イタリアのBECHSTEIN-2

先月終わりに書いた「イタリアのBECHSTEIN」から、ほぼひと月が経過しました。
その後もBECHSTEINの情報が続々ともたらされ、さすがは本場とあらためて驚かされるばかり。

1 ▶まずは写真を掲載していたC型(220cm)を見に行かれたようです。
うっすら埃をかぶっている状態で、調律もかなり狂っていたなどで、そのときは好印象には至らなかったとのことで残念な結果でした。
話だけでは、正直、それぐらい大したことではないのでは?という気もしましたが、その場でしかわからない何かがあったのかもしれず、ピアノのような大きな買い物には、人それぞれのエモーショナルなものが深く関わるので、その大事なところは現場でないとわかりません。
ちなみに、試弾の際、所有者など複数の方がすぐ側で見ていたなどの悪条件も重なったようです。
せめて4〜5分は退室して自由に弾かせてほしいものですが、そういう引っ込み思案なことを考えるのは日本人だけでしょうか?

こういうとき、技術者が同行できれば心強いでしょうが、見ず知らずの技術者にいきなり頼めることでもなく、素人の自分が、ひとりで決断するというのは荷が重いことだろうと思います。

他の情報も続々ともたらされました。

2 ▶別のBECHSTEINのCで、さらに古いピアノ。これはハンマーは良好な感じであるし、ウイペンはダブルスプリングに交換済みではあったけれど、かろうじて写っている弦やピンはかなり古い感じで、しかもそのあたりは見せたくないのか写真はなく、おまけに響板割れがあることを初めから告知されている個体でした。
形状からして19世紀のピアノと思われますが、全体にもくすんだ骨董品という趣で、見ていてあまり良さが伝わらない印象でした。
さらに気になったのは正面からのショット。
鍵盤蓋のロゴが字数の多い旧タイプにもかかわらず、その大半が失われ、「C.BECHSTEIN」の位置も不自然で、購入したら苦労するぞと言っているようなピアノでした。

3 ▶ピアノショップが販売する「整備済み」とする200cmのBECHSTEIN B。これは塗装などもパッと目は整えてあって一見きれいに見えますが、ビデオを見た感じでは(想像ですが)古い塗装を完全に落とさず、中途半端な下地に塗り重ねたような怪しげな感じを覚えました。
また、交換済みというハンマーなどはフェルトだけを巻き直したもので(そのこと自体は問題ではありませんが)、形も止め方もあきらかに形がおかしく並びもバラバラ、ペダルはなんとまったく別のピアノ(たぶんヤマハ)のものを強引に取り付けてあるし、鍵盤蓋のロゴは文字が一部欠損していたりと、これまた怪しげな要素がいくつも見て取れるものでした。
にもかかわらず、音はそう悪くもない感じだったのは意外でした。

4 ▶さらに別に個人所有のBというのがあり、これは初めに見た写真では、弦もハンマーも交換済みで、鍵盤一式も大部分が新しいパーツで構成されており、技術者の手間とコストがそれなりに注がれているようで、とても良さそうに見えたのですが、続くビデオや詳細な写真で印象は一変しました。
まずなにより音がボケており、本来のパワーもなく、響板が下がっているのでは?と思いました。
その所有者による演奏動画もあったけれど、とにかく速いスピードでピアノロールのように弾かれるだけで、一音一音の感じはほとんど掴めないものでした。
またハンマーはきれいなものが付いているにもかかわらず、よくよく見てみると、次高音のセクションのみえらく削られて薄くなっており、やはりそのあたりに問題があって試行錯誤を重ねたけれど、諦めた末の売却では?というような疑念さえ持ってしまいました。

5 ▶さらにさらに、トドメとばかりに合唱の練習に使っていたというAが出てきました。これは今回最安値の€2500(約35万円!)で、さすがにあまりきれいではなかったけれど、キレのあるBECHSTEINっぽい音はそこそこしていたので、値段から見ればこれはこれでアリか?とは思いました。ただし、フレームはじめお世辞にもきれいとはいえないし、響板にはパックリと割れがあったので、手を入れるとなると、ほとんどオーバーホールもしくはそれに近いものになることは間違いありません。
電子ピアノにもうちょっと上乗せするぐらいで買えるBECHSTEINとして、迷いなく割り切りができれば、それなりの音は出ているので、価格相応の価値は十分にあるとは思いますが、欲しいか?と問われればあまりそそりません。

