ブーニン−1

つい先週のこと、NHKのBSで『それでも私はピアノを弾く〜』という現在のブーニンを扱った番組が放送されました。
1985年のショパン・コンクールの優勝者で、音楽ファンを超えて時の人にもなったスタニスラフ・ブーニン。

当時のコンクールには、大勢の日本人出場者が束になって参加し、スポーツでいうならさしずめ日本選手団のようで、その団長のように目されたのが故園田高弘氏でした。
このときはNHKのカメラも(おそらく初めて)密着し、楽器の分野でも日本のヤマハとカワイが公式ピアノとして採用されたのもこの年からで、1985年というのは日本にとって大きな節目にもなった年だといえそうです。
現地でブーニンの鮮烈な演奏を目の当たりにした園田氏はいたく感銘されたご様子で、ブーニンを「100年に一人出るか出ないかの逸材」だと、最大級の賞賛を述べられ、実際に会場でも抜きん出た実力と存在感で、圧倒的な人気とともに栄冠を勝ち得たようでした。

NHKの番組が園田氏のコメントとともに放映されるや、日本での人気はウナギ登りとなり、その後来日した際は大フィーバーが巻き起こり、チケットは即完売、ついには国技館でコンサートをするなどブーニン・フィーバーとなって、クラシックのコンサートとしては前代未聞の熱狂が列島を駆け巡りました。
しかしそれは、あくまで一時的なもので、長続きはしなかったようです。

ブーニンはその後、ドイツに亡命、日本人女性と結婚し、それなりの演奏活動はしていたようですが、世界の第一線をキープし続けるにはもうひとつ磨き込みの足りないものがあるのは確かで、人気は次第に下降。
折しも、ソ連からはキーシン、レーピン、ヴェンゲーロフといった、ブーニンより一世代下の超弩級の天才少年達が現れて、その陰に隠れたという不運も重なったように思います。

私も二度ほどブーニンのリサイタルに行きましたが、この人ならではの魅力があることは認めるものの、全体としてはやや独りよがりの、さほど練りこまれてるとは思えない直感に任せたイメージが強く、心から感銘を得るといったものとは少し違うピアニストという印象をもちました。よく言えば従来のルールを破ったロックスターのような奔放さ、悪く言えば勝手放題とも受け取れる演奏は、安定した人気が長続きするには至らなかったようです。

とくに2度めは、わざわざファツィオリのF308を持ち回ってのコンサートでしたが、そこまでのこだわりが伝わってくる演奏とは感じられず、いろんな疑問が残ったのも事実です。
やがてブーニンはヨーロッパではさほどの評価は得られなくなり、ついには「日本限定のピアニスト」といった風説まで流れたほどで、彼の築いた輝かしいキャリアや天賦の才、スター性を考えると、もうすこし違った道はなかったのか?と思うばかり。

ただ、なんともエレガントな貴族的なステージマナーであったことは印象に残っています。
彼は偉大なピアニストを輩出するロシアで、父は有名なスタニスラフ・ネイガウス、祖父に至ってはロシアンピアニズムの祖のひとりであるゲインリヒ・ネイガウスで、いわばロシアピアノ界の血統を受け継ぐプリンスでもあり、そのような自負があの高貴なふるまいにつながっていたのかもしれません。

当時購入したCDした中には、ショパンコンクールの決勝でのコンチェルトとは別に、コンクールの翌年に日本でN響と共演したライブ(ショパンの1番)もあったけれど、コンクールから解き放たれてこれ以上ないほど奔放な演奏となり、突っ込みどころも満載でしょうが、最近の優等生だらけの演奏に比べて、なんと爽快で面白い時代だったかと思います。

指揮の外山雄三氏が、細かい言葉は忘れましたが意味としては「全体として賛同はできないが、しかし、ときどきハッとするような美しさが聞こてくる」といったのが、良くも悪くもブーニンというピアニストの真実であり魅力だろうと思います。
今回、数十年ぶりで聴いてみましたが、いやはや凄まじいものであったし、どこまでもテクニックと感覚が中心ではあっても、それは決して力づくの大技ではなく、常に繊細さが支配しているところに独特の魅力があるのだと思いました。

