移転先から

WAGNER PIANOが我が家から某音楽サロンに移転して、その後どうなったか。
結論から先にいうと、こちらのオーナー(Mさん)は、この方がこんなにも喜ばれることがあるのか!と驚くほどの深い喜びようでした。

Mさんは、さる高名なピアニストのお弟子さんのひとりですが、近年はどういうわけかほとんどご自分がピアノを触ることはなくなったとご本人から聞いていました。
正直、それがなぜなのかはわからないし、その理由を聞くのも躊躇われたので、そこは敢えて触れないで過ごしていました。

ところが、WAGNERが移転することになってからというもの、それ以前とはあきらかに様子が異なっているようでした。
早い話が、このピアノをとても気に入っておられるということになるのですが、そこにはただ単にピアノが気に入ったということとも少し違って、この方を長らく覆っていたいろいろな要素が、雪が次々に溶け出すように剥がれ落ちていったようでした。
WAGNERが大きなきっかけとなって、再びピアノを弾こうという意欲がよみがえってきたことはまずもって何よりでした。

今年亡くなられたお母上は、ピアノに触れようともされなかったMさんの姿を見ながら、何度かピアノを弾いてほしいと言われたそうですが、それでも頑として弾かれることはなかったらしいので、余人には窺い知れない何かがあったのでしょう。
ピアノを弾くことに対する扉はかたく閉ざされてしまって、それが実に16年ほども続いたというのですから、驚くほかありません。
その開かずの金庫みたいな心の扉を、WAGNER があっさり開けてしまったわけで、これはマロニエ君の想像もはるかに超えるものでした。
まるで人が変わったように毎日ピアノの前に座られ、あれこれの楽譜を取り出しては弾いてみている!と電話口の向こうで言われるのを聞きながら、当初は多少弾かれるきっかけにもなればいいな…とも思ってはいましたが、予想をはるかに超える反応にこちらのほうが驚いたぐらいです。

いまさらですが楽器の力というのは如何に大きいかということを思い知らされました。
それは単に音がきれいだとかよく鳴るとかいった表面的なことだけでない、もっと人の心の奥深いものを引き寄せるような「何か」の力が作用しているに違いありません。

このピアノは、以前にも書きましたが、マロニエ君の知人のピアノマニアの方が広島県内で売りに出されているのをネットで見つけられ、すぐに新幹線に飛び乗って見に行かれたことが事の始まりでした。
私もWAGNERというのは、後年の浜松の東洋ピアノのものをぼんやりと認識していたぐらいで、ここから泥縄式に広島で製造された元祖WAGNER PIANOのことを調べて知りました。

その方は、このピアノの鳴りに感銘を受け、手に入れる前提で、整備のできる工房調べなどまでされたようですが、別の有名手作りピアノのOH済みというのが出てきて、結局そちらを買われることになり、結果としてWAGNERはFreeの状態となりました。
私も迷いましたが、あまりにもWAGNER PIANOに無知で、見に行くにはあまりに遠いので正直まごつきました。
古いピアノの得意な技術者さんに電話したところ、それだったら某さん(現在の所有者である調律師の方)がWAGNERのことはご存知ということで、その方に尋ねたら「広島製のWAGNERはそれは素晴らしいピアノです。今風の甘い音ではないがものすごくよく鳴る。買われるならおすすめします。」といわれました。
そして、「もし誰も買い手がないときは自分が買います!どんな状態でも構わない!」といわれたことが決定的となり、それからひと月後ぐらいだったでしょうか、ついにWAGNERは関門海峡を渡って福岡にやってきたのでした。

運送会社の倉庫内で数日にわたり整備をされ、驚くばかりに朗々と鳴り響いたことは以前にも書きました。
この調律師さんの見立てでは、日本の隠れた銘器であるにもかかわらず、ブランド力がないから下手をすると廃棄されるおそれがある…ということでピアノを守るためにゲットされたようで、とくに置くあてもなく(このあたりがこの技術者さんの面白いところなのですが)、結果的に我が家でしばらく拝借することになり、今だから本心をあかせば、ゆくゆくは買い取らせていただきたいと思っていました。

それが思わぬところから現在の展開になり、話はトントン拍子に進み、結果的に新たな住処を得たというわけで、かなり数奇な運命を辿っているピアノだといえそうな気がします。