そうこうしているうちに、その方は10日ほどお知り合いの方のお宅に滞在されることになった由ですが、そこにはなんとブリュートナーのグランドがあり、これがたいそう素晴らしいらしく、いたくお気に召された様子で、このぶんだとブリュートナーもかなり射程圏内に入ってきた模様です。
すでに、ベヒシュタインと前後してブリュートナーの情報は2件寄せられており、やはりヨーロッパはこの手のピアノの数といい、価格といい、本場の強みを感じないではいられません。

上記の5台のベヒシュタインとブリュートナー計7台は、大半が50万円〜80万円ほどですから驚くばかりです。
そのままでも十分使えるピアノがあればそれに越したことはありませんが、仮に予算を200万円ぐらいに設定して、購入額の残りを修復代に当てたら、さぞや素晴らしいピアノが出来上がるであろうと思われます。
それでも日本で売られている同等品に比べたら1/3ほどで手に入れられるわけで、日本から見れば望外の話です。

このピアノ購入の顛末はまだまだ続きそうなので、またご報告できればと思っています。
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SK-EX補足

SKシリーズは今やカワイピアノの顔であり、世界的にも良品として認められる地位を獲得していると聞きます。

そんなSKシリーズについて、今回はアマチュアのピアノマニアとして、甚だ邪道な、大半の人にとってはどうでもいいであろうマニアックなことを書いてみます。
SKシリーズを目の前にしていつも感心させられるのは、製品としての作りの良さ。
とりわけ各パーツの面や線の一糸乱れぬ正確なこと、くわえて塗装の美しさには目を見張るものがあり、それらが醸しだす高級感は、メーカーがこのシリーズに懸ける意気込みを感じます。
それは高度な木材加工技術によるものなのか、なんらかの下地処理や工法によるものなのかは知らないけれど、とにかく仕上げのきれいさで際立っているのは驚くばかり。

巷では「ざんねんな☓☓」という絵本が流行っていますが、その「ざんねんな」も含めながら言いますと、側板の内側は通常よくある木目の突板(化粧板)ではなく、バーズアイという高級素材が奢られているようですが、これが模様といい色目といい、どうにも中途半端で高級感に効果を上げているようにはどうしても見えません。
模様は小さく色付けは薄いためインパクト性に欠け、遠目には普通よくある木目よりも安っぽく見えてしまうあたり、ファツィオリなどとは対照的でなんとも残念。

それに対して、フレームは以前は青系のあまり魅力的とは言い難い金色でしたが、現在は流行りの赤みの強い色調に切り替えられたようですが、これが思い切ったのでしょうがやり過ぎで、ほとんどオレンジ色みたいな色目。
中国のハイルン、ウェンドル&ラング、フォイリッヒなどがこういう感じで、いささか品位に欠けていただけません。
また、フレームをその色にするのなら、当然そのすぐ脇にくる側板の内側のバーズアイとのカラーバランスを考慮すべきところ、これがまったくなされていないのか、ジャケットとパンツの組み合わせが下手な人の着こなしのよう。

ボディ内側に貼られる木目は、色のルールから言ってもフレームよりも濃い色目であるほうが見た感じも収まりがいい筈なのに、カワイにはそんな色が醸し出す雰囲気に配慮のできる人がいないのでしょうか…。

逆にいいなと思うのは、フェルトの赤の色合いで、多くのピアノが派手な朱色のような赤であるのに対し、SKのそれはややくすんだ感じの深みのある赤になっているのは、抑制的で大人っぽく、これは非常に好ましいものだと感じます。
ただし上記の激しいフレームの色のせいで、その良さもだいぶ埋没してしまっていますが。

全体に、カワイのピアノに感じるのは、とくにコンサートグランドの場合、ディテールも全体も、ちょっとゴツいかな?というイメージが拭えないところでしょうか。
側板もなんでこんなに?と思うほど分厚くて、まるで戦艦大和のよう。
ヤマハも多少そういうところがないでもないけれど、カワイはもう一回り大きく厚ぼったく、なんでも薄めで華奢にできているスタインウェイに比べると、どうしてこうもマッチョに作りたいのか理解できません。

