良いお年を

年末に目に止まったTV番組から。

【辻井伸行in河口湖ピアノフェスティバル2022】
このフェスタは毎年恒例なのかどうかは知らないけれど、過去にも同じものが開催されていたので、少なくともこれが初めてではないのでしょう。
辻井さんが中心のようですが、ご多分に漏れず、そこに集まってくるゲスト演奏家の方がいろいろいらっしゃるようです。
加古隆さんはたしか以前も見たような気がしますが、この方は徹底してベーゼンドルファーしか弾かないということなのか、今回も加古さんの演奏時にはそれが準備されていました。
演奏されたのは、曲の名前は知らないけれどNHKの「映像の世紀」でお馴染みのもの。

ジャズの山下洋輔氏のお顔もあり、ラプソディ・イン・ブルーを弾かれていたけれど、私の耳にはときどきそれらしきものが聞こえてくるぐらいで、大半は山下氏お得意の爆発系の即興演奏のような上ったり下ったりが多く、そのときはパワフルだけれど、両手オクターブのあの有名な主題の旋律部分になると突如勢いが落ちて、指もなんだかおぼつかない感じになるあたりは別人みたいで不思議でした。

最後は辻井さんのソロでラヴェルのピアノ協奏曲。
野外会場という条件も加味して考えるべきだろうとは思いつつも、かつての辻井さんからはあまり聞かれなかった、ことさら派手なテクニシャンであることをアピールしようとする印象で、テンポもやたらセカセカしているし、なにより技巧を前面に押し出したような感じのアスリート風の演奏であったのは、彼の意外な一面を見たようでした。
そもそも、この方の演奏はそういう「ガンガン弾けますよ系」とは一線を画したピュアな魅力が、いささか表現が平坦ではあっても全体として清潔であるし辻褄が合っているように思っていたので、どうされたんだろう?という感じが残りました。

第一楽章がまずもってそんな感じだったので、せめて第二楽章では辻井さんらしい美しさのきらめきが堪能できるのかと思ったら、放送時間の関係からかこれは惜しげも無くカットされ、そのまま派手で賑やかな第三楽章へと繋げられていたのはびっくりでした。
どうしてもカットするのであれば、第一楽章をカットし、せめて第二楽章〜第三楽章という具合にはできなかったものか…と思うんですけどね。

今や国内に限っても、ピアニストの世界は相当に上手い人が次から次へと出てきて混雑気味だからか、さしもの辻井さんも無垢なだけではダメだと思って少しマッチョ系に舵を切りだしたということなのか、たまたま今回はその場のノリでそうなったというだけのことなのか、真相はわかりませんが。
ああ見えて、あんがい勝負心はしっかり強いお方なのかもしれないとも思いましたが、コンサートピアニストとしてあの位置を保持していくぐらいですから、それぐらいの逞しさは当然だといわれればそうなんでしょう。

【フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して〜スペイン・マヨルカ島への旅〜】
フジコさんが、ショパンとジョルジュ・サンドが訪れたことで有名なマヨルカ島を旅するということで、それに密着した90分のドキュメント。
これまでフジコさんのお歳は発表されてこなかったので詳しい年齢は知りませんでしたが、この番組で初めて90歳になられるということを知り、率直にお若いなぁと驚きました。
久しぶりに映像で見たフジコさんは、なるほど歩行器をつかって歩いておられ、ステージに出るにも介添えの方が付いておられるようで、自分を含めて当たり前ですが、世の中はみんなまた一段と歳をとったのだということを思い知らされるようでした。
それは前述の山下洋輔氏についても同様でしたが。

パリの自宅からは、友人の車でスペインまで南下し、そこからフェリーに乗り換えてマヨルカ島を目指します。

マヨルカ島では、リサイタルまで組み込まれて、現地の音楽院のホールでお馴染みの曲を弾かれていました。
テレビカメラが入っているということもあるのかどうか知らないけれど、同行者はもちろん行く先々の方まで、皆さんがマイペースなフジコさんに対して、非常に親切に接しておられるのは印象的でした。

ところで、フジコさんほど好き嫌いの別れるピアニストもいないと思いますが、私は実はそんなに嫌ってもいないし、とくにファンということもありません。
嫌っている人にいわせれば突っ込みどころ満載でしょうし、それはもちろんわかるのですが、それでもこの人にしかない美しさというのがあるのだから、あんなにも憤慨せず、こんな人が一人ぐらいいてもいいと個人的には思うのです。
とりわけ、時を経るにしたがってどんどん増殖されていく、確実に安定した演奏のできる、高性能工業製品みたいなピアニストだらけのこの時代に、まるでつるつるに使い込まれたアンティーク家具のようなフジコさんの演奏には、理屈抜きに人間がホッとさせられる本質が息づいていると私は思うのです。

