あの時代

先に挙げた『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)には、日本人ピアニストの黎明期のこと、さらには日本の音楽教育がどのような変遷をたどってきたかについても触れられていました。

東京音楽学校が東京美術学校と合流して芸大になり、一方で桐朋学園音楽科創設に至る経緯、その他の音大も次々に生まれて、戦後の短い期間で音楽教育環境が急速に整ったことがわかります。
桐朋には前身があって、優れた音楽家を養成するには早期教育が不可欠という思想から、「子供のための音楽教室」というのが作られ、この第一期生が小澤征爾さん堤剛さん中村紘子さんなどです。

これはチェロの斎藤秀雄やヴァイオリンの鈴木鎮一、さらに評論家の吉田秀和、ピアノの井口基成ら各氏の尽力によって開設されたものですが、演奏のお三方は自身の修行のスタートが遅かったこともあり、音楽における早期教育の必要性を身をもって感じていたということも大きいように思います。
さらに、ここから成長した子供の受け入れ先が必要ということで、やがて桐朋学園の音楽科が作られ、大学まで拡大していったようです。

これじたいは日本の音楽教育にとって画期的なことだったろうと思いつつ、読みながら昔のピアノ教育現場のあのなんとも形容しがたい、ムダに厳しい、悲壮的な空気感が蘇ってくるようで、この部分はなんとなく楽しくは読めませんでした。

戦後昭和のピアノ教育界を牛耳っていたのは、井口基成・秋子・愛子の流派と、安川加寿子の二派だったように思います。
かつての芸大がレオ・シロタやクロイツァーなどのドイツ一辺倒だったところに、フランス仕込みの流麗な風を吹かせたのが安川加寿子でしたが、それに対してかっちり力強く弾くのが井口流だったように思います。

私ごとで恐縮ですが、私が通っていた地元の音楽学院も、院長が井口基成の直弟子であることから、学院自体が桐朋の「子供のための音楽教室」の支部のような位置づけであり、斎藤秀雄はじめ、お歴々の写真が架けられていたし、当時はまだ健在だった井口基成はじめ、錚々たる顔ぶれの教授陣が中央から入れ替わりやって来られては、厳しいレッスンを繰り広げておられました。

私自身は井口先生の恐怖のレッスンを受けるには至りませんでしたが(おそらくレベルが低くて)、見学は院長室で何度かさせられました。
専用のソファーが準備され、まさに「王」のようなふるまいで、まわりは緊張の極み。
あんな状態から演奏上の何を学ぶのか、いま考えても正直良くわかりません。

ただ、この本にある「子供のための音楽教室」で行われていた授業内容は、私達に課せられたものとほぼ同じで、桐朋の流儀で全てが進められていたことがあらためてわかり、土曜中心でソルフェージュ、聴音、楽典など、そのままでした。

その頂点に君臨する院長は、すでに多くのお弟子さんを育てて抱え、その人達が下部の教師となって生徒の普段のレッスンを受け持ち、ご指名がかかったらその先生および親同伴で院長室に、レッスンという名のもと出頭させられます。
いうまでもなく学院全体は井口流の厳しさと恐怖に絶え間なく包まれ、そのせいでメンタルを病んだり、家族離散になったりといったケースもありましたが、そんなことはまったくお構いなしでまかり通っていたのですから時代の成せる技というほかありません。

ただし、院長はただ権勢を振るっていただけではなく、音高・音大の受験シーズンになると睡眠時間が2〜3時間という過密スケジュールとなり、真夜中でもレッスンをされていたし、生徒とちがい毎年受験前はそんなハードなパターンでやっていられた事を考えると、正しいかどうかは別として、そのエネルギーには唖然とするばかりです。

ところで、先日テレビでアメリカの動物調教師の話をやっていましたが、1950年代までは猛獣の調教といえばサーカスなどに代表される、檻に閉じ込め、ムチで叩いて、恐怖と痛みで服従させるのが主流だったところ、動物保護を目的とする人物によって、愛情をそそぎながら教え込む方法が見事に奏功し、その人のもとで育った雄ライオンは人に危害を加えることは一切なく、ハリウッド映画のオファーなども次々に舞い込んで映画スターとしても絶大な信頼を得ることになり、ついには子どもとの共演まで見事に果たしたそうです。

スポーツでも、足に悪いうさぎ跳びや、練習中は水を飲んでもいけないなどの精神論式訓練が当たり前だったものが、いつしか科学的なほうが結果が出やすいことが証明され、これに取って代わりますが、私がピアノを習っていた1970年代前後は、いわばムチで叩かれて教え込まれるサーカス方式だったように思います。
桐朋の「子供のための音楽教室」でさえ、内実はそれでした。