こんな奔放ずくめのブーニンが伝統的なショパンコンクールに優勝したということは、前回の1980年に巻き起こった有名なポゴレリチ事件での反動もあったのでは?…と勘ぐりたくなるような気もしますが、どうなんでしょうね。
楽譜に忠実なショパニストを選び出すという伝統的な規範に従うだけでは、やがてコンクールそのものが行き詰まるという考え方が前回のスキャンダルから引きずられ、5年後にブーニンのような異端の優勝者を産み落としたのかも。
これはあくまで個人的な憶測にすぎませんが。

あのころのブーニンの演奏を聴いていると、今の若いピアニストはあまりに不正直で、本音を偽り、コンクールに受かりたいがために冒険心も反抗心も、研ぎ澄まされた感性も、なにもかもを失って、出世街道まっしぐらのレースに挑んでいるように思います…。
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ヘンな話

前出の文章を書いたのは実をいうと一年ほど前で、そのまま放置していたものでしたが、そのピアノのことがTVニュースで採り上げられたのです。

私の原体験となった福岡市民会館のスタインウェイが修復されるということで地元TVのニュースに出てきたと教えられ、そのことにまず大変驚きました。

先にも書いたように、時代とともに新しいホールが数か所作られたことで、クラシックのコンサートはほとんどそちらへ移行してしまい、市民会館でピアノを聴くということは(少なくとも私にとっては)皆無となり、もう何十年と行く機会もなくなりました。
昔は、オーケストラからバレエ公演、ピアノリサイタルまで、ほとんど市民会館だったので、ピアノといえば必ずといっていいほどこのスタインウェイでした。

個人的にあまりにも印象の深いピアノだったので、ときおりあのピアノは今はどうなったんだろう…と思うことはありましたが、おそらくは買い換えられ、もはや消息不明なんだろうと思っていました。

ありがたいもので、現在は見逃したニュースもネットで追いかけることができるので、その報道内容もわかりましたが、そのピアノは1963年製のDで、市民会館のピアノとして多くの巨匠たちによって演奏され、フレームには40人弱ものサインがぎっしり書き込まれていたことは今回はじめて知り、ニュース映像からもルビンシュタイン、ギレリス、アラウ、ケンプなどのサインが確認できました。

関係者の証言によると、1980年代に近くにできた別の施設に移され、長らくオーケストラの練習用ピアノなどとして使われていたものの、老朽化のため2007年以降は倉庫に保管されていたとのこと。
多くのサインがあったからだろうと思われますが、歴史的価値をもつピアノとして修復されることになったというのがニュースとして採り上げられたようです。
今後一年ほどかけて修復され、来秋にはお披露目コンサート、その後は福岡市美術館に収蔵されて定期的に使用されるとのこと。

無慈悲に廃棄されることもあると考えれば、修復されて生きながらえることができるというところまではまことに結構なお話ですが、その費用を聞いて思わず背筋に寒いものが走りました。
なんと1800万円!という強烈なもので、何かの間違いでは?と思いました。
これをクラウドファンディングや企業からの支援を募って賄うのだとか…。
しかも、そういう意味合いなら修復作業は地元でやるべきでは?と思いますが、ピアノはすでに埼玉へと運ばれているとのこと、もうなにがなんだかわかりません。

そこで知り合いの技術者さん(関東の方)に聞いてみると、その手のピアノの修復費用は(おかしなことだけれども)そのピアノの新品価格から算出されることになっているのだそうで、具体的にどこをどう修理したからという、個別の作業を積み上げて算出されるものではないのだとか。
これはあんまりではないか!と思いましたが、とにかく業界ではそういうことになっているのだそうで、そんな慣習がまかり通るとは二度びっくりでした。
日本よりもよほどピアノの修復をやっているはずの欧米ではどうなのか、そのあたりの事情はわからないけれど、どう考えてもこんなやり方が通用するのは日本だけではないか?という気もしてきます。

