YouTubeをあれこれやっていると、アレクセイ・ゴルラッチがベヒシュタインでショパンを弾いている動画がいくつかありました。
スケルツォの2番、ベルスーズ、いくつかのマズルカなどでしたが、これがすばらしかった。
隅々までこまやかな神経が行きわたった品位のある美しい演奏であることに、嬉しい驚きをもって、思わず聴き惚れてしまいました。
ショパン演奏として趣味がよく、磨きぬかれた適切なタッチ、丁寧な語り、しかも、準備された台本通りという感じもなく、表情や語りかけなど今そこで紡ぎ出される音楽の息遣いがあって、久々に好ましいものを聴いたように思いました。
ショパンコンクールで聴くいろいろな演奏は見事だけれども、どうにも素直に気持ちが乗っていけないものが常に払拭できずにいましたが、マロニエ君はこういうショパンが好きだということを、あらためて確認できました。
よく準備されているけれども、このピアニストの持ったもの、感じたことが素直に投映されたものであり、本音を排して決められた計画通りに演奏されるショパンとは、根本的に意味の違う本物の語りが聴かれました。
ひとつひとつの音形が必然的に響き合い、ごく自然に現れては、さまよい、逡巡し、解決され、また次の山を迎えるいくさま、そのどれもにかすかな吐息のような感情の息遣いが常に息づいており、それが聴く者の心を深いところで慰め、現れ、悲しみを共感するようです。
さらに大切な点は、演奏者が細部のちょっとした間合いや緩急などに、奏者がそのように感じ、非常に大事に取り扱っている点などが、聴いているこちらが伝わり、なにかを受け取ったように気持ちになれるところが音楽を聴く上でのキモではないかと思います。
これは、少しでも踏み外すと崩壊しそうなところが、ギリギリで掬い取られてそうならずに保たれて、危うい緊張感の中から細い穴を通り抜けてくるように伝わってくるところなどで、いやはや感心しました。
また、ベヒシュタインによるショパンというのもさほどピンとくるものはなかったのですが、あらためて聴いてみると、なかなか悪くないと思いました。低音がやや素朴すぎるように感じない時もありましたが、概ね好ましく思いました。
特に次高音あたりの美しい音色と一音一音が可憐に語りかけるような特性が、ショパンに意外に相性がいいことにも気づきました。
それで思い出しましたが、いつだったかドビュッシーの本に書かれていましたで、ベヒシュタインとプレイエルは、アーキテクチャーが繋がっている、意外な血縁関係にもあるということで、ああ、なるほど、そういうことかと思いました。
むろんなによりもゴルラッチの演奏が素晴らしいわけですが、それがこのベヒシュタインが下から支え、どちらかというとベートーヴェン的な演奏の多いスケルツォ2番が、これほど繊細で物悲しく、深い憂いをもって耳に入ってくるのは、たぶん初めて聴いたような気がしました。
こんな表現は他のピアノでは出せないものかもしれないし、ずっと聴いていると耳も馴染んできて、気がついたときにはベヒシュタインが軽やかに歌うフランスピアノのように聴こえてくるのですから、人間の耳とは不思議なものです。
この人は、あまり聴いたことはなかっただけに、こんなにも素晴らしい面を持った人だったのかと思いつつ、たしかむかし浜松コンクールで優勝した人だったと思ってウィキベディアを見てみると、なんと…彼もウクライナのキーウ出身とあり、先にウクライナ出身の音楽家のことを書いたばかりだったので、なにかに打たれたような気分でした。
いまや、ポーランドでさえコンクール仕様のニュアンスを失った正確一本のショパンが横行する中、こんな好ましいショパンを効かせてくれるピアニストがいて、もしやあの戦火の中のウクライナに今もいるのかと思うと、いやが上にもショパン自身の運命とも重なるようで、胸が締め付けられるような気持ちになりました。
ウクライナの男性は子どもと高齢者を除くと、国外にも出られないようだし、出られてもウクライナに生を受けた人間の多くは祖国を離れるようなことはないのだろうから、彼はどうしているんだろうと無性に思います。
この演奏は2017年にベルリンで行われたようですが、その繊細な美しさと悲しみ、ときに慟哭に満ち、あたかも今のウクライナを予見した静かな叫びとそのものように聴こえてきて、思わず涙を誘いました。
さらには、このような繊細な感受性に満ちた磨きぬかれたタッチによる演奏なら、ショパンが聴いても満足するのではないか?という気がします。泣けました
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