SK-EXは、どうも昔のKG-8の頃のままの基本形状のように見えるし、おそらく痩身なスタインウェイDは、寸法的にはSK-EXの中に前後左右すっぽり収まってしまうと思います。
ピアノは楽器で、楽器には軽やかさが必要なのに、こうもゴツくするという発想じたいが、どうもわかりません。
例えばヴァイオリンをストラディヴァリウスよりやや大きめに肉厚にガッチリ作ったら、頑丈かもしれないけれど音が良くなるなんて誰も思いません。
銘器というのは、おしなべて贅肉をそぎ落とし、技を駆使してギリギリの危ういところで成り立っているものじゃないかと思います。

こんなふうに書くと「ピアノと弦楽器は違うんだ!」という声が聞こえてきそうですが、木の性質を使って音を増幅させ、飛ばすという基本においては、大筋で大差ないと思うのですが。

以前も少し書いたことですが、日本製のピアノは運送業者が喜ぶほどやたら頑丈にできているらしく、対して、海外のピアノの多くは全体が響体という考え方なのか、華奢でボディもユルユルなので気を使うのだとか。
例えばスタインウェイの場合、クレーンで吊るにしても決して支柱にロープなどをかけてはいけない(無知な業者はやってしまっている由)そうですが、そういう繊細で危ういところからあの輝ける力強い音が生まれているとしたら、楽器とはいかにバランスが勝負どころかと思います。

おかしな喩えですが、飛行機は空を飛ぶために軽量化と効率が必須で、そのためには最高難度を極めた必要最小限の作りであることが求められます。それに比べれば頑丈に作るのは簡単です
楽器は空は飛ばないけれど、音は遠くへ飛ばしたいわけで、なにか通じるところがあるような気がするのです。
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Kトーン

8月13日放送の「題名のない音楽会」では、ショパンコンクールで2位を獲得した二人のピアニスト、アレクサンダー・ガジェヴと反田恭平の両氏が揃って出演するという内容でした。

演奏はガジェヴ氏がショパンの前奏曲 嬰ハ短調とドビュッシーの12の練習曲から「組み合わされたアルペジオのために」、反田氏がショパンのノクターンop.62-1。

前奏曲 嬰ハ短調は個人的にもとても好きな作品でありながら、演奏される機会は多くないので、少しばかり期待を込めて聴きましたが、正確で危なげなく整った感じに弾かれはしたものの、この作品に期待してしまうショパンの中でもとりわけ彷徨うようなニュアンスとか詩情みたいなものがもの足りないというか、あくまで楽譜とか音符を感じさせるもの。
この作品にとくに際立つ、出だしからすでに危うさに満ちた即興感、どっちに行くかわからないような転調など、儚さの極地みたいなものを堪能するには至りませんでした。
コンクール出身者の演奏全般に感じるのは、音楽そのものより、演奏行為のための注意深い糸が常に張られているようで、情感に流れず、自然な呼吸とか緊張〜開放といったものが封じられているようで、だから常に四角四面で楽しくなく、心が乗って行かないものをいつも感じさせられます。

むしろ、ドビュッシーのほうがまだ自然に聞けるような気もしましたが、それは私がどうこういうほどドビュッシーのこの作品に馴染んでいないせいかもしれません。

さて、この日注目すべきは、カワイのSK-EXがスタジオに運び込まれて使用された点でした。
ガジェヴ氏はたしか浜松コンクールの頃からカワイを弾いているようで、よほどお気に入りなのか、ショパンコンクールでもSK-EXを弾いているひとりでした。とはいえスタジオまで持って来たのは本人の希望だったのか、あるいはメーカーサイドが積極的だったのかは知らないけれど、とにかくそういうことになっていました。
そのためか、反田氏もこのピアノで演奏。

スタジオで収録されると、また違った面が見えてくるもので、ホールのような広い会場ではわかりにくいものがわかったりするようです。
まず感じたことは、カワイ独特の音のキツさが「まだある」ということでした。
もちろん、見事に調整されたはずのピアノなので、ハンマーが硬いとかそういう表層的ことではなく、ピアノが生来もっている声というか、音の性格というか、そういう部分について言いたいわけですが、立ち上がってくる音の中に、やはり「カワイトーン」があるなぁと思いました。

