実演の実情

実演 vs 録音の問題は音楽を鑑賞するにあたっての永遠のテーマで、ここでもすでに何度か触れたテーマで恐縮ですが…。
原則的に実演こそが音楽本来の姿であることに異存はないし、ましてそれを否定するつもりはありませんが、現実はなかなかこの理屈どおりにはいかない面もあることも押さえておきたいのです。

マロニエ君にとって、音楽で最も大切なものは作品と演奏の高度な合体から受け取る喜びであり、さらにはそれを享受できる音質および自身の好みにつきると思います。

よって実演がいくら本来のものといっても、当たり前ですが実演ならなんでもいいわけじゃない。
アマチュアの演奏をどれだけ聴いたところで、純音楽的な喜びにはほど遠いことは致し方のないことであるし、プロとされる演奏家であっても、自分にとって好ましくない演奏では、これもまた満足とはなりません。

いわゆる趣味の音楽愛好者にとって、音楽は自由で勝手な喜びの対象なのだから、気に染まない演奏を聴かせられることほど苦痛なことはなく、ましてそれが実演ともなると、椅子に座って身動きがとれないだけでもエコノミークラス症候群になるようで、非常に大きなストレスとして我が身に跳ね返ってきます。
実演推奨派の人に言わせれば、目の前で今まさに演奏され、楽器から出てくる生の音を聴くことに絶対的な価値をおかれているようですが、マロニエ君の場合、気に入らないものがどれほど目の前で演奏されても、ただの苦痛でしかなく、今おかれている状況から解放されて、はやく家に帰りたいと願うばかりです。

音楽(というか演奏)は最初の数秒、少し寛大に云ってもはじめの5分、最大限譲歩してもはじめの一曲でほぼ決まってしまうもの。この間に得た印象が覆ることはまったくのゼロとはいわないまでも、ほぼ間違いなく終わりまで延々と続くものです。

普段からあまり音楽を聴かないような人は、急にCDなどを聴かせられるより、コンサート会場に出かけて実演に接することで目の前に広がる雰囲気を楽しんだり、もしかすると感動まで得ることができるのかもしれませんし、それはそれで一つの事例としてわかるような気もします。
しかし何事も深入りすればするだけ人間はわがままになり、満足を得るストライクゾーンは狭くなって、事は単純にはいかなくなるものです。

音楽関連の書籍を見ていても、専門家の中には「自分は基本的に録音されたものを好む」と公言して憚らない人がいらっしゃいますし、その理由の多くは、コンサートでは決して得られない質の高い音質や磨き上げられた演奏、ホールの空間では聞きとれない細やかな演奏の精妙な部分に触れるには、録音されたものが最良だと考えられているからのようで、マロニエ君もまったく同感です。

とはいえ、実際には実演も録音も、それぞれピンからキリまであるわけで、単純な優劣はつけられないものですが。

優れた録音は、演奏、作品、楽器などが何拍子も揃っており、その中から最良と判断されたテイクが選ばれます。録音も一流のプロデューサーの采配のもと、優秀なスタッフによって最良の仕事がなされれば(そうでないことも多々ありますが)、これ自体がひとつの作品といえるかもしれません。

たしかに、実演には実演でしかない魅力があるけれども、同時に実演ならではの欠点も数多くあるわけで、まずはホールの問題があります。
ホールはいうまでもなく響きを作り増幅させるという点ではまぎれもなく、もうひとつの楽器でしょう。
これ如何によってコンサートの印象はかなり変わります。

現実問題として、音響的に好ましいホールというのは全体のわずか一握りに過ぎませんし、その好ましいホールで好ましいコンサートがあるのかというと、これがまたなかなかそうでもない。
大半は、不明瞭で美しくない残響のホールがほとんどで、そこでイマイチ真剣味に欠ける魅力的でない演奏を延々2時間、じっとガマンして聴かされるのが現実の行き着く先です。

また、以前にも書いたことですが、下手な音響設計のようなことをされるようになってからのワンワンいうホールより、昔の多目的ホールのほうが、ピアノにはよほどクリアで好ましかったように思います。