今回は、歴史的なピアノを修復することに意味があるわけですが、普通なら1800万といえば、すばらしい状態の同型の中古が買えるわけで、バランス的に見ても納得がいきません。
納得がいかないといえば、なんで埼玉なのかもわからず、その関東在住の技術者の方も、埼玉でとくに思い当たるところは無いとのこと、ますます不思議です。

個人的なイメージでは、どんなに徹底的に修理をしたとしても、せいぜい1/3程度じゃないかと思うんですが…。
このTVニュース動画は時間経過により、すでに視聴できなくなっていましたが、7月29日付けのNHK NEWS WEBには現在も1800万円という数字付きでこのニュースを確認することができます。

というわけで、なんだか素直に喜べない、スッキリしない話でした。
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原体験

ピアノの音も時代とともに少しずつ変化するものと感じつつ、そもそも自分が理想とするピアノの音の原体験は何だったかと考えてみることがありますが、まず自宅にあったピアノでないことだけは確かです。
…どころか、幼いころから自宅にあったヤマハのG2は中学になるぐらいまで弾いたのに、なにひとつ懐かしさもないし、鍵盤蓋のやけに大きなロゴ(現在のものとは違います)が見るたびに気に触っていたこと以外、ほとんど思い出すことさえできません。

むしろ、とくにこれという基準もないくせに、生意気にもこのピアノの音は「好きじゃない」とずっと思っていて、子供って物事を直感的に捉えるんだなあとつい笑ってしまいます。

可能性としては、自宅で親がレコードをかけていた巨匠達の音も知らず知らずに耳に入っていたかもしれませんが、とはいえ、そのときはまだ楽器としてのピアノを意識するには至っていません。

実物の生のピアノの音で、あまりにも自宅のそれとはかけ離れた異次元のスタインウェイに衝撃を受け、魅了され、畏れおののくようになったのは、小学生に上がったころからちょくちょくコンサートに行くようになり、その大半は、客席からしばしば耳にすることになる福岡市民会館のピアノでした。
1970年代、高度成長や大阪万博という時代もあってか、今では信じられないような巨匠たちがこの舞台に登場し、心に残るコンサート体験をすることができた佳き時代でした。

ソロリサイタルはもちろん、オーケストラとの共演でも、ピアノといえば決まってこのスタインウェイが使われました。
ダブルキャスターどころかピアノ用の台車もない時代、幾人ものスタッフ達によって力づくで押し出されてステージ中央に据え付けられ、コンサートマスターが中央のAを出すだけでも、その音は甘い蜜のような響きがあって、そのたびにドキッ!としていたのを覚えています。
自宅にあるのがピアノなら、これはもうピアノとは思えないような異次元の世界で、この時代の一連の体験が私の中でスタインウェイサウンドに対する強烈なイメージの基礎を作ったのは疑いの余地はありません。

ネットで調べてみると福岡市民会館は1963年の開館とあるので、竣工時に納められたピアノだったのだろうと思いますが、当時は主だったコンサートの多くがこの市民会館でおこなわれ、今から思うと信じられないようなビッグネームがステージに現れ、そのつどこのピアノの音に接し、いつのまにかマロニエ君にとってのスタインウェイとしての基準となっていったように思われます。
ほかにも数カ所スタインウェイのあるホールはあるにはあったけれど、これぞというコンサートは圧倒的に市民会館が多く、それ以外の印象は不思議なほどありません。

今と違って、管理も万全とは思えないし、ボディの角など傷だらけ、弾きこまれて音もかなり派手目のものにはなっていたけれど、まるで名工の手になる日本刀のような、妖しい輝きに満ちた音が底のほうから鳴ってくる様は、いま聞いたらどう感じるかわからないけれど、当時は完全にノックアウトされていました。
とりわけ低音には底知れぬ深さがあり、ラフマニノフのコンチェルトの第2番第2楽章のカデンツァにある最低音などは、まさに中世の鐘を打ったごとくの轟音が鳴り響き、これは現代のスタインウェイでもゴンという感じでしかないことを思うと、やはり昔のピアノは、材料やフレームの製法などの重要な部分がずいぶん違っていたのだろうと思われます。