Mさんは、少し前から恩師が所有されるドイツ製の有名ブランドのピアノを買わないかと打診されたことがあった由ですが、どうしてもそういう気になれずにお茶を濁していたのだとか。
「WAGNERがやってきたのは、自分にとってそういう運命だったから」というのはいささかこじつけの感も免れませんが、とはいえ、いわゆる「赤い糸」みたいなものがあったのかもしれません。
まるで何かがはじけるように気分が変わり、これまでの十数年とは別人のように毎日弾いておられるとのことで、もう少し早ければお母上も喜ばれただろうにと思います。

WAGNERが運び出されて数日後のある夜電話があり、鍵盤蓋の隙間からえんぴつを落としてしまったとのこと、取り出そうと鍵盤蓋を外そうとしたが外れないということでした。それは当然で、WAGNERの鍵盤蓋はちょっと特殊な作りで、ヤマハカワイのようには外れないので、仕方がないからドライブがてら取りに行ってあげました。
そのついでに私がちょっと弾いてみることで、Mさんは少し離れてWAGNERの音や響きを耳にされることになったのですが、このピアノは距離をおいてもほとんど音量が変わらず、聴く側に回ってあらためてWAGNERの底力を理解され、さらにさらに惚れ込まれたようでした。

まさか、これほどのことになるとは思いませんでしたが、結果から見て、これはその方にとっても、ピアノにとっても、地域にとっても、そしてもちろん所有者の技術者さんにとっても、第一発見者のTさんにとっても、最良の結果だったように感じられ、我ながらなんと上手い思いつきだったかと嬉しく思っているところです。

これから先、このWAGNERがどんなストーリーを紡いでいくのか、楽しみです。
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佳き時代の響き

昨年6月から11ヶ月間、我が家に逗留してくれたワグナーピアノですが、旅立って行くと部屋がガランとしてしまい、寂しくもありますが、行き先は長年の知り合いであるし、意義のあるところへ行ったのだから不思議に前向きな気分です。

そもそも、ワグナーなきあとも自分にとっては分不相応なピアノがあって、それでさえ使いこなしているとはおよそ言い難い状況で、毎日ピアノに触れる平均時間でいうなら10分/日ぐらいでしょうか。
これでワグナーがあると、まったく触れない日がいくらでも増えて、今あるピアノにも申し訳ないというものです。

大人からピアノを始めた方でも、日々かなりの練習を課しておられる方が珍しくないというのに、これじゃあ楽器の良し悪しをどうこういう資格もありません。
我が家でピアノを弾くのは私だけなので、台数があるだけ各ピアノはより眠りに入るだけで、いくらピアノが好きでもなんだかひとりで欲張っているだけでは楽器にも申し訳なく、いい機会だったと思っています。

というわけなので今後、マロニエ君が新たにピアノを買うなんてことは実際にはまずないと思いますが、それはそれとして、このワグナー体験を経てますますピアノへの認識が変わったことは事実です。

もしも、なにかとてつもない無い間違いでも起こって、万々が一にもピアノを買うようなことがあれば、この先は迷いなく古き佳き時代のピアノを選ぶと思います。
音が出ると、まわりの空気がフワンと伸び縮みするような、あの感じ。
無理なく、太く鳴り、それでいて耳に心地よく、全身が美音に包まれるような、あの感覚を知ってしまうと、外観はどんなにピカピカでも生命感のない「ピアノのような音」が無機質に出てくる今どきのピアノは、もう欲しくはありません。

どんなに評判が良かろうとも、そもそもコストダウンされた素材で作られたピアノを、最新テクノロジーの力で遮二無二鳴らして、見た目も音も表面だけキレイなピアノでは、真の喜びや安らぎは得られない。

もちろん新しいピアノを全否定するつもりはなく、中にはまだじゅうぶんに素晴らしいものがあることもわかっています。
とくに均一で、ブリリアントで、整った、甘い音のするピアノ。
新緑のように若々しく、音の息の長さ(伸び)という点では新しいピアノに分がある場合もあるかもしれません。
さらに、精度の上がった、アクションがもたらす精緻な感触や自在感という点では、新品ならではのものがあることも認めます。

しかし、音を出すだけでも嬉しくなるような、その響きを聴くだけでも深いものに触れているような、その楽器の長い生涯の一時期に関わっているようなピアノの魅力というのは、今のマロニエ君にとっては、何物にも代えがたい魅力があることを知ってしまったような気がします。