ヤマハとカワイを比べる際には、パンチと華やかさのヤマハに対して、カワイは温かみのあるまろやかな音と評されており、それはそうだとは思います。でも個人的な印象としては、カワイの音は表面はまろやかであっても、その音の奥には妙に乾いた芯のようなものがあって、CDなどを聴いていると、すぐにはわからないもののだんだんこれが耳についてきて、ちょっと疲れてしまう場合があります。

以前のEXやSK-EXには、もっと純朴な響きがあり、例えばショパンコンクールでもスタインウェイやヤマハ(この両者もずいぶん違いますが)に比べると、いささか泥臭い感じの音で目立っていたものですが、その時代から、このカワイの特徴があって、そこも評価が割れたところだろうと思います。

しかし、その後、方針転換されたのか、ぐっとクリアな方向へ舵を切ってきたように思われて、昨年のショパンコンクールでは、そういう野暮ったさは動画で視聴している限り目立たなくなり、4社のピアノの中でも違和感なくステージで鳴っていたので、カワイのこの特徴はついに消し去られたのかと思っていました。

それが思いがけなく「題名のない音楽会」のスタジオ収録で(ホールに比べれば空間も狭くマイクも近いせいか?)、こまかなことはわかりませんが、その音の要素がまだ残っているように感じました。
「題名のない音楽会」のスタジオ収録は、基本的にスタインウェイで、たまに別のスタインウェイになったり、ヤマハやファツィオリになったりするので、視聴者としてはそれなりに慣れている条件下であるので、やはりそこで演奏開始直後からカワイの特徴を感じてしまったということは、まったくの勘違いでもないのだろうと思います。

まったくの私見ですが、SKは2/3/5までは、わりにほがらかで品格もあり好ましいピアノだと思いますが、6/7になるとメーカーの気合が入るのか、ちょっとやり過ぎなのでは?と思うような気負った感じになり、演出過多というか、逆に疑問の余地が出てくるような印象を持っています。
ましてSK-EXになると、大半の人にとっては観賞用のピアノになるので、その音は純粋に人の耳に届く対象になるわけですが、そのメーカーのDNAというのは、脈々と受け継がれるものだということを感じます。

これを書きながら、思い出したこともありました。
何年も前のことですが、車の中であるロシア人ピアニストによるスクリャービンを流していたときのこと。
このCDはSK-EXを使ってヨーロッパで録音されたものでした。
しばらくすると、それを聞いていた母が「このピアノは何?」と聞いたので、「カワイ」と答えると「いつもと違ってキンキンすると思った」と平然と言ってのけました。
日頃から、私があまりにピアノの音に興味をもっているので、いつの間にか感覚的に特徴をつかんでしまったものと思います。

このキンキンは、ヤマハのあの派手な音とは別種のもので、もう少し奥まったところにある感覚で、カワイに古くから共通するものですが、それが車の中という、雑音も多い中で、大音量でもなく、ピアノの音などにさほどの興味もない人の耳に、ちゃんと伝わってしまうことの驚きを感じたのですが、物事の本質というのは案外そんなシンプルなものだろうとも思いました。

「題名のない音楽会」は次回(20日)も同じ二人による演奏のようです。
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マルトゥッチ

前回のチャイコフスキーに続いて、マルトゥッチのピアノ曲集のCDを聴いてみました。
19世紀後半から20世紀初頭にかけてイタリアで活躍した作曲家で、指揮者やピアニストでもあり、イタリア人でありながら、オペラには手を付けず、器楽曲、交響曲や室内楽の作品を残しているようです。
その中から、ピアノ曲で6つの小品op.44、小説op.50、幻想曲op.51、2つの夜想曲op.70というもの。

私はこれまでマルトゥッチという人の作品を聞いた覚えがなく、おそらく初めて聴いたような気がします。
演奏はアルベルト・ミディオーニというピアニストで、こちらもまったく馴染みのない人ですが、そういう初めてづくしというのも面白いものです。

作風は、とくだん個性的とは感じませんでしたが、耳に違和感のない後記ロマン派風の作品という感じで、新しい音楽を目指した人のようには思いませんでしたが、馴染みやすい和声に乗って展開していく作品は充分に楽しめました。
イタリア的というより、国籍を感じさせない19世紀後半のロマンティックな作品という印象。
ウィキペディアによれば、指揮者としてはワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイタリア初演をした人だそうですが、作曲者としては器楽曲などに注力したようです。