クライバーンやリヒテル、マリア・カラス、あるいは殷誠忠というテクニシャンのソロでピアノ協奏曲「黄河」という、なんとも不気味な中国作品を初めて耳にしたのも、数多くのロシアバレエ公演に接したのも、この市民会館でした。
時が流れ、より贅を凝らしたホールが次々登場することによって、市民会館でのクラシックのコンサートはすっかりなくなりましたが、60年代前半に建てられた残響など大して考慮にもなかったであろう多目的ホールだったにもかかわらず、ここのスタインウェイはまさに極上の音を鳴り響かせ聴衆を魅了していたわけです。

後年、大阪のシンフォニーホールの登場あたりから、各地に音楽専用ホールというのが作られるようになり、その初期のものは残響という名の下に、中にはただ音が暴れまわるだけの響きとなっているものもあったりで、それに比べれば多少デッドでも、クリアに音が聞こえるよくできた多目的ホールのほうが、個人的にはよほど好ましく思います。
とくにピアノでは。

市民会館は、もう長いこと行っていないので確かではないけれども、多目的ホールの中ではそれほど音質が悪い記憶もなく、数々の名演とそこにあったスタインウェイのリッチでパワフルな美しいトーンを耳にできた経験は、いまも心の奥深いところに残っています。

私は子供のころ、本物の巨匠の実演に触れることのできた佳き時代に、ぎりぎり間に合うよう生まれることができたのは幸運だったと思います。
今のように誰もかれもがむやみにステージに立てるような時代ではなく、コンサートといえば必然的に一流もしくは超一流のアーティストが当たり前だった時代というのは、いま考えればなんとありがたいことだったか!と思います。
何度も行った安川加寿子さんの演奏など、ことさら有り難みも感じないまま聴いていたのは、いま思うとなんというもったいないことをしたか!と思いますが、ともかくそんな時代だったんですね。

ポリーニやアルゲリッチの初来日では、当時はまた知名度もさほどではなく、市民会館より遥かに小さい明治生命ホールだったのですから隔世の感があります。
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天空の村のピアノ

NHKのBS1で『天空の村のピアノ』という2018年イギリス制作のドキュメント番組があり(再放送だったようですが)録画していたのを
見てみました。
ロンドンのピアノ店の店主にして調律師のデズモンド氏は、あるお客さんからヒマラヤ山中の学校にピアノを届けたいが運べるかという相談をもちかけられます。通常ならそんな途方もない運搬を個人レベルでそれをやろうなんてあり得ないでしょう。
ところが、それを自身の人生の最後の大仕事と感じたのか、熟慮の末に引き受ける決断を下して、その道中たるや想像を絶するほど過酷を極め、ついには成し遂げるまでの密着映像でした。

ロンドンからなんと8000km、標高は富士山より高い4000m、車が行けるのははるか手前までで、そこから先はヤクという牛のような動物に背負わせて運ぶというのが当初の計画だったようです。
持っていくピアノは、さすがはロンドンというべきか、ジョン・ブロードウッドのさほど大きくないアップライトで、まずは事前の入念な整備がなされ、それを現地の麓へ送ったあとは、山岳路を運びやすいよう、青空の下でなんとバラバラに解体し、弦もすべて緩められて、パーツごとの運搬にして個々の負担を減らし、到着後に再び組み立てるという方法が採られます。

それでもピアノはピアノ、そんなに大きなモデルではなかったけれど、フレームだけでも50kg以上あるらしく、いずれにしろこの峻険な山々を踏破するには、並大抵の荷物でないことには変わりありません。