ピアノが指のオリンピック競技の訓練のためなら、その訓練に適した道具というものもあると思います。
そんなほんわかしたピアノを使うのは適していないだろうし、それだったら新しい量産品でガンガンやるのがいいのかもしれませんが、楽しみに徹するなら好きなピアノに触れる喜び、美しい音と響きに身を浸す快楽を得たいなら、そういう楽器を選ぶしかありません。

ピアノをオールドバイオリンに喩えると、必ずといっていいほど「ピアノとバイオリンは違う、わかってない、比較することはできない」と正論らしきことをまくし立てる方がいらっしゃることもよく承知しています。
簡単にいうと、バイオリンは弾いて鳴らして熟成させて完成され、耐久性という点でも息の長い楽器、対するピアノは弦のテンションが高く消耗品で新しい物がいいという考え方ですが、マロニエ君はこれには真っ向から反対です。

バイオリンが楽器として長寿であることはそうだとしても、その性能を維持するために、常にどれだけのメンテや維持管理(そのためのコスト)を必要としているか、それでも未来永劫ということはなく、数あるストラドやグァルネリとはいえ、将来は必ず寿命が来ると言われています。
ピアノも同様で、それぐらいの維持を心がければ、いいものなら100年経ってもどうってことありません。

それでも大型犬より小型犬のほうが長生きするように、平均寿命はピアノのほうが短いかもしれませんが、その程度の差だと思います。

お借りしていた広島製ワグナーも60歳ほどでしたが、弦もハンマーもオリジナルで、アクションだけは少々の消耗感がありましたが、鳴りっぷりという点では、現代のピアノを打ち負かすほどで、大事に使って、ときどき手を入れてあげれば100年なんて軽く行けそうな気がします。

もともとの品質にもよりますが、ピアノの寿命を必要以上に短く言うのは、新しいピアノを売る必要のある企業の思惑が相当入っていると思われますが、まあメーカーも慈善事業じゃないからそれもわからなくはありません。
ただ、古くていいものを慈しむように使うというのは、本当にいいものだし、心が豊かになることがよくわかりましたが、それはワグナーピアノのおかげでもあると同時に自分が歳をとったからなのかもしれません。
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旅立ち

昨年6月よりお借りしていたワグナーピアノですが、ついに我が家を離れることになり、数日前すでに搬出されていきました。

所有者のである技術者さんは、何の見返りもなしに、快くピアノを貸してくださっていることからもわかるように、今どき珍しいほど人情に篤くサッパリした御方で、私が望むなら「いつまででも、どうぞ使ってください」と仰ってくださっていたので、それに甘えてズルズルとお借りし、いらい自由に弾かせていただいていました。

ただ、この方の真意としては、1960年代広島で9年間だけ作られたワグナーピアノの素晴らしさを、少しでも多くの人に楽しんでもらいたいというお考えがあることは承知していたので、その意味では現状はマロニエ君が独占している状態であるのが心苦しくもありました。
いっそ買い取らせていただくか(それに応じられるかどうかはわからないけれど)、もしふさわしい場所があったなら移動も考えなくてはならないだろう…というような思いはいつも漠然と頭の片隅にありました。

そして、そのふさわしいと思われる場所へと行くことになったのです。
福岡市の西隣にある某市の駅の近くで、ショパンの名を冠した音楽スペースのようなことをやっておられるMさんという旧い付き合いの方がおられるのですが、数週間ほど前、数年ぶりに機会があってお尋ねしたことで突然そのイメージが膨らんだのです。
今まで、なぜここを思いつかなかったのか自分でもよくわかりませんが。

表通りに面したマンションの1階部分で、表向きはカフェにはなっているものの、とくに営業熱心という感じもなく、実際はMさんの音楽室みたいなもので、そこでピアノのレッスンをされたり、地域の文化スペースのようなことにも使われているようで、その実態はなかなかひとことでは言い表せません。

ここにはヤマハの非常に古いG3があり、ワグナーとは同世代でもあるしサイズも近いので、2台ピアノというのもいいのでは?と思いました。
問題は、ここのMさんはご自身の好みや物事を納得するということに独特な感覚をお持ちの方なので、気に入らないピアノを置くといったようなことは決してされるはずもなく、まずはワグナーを触ってもらうことが第一と思い、後日我が家に来ていただくことになりました。

来宅されて、しばらく音を出すようなことをされましたが、あまりはっきりと感想を言われず、むしろ妙に口数が減ってしまい、どうかな?と思っていると、ようやく出てきたのは「こういう音を望んでいた」「…出会ってしまった感じがする」「こういうことか…」というような、かなりお気に召したらしい言葉がポツリポツリと聞こえ始めてきました。
要するに、気に入られただけでなく、感情のなにかが揺れ動いたのか、却って言葉少なになっていたという感じでした。