聴いていると、明らかな譜読みの間違いや行き過ぎた自己流で乗り切ることもあったりで、たしかにギョッとする瞬間もないではないけれど、それをいまさら青筋立てて言ってみてもナンセンスという気にさせられます。
フジコさんの演奏は、なにより音が美しく、センスもそれなりで一つの世界があり、演奏そのものだけではなしに、人の心の中にあるなつかしいものに触れられる数少ない機会なのでは?と思います。
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ガルシア・ガルシア

先日の『題名のない音楽会』で、マルティン・ガルシア・ガルシアさんが出演しました。
昨年のショパンコンクールで第3位に輝いた、スペインのピアニストです。

スタジオ収録で、演奏曲目はバッハの平均律第1巻より第1番、ショパンのワルツ第4番、モンポウの「歌と踊り」第6番、ラフマニノフの「サロン小品集」よりワルツ。

番組でも話題にされていましたが、演奏中はご自身も声を出して共に歌い、良い意味での天真爛漫さが魅力。
トークでも人懐っこい笑顔を決して絶やさず、常に楽しげに振る舞うその様子は、いかにもラテンのピアニストというイメージに溢れており、この天性の明るさは日本人やロシア人にはおよそないもので、世界は広くお国柄や個人の資質も実にさまざまという事実を感じずにはいられません。

体格も立派でややぽっちゃり系、そこにさらに特大の手が加わり、その指は15度!開くのだそうで、これはドからオクターブ先のソまで届くというわけで、こんな人から見ればピアノも我々が相対するものとは同じであるはずがなく、一回りも二回りも小さなものなんだろうなぁ…と思います。

指もただ長いというだけでなく、大理石の彫刻のようにがっしりとした骨格にしっかりした肉付きがあり、見ためのバランス上ピアノに最適サイズとは思えないほど立派で、体格差というのは如何ともし難いものだということをいまさらながら感じます。
大谷選手とて、その並外れた天分と努力に加えて、それをあの秀でた体格が支えているのですから、そりゃあかないっこないと思います。

なにより注目させられたのはガルシア氏の出す音。
どっしりした体格と、その大きく逞しい指から出てくるそれは、すべての音がいやが上にも冴えわたっており、芯のある音が泉のごとく出てくるのは呆れるばかり。しかし、強いて言うなら全体に音量ベースが強すぎのように思われるところがあり、我が家のテレビのせいかもしれないけれど、ときどき音が割れ気味になるのも致し方無いのかと思います。

音楽的には、クラシックの演奏者が失いがちな躍動や楽しさや明るさが支配しており、それは稀有な価値だと思うけれど、裏を返せば深く繊細なものを覗き見るような部分であるとか、かすかなニュアンスに息を詰めて触れるといった類のものとは違う気がしました。
たった今、躍動や明るさと書いたばかりですが、通称「猫のワルツ」とされるワルツの4番などは、意外に重めで、リズム感や軽さや洒脱がさほど発揮されなかったのは意外でした。
ショパンコンクールで3位にはなったものの、実はショパン向きの人ではないようにも思います。

いずれにしろ、現代の若手ピアニストの多くが建前重視の演奏に終始するあまり「草食系」の音しか出さなくなってしまった背景を考えると、いささかやり過ぎな面もあるにせよ、たまにはこんなビシッとした硬質な音を出せるピアニストがいるということも、それはそれでみるべき点があるように感じました。

ピアノはショパン・コンクールの時もそうだったけれど、この番組でもファツィオリを弾いていました。
その点についても質問があり、「いろんな理由でファツィオリを使っている」「僕が歌うことにもつながりがある」というようなことをいっていましたが、この「いろんな理由」は意味深長な気がしました。
私は聴いていて、彼の強い打鍵を支えるのは、ファツィオリのソフトな音作りがあるのでは?と感じました。

ガルシア氏の強い打鍵では、現代の標準的なエッジの立ったパリッと鳴るピアノで弾いたら、メーカーに関係なくバランスが崩れてしまうのではないかと思うし、始終そこに気を遣っていてはノリが悪くなり、ストレートな演奏の妨げになるのかもしれません。
「ファツィオリの音や響きが好み」と率直に言ったわけでもなく、「いろんな理由」「歌うことにもつながりがある」というあたり、彼の生まれ持った強いタッチと「つながりがある」ような気がしました。
これはもちろん個人的な憶測に過ぎませんが。

ちなみにガルシア氏は日本びいきで、母国でも日本料理を食べ、最近婚約されたお相手も日本人だそうです。
グルダ、シフ、ブーニンなど、日本人と結婚する男性ピアニストも結構いるんだなあと思います。
さらにガルシア・ガルシアという名前は、ご両親の苗字がおふたりともガルシアで、そのためにこの名前になったのだとか。
とすると、スペインは両親の苗字を並べるのが普通なんでしょうか?