これから進むべきヒマラヤの景色たるや、神の領域であるかのような壮大かつ桁違いのスケールで、その果てしない威容は人間にとっては無慈悲の象徴のようにも見え、神々しいのか悪魔的なのかわからなくなるようなもの。
まるで異星の景色でも見せられるようで、遥か高くに峻険な稜線が幾重にも連なり、およそ日本人なんぞには馴染みのない、地球上にこんなところがあるのか…というような気の遠くなるような光景でした。
目指す場所は、あの峰のその向こうの向こう…みたいな感じで、そこまで自分の足で行くだけでも想像外で、ましてピアノを運ぶなんて命の危険すら感じます。

一定のところまで車で行くと、その先に道路はなく、おまけに頼みの運搬役のはずだったヤクというちょっと牛のような動物は想像よりもずっと小型だったようで、分解したといってもとうていピアノを背負わせられるような動物じゃないことがわかり、デズモンドはこの方法による運搬を即座に断念。
かくなる上は気の遠くなるような彼方の目的地まで、現地スタッフを交えた人力によって運搬するしかないという展開。

ロンドンから同行した人が数人と、現地の協力者が10人ぐらいはいたかどうか。
普通なら、この状況を見た瞬間に諦めて帰ってくるところでしょうが、番組のカメラが入っているからか、当人たちの意志に峻烈なものがあったからかは知りませんが、とにかく人の手足で一歩一歩この途方もない道程を、分解したピアノを担いて行くことになります。

途中の運搬の様子は見ているだけでも苦しくなり、フレームは数人がかりで担いて、ときに山の斜面を滑り降りるようになったり、それはもう映像を見ているだけでヘトヘトになるようでした。

目指すリシェ村に到着したのは徒歩による出発から7〜8日目のこと。
この山間の小さな村の人々からは大歓迎を受け、ピアノが来たことで子どもたちが無邪気に喜び踊る脇の建物で、翌日から組立作業が始まり、2日後にピアノの形になりました。
大人や子どもたちが見守る中、組み上がったピアノをデズモンド氏は音を出し、リストの「ため息」の一節を弾いていましたが、はっきりいってため息どころではない、凄まじい地獄のミッションでした。
大人も子供もピアノを初めて見るという人も多く、この一台がこれからどれだけの役割を果すのか、はかりしれないものがあるのでしょう。

私だったら、費用を募って、ペリコプターでガーッと一気に運んだら…というような身も蓋もない発想しかありませんが、そうではないところに人間のドラマが生まれるんでしょう。
実際、デズモンド氏はじめ多くの協力者、村の人々や子どもたちなど、この一台のピアノをめぐって計り知れない交流が芽生え、人生の一ページに深く刻まれたことは想像に難くありません。

計画から1年、実行に1ヶ月かかるという大変なプロジェクトで、学校内のピアノが置かれた建物は「サー・デズモンド音楽堂」と名づけられました。
デズモンド氏は届けることで終わりではなく、なんと、亡くなる2018年まで毎年調律に訪れたんだそうです。

ひとりの女性が言っていましたが、この地の人たちの生活にはお金もあまり必要なく、みな心がきれいで純粋で、互いに仲良く生活をしているが、将来に向けて道路建設も始まっているらしく、いつの日かそれが完成すればさまざまなものが流入し、そうしたら村の人の心も変わってしまうだろう、それが心配…と言っていたのが印象に残りました。
…たしかにそうだろうと思います。
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『楢山節考』

WAGNER PIANOを囲んで集まったとき、あれこれの雑談の中で所有者のベテラン技術者さんが仰るには、かつて志しの高い日本の製作者たちが作り上げた銘器というのは、昔はそこそこあったものの、大手に比べて品質ではなく知名度やブランド力が劣るせいで「売れないガラクタ」に分類され、廃棄という憂き目にあう悲劇的なピアノも少なくなかったという話をされていました。