「こういう音がいい」といわれるのは、たとえば中低音のズンとした腰の座った音だったり、高音側も輝くばかりにはっきりしているけれど、決してキンキンしていないあたりも驚かれたようでした。
また、ワグナーが遠鳴りする楽器というのは前にも書いた覚えがありますが、ピアノからできるだけ離れて聴いてみても、その音量にはほとんど変化がなく、あらためてさすがだと思いました。

聞くところでは、帰宅されたあともずっとワグナーに触れたことがきっかけで、遠いむかし、ご両親が自分に買い与えてくれた量産品ではないピアノのことなどのあれこれが、しばらくのあいだ頭を駆け巡っていたとのことでした。
人をそういう気持ちにさせる何かが、やはりワグナーピアノにはあるということだろうと思いますし、これは、どんなによく出来ていても量産品には望めない不思議なパワーだと思います。

というわけで置いてみたいという結論に達したようでしたが、そうなれば、まずは所有者である技術者さん会う必要があるだろうということで、私がその機会をセッティングするよう頼まれました。
さっそく連絡をとって、今回のいきさつから話したのですが、あっけにとられるほどの快諾をされたばかりか、私がそれがいいと思うなら自由にやってください、すべて任せます、相手の方のこともおおよその説明でわかったので、わざわざ会う機会を作る必要もないから、そちらの都合で、移動でもなんでも好きなようにしてください。
ピアノが移動したら、自分が調整に行くし、その時にその方に会うのが非常に楽しみであるというようなことで、所有者としてもったいぶるようなところは微塵もなく、その粋なふるまいにはいまさらのように感服した次第でした。

ひとつ条件があるとすれば、この希少なピアノの価値がわからず(あるいは多少わかったにしても)、その楽器の良さを楽しむのではなく、やたらとガチャガチャ弾くような人には使ってほしくないというものでしたが、その点は私を全面的に信頼してくださっており、そのあたりも併せて強く信頼をしていただいていたのはありがたいことでした。

通常なら、ピアノを貸す(それもほとんど幻に近いようなレアな銘器)ともなるとなおさら、どういう相手か会って面談して、あれこれの条件やら説明やら、所有者として貸借の取り交わしをするのが一般的でしょうし、今どきは昔以上にそういう面は堅苦しいものになっていると思いますが、そんなものは「一切すっ飛ばして構わない」とのことで、それはもう見事なものでした。
いうまでもなく、ワグナーピアノに対する思い入れはかなり強いものがあるにもかかわらず…なのですから。

こういう方は昔でもそうざらにはいらっしゃいませんでしたが、今どきはもうほとんど絶滅危惧種の部類で、本当の粋とかスマートというものは、一種の胆力と覚悟と信頼が裏打ちされた、流れの美しさの賜物であり、つべこべ言わず、あとはスッパリと人に下駄を預けるというもので、まるで本で読んだ勝海舟のようだなあと思いました。
マロニエ君もできることならこうありたいもんだと思います(無理ですが)。

というわけで、11ヶ月間、我が家に逗留してくれたワグナーピアノですが、3日前に旅立って行きました。
60年も前に、こんな素晴らしいピアノがあったということじたいが驚きであったし、いろいろなことを教えてくれた素晴らしいピアノで、得難い貴重な体験でした。
快く貸してくださった調律師さん、さらにはこのピアノを探してきたTさんに改めてお礼を申し上げます。
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フェイクとは

音楽=生演奏という原則至上主義とでもいうべきか、録音はとりわけある種の人達には、音楽として「まがい物である」という扱いを受けることが少なくありません。
音楽は一期一会のものであり、一瞬ごとの明滅であり反応であるのに、それを何回も演奏し、できの良い物を選ぶことが非音楽的で邪道だと映るようです。

何度も録り直して最良のテイクを選び、キズの修正やときには継ぎはぎもするし、音質も機械的人工的にいかようにも調整するなど、完成品として仕上げる過程が、ある角度から見るとフェイクだとみなされ、とても信頼できるものではない!というわけです。

しかし、マロニエ君は決してそうは思いません。
とりわけセッション録音が、ステージでやるようなありのままのパフォーマンスではないといっても、べつにAIが演奏しているわけではなく、演奏する側も生身の人間だから、そのつど出来不出来が生じるのは当たり前で、録音というものを一つの作品と捉えれば、それにあたって最良のものを選ぶのは当然ではないかとさえ思います。