さらに呆れたのは、この本に書かれていた(私は幸い言われたことはなかった)ことですが、「井口派の生徒は安川加寿子のピアノを聴きに行ってはイケナイ」というルールがあったそうで、今だに「グールドのCDを聴いてはイケナイ」などと真顔で指導する先生もおいでだそうです。
絵や文学を志す人に「あれを見てはいけない、これを読んではいけない」というようなもので、そういう視野の狭い教師についたらたまったものじゃありません。
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競争曲

前回の『ショパンコンクール見聞録』に続いて、『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)というのを読みましたが、ますますもって時代は変わったのだということを認識させられる一冊でした。

とりわけタイトルにもある通り、ピアニストの「現在地」というものは、従来の在り方とはかけ離れたところに成立するもので、それはまさに、他のジャンルと同様の激烈な勝ち抜き戦だと思いました。
演奏家になる道は、俗世間とは別次元の高尚なものだというような錯覚はしていないつもりだったけれど、しかし私などが求めていたのは、ごく稀に出てくる天才の至芸であり、才能豊かな音楽家が紡ぎ出す演奏という、理想を求めていたことは否定できませんし、そうでなくては音楽を楽しむ根本意義の問題になるような気がするのです。

しかし、現代のピアニストに求められるものは、高度なメカニック体得者であることは当然の大前提で、さらにいかにして大衆の心を掴んで出世街道を駆け上がっていくか、周到かつ凄まじいレースのようです。

先生や学校選びは言うに及ばず、どの時点で留学するかしないか、音楽一辺倒ではなく他の分野との二足のわらじで行くか、自分のウリは何であるかの見極めと設定、世俗的な広い視野と時代感覚が飛び抜けて鋭敏でなくてはこのレースを勝ち抜くことはできないでしょう。
ピアノを弾くためのずば抜けた能力プラス、自分というタレントの設計図が極めてしたたかなものでなくてはならないようで、まさに能力の総合勝負であり、昔のようにピアノだけがどれだけ上手くても、どれだけ聴くものを酔わせるものがあろうとも、そんなことはもはや大した強みではないようです。

今の若いピアニストは、あんなに上手いのに、なぜか情の薄いものにしか感じられない不思議の理由が、ようやくわかったような気がしています。
ひとことで言えば目指すところが違っているのだから、そりゃあ当然だろうと思いました。

いまさら言うまでもないことですが、今の若手ピアニストは技術的には呆れるばかりに平均点が上がり、コンクールなども短期間のうちに駆けずり回るがごとく受けるのも珍しくもなく、まさにトップアスリートの生活のようです。
当然それに耐えうる体力とメンタルが必須。

コンクールも常にどこかで開催されていると思っていたほうがいいぐらいで、各自、自分の都合に合わせてあれに出たり、これに出なかったりといった具合で、まさに世界を股にかけて飛び回っている。
一位もしくは優勝するまで、若さの続く限り挑戦を続け、その結果を携えて、いかに自分を巧みにマネージメントするかが問題で、そんな生き馬の目を抜くような時間を過ごしていたら、そりゃあ繊細な演奏の綾などと言っているヒマはないのも当然で、みなさん戦士なのです。

中には、スポンサーを募り、他者を抱き込んで株式会社を作ったりという猛者もいるわけで、そういう企画力を有していることが現代の売れる音楽家の条件であるらしく、演奏能力プラスそれが合体してはじめてチケットの取りづらいピアニストにもなれる…ということらしい。

それをいえば、昔のピアニストだってピアノメーカーやレコード会社や興行主などが、似たようなことをやっていたといえなくもないかもしれませんが、私の肌感覚では「断じて、何かが違う」としか思えません。
気持よく音楽を楽しむという時代も終わったと思うことは、寂しく残念としかいいようがありませんが、どうやらそういうことのようです。
…。
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現代の価値観

ピアニスト兼著述家として独自の地位を得ている青柳いづみこ氏ですが、2015年のショパンコンクールをリポートした『ショパン・コンクール』(中公新書)があるというのに、2021年大会についても『ショパン・コンクール見聞録』(集英社新書)なるものが早くも刊行されており、この方の切り口はおおよその察しがつく気がして迷いましたが、敢えて購入して読んでみました。

ここでは、内容についてはいちいち触れることはしません。
全体としての読後感は、もし青柳氏のいうことが正しいのであれば、私はもうピアノ演奏の鑑賞者の立場さえ、今の時代の尺度や価値観に合わないことを悟り、また自分の意に反してまで合わせようとも思いません。

