音楽=生演奏という原則至上主義とでもいうべきか、録音はとりわけある種の人達には、音楽として「まがい物である」という扱いを受けることが少なくありません。
音楽は一期一会のものであり、一瞬ごとの明滅であり反応であるのに、それを何回も演奏し、できの良い物を選ぶことが非音楽的で邪道だと映るようです。
何度も録り直して最良のテイクを選び、キズの修正やときには継ぎはぎもするし、音質も機械的人工的にいかようにも調整するなど、完成品として仕上げる過程が、ある角度から見るとフェイクだとみなされ、とても信頼できるものではない!というわけです。
しかし、マロニエ君は決してそうは思いません。
とりわけセッション録音が、ステージでやるようなありのままのパフォーマンスではないといっても、べつにAIが演奏しているわけではなく、演奏する側も生身の人間だから、そのつど出来不出来が生じるのは当たり前で、録音というものを一つの作品と捉えれば、それにあたって最良のものを選ぶのは当然ではないかとさえ思います。
有名な写真家でも、作品としての一枚を得るために何十何百というとてつもない数のシャッターを切って、その中からこれという一枚を選び出す、書道家でも納得がいくまで何枚も書いたり、陶芸家でもひとつの釜の中からこれだというものはあればいいほうで、そういうことは多くの人が知っていることだと思います。
それと同じことだと思うのですが、なぜ音楽だけが、そういう面に過度に厳しく、やり直し即ニセモノ扱いされるのがわかりません。
最良のテイクを好ましい音質で聴けるのなら別にそれで構わないし、ライブの迫真の演奏というものももちろん魅力的ですが、そのぶんキズがあったり、音質の問題、強烈な魅力があると同時に不完全な面があったりもして、一長一短です。
あの歴史的にも有名なホロヴィッツの1965年のカムバックリサイタルでも、長年そのライブ録音とされていたものは、実は修正があちこちに施されているものだったことが明らかとなり、近年そのオリジナル音源のCDも発売されましたが、これまで聞いたことのなかったようなオッと思うようなミスタッチなどがあって、やはり生演奏というのは、そういうものだと思いました。
それをレコードとして発売する以上、修正されることがそんなに悪いこととは思いませんし、当時あのままでは発売できなかっただろうというのも頷けます。
また、アルゲリッチ、クレーメル、マイスキーが東京でおこなったチャイコフスキーとショスタコーヴィチのピアノトリオも、ライブ録音として発売されていますが、NHKで放送されたコンサートでの演奏と、このときのライブとしてグラモフォンから発売されたものでは、出だしのテンポから大きく異なっており、聞いたところでは深夜にずいぶん時間をかけて録り直し作業も行われたとかで、これはライブをもとに修正パーツをセッション録音で作って仕上げられたものといった印象です。
CDは繰り返しての鑑賞に堪えるものである必要もあり、音楽的な活気は大切ですが、必ずしも偶然性の高い一発勝負的な演奏でなくてもいい。
たしかに、生でしか伝わらないものがあるというのもむろん否定はしませんが、生では伝わらないものが録音からは得られるということも多々あるのも事実で、何を求めるかは個人の価値観の問題でもあるように思います。
また、いかに生の楽器の音が素晴らしいという原則だけを唱えても、実際には好ましくない楽器/演奏/音響などのマイナス要因から逃れることは簡単ではなく、生だからというのが、すべてに優先されるほど圧倒的などという感覚こそ一種の幻想じゃないかと思います。
いずれにしろ、あとから手を入れるというのは、他のジャンルでは当たり前なのに、音楽だけはそれがフェイクのように扱われるのは、不当な扱いと言わざるを得ません。
その点でいうと、グレン・グールドはコンサート活動から早々に引退して、録音芸術にピアニストとしての大半を捧げましたが、これも彼にとっての必然であり、非常に納得の行く姿勢であるけれど、あまりに時代に先んじ革新的すぎて異端扱いをされたのは残念でなりません。
録音否定派は、録音では陰でどんなことでも可能などと尤もらしいことをいいますが、だったらグールドの弾く新たなレパートリーが、技術によって出てきてもおかしくないはずですが、そんなことはまだ実現もしていません。
たしか一度、それに類するものが実験的に行われましたが、まるで覇気も生命感も情感もない、聴くに堪えない代物でした。
また、修正やなにかがそんなにダメで、それをしたらニセモノだというのなら、絵でも小説でも、衆人環視の中で一気に制作して、あとから訂正してはならない、それをしたらフェイクだという論理も成り立ちそうな気がしますが、むろんそんなことはあるはずがありません。
前回書いた、生演奏派の人達の言い分としては、一貫して録音で聴くものは人工的でフェイクだといいますが、それをいうなら、今の若い世代の演奏は、たしかに自分の身体を使って弾いているけれど、聴く人の心を揺さぶるような情感が薄く、演奏としては限りなくフェイクっぽいのです。
「演奏は時代とともに変化するもの」のは当然ですが、正確でやたら解像度だけを上げただけの、活字みたいな無表情な演奏のほうが、音楽の存在価値としてよほど問題のような気がします。
私達は音楽を聞くことによって、夢(ときに地獄ということもある)の世界を旅したいわけで、ただ個人の能力や演奏技術自慢のお付き合いをさせられるのは、これこそ音楽の本質から逸脱したものだと思います。
つまり、生か録音かなどより、より深刻な問題は他にあると思うのですが…。
マロニエ君の理想としては、作品が演奏によって生まれ出て、目の前に立ちあらわれてくるものに包まれるような演奏ですが、現代の演奏の主流は、楽譜をいかに正確に音でコピーするか…というあたりで目指すものが停止してしまっているように感じて、それでは音の奔流に身を委ねるとか酔いしれるということができないのです。
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