購入を決める際に、ブランド性が一定の効力を発揮するというのは一応はわかるけれど、ピアノの場合はあまりにもそれが極端で、買い手のほとんどは音や響きの判断基準が未熟であるため(わからないから)、日本の流通市場では大手の大量生産のピアノが「信頼に足る標準品」として信頼感まで独占し、その他は楽器としての真価を確かめることもないまま姿を消していったピアノが少なくないことは、なんとも残念無念な話です。
さらには日本人固有の「横並び精神」もそれに拍車をかけていることでしょう。
「関係者のオススメ」を鵜呑みにし、「人と同じもの」「評価の定まった定番」を買っておけば安心という民族性。

さらには、ピアノも消耗品として家電製品のように買い換えるのが理想という価値観。
丁寧な修復を受け、売買の対象として色褪せることなく100年でも使われ続けるには、スタインウェイやベーゼンドルファー級のブランド力がなければ、打ち捨てられる運命であるようです。

そんな無知が招いた残酷な話は昔のことかと思っていたら、ごく最近ネットを見ていると、某所で美しい音で弾く者/聴く者を魅了していた大変貴重なピアノが、なんと廃棄処分されたという事実を知るに至って、驚倒しました。
どうやらピン板の傷みがあったようで、それが廃棄の理由のようでした。

そのピアノは日本のピアノ史に残る高名な設計者による逸品で、私も何度か触れさせていただいたことがありましたが、甘く美しい音が印象的で、おまけにコンサートで使用されても充分に耐えうるだけの底力も持ち合わせていた、所有者にとっても自慢のピアノで非売品でした。
ピン板の傷みというのは確かに深刻なことですが、それで廃棄という最悪の決断が下されたのは貴重なピアノなだけに、いささか極端すぎやしないかと非常にショックでした。

そもそも、日本では弦やハンマーは交換しても、ピン板を交換するという習慣がほとんどないのかもしれません。
これは、日本の大多数のピアノは大量生産品であるため、修理して長く使うより新しい物に買い換えることが正いとされ、ましてフレームの下にあるピン板は交換不可のように言われていた時期もありました。
本当にそうなのかどうかは、素人の私にはわかりません。
しかし欧米では、ピアノリペアの際、ピン板交換はごく普通に行われることで特別なことではないようですから、日本だけの特別事情なのかもしれません。

海外ではピン板交換は必要に応じて行われる作業の一つにすぎず、リペア用の新しいピン板がごく普通に売られているのだそうで、技術者はそれをピアノごとの形状に合わせてカットし、適切な位置に穴を開けて新しいピンを打ち込んで弦を張っていくようです。
ヨーロッパのピアノリペアを数多く手掛ける工房で、私もそのリペア用のピン板を見せてもらったことがありますが、何層にも重ねられた分厚い板で、フレームまで外す修理なら、もうひと手間という感じでした。

廃棄の結論に至ったのは、リペア用のピン板がたやすく手に入る情報がなかったのかもしれないし、あるいは別の事情によるものかもしれず、正確なことは知る由もありません。
やむを得ぬ事情があってのこととは思いたいけれど、ピアノを長く使うための技術を生業とする方が、なんというむごいことをされるのかと思ったし、あまつさえその様子をわざわざネット上で公開するという神経はとても理解が及びません。

そこに至った事情や判断は、他人が詮索することではないとしても、ただひとつ間違いないことは、歴史的価値もあり、魅力的な音を奏でていた貴重な素晴らしいピアノが、他でもない持ち主の手によって死刑執行されたという厳然たる事実で、この記事を目にしたときは本当にショックで身体が震えるようでした。

ピアノは電動ノコで解体され、ビニール袋に入れられた写真の衝撃は当分おさまりそうもありません。
それならリペアをする方にあげても良かったのでは?と思うのですが。
いずれにしろ、日本のピアノ史の一台である文化遺産ともいうべきピアノをこのように処分してしまうということは、ほんとうに驚きであり衝撃でした。

この残酷な事実を知ってとっさに思い出したのは、深沢七郎の『楢山節考』でした。
むかしとある山間の貧村では、食い扶持を減らすため、親が老いて働けなくなると子が背負って山の奥深くに、自分の親を生きながら捨てに行くという、身の毛もよだつ風習を描いた小説です(読む気もしません)。
もちろん、老いたのは親ではなく、ピアノですけれど。
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ヘンな映画

