦手だったため、ボックスの一番奥にしまいこんだことも思い出しました。

時代もあるのか、この方、ポーランド出身のピアニストといわれるけれど、なぜショパンに対してあのようなルノワールの絵画みたいなアプローチになるのか、疑問はますます深まるばかり。
たったいま「時代」と書きましたが、しかし、ここに書き連ねてきたピアニスト達は世代的にさほどかけ離れた人達ではなく、そのぶんルビンシュタインの演奏の特異性が浮き立つようでもありました。

1960年台以降の彼はまだしも円満な福々しい音になったけれど、ここに収められているのはすべて第2次大戦前の若いころの演奏ですが、どれを聞いてもえらくキツい音で、音色や表情を凝らして音楽を創りだそうとしているデリカシーがマロニエ君にとってはまったく感じられないのです。

どれを聴いても同じ調子で、各作品への思慮や慎み深さとか作品の機微に触れるような儚さなど感じられず、ただ楽譜を片っ端からじゃんじゃん弾いただけのように聴こえ、通俗という言葉が悪いなら、エンターテイナーのようで、もしかするとこの人は音楽をそういうものに変質させるほうでの第一人者ではなかったのか?とさえ思います。
大衆にとってピアノの華麗な大スターであり、氏もそういう立ち位置が性に合っていたのでしょうから、客席とステージはまさにwinwinの関係で、それが疑問もなく喜ばれた時代だったのかもしれませんが。

ルビンシュタインはどこに行ってもハリウッド・スター並みの人気で、その周りには人が群がり、そこになぜか「20世紀最大のショパン弾き」というイメージも加わって長年持ち上げられたためか、ショパンの音楽はある種イメージの齟齬があるまま、長らく放置された時代が続いたといえるかもしれません。
このところ、いろいろな昔の巨匠のショパンを立て続けに聴いて、それぞれのショパンへのアプローチに耳を傾けてきたわけですが、ルビンシュタインは全般的に打鍵が強く、ところどころに申し訳程度に強弱があるぐらいで、平明でブリリアント、彼の享楽的な生き様などが華を添えるように大衆の心を掴んで天下が続いたというのも、たまたま何かの条件が揃ったということでしょうね。

ルビンシュタインを取り扱った本だったと思いますが、あるとき氏がショパンの手のモデルにサインをしてくれと頼まれたところ、「私がショパンの手にサイン?そんなことはできないよ、出来るのはハートを入れることだけ」といかにも謙虚なような事を言って、そこに小さなハートを書いている写真が掲載されていましたが、ルビンシュタインの魅力というのは、演奏よりも、人間としてそういう場面でサッと人を唸らせ、人々の心をつかんで印象づけ、のちのちまで語り継がれるような振る舞いとはなにかを心得ていたのだろうと思いす。
彼によるさまざまなジョークや幾多の言葉とかエピソードの中にもそういうものはたくさんあって、いかにも大物然とした知己に富んでおり、ルビンシュタインという大スターの人物像を脇から強力にサポートしていたのだろうし、大衆も大いに湧いて感激し舌を巻いた…そんな関係だったんだろうと思います。

彼が偉大なピアニストということはそうなんだろうと思いますが、個人的にはショパンをあんなにも徹底して詩情や陰影のない、まるで陽気なイタリア音楽みたいにあっけらかんと弾かれてしまうと、なにかたまらないものが胸にこみ上げてくるのです。
くわえて若い頃は、打楽器的な打鍵の強さがあって一音一音が刺さるようで、それだけでも疲れます。

この巨匠をしてこの弾き方は、当時の影響力の大きさからすれば、日本などのピアノ教育現場にも一定の影響を及ぼしてしまったのではないかとつい思ったり。
現に一時代もてはやされた日本の有名ピアニストなどは、大衆ウケがなによりもお好きだったようで、かなりこの手の巨匠たちの影響があったのではないかと思われてなりません。

いっときほどではないにせよ、いまだにルビンシュタインをピアノ界の巨星のごとく尊敬し奉る人たちがおいででしょうが、個人的にはどこがそんなに魅力的なのか、一部はわかるようでもありますが、やはり謎なのです。
彼の手にかかると、ショパンのみならず大半は娯楽のようになってしまう印象ですが、かくいうマロニエ君も子供の頃は、そう選択肢もないこともあって、彼の演奏はずいぶん聴いて育ったのも事実で、いま思い返せば複雑な気分になりますね。

後で思い出したので、追記しておきますが、マロニエ君が最も好きなルビンシュタインの笑える言葉。
「やっとわかった、異教徒とは、何が異教徒なのかわからない者が異教徒なんだ!」…なるほどね。
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不思議な本