要するに、実演実演といったって、現実はそういうものだということだと思うのです。
そして、実際にそんな実演に接するたび、好ましい録音を自宅で聴くことの爽快さと意義深さを再認識させられることになるわけです。
続きを読む

カテゴリー: 音楽 | タグ:

シック

ブックオフでたまたま目について面白そうだなと思い、『パリのエレガンス ルールブック』という一冊を読んでいるところです。
著者はジェヌヴィエーヴ・アントワーヌ・ダリオーというニナリッチのオートクチュールサロンの支配人を務めた、服飾のエキスパートです。

内容は、パリのファッションのさまざまな約束事を平易な文体で書かれた本ですが、そこにはファッションだけではない、この花の都に流れる高度な文化やそこに暮らす人達の精神や価値観が垣間見られるもので、非常に面白いし、共感できることが多く、いちいち膝を打ち、ときにへぇと驚きながら読んでいるところです。

例えば、高価だという理由だけで、ドレッシーなアンサンブルにワニ革のハンドバッグを持っている女性を見るとがっかりするとあり、値段の高い爬虫類は、ほんらいスポーツや旅行の時に身につけるものであること。
つまりこの手の素材は遊びの時のくだけたものであって、午後5時を過ぎたら使わないものというような、しごく真っ当な(しかし多くの人が知らない)ことが書かれています。

読みながら、むかし母が嘆息していたことを思い出しました。
今ほど、きもの文化がまだ廃れていない時代、いざというときには女性は和服を着る方もまだ少しはいらっしゃいましたが、中年以上の女性の間で、なぜか大島紬が高級品の代表のようにもてはやされ、奮発してそれを買ったはいいけれど、そのお値段故にこれがよそ行きになってしまい、ほんらい染の着物を着るべき場面に、大島を意気込んで着ていく人が少なくないのは、なんとも片腹痛いとこぼしていました。

どんなに高価だろうと、紬というのはほんらい普段着もしくはその延長であり、それをあらたまった場面に着ていくなんぞ無知をさらすようなものというわけです。
普段にさり気なく着るからこその贅沢品であり、ブランド物の高価なジーンズをフォーマルな場に履いていくようなものでしょう。

決まり事というのは、それ自体が文化であり、それをよくわかった人がしっかりした土台の上に程よく崩しを入れるのは構いませんが、まったく無知で、値段だけに頼って間違ったことをやらかしてしまうのは滑稽ですね。

ほかにも、街中で白いバッグや靴を用いることの違和感、アクセサリーをつけすぎてクリスマスツリーのようになっている人、白髪を嫌がって毛染めしたものの、年齢を重ねた顔を真っ黒い髪が縁取ることのおかしさなど、尤もなことが次々に書かれており、いちいち取り上げているとキリがありません。

さて、パリに欠かせない概念として「シック」というのがあります。
シックとは、さりげない優雅さに欠くことのできない要素で、エレガンスよりも少々知性が要求されるもの、とあります。
シックを理解できるのは、すでにある程度の文化と教養が身についている人達で、生まれつき備わっている場合もあり、神の恵みで「美貌や財産とは関係がない」というようなことがはっきり書かれています。

おもしろいのは、そのわかりやすくかつ痛烈な例で、思わず声を上げて笑ってしまいました。

「ケネディ一家はシックですが、トルーマン一家はシックではありません。」
「ダイアナ元皇太子妃はシックですが、アン王女はシックではありません。」
「マレーネ・ディートリッヒやグレタ・ガルボはシックですが、リタ・ヘイワースやエイザベス・テイラーは、その美貌にもかかわらずシックではありません。」
とあり、まさに膝を打つようです。

これに倣っていうなら、マロニエ君が音楽でまず思う浮かぶのは、
「ショパンはシックですが、リストはシックではありません。」
「ブラームスはシックですが、ドヴォルザークはシックではありません。」
「スタインウェイやファツィオリはシックですが、ヤマハやカワイはシックではありません。」
「務川慧悟はシックですが、反田恭平はシックではありません。」