また、トスカニーニは繰り返しマルトゥッチの作品を採り上げ、マーラーはニューヨークの告別演奏会でマルトゥッチのピアノ協奏曲を指揮、アントン・ルビンシュタインも彼の作品をレパートリーに入れていたということなので、20世前半はそれなりに人気のあった作曲家だったようですし、イタリアの作曲家で音楽学者のマリピエロは「マルトゥッチの交響曲第2番は、オペラ以外のイタリア音楽の再生の原点」とまでいっているとか。

考えてみると、イタリアは音楽発祥の国でありながら、古典作品とオペラ以外の作曲家という点では、これという人はあまり思い浮かばず、パッと思い出すところではパガニーニやクレメンティ、レスピーギなどで(忘れている人がいるかもしれません)で、さほどは思いつきません。

まあ、あまりマルトゥッチの作品についてどうこう言う資格も自信もありませんが、悪くはないけれど、有名作曲家として燦然たる地位に列せられるほどのものとも思いませんでした。
聞き手の心を強く捉えて離さないような、強烈な個性と魅力が希薄なのかもしれません。
このように多くの作曲家によって膨大な作品が書かれながらも、現代でその作品を音として耳にすることができるのは、まさに一握りに過ぎないことを考えさせられました。


ところで、その前に聞いていたCDがブリュートナーによるチャイコフスキーの歌曲編曲集であったことはすでに書きましたが、それからこのマルトゥッチのCDに入れ替えてまず初めにのけぞったのは、それまでブリュートナーのドイツ的な響きにしばらく慣れていた耳にとって、(おそらくスタインウェイだろうと思いますが)なんという柔らかな、まるで弦楽器のようなピアノかということでした。

それぞれの個性なので、優劣をつけようというのではなく、その違いは衝撃的だったのです。
メーカーによって、おなじピアノでも目指す音の方向性や美意識というものが、こうも異なるものかということに改めて驚いたと同時に、お国柄やメーカーによる違いがこれほどあるということは、なんと面白い事でしょう。
ちなみにスタインウェイは、ドイツ人一族の天才的な設計がアメリカという豊かな土壌で開花した特殊なピアノであり、これはドイツピアノともアメリカピアノとも言い難い、国籍で語ることの難しいピアノだと思います。

私見ですが、最新のベヒシュタインはYouTubeなどをみていると、グランドはかなり音色が変わり、現代的な洗練方向に振ってきたように思います。コンサートグランドでいうとENの時代からD280で大きく変革し、その後も振れ幅はあったようですが、最新のD282はフレームと弦の間のフェルトが、アップライトが一足先にそうであったように伝統のモスグリーンから紺色に変更され、よくみると碗木の形などもわずかに変化しており、何よりもその音は、剛健なドイツピアノというより、しなやかで色彩的なものになり、かつてのイメージとはだいぶ違ったものになってきたように感じます。

ベヒシュタインがドイツピアノ路線からやや離脱しはじめたかに思える現在、かつてのような武骨なまでのドイツピアノらしさというのは、このブリュートナーやシュタイングレーバーあたりになってしまうのか?と思います。
さらに言うと、かつてのブリュートナーはドイツピアノらしさの中に艶っぽい声が聞き取れましたが、チャイコフスキーのCDではより骨太の逞しい感じになったような印象を持ちました。
そういう意味では、かつては剛のベヒシュタイン、柔のブリュートナーというイメージでしたが、ここにきて逆転現象が起こっているのかもしれません。
あくまで、CDやYouTubeでの印象ですが。
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ブリュートナー

最近は、以前に比べるとCD購入ペースもがっくり落ちましたが、最近少し買ってみたものから。

ペトロネル・マランという南アフリカ出身のピアニストが弾く、チャイコフスキーの歌曲集(ピアノ編曲版)で、レーベルはドイツのヘンスラーで、さすがというべきか録音が良く、クリアなのにパワーと迫力を兼ね備えて聴きやすい!というのが印象的でした。
クラシックの録音には、様々な専門的理由があるらしく、やけに音が小さめで陰気な音しかしない、聴いていてぜんぜん楽しくもないものがときどきあります。
この手は、どんなにボリュームを上げてもダメで、まるで覇気がなく、その音楽や演奏を楽しむ気分まですっかり削がれてしまいます。
その点で、このCDは演奏が目の前でリアルに広がってくるようで、まずこれだけで「いいCDだなぁ」という印象。