『グランドピアノ 狙われた黒鍵』という奇妙な映画を見ました。
いや、正直にいうなら、早送り多用でおよそ見たといえるような見方ではありませんでしたが。

2013年スペイン製作の映画のようですが、主人公のピアニストは恩師と自分しか弾けないという難曲をかつて失敗し、それから5年ぶりにステージに復帰して再挑戦するというものですが、演奏開始後、楽譜をめくるとそこには赤の太字で脅迫の様々な指示が書かれていたり、曲の途中でピアニストがなんども中座して舞台裏に行ったり、一音でも間違えたら殺すと脅迫されたり、どの場面ひとつとっても実際にあり得いないようなアニメ顔負けのシーンの連続。
実際の演奏会では絶対にあり得ないことで、いかに映画だからといって、許容範囲というのはあるはず。

映画は映画であり、娯楽でファンタジーとはいえ、あまりにも現実離れした連続となると、そのせいで映画としての面白さや魅力も失い、映画として割り切って楽しむ気力さえもなくなります。
これがコメディかなにかならまだしも、一応はおふざけではないサスペンス映画という立て付けになっているわけで、製作者は映画として真面目に作ったのかさえも疑いました。

映画の面白さというのは、きちんとしたリアルな土台の上に、映画ならではの筋書きなどのあれこれが織り込まれ展開されるものでなくては成立しないはずです。

使われたピアノは師の遺品という、ベーゼンドルファーのインペリアルでこれは本物でしたが、演奏至難という曲も、オーケストラ付きの奇妙な曲だし、ステージはすり鉢状にオーケストラが着座し、その奥の一番上の高いところにピアノが置かれているという、とにかくすべてがいかに音楽やコンサートというものを知らない人達が好き勝手に作ったものであるかがわかります。

最近は、海外ドラマでもそのあたりの考証はかなり正確になっており、装置から小物ひとつまでこだわって高いクオリティで作られるご時世に、こんなものもあるのか…と驚きました。

大詰めはまだオーケストラも観客もいるというのに、ピアニストは天井裏でスナイパー?との格闘となり、そのあげく落ちてきた人間がピアノを直撃、哀れ破壊されて床に埋もれてしまいます。
ただし、そのシーンはインペリアルではなく、大屋根の形が明らかに異なる、別のピアノもしくは模型か何か?に置き換えられていましたが。

最後は演奏不能なまでに傷ついたとするベーゼンドルファーの鍵盤が映し出されて、主人公が弾いてみようとするシーンがありますが、このときはなんとアップライトになっており、これほど雑な作りの映画がいまどきあるのか?という点で首をひねったり苦笑いの連続でした。

冒頭に書いた通り、あまりのバカバカしさに倍速で流しただけで、実はストーリーもろくにわからずじまいでしたが、正直わかりたいとも思いません。
ひとつだけ注目すべき事があるとしたら、(ここだけはネットで名前を調べましたが)ピアニスト役で主人公のイライジャ・ウッドという俳優ですが、この人はよくあるピアノを弾いているフリではなく、結構ピアノが弾ける人のように見受けられました。
演奏姿勢から指の動きまで、弾ける人とそうでない人は、根本的にまったく違いますから。

もし本当に弾けるのなら、タイロン・パワーの『愛情物語』ではないけれど、もう少しそれを活かした見応えのあるものに出てほしいものです。
たしかあれは、実際の演奏はカーメン・キャバレロだったと思いますが、やはり弾ける人の姿は違いますから。
『マチネの終わりに』でも、もし福山雅治がギターを弾けない人だったら、いかにモテ男でもずいぶん違ったものになっていたでしょう。

とはいえ、この映画はおもしろかったわけでもなく、不愉快というのとも違い、やはり「ヘンな映画だった」というしかない、不思議な後味しか残りませんでした。
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