〜この調子で言い出すと際限なくありますが、ま、やめておきます。
とくに日本人ピアニストでは、シックといえる人を探すほうが難しいことに愕然としました。

いや、ピアニストにかぎらず、私から見るとあの小澤征爾でさえ、個人的にどうしてもシックとは思えません。
とりわけ近年の日本の音楽家は、才能や実力という点ではもはや相当なものをもっているにもかかわらず、多くがこのシックというセンス、もっというなら美や洗練に対する絶対音感が抜け落ちているから、それを技巧その他の「能力」で補填しているのだろうと思います。

これは、ほかのジャンルを考えても、残念なほど符合します。
それでいうと、自分で見たわけではむろんないけれど、少なくとも明治ぐらいまでの日本人は、いまよりよほどシックだったんじゃないかという気がしてなりません。
続きを読む

衝撃と感銘

先日の日曜のこと、知人の用に同行して山口に行くことになりました。

用が済むのがちょうどお昼過ぎになる予定で、現地で昼食をとることになりそうな流れでしたが、見知らぬ土地でのお店など分かるはずもないので、旧来の知り合いである山口の調律師さんに朝電話をしてオススメはないか聞いてみたら、「それなら、僕がよくお昼を食べに置く店に、☓☓峠というのがありますよ」と教えていただいたので、他に選択肢があるわけでもなし、ごく自然にそこに行くことになりました。
注文を済ませて一息ついていると、視界にその調律師さんと似た感じの方がおられるので、地域の特徴にはそういうところがあるものなので、似た人がいるなぁ…と思っていました。

が、それにしてもあまりに良く似ていて、あれ?…と思っていると、向うもこちらに気づかれて、なんとその調律師さんご本人!で、この日も本当にお昼を食べに来られているとのことでした。
ちょっとむこうの席に行って、ひと通り挨拶や話などをすると、よかったらあとでお店の方に寄ってくださいとのこと。

ただ、この時の二人の同伴者はピアノとはまったく無関係の人達だったので、どうかな…と思いましたが「せっかくなんだから行きましょうよ!」と快諾してしてもらえて、食事が済んでからちょっとだけ立ち寄る事になりました。

この調律師さんというのは、昔から音の求道者として少しは有名で、数々のコンサートや録音現場をこなしてきた人で、そのためには東京のホールまで自分のピアノを持ち込むことも厭わない方です。
(各ホールには厳しい規定があって、ホール所有のスタインウェイなどは指定業者以外は触ってはいけないというのがほとんどで、理想の音を実現するためにはピアノを持ち込む他ないのです)

すでに何枚ものCDもあり、先ごろ惜しくも亡くなられた杉谷昭子さんのベートーヴェンのソナタ全集の録音も、すべてこの方が手がけたピアノが使われていますし、一般の書店に並ぶ書籍も出しておられ、いわばピアノの音の追求をライフワークとされる方です。
しかし、あまりにそれ一筋の職人気質のため、時代の波に乗ったり、広く人脈を築いて宣伝につとめるといった方面はまるで苦手のようで、ややマイナーな立ち位置に甘んじておられるようですが、ご本人はそんな事は意に介さずで、ひたすら最高の音を求める姿勢には、昔も今も少しの迷いもないようです。

我々が尋ねた直前にも、ロシアのピアニスト、パーヴェル・ネルセシアンのコンサートも東京その他で終わったばかりとのことで、そのステージで使われたというスタインウェイのD-274も戻ってきていました。
ネルセシアン氏もこの方のピアノが昔から大変お気に入りで、そのピアノで録音したCDがロシアでも発売されているとか。

「ぜひちょっと弾いてみてください」といわれて、そのDのカバーがズルズル外し始められたので、もちろん興味はあるけれど、ピアノと無関係の二人はいるし、ちょっと困ったなと思いましたが、ここで遠慮していては折角のチャンスを逃すことになるので、腹をくくって少し弾いてみると、音を出すなり「なにこれ!」と思わずにはいられないような、すごいとしか言いようのない華麗な鳴りで、全身がヒリヒリするようでした。
ネルセシアンのような完璧なテクニックを有するピアニストが行ったコンサートの余韻がまだピアノにも残っている感じでした。

