久しぶりにCDをまとめ買いしました。
まとめ買いというのは、それで割引率が良くなるからなのですが。
その中のひとつは、サン=サーンスのピアノ曲集、ピアニストはイタリア人のマリオ・パトゥッツィという人であまり知らない人だし、とくべつサン=サーンスのピアノソロが聴きたいというわけではなかったけれど、使われているピアノが1923年のプレイエルとジャケットに大書されており、そこにつられての購入でした。
期待を込めて再生ボタンを押したところ、出てくる音は予想に反していやにまろやかな音でしたが、せっかく買ったのだからと何度も繰り返して聴きましたが、さすがはプレイエル!と思うものはふわんとした響きと上品な音色だけで、もっと妖しい魅力を期待していたのでやや肩透かしをくらった気分。
その理由として想像されたのは、現代流にあまりにも徹底して調整された新品ピアノのようで、ハンマーもおそらく交換済みでしょうし、今風に均一な音作りがなされた結果という感じで、これはピアノの基本の調整方法としては正しいのかもしれないけれど、精度を凝らしてまとめ上げることをやり過ぎた感じがあり、それではこの時代のプレイエルの魅力は却って隠れてしまっているような気がしてなりませんでした。
誤解を恐れずに言うと、戦前のプレイエルに現代の精密な調整を駆使して、少しの傷やムラをも消し去ることがどこまで正しいのかマロニエ君にはわからないし、いい意味でのアバウトさとか大胆さも封じられているような気がしてなりません。
姫路城が大修理の後、漂白剤で洗濯したように真っ白になり、線やカーブなどはあり得ないほど完璧なラインになったけれど、それで却って味わいや風格を失ったように個人的には感じたことなどを連想して思い出しました。
スイスのルガーノでセッション録音されているようですが、こういう音質を求めたのであればなにもわざわざプレイエルを使う必要はなかったのではと思うのですが、しかしこのCDはジャケットにも「PLAYED ON A 1923 PLEYEL」と記され、この楽器を使ったところが特徴のようだから、やはりプレイエルへのこだわりはあったことは確かなようです。
では何が正しいプレイエルかをマロニエ君ごときが正確にわかっているとも言い難く、良し悪しを決めつけるつもりはありませんが、でも…なんとはなしに直感として「なにか大事なところが違っているのではないか…」というのが残るのです。
とくにフランスのものは、他に類を見ない洗練された感性と美意識が危ういところで成立しているものが多く、それをドイツや日本式の理詰め一筋の方法論で、整然とアイロンを掛けたように処理することは、本当に正しいことなのかはわかりません。
マロニエ君にとってのプレイエルの原点は、コルトーによる一連の録音ですが、ああいうシックで華やか、可憐かと思えばどこか酒場の匂いもしたり、明るく軽やかさでありながら、そのすぐとなりにシリアスな憂いが張り付いているような、美しさの中に屈折した要素が絡みこんだ音がプレイエルで、それを現代の録音で聴きたいのですが、これがなかなか実現しません。
というのも、他にも何枚か現代に録音されたプレイエルのCDは持っていますが、どれも似たり寄ったりで、やはりそこには時代の反映があり、ピアノ技術者にしろ、背後に控える技術者達にしろ、どうしてもキズやムラを嫌って除去しないといられないのだろうと思います。
マロニエ君はCDを聴く際のボリュームは平生やや絞り気味ですが、最後の手段として試しに大きくしてみたら、ここではじめてフワンとした響きにプレイエルらしさというか、フランスピアノならではの独特の香りを感じることがはじめてできました。
しかし個人的にはこれだけでは食い足りなくて、このピアノの魅力は音そのものの陰影や屈折にあると思うことに変わりはなく、ここに聴くプレイエルもより弾き込んでいけば、やがて旨味成分が出てくるのかもしれません。
数少ない例外は、東京の某ピアノ店がプレイエル(たしか3bis)を販売目的で動画にしてアップしているものがありますが、これが本当に素晴らしく、やはり中には、マロニエ君のイメージ通りの個体もあるんだなぁ…と思いますが、それが優れたピアニストの演奏+楽曲+CDというそろった形ではまだありません。
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