大手書店で『私のベヒシュタイン物語』という多数の人たちによるエッセイをまとめた一冊が目に止まり、ちょっと迷ったけれど、新品(未読本?)のようであるにもかかわらず、割引されていることもあり買って読んでみました。

実は、ずいぶん昔でしたが『ベヒシュタイン物語』というのがあって、詳しいことは覚えていませんが、ベヒシュタインの素晴らしさを伝えるにあたり、やたらとスタインウェイが通俗ピアノの代表として引き合いに出され、その対比としてベヒシュタインがいかに素晴らしいかという文体で綴られている印象が強くて、読後感としてはスタインウェイとの違いだけがベヒシュタインの存在価値であるかのような印象しか残りませんでした。

個人的に思うところでは、世界の銘器と呼ばれるものは、それぞれに代えがたい魅力があるのだから、広い視野で客観的に捉えたものでないと本当の魅力は伝えられないはずですが、ピアノにかぎらず、ひとつのもの以外を認めたがらない感性というのはどうもいただけません。
どの世界にも特定のブランドを熱烈に支持される専門家がおられますが、残念ながらあまりに思いの強さばかりが前に出て、どこか宗教チックになってしまい却って引いてしまう場合があります。

有名なライバルを引き合いに出して優位性を説くというやり方はネガティブキャンペーンのようで、どこぞの国の大統領選ならともかく、日本ではあまり馴染まない方法だと思いますが、主張に熱が入りすぎたのか?とそのときは思ってしまった次第。
ちなみに店によっても違いはありますが、総じてベヒシュタイン関連の人達は、いささか説明過多というイメージが昔から強い印象があります。
いい音というのは説明され論破されるものではなく、感じるものだと思いますが。

本の話に戻ります。
『私のベヒシュタイン物語』は個々の人たちの思い入れや体験が一冊にまとめられたもののようで、ユーザーの立場からの話ということでそこに興味を覚えたのでした。

ところがいざページをめくってみると、使われなくなったピアノが見出され、有志によって、どのように復活に至ったかという経緯など、ベヒシュタインというピアノじたいの個性や魅力についてではないような話がいくつも続きました。
大半は大戦前に作られたベヒシュタインが、それぞれの運命と偶然によって、現在日本のどこそこのホールにある、自分は運命的にそれに関わった、素晴らしい人とのご縁も出来た、有名音楽家が来て弾いて褒めた、そのピアノを中心に毎年イベントをやっている、満席になった、子どもたちがどうしたこうした〜といったような話の羅列だったことは、縁もゆかりもない関係者だけに生じた感動談をながながと聞かされているようで、あれえ?という感じでした。

また、古いピアノ故にメンテや修理の必要がある個体が多いようで、そこで輸入元の有名技術者さんや社長さんなどの協力を得たことが、たいへんな感動に値することのように書かれていますが、こういっては申し訳ないけれど、会社は利潤追求、技術によって対価を得ることも普通にビジネスであるし、ことさら特筆大書するようなことではないと思うのですが、それをベヒシュタインが引き会わせてくれた格別のご縁とばかりに書かれていたり、あるいは某大学にベヒシュタインがあるとしながら、大半はピアノとはあまりかかわりのない大学のイベントの意義と解説のようなものであったりと、どこが『私のベヒシュタイン物語』なのかよくわからなかったりで、だんだん気持ちがついて行けなくなりました。

善意の皆様には甚だ申し訳ないような気もしますが、これは無料で配布される冊子ではないのだから、そういうものを延々と読まされる身にもなって欲しいと思いました。

ともかく、そういう話が一冊のうちの半分以上にもわたってページを占め、そのあとにようやく個人でベヒシュタインや系列ブランドのホフマンを購入した人たちによるリアルな内容となり、こちらのほうが直接弾く人の体験に基づいており、よほど興味ぶかく読むことができましたが、それらはほんの僅かでした。

また、直接の内容とは関係ないかもしれませんが、なぜかこの本には、日本語の間違いや誤植の類があまりにも多く、ハードカバーで装丁され、カバーや帯もついて1,980円也で一般に販売される書籍である以上は、もう少し校正校閲にもしっかりと留意されないと、書物としてのクオリティはもちろん、ベヒシュタインのイメージにも障るのでは?と感じました。

とはいえ、タイトルだけに釣られて、あまり内容を吟味することもせず買ってしまったという点で、要するに見極め不足の自己責任でもあるとも言えそうです。
それはそうと、ベヒシュタインといえば判で押したように出てくるドビュッシーの「あの」言葉は、こうも多用されると却って無粋で、もういいかげんに勘弁してほしいものです。
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