タッチも音も思いのまま、そしてなによりコンサートグランドとしての力強さといい、これぞ申し分のない、ステージから数百人に向かって聴かせるためのピアノだというのがいやがうえにも伝わります。
近頃はスタインウェイといっても、以前よりも常識的なまろやかな音に調整されたピアノも少なくありませんが、このピアノは比較的新しい個体ですが、全身の隅々までが抜けるように鳴り響いており、少し前のスタインウェイのような深みと輝きもあるし、低音などは中世の鐘が豪奢に鳴り響くようで、もうクラクラになるほどでした。

世の中は、スタインウェイ一強に異論を唱えて、中には「きらい」という向きもあるし、ファツィオリの濃密な音もとても特別なものがあるとは思ったけれど、こういうピアノに接すると、そういう事がすべて吹き飛んで、やはりこれ以外にはない!という、有無を言わさぬ圧倒的なものがありました。
いまでもその感激は、耳に、指先に、生々しく残っています。

小さな店にもかかわらず、このときは、この貸出用のD以外にも、整備中でダンパーの外されたニューヨークのDと、その脇には横置きにされたハンブルクのDと、計3台のD-274があって、やはりここは普通のところではないと思いました。

この方は、常に独自の調律法とホールで鳴り渡るピアノの音の美しさを生涯追求している方で、いわゆるオーソドックスな調律調整を無難にこなす人ではないため、それを高く評価する熱烈な支持者がいる反面、まったく邪道扱いする人達に分かれるようですが、それぞれに言い分はあるだろうし、いずれにも一理あって間違っていないのだろうけれど、ただ、ものごと結果がすべてという観点でいうなら、ああしてコンサート用に仕上げたピアノに触れてみると、ただもう圧倒されて痺れてしまうようで、もし自分がリサイタルをするようなピアニストだったら、こういうピアノを使いたいだろうなと思いました。

この方がやられていることがすべて正しいなどというつもりはないし、まして盲信するつもりもないけれど、最高の技術の世界というものは、既存のやり方に飽きたらず、常に新しい地平を求める探究心が必要なはずで、それを失ったら、ものごとは少しも進歩しないだろうと思います。
ノーベル賞をもらうような人達も、きっと似たようなブレない信念と強烈な探究心があり、孤独で、常に人から馬鹿にされるようなところから偉大な発明がでてくるもので、そういう意味では尊敬に値する技術者さんであることは間違いないと思います。
続きを読む

何が起こったのか?

自宅でお預かりしている貴重な広島製ワグナーですが、早いもので運び込んでから10ヶ月が経とうとしています。

いらい、最もよく弾いているのがこのピアノですが、それはなにより触りたくなる魅力があるから。
部屋のスペースの関係から、もう一台のグランドと前後互い違いに向き合うよう近づけて置いていますが、ワグナーは若干高さが低めで、そのために前屋根を開けるともう一台に干渉してしまうため、そこにいつもマットのようなものをあてがっています。

小さなキャスターと、インシュレーターもペラっと薄いプラスチック製のものであることも、さらにその点を助長しているようでもあるし、そもそもやはりボデイ全体が若干低めであることも間違いないようです。
思い起こせば大橋デザインのディアパソンも似た感じだったので、昔のピアノは概ねそういうものだったのかもしれません。
これは古い日本製ピアノだけの特徴なのか、海外のものも同様なのか、そのあたりをしっかり確認したことはありませんが。

最近のことですが、たまたま出向いたホームセンターで別のものを探しているとき、直径12cm、厚さ12mmほどの、丸い木のパーツがあるのが目に止まり、とっさにワグナーピアノのことが頭に浮かんだのでこれを3枚買って帰り、後日インシュレーターの下に敷いてみました。
インシュレーターのほうがわずかに直径が大きいので、丸板はほんの少し内側に隠れるような感じです。
ピアノほど大きな楽器でも、全体がわずか約1cm上がるだけで、なんとなく違った印象になるもので、鍵盤の高さはむしろ好ましい感じですが、困るのはペダルも上にあがり、少し勝手が違う感じになったり。