以前であれば、ピアニストや演奏に関する本を読めば、概ねその言わんとするところは理解できるし、同意できる内容は濃淡の差こそあれ数多くありましたが、今回の一冊を読むと、書いてある事があまりに自分が感じたこととかけ離れたもので埋め尽くされており、要するに時代はすっかり変わったのだと認識しないわけにはいきませんでした。

そもそもショパン・コンクールといっても、20世紀までのそれと、今日では世情も価値観も人々の好みや求めも違うことじたいは否定しません。
ひとことでいうなら、非常に可視的で表面的なものになったと思います。
もはやショパンと言っても、コルトーのような演奏でないことはわかるけれど、ロマンティックであったり主情的であったり、詩情豊かなものであることさえ、ほんの僅かでもコンクールの求めからはみ出すとマイナスとなり、がんじがらめの制約の中で、いかにも今風な優秀なパフォーマンスが出来た人だけがピックアップされ、加点を得てファイナルに進み、そして栄冠を勝ち取るというシステム。
しかるに、その基準はというと明確さを欠き、ふらふらと常に微妙に動いていて、まるで訳がわからない。

このことは今回が初めてではなく、以前から薄々感じてきたことではあったけれど、この本を読むことで審査の舞台裏なども垣間見ることができ、審査員の顔ぶれや時の運も大きく、要は世界最高峰のピアノイベントとしての色合いだけが強まり、馬鹿らしい気分になりました。

そもそも私は近年のショパン・コンクールの優勝者についても、心底納得した事がありません。
建前では、伝統的なショパニストを選ぶとしながら、ピアニストとしての総合力や将来性にも目配りしたともあるし、そうかと思えばショパンとしての伝統や作法、スタイルを備えていないとかで落とされたり、使用楽譜の問題、装飾音のちょっとしたことまで、重箱の隅をつつくような問題があったりと、複雑でそのつど基準が変わり、あいまいで不透明。

今回は各コンテスタントについての印象を私ごときが述べるつもりはないけれど、優勝者というのは一人しかいないので、それは特定されますが、あれをもって600人とも言われる応募総数の中から選びぬかれた、このコンクールの優勝者にふさわしいものとは私個人はとうてい思えない。
きっと、審査の現場では大モメになったのかと思いきや、彼の優勝は審査員の中では圧倒的なものだったらしく、それひとつとってもまったくわけがわかりません。
この本を読みながらあらためて動画も確認してみましたが、やはり首をひねるばかりで、優勝を逃した人の中にはピアニストとして格が違うというべき優れた人もいたのはいよいよ複雑な気分に陥りました。

では、ショパニストとしてはよほど際立っていたかといえば、そうとも思えず、ショパンに不可欠な洗練された美の世界やニュアンスに富む磨きぬかれた語りが際立つわけでもなく、大事なところでむしろダサいし、どうしても訛りの抜けない地方出身者が、一生懸命背を丸めて弾いているようでした。
演奏の背後に師匠の影がチラチラするのも気になりました。

私の耳には、大半の人の演奏は「しっかり受験準備をしてきました」的なもので、ニュアンスやファンタジー、つまり音楽としての昇華が乏しく、何度でも聴きたいというシンプルな音楽鑑賞者としての感情が呼び起こされないのです。
個別の演奏についても、☓☓が何次で弾いた☓☓は審査員の某が涙を流すほどで、コンクール史に残る名演などという記述が出てきますが、私にはむしろいやな演奏だったし、なにがいいとされるのか皆目わからないものだったりで、ここまで自分の感じたことと評価が噛み合わないということは、「もうどうでもいいや」という虚しさばかりが残るだけでした。

楽器(ピアノ)の音も時代とともに変わっていくように、ピアニストの演奏も同様だと思うし、それは時代の流れの中で当然のこと。
しかし、音楽というものの根本的な役割は、聴くものに音楽以外では得られない喜びや充実感、美しいものに触れ、精神あるいは感性が特別な体験をすることだと思うのですが、ここに書かれているコンクールの実状は、まるで上場企業のどれを製品化するかの戦略会議の舞台裏の話のようで、およそ私なんぞの求めているものとは掛け離れたものとしか言いようがありません。

他の世界と同様、コンクールも審査員の総合点で事が決する以上、魅力ある稀有な天才より、誰からも嫌われない優秀で無難な人が有利だという法則がここにもいきているようで、優勝は5年に一人きりとなれば、もしかしたら政治家の選挙以上の票集めが必要かもしれません。
これでは、真の芸術は死に絶えるでしょう。
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余技のピアノ