有名な写真家でも、作品としての一枚を得るために何十何百というとてつもない数のシャッターを切って、その中からこれという一枚を選び出す、書道家でも納得がいくまで何枚も書いたり、陶芸家でもひとつの釜の中からこれだというものはあればいいほうで、そういうことは多くの人が知っていることだと思います。
それと同じことだと思うのですが、なぜ音楽だけが、そういう面に過度に厳しく、やり直し即ニセモノ扱いされるのがわかりません。

最良のテイクを好ましい音質で聴けるのなら別にそれで構わないし、ライブの迫真の演奏というものももちろん魅力的ですが、そのぶんキズがあったり、音質の問題、強烈な魅力があると同時に不完全な面があったりもして、一長一短です。
あの歴史的にも有名なホロヴィッツの1965年のカムバックリサイタルでも、長年そのライブ録音とされていたものは、実は修正があちこちに施されているものだったことが明らかとなり、近年そのオリジナル音源のCDも発売されましたが、これまで聞いたことのなかったようなオッと思うようなミスタッチなどがあって、やはり生演奏というのは、そういうものだと思いました。
それをレコードとして発売する以上、修正されることがそんなに悪いこととは思いませんし、当時あのままでは発売できなかっただろうというのも頷けます。

また、アルゲリッチ、クレーメル、マイスキーが東京でおこなったチャイコフスキーとショスタコーヴィチのピアノトリオも、ライブ録音として発売されていますが、NHKで放送されたコンサートでの演奏と、このときのライブとしてグラモフォンから発売されたものでは、出だしのテンポから大きく異なっており、聞いたところでは深夜にずいぶん時間をかけて録り直し作業も行われたとかで、これはライブをもとに修正パーツをセッション録音で作って仕上げられたものといった印象です。

CDは繰り返しての鑑賞に堪えるものである必要もあり、音楽的な活気は大切ですが、必ずしも偶然性の高い一発勝負的な演奏でなくてもいい。
たしかに、生でしか伝わらないものがあるというのもむろん否定はしませんが、生では伝わらないものが録音からは得られるということも多々あるのも事実で、何を求めるかは個人の価値観の問題でもあるように思います。
また、いかに生の楽器の音が素晴らしいという原則だけを唱えても、実際には好ましくない楽器/演奏/音響などのマイナス要因から逃れることは簡単ではなく、生だからというのが、すべてに優先されるほど圧倒的などという感覚こそ一種の幻想じゃないかと思います。

いずれにしろ、あとから手を入れるというのは、他のジャンルでは当たり前なのに、音楽だけはそれがフェイクのように扱われるのは、不当な扱いと言わざるを得ません。
その点でいうと、グレン・グールドはコンサート活動から早々に引退して、録音芸術にピアニストとしての大半を捧げましたが、これも彼にとっての必然であり、非常に納得の行く姿勢であるけれど、あまりに時代に先んじ革新的すぎて異端扱いをされたのは残念でなりません。

録音否定派は、録音では陰でどんなことでも可能などと尤もらしいことをいいますが、だったらグールドの弾く新たなレパートリーが、技術によって出てきてもおかしくないはずですが、そんなことはまだ実現もしていません。
たしか一度、それに類するものが実験的に行われましたが、まるで覇気も生命感も情感もない、聴くに堪えない代物でした。

また、修正やなにかがそんなにダメで、それをしたらニセモノだというのなら、絵でも小説でも、衆人環視の中で一気に制作して、あとから訂正してはならない、それをしたらフェイクだという論理も成り立ちそうな気がしますが、むろんそんなことはあるはずがありません。

前回書いた、生演奏派の人達の言い分としては、一貫して録音で聴くものは人工的でフェイクだといいますが、それをいうなら、今の若い世代の演奏は、たしかに自分の身体を使って弾いているけれど、聴く人の心を揺さぶるような情感が薄く、演奏としては限りなくフェイクっぽいのです。
「演奏は時代とともに変化するもの」のは当然ですが、正確でやたら解像度だけを上げただけの、活字みたいな無表情な演奏のほうが、音楽の存在価値としてよほど問題のような気がします。