まあそのへんは、慣れの問題もあるでしょうし、どうしてもイヤならペダルの下に板でも敷けば済むことですが。

本題はここからで、実はそれどころではない副産物的な変化があったのです。
その小さな丸板を敷いたことで、あきらかにそれ以前より鳴りのパワーが向上し、この思いがけない変化に驚くと同時に、これはいったいどういうことなのか?

それまではカーペット敷の床の上に、プラスチックのインシュレーターをかませてキャスターが載っていたわけですが、その下に小さな板が介在したことで、ピアノの鳴り方にどのような作用をもたらすのかマロニエ君にはてんでわかりません。
わからないけれど、それ以前よりもあきらかに力強い鳴りになっており、これは勘違いでなしに間違いなく起こった変化だと思うのです。

この手のことに研究熱心な技術者の中には、インシュレーターの素材や形状にこだわって、しまいには独自の考えを反映させた製品まで作っているようなケースも見た覚えがあるし、たしか昔のディアパソンには(音のための)高級素材を使った、ずいぶん高価なインシュレーターがあったようにも記憶しています。
正直いって、それらはまったく根拠の無いこと…とまでは思わないけれど、一度借りて使ってみたこともありますが効果についてはほとんどわからず終いでした。

ところが、今回のように思いがけずハッキリした変化を経験してしまうと、インシュレーターというか、床とのピアノの接触方法に着目して研究する人の言い分にも一理あるんだろうという気がしてきました。機械モノ全般に言えることとして、ある理論や方策がすべての場合に等しく効果があるとは思えませんが、特定の条件とか、個体との相性など、なんらかの偶然が重なった時には、思わぬ効果が表出することも事実だろうと思います。

車でいうとアーシングだとか、最近では静電気の除電による性能向上といったことが叫ばれていて、マロニエ君もやってみたけれど、意識すればそうかな?と思える程度のもので、決して劇的な効果ではありません。
車は絶対数がピアノの比ではないから昔からこの手のマニアや研究者も多く、性能向上のためのあらゆるアイデアと試行錯誤が繰り返されてきましたし、多くのアイテムが製品化されて販売もされましたが、効果はあるようなないような微妙なものが大半で、それをオカルトだと冷笑する向きも多いのです。

それでいうと、マロニエ君は昔からインシュレーターなんぞに音質や響きの違いを求めるなんて、オカルトだと思っていたわけですが、さすがに今回の変化は、そうとばかりも言えない変化を体験してしまったわけです。

一般に、この手の効果は、微々たるものであるために数日経つと耳や感覚も慣れてしまい、やがて違いも感じなくなるものですが、今回ばかりは数日経過しても、あきらかに力強く、明晰に鳴るようになっているのは間違いない(と感じる)ので、やはりなんらかの作用があったのだろうと思われます。

ではどのピアノにも同じ効果があるか?といえば、それはわからないし、むろんオススメもできません。
今回の件は、たまたま我が家固有の条件にスポンとはまった、きわめて偶然性の高い結果だろうとは思っていますが、ごくまれにこういうことがあるんだということはわかり、貴重な体験ができました。

その後に来宅された調律師さんにそのことを伝えると、それは時々「ある」ことで、2台並んでいるピアノに同じことをしても明確な効果があるピアノと、鈍感でまったく変化のないピアノもあるとのことでした。
あるピアノのオーナーは、その変化に感激して、しばらくこれで弾きたいから申し訳ないが今日は調律はせず、このままにしておいて欲しいというたっての要望で、なにもしないで帰ってこられたこともあったとか。
簡単に説明のできない不思議な事ってあるもんだと思いました。