先日、ある方からLINEを通じてYouTubeの動画が送られてきました。
モーツァルトのコンチェルトですが、ピアノは大屋根を外してステージの左隅におかれ、そこから指揮をしながらピアノを弾くという風変わりなことをプレトニョフがやっていました。

この人は、若い頃は新進気鋭のピアニストとして来日していて何度か聴いた事がありますが、それはもうすさまじいばかりのテクニシャンで、それが少しも嫌味でなく、ただあっけにとられたことばかりが記憶に残っています。
編曲もお得意のようで、当時から「くるみ割り人形」の数曲をソロ・ピアノ用に自身で編曲したものをプログラムに入れていたりしました。

当時はソ連時代の終わりの頃で、当時のソ連にはテクニシャンは掃いて捨てるほどいたと思われますが、その中でも若いプレトニョフのそれは頭一つ出ているといっていいもので、しかもロシア人としては細身の華奢な体つきにもかかわらず、ピアノに向かうや想像もつかないようなパワーが炸裂して、聴衆を圧倒していました。
これはうまくすれば、世界のトップクラスのピアニストの一人になる逸材かもしれない…とさえ思いましたが、いつごろからか指揮のほうに進みはじめ、ついにはロシア・ナショナルフィルというのを自ら作り、指揮者として率いていくことが本格化したようで、ピアニストはやめたのかと思っていました。

ロシア・ナショナルフィルはドイツ・グラモフォンから次々にCDが発売され、チャイコフスキーの交響曲などはなかなかよろしく、リリースされるたびにせっせと買い集めていたほどです。

すっかり指揮者に鞍替えしてしまったのかと思っていたら、やはりときどきはピアノも弾いているようでした。
しかし後年聴いた彼のピアノは、若い頃のそれとはすっかり変わっており、なにか自分なりの境地に到達したと言わんばかりのクセのあるものになってしまってあまり好みではなかったけれど、中にはブリュートナーを使ってのベートーヴェンのピアノ協奏曲のようなものがあったりで、楽器への興味からCDを購入したりはしていましたが、ピアニストとしてはかつてとはほとんど別人でした。

前置きが長くなりましたが、ピアニスト出身で指揮台にのぼるようになった人というのがときどきおられますが、これらにはある共通点を感じます。
まずピアニストとして名を馳せて、その次の段階として指揮者としてもそれなりに認められてくると、成功すればより大きな名声が得られるのかもしれないし、音楽的にもより幅広いものを経験していくのだろうとは思います。
それはそれで結構なことなのでしょうが、ピアニストとしての輝き自体は鈍るという代償は避けられません。

もともとピアノは十分以上に弾けるわけだから、ときどきはピアノも弾く、あるいは二足のわらじで両方のステージに立つ人がいますが、個人的にはこれらの人のピアノはどうもあまり好きにはなれないのです。
その一番の理由は、悲しいかなピアノが余技的になってしまって、演奏に気迫がないというか、鬼気迫る集中力というのがなく、どこか弛緩しています。

バレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハなどもだいたい同じように感じます。
実際問題として、オーケストラの指揮台に立ち大勢の団員を束ねていくことは、それだけでも並大抵のことではない筈で、時間などどれだけあっても足りないことでしょう。
勢いピアニストだけでやっている人に比べたら、ピアノに向かう時間もエネルギーも大幅にカットされているのは間違いありません。
ピアニストというのはどんなに天才でも、端的に言えば「生涯を練習に費す」ようなものですが、それをやっていない結果がはっきりと演奏に出ており、昔の名声の余技として見せられても、真の演奏感動からは遠ざかったものになります。

どんなに才能豊かな人でも、世界の一流ピアニストの座に棲み続けることは、他の仕事と掛け持ちでできることではないし、そこで求められる妙技や魅力は、それ一筋に打ち込んでいる人の演奏からのみ、滴り落ちるように出てくるものであって、マルチな才能で維持できるものとは思えません。

コルトーはワーグナーの指揮をしたり、ポリーニも一時期指揮に色気を出してロッシーニのオペラをCDとしてリリースしたりしていますが、そちらが本業になることはついになかったのは、なんと幸いなことだったかと思います。
バーンスタインもサヴァリッシュも相当ピアノが弾けた人ですが、とはいえ専業ピアニストにはやっぱり叶いませんから、決してステージでは弾かなかったアバドなんて、却って立派だなぁ…と思ってしまいます。
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ブーニン−2