私達は音楽を聞くことによって、夢(ときに地獄ということもある)の世界を旅したいわけで、ただ個人の能力や演奏技術自慢のお付き合いをさせられるのは、これこそ音楽の本質から逸脱したものだと思います。
つまり、生か録音かなどより、より深刻な問題は他にあると思うのですが…。

マロニエ君の理想としては、作品が演奏によって生まれ出て、目の前に立ちあらわれてくるものに包まれるような演奏ですが、現代の演奏の主流は、楽譜をいかに正確に音でコピーするか…というあたりで目指すものが停止してしまっているように感じて、それでは音の奔流に身を委ねるとか酔いしれるということができないのです。
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見えてしまう

前回に関連しますが、生のコンサートに魅力がなくなったのは、もうひとつ、時代との関わりもあるように思います。

たとえば、今の若手の演奏家。
演奏能力という点では、それはもう昔では考えられないまでに優秀で上手い人がずらりと揃っていますが、それはハーバードや東大卒の職業エリートのようで、シンプルに芸術家と思えるような人はほとんど見当たりません。
音楽のためにのみ献身し、聴衆のために全身全霊でもって演奏に挑み、ときには身を持ち崩すような人がどれだけいるか?といえば、正直答えに窮しますし、そこに時代の価値の変化を感じてしまいます。
自分の音楽的純度あるいは芸術性保持のためにコンサートの数を制限しているような人がいるでしょうか?

クラシック音楽の世界は、世界的に衰退が叫ばれているにもかかわらず、世の中は不思議なもので、コンクールで名を挙げたり、YouTube等で有名になると、有名人ブランドのレッテルみたいなものが貼られて、一転してステージの依頼が殺到し、いうなれば売れっ子芸者のようにひっきりなしにお座敷がかかるようなもの。

プロである以上、有名であるとか入賞歴ということも、ある程度は必要というのはわからないではないけれど、何事も度が過ぎるとおかしなことになり、その難関を通過できた一握りの人だけには、ネットでもテレビでもそれ一色となります。
こういう現象は、「これもご時世」と割り切って一定の理解はしているつもりですが、それでもやはり首を傾げてしまいます。
人は時代に背を向ける訳にはいかないから、全否定するつもりもありませんが、いわゆるほんらいの音楽家であるとか芸術家というのとは、かなり目指すものの違う、職業的成功者のようなものになっているようにも感じます。

こうなると、どれだけ深い感銘に値する演奏かどうかということより、どれほどの多忙に耐えられるか、どれだけ先々までスケジュールが決まっているかが成功のバロメーターとなり、それをクリアできる能力の持ち主が人がスゴイということになる。

また、レパートリーの増やし方にも、一定の見識とか節度のようなものがおよそ感じられないことが多く、能力にあかせて片っ端から弾いていくといった姿勢にも、どうしようもない違和感を覚えてしまいます。

いかに過密スケジュールの中、あらゆるレパートリーを携えて各地を駆けずり回るかの「体力・メンタル勝負」のような色彩を帯びており、そんなハードな活動の中で、たまたま自分の住む街のホールに来るからといって、それを素直に聴きたいというような純な気にはマロニエ君は到底なれないし、相手も生身の人間だから、実際に全力投球で演奏しているとは思えないようなものに何度も接した経験もあり、そんなギャラの荒稼ぎ旅のカモになんかなるものか!という気になります。

というわけで、マロニエ君は決して生演奏を否定するつもりはないけれど、従来のような気分でコンサートに行く気持ちにはなれないし、かといって上記のような新しいスタイルの演奏に無邪気に喜びを見出すまで、自分を変革することもできないでいるわけです。

そりゃあもし、今タイムマシンがあって、最盛期のホロヴィッツやグールドの演奏が聴けるなら、どんな無理をしてでも行きたいと思うし、ラフマニノフやショパンの演奏も身悶えするほど聴いてみたいです。
しかし、現在おこなわれているコンサートは、もし行ってもどういうものであるか、悲しいかなおおよそ見えてしまうのです。

コンサートに行くというのは、トータルでかなりのエネルギーを要することで、気軽に家にいるのとは違います。
時間に縛られ、それ中心に移動し、車を止めて、開演を持って、演奏中は身動きもせず、食事の時間も変わるし、あれこれ言い出すとキリがありません。
それでも行きたい気になるのは、マロニエ君にとってはワクワク感であり、期待であり、一種の高揚と勢いであるから、それが無いとどんなに指の達者な人であろうとわざわざ行こうという気にはなりません。
だからスピーカーの前が一番自由で快適になるんだと思います。
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