220411.jpg
続きを読む

つきあい方

ピアノの良し悪しに対する判断基準というのはいろいろあって、シンプルに言い表すことは難しいと思いますが、あえていうなら、ピアノはいい音質で、力強く、よく鳴るというのは、楽器としてのポテンシャルの基本だと思います。

それも側鳴りではなく、ピアノから離れても、さほど音量に変化のないような、音の飛行距離が長いという特質をもっていること。
弾いている当人は手応えがあって気分良く弾けているつもりでも、少し離れると一向に聴き応えのない、スカスカなピアノというのは経験的に少なくありません。

まずは、そういうピアノとしての健康でしっかりした声帯というかボディをもっていることと、そこに優秀でコントローラブルなアクションが備わっていれば、まずは合格ということではないかと思います。

広島製ワグナーピアノは相変わらず、よく通る音と衰えを知らない鳴りで元気満々ですが、強いていうならアクションの老朽化といった問題がないといったらウソになり、シングルスプリングのゆったりした反応や、消耗品の摩耗等によるとおもわれる注意深いタッチを必要とする若干のハンディがあり、新しいピアノのようにタッチも思いのまま弾力的に受け入れてくれるような甘えは通用しません。
それでもつい弾きたくなり、自然にワグナーへ吸い寄せられるのは、ウソやごまかしのない楽器だけがもつ魅力に満ちているからだと思います。

物理的/機械的な観点からいえば、これをある程度解消することは相応の手を入れれば可能でしょう。
交換すべき消耗品を取り替えて、本来の機能や感触を回復することは技術的にも正しいことで、マロニエ君も長いことそう信じてきましたが、このピアノの所有者である技術者さんはじめ、それに近い方の意見によれば、あまり細かいことに目くじらを立てず、古いものはふるいものとして、それなりに付き合っていく良さというのもあるというわけで、なるほど一理あるということに日々理解を深められたように思います。

車でもピアノでも、日本人は少しでも傷があれば修理に出すなど、ちょっとした不具合にも不寛容で、なんでもネガ潰しして新しくしてしまうことばかりに価値を置いています。
そこまでして、さてどういう使い方をしているのかといえば、車なら平凡な日常の買い物とか、子供の送り迎えとか、たまにドライブぐらいなもので、さほど完璧を要するようなことでもないことが大多数でしょう。
これは自戒を込めての話ですが、モノをそれらしく使い切ることなく、ただモノの段階で終わっているから、そういう意識の持ち方になるのだろうと思います。

はじめ、すぐには受け容れられないことでしたが、最近は「それはそれとして穏やかに付き合っていく」ことにも、得難い価値があり味わいがあることをしだいに理解できて来たように思います。
ここがあそこがとケチを付けるのは簡単ですが、そこばかりに意識が向いている間は楽しんでおらず、心は少しも豊かではなく、大袈裟に言うなら不幸な状態にあるわけです。

人間、長らくしみついた感覚やクセは容易に変えられるものではありませんが、私はワグナーピアノのおかげで、欠点にあまり目くじらを立てず、他に代えがたい魅力のほうへ意識をまわして楽しむということを、ほんの少しではあっても覚えたような、もっと大袈裟に言うと学んだ気がします。
しかもそれを覚えると、意外に楽になり、楽しさの比率も増えていくので、これは大事なことだなあ…とこの歳になって思っているところです。

もちろんワグナーピアノは借り物だから、マロニエ君の独断で勝手なことはできないという足枷はあるのだけれど、昔の自分なら早々に買い取るなどして、より良くするためと信じて、あれこれ手を入れて始終悩んでいたことだろうと思いますが、今の自分なら、かりに自分の所有であっても同様のスタンスで向き合うことができるだろうと、少し思います。

それに気づくのに、いささか遅すぎという感もありますが、遅すぎたとて気づかないよりはマシというもの。
本当に大事なことは何か?を静かに考えてみると、あれもこれも間違っていやしないか…と思われることのなんと多いことでしょう。
それに気づかせてくれた御方とワグナーピアノには、ひたすら感謝の念を覚えます。

「良いピアノはいろんなことを教えてくれる」というのは本当ですね。
続きを読む