ブーニンの健康がよくない…というかすかな噂は耳にしていましたが、これほどとは思いませんでした。
この番組によれば身体の故障からピアノを弾くことが困難になるというピアニストとしてこれ以上ない不運に見まわれ、さらには遺伝的な糖尿病で左足の切断の必要まで迫られたのだそうで、大変おどろき深く胸が痛みました。

だれしも足の切断なんて耐え難い衝撃以外のなにものでもなく、ましてピアニストにとって、足はペダル操作には欠かせないもの。
夫人のすさまじい努力によって、ついにドイツでこの病の権威に行き当たり、切断せず足の骨を一部切除し、そこをつなげるという大術が行われ、からくも足の切断という最悪の事態を免れたとのこと。

かつての、まるで子供が喜々として遊ぶがごとくピアノを自在に操っていたあのブーニンが、知らぬ間にこのような悲劇に直面していたとは、ただもう驚くほかありませんでした。
番組は、そんな彼が最後のステージから9年ぶりに人前での演奏に挑むというもので、そこにいたる日々を追ったものでした。

曲目は子供の頃に弾いたという、シューマンの「色とりどりの作品」op.99。
ご本人も「左手が昔のように動かない」と仰っていたけれど、ピアノに向かっても、顔や雰囲気はまぎれもないブーニンであるのに、その演奏は信じられないばかりに心許なく、「色とりどりの作品」のシューマンらしい夢見るような第一曲だけでも正直ハラハラさせられました。

9年ぶりのコンサートは小さな会場である八ヶ岳高原音楽堂で行われ、その様子が一部流れましたが、見ているこちらまで言いようのない緊迫感が迫りました。

ブーニンの人生に欠くべからざる存在は長年彼を支える夫人で、ジャーナリストとしての自身の仕事を抱えながらというけれど、多くはブーニンを支えることがメインでしょうし、身のまわりのお世話から、味や盛り付けの美しさにまでこだわるブーニン好みの食事の準備まで、それはもう常人の域を超えた献身ぶりで、ただただ頭が下がりました。

ブーニンは見るところ、夫人を心から愛すエレガントでやさしい人のようですが、それでもやはり取り扱いの難しい天才肌であることも確かなようです。
古い日本の言葉でいうなら、これぞまさに「賢夫人」というべきでしょう。
そんな夫人をもってしても、八ヶ岳高原音楽堂での久々の演奏にあたっては、袖で見守りつつも目には涙がにじんで、寿命の縮まるような思いだったようで、それも当然だろうと思いました。

どうにかコンサートも終了し、これで終わりと思ったら、なんとその後、東京の昭和女子大人見記念講堂(昔はよくコンサートがあり、ホロヴィッツの2度めの来日公演もたしかここでは?)でコンサートが行われたようで、さらに来年は全国ツアー!?というのですから、これにはいささか耳を疑いました。

様々な苦難を乗り越えて、再びステージへ立つというのは立派なことだと思います。
しかし昨今のピアニストはますますテクニカルな面でレベルアップされており、そんな中どういう演奏をするというのか…。
そもそもブーニンというピアニスト自体が、音楽を通じて深く語りかけるというよりは、キレのいいテクニックや多少傲慢でも類まれな推進力で聴かせるタイプのピアニストだったので、よくわからなくなりました。

その一方で、今どきの日本の聴衆はコンサートに行って音楽や演奏がもたらす純粋な感銘を求める人はごく少数派で、大半は人気や経歴、話題性などに大きく左右され、さらに義経の判官贔屓ではないけれど、その背後にハンディや感動物語がくっついていることが大好きということに、近年とあるピアニストの登場いらい気付かされました。

全国ツアーが組まれる以上、今のブーニン氏ひとりの思いつきでできることではなく、きっとそれを支える背後の算段あってのことなんでしょう。
現代人の悪い癖で、疑い始めると、先日の番組もその前宣伝の意味合いもあったのでは?、すべては計算されたものだったのでは?という疑念が広がってしまい、ブーニン氏には申し訳ないことですが、それもあるような気がして完全否定ができません。

率直に言って、来年の全国ツアーにチケットを買っていく人たちが、もし健康に歳を重ねてきたブーニンだったら果たして行くのか?
この疑問はどうしても払拭できません。

むろんコンサートをやろうという人がいて、それに喜んでチケットを買って行く人が大勢いて、結果として収益が上がり興行が成り立つのなら、まわりがとやかくいうことではないかもしれませんが、どうしても悪趣味にしか思えないのです。
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