ペトロネル・マランという人は、これまで私にとって顔も名前も知らないピアニストでしたが、ネットで調べてみるとすでにヘンスラーから何枚ものディスクが出ているあたり、それなりの実力者なのだろうと思います。
南アフリカでも幼少の頃からオーケストラ共演するなど才能があった人のようで、現在はアメリカを主な活躍の場としている人の由。
表紙の写真を見ると、お顔に対して驚くばかりの大きな手で(羨ましい!)、ピアニストになることを運命づけられてきた人なのかもしれません。

さて、演奏内容は大半が馴染みのないもので、曲想にチャイコフスキーらしい特徴はときどき感じるものの、全体を通じてとくに魅力的とは思いませんでした。というのも、特別な場合を除けば、歌曲をピアノ曲にするのは(1〜2曲なら面白いけれど)、CD全曲となるとやはり冗長で、どうあがいても歌にはかないっこないというのが出てしまいます。
歌曲は歌を前提にできているのだから、当然といえばそれまでですが。
人の声とその身体から湧き上がる呼吸、詩の意味などが相まって作品となっており、それをピアノで演奏して録音まですることに、どういう意味があるのか私にはよくわかりませんでしたし、聴けば聴くほど、歌手の歌う同曲がきいてみたいというフラストレーションが募るばかり。

この方のディスコグラフィーを見ると、ほかにもモーツァルトやベートーヴェン、ブラームスの歌曲をピアノ曲として演奏されているようで、よほど歌曲をピアノ曲として演奏することがお好きなのか、どの作曲家にも弾きおおせないばかりの素晴らしいピアノ曲があるのに、なぜわざわざこんなことをされるのか…。

自分自身も好きじゃない想像ですが、商業的な理由で、とびきり有名でもないピアニストが、ありふれた曲を入れても見向きもされないので、少しでも注目されるためには「ちょっと違うこと」をする必要があるという判断なのか…などと勘ぐってしまいます。
もし純粋にピアニストが「自分は歌曲のピアノ編曲が好きだからそれを録音したい」と言っても、レーベルもビジネスだから、昔だったらなかなか承諾は得られないと思いますが、時代も変わり、販売戦略上の逆転の発想なのか…。


さて、このCDにはもうひとつ注目すべき点があって、封を切ってケースを開くと、ライナーノートの裏側にブリュートナーのロゴが描かれており、その下の小さな文字をよくみるとブリュートナーのコンサートグランド(Model 1)によって演奏されているようでした。

なるほど、耳慣れたスタインウェイとはまったく別物であるし、ときどきCDでも耳にするヤマハ、ファツィオリ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、カワイのいずれとも違うものでした。

この中で一番近いといえばベヒシュタインかなぁ…とも思いますが、それともやや違い、美しい田園地帯に住む骨格のしっかりしたドイツ人という感じでしょうか。
いかにもドイツっぽいのは、スッとまっすぐ立ち上がる太い音であること、ドイツ語的滑舌なのか、発音がボンとはっきりしていて音のひとつひとつがわかりやすく、太字の万年筆の文字のようです。
また低音は木の音というべきか、どちらかというと板を感じる木の音で、まぎれもなくドイツピアノの質実な魅力があふれているように感じます。

歯切れよく、音が立つのではじめはちょっとうるさいように感じる時もありましたが、不思議に少しすると耳慣れてきます。
この「慣れてくる」というのは本物である証と思われ、そうでないものは耳が疲れてストップしたくなるものですが、そういうことは決してないのがさすがです。
そして、いかにもピアノという楽器の構造を感じさせる素朴で野太い音に魅力があることに気がつき、多くのピアノが洗練に向かいたがる中で、ブリュートナーは実直で、むしろほのかな野趣さえ含まれているところが、このピアノの魅力だろうと思いました。
昔のイメージでは、ベヒシュタインは男性的、ブリュートナーは女性的という感じがありましたが、最近の両社のピアノは、もしかしたら逆転しているかもしれないとも思ってしまいました。

聴いていると、これはこれでいいなぁと思ってしまい、いかにもピアノらしいピアノを聴いているという手応えがあって、しばらくこれに慣れてしまうと、他のピアノがどこか物足りなくなるかもしれない…そんな気がしてきます。
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