ファツィオリについては、今回見ていて一つ発見したのは、フレーム(弦を張る金属の骨組み)の中で、打弦点のやや手前にある、鍵盤とほぼ平行になっている部分がありますが、そこだけ上部が黒に塗られているように見えたのですが、これはどういう意味があるのだろうと?と思いました。
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詐欺に近い

ピアノ以外の話でもう一つ。
最近経験したことで、皆さんのお役に立てればという気持ちからご紹介します。

ちょっとした必要があって、お風呂の工事が必要になったのですが、パッと見渡してみてもピアノと違い、これといって懇意の業者があるわけでもなく、やむなくネットで探すことに。
以前からお世話になっていた好ましい業者さんが2つあったのですが、一つは別会社に統合されてしまい以前とはすっかりやり方が変わってしまったこと、もうひとつは頼みの職人さんがケガで引退されてしまい、よって業者探しから始めなくてはなりませんでした。

そうなると今どきはどうしてもネットということになりますが、ネットの欠点は、あまりにもたくさんありすぎてどれを選べばいいか、まるで見分けがつかないこと。
仕方がないから、その中から適当に電話したら快く対応され、さっそく現場を確認に来られました。

とても感じ良く、話し方も好意的で、現場を確認される間もいかにも頼れる感じで、ネットも悪くないなというような印象でした。
それから10日ほど経って、メールで見積が送信されてきたのですが、そこに記された金額を見た瞬間背筋が凍りつきました。
何かの間違いではないか!?と思うようなもので、もう胸はバクバクです。
細かい明細書なども添えられており、体裁上は尤もらしく書かれてはいるけれど、とうてい納得のいくものではなく、態度は柔らかいが相当な悪質という印象しかありませんでした。

それで、腹も立った勢いで、ずいぶん昔お世話になった業者さんをいくつか思い出し、幸いアドレス帳に残っていたので思い切って電話してみたら、心よく対応してくださり、さっそくそのひとりが現地調査に来てくれました。
さすがはプロというべきか、状況に関してはたちどころに理解し、ざっとこれぐらいでは?という金額を告げてくれましたが、それははじめのネットの見積りの約半額でした。

そういえば、以前別の件でも家のメンテに関することで、ネット検索して「業界最安」の文字が踊るサイトから、見積りを取ったことがありましたが、そのときも思わず顔が青ざめるような金額だったことを思い出しました。
もちろんそこには依頼しませんでしたが、こういう手合いがウヨウヨするのが当たり前の業界とは恐ろしいものです。

しだいにわかってきたことですが、とくに住まいの工事に関することで業者を探す必要が生じたとき、手段としてネットに頼りがちですが、これはかなり悪徳業者に当たる確率が高いこと、昔の縁で来てくれた業者さんにもその話をしたら、「あー、はいはい」と苦笑いしながら「これだったら☓☓☓ぐらいいったんじゃないですか?」と言われましたが、実際はそれ以上でした。
この業界では、ネット検索ででてくる業者はかなり高額をふっかけるところが多いのは限外に普通ですよ…といった感じで、とくに驚きもされず、そんなものだということを今回はっきり認識しました。

テレビなどで、人なつっこい態度で高齢者などに近づき、しなくてもいい工事を言葉巧みに誘導し、杜撰な作業で大切な貯金などを根こそぎ奪い取るというような話がありますが、あそこまでいけば完全に一線を越えており犯罪でしょうが、その少し手前の詐欺に近いギリギリのものというのは無限にあるようです。

とくに安さを謳って人を引き寄せるけれど、実際はその逆で、常識的な金額の倍も三倍も請求してくるのですから、いやはや恐ろしいといったらありません。
これをお読みの方も、もしそういう業者探しの必要が生じたときは、どんなにわずかでも知り合いのつてなどを辿っていかれるのが斎場とはいいませんが、まずは懸命だろうと思います。
また水道などは自治体の指定業者になっているかどうか。
もちろん、それでも決して安心はできませんから、できれば頑張って複数の業者に見積もりをとってみる必要はあると思います。

また、同じ案件でも業者によっても考え方や施工上のポイントがずいぶん違っていたりと、各社さまざまなので、面倒でも幾つかの業者に相談してみることはとても大切だということがわかりました。

ピアノだったら、調律などはだいたいの料金は決まっているし、あとは好みや巧拙にが問題ですが、住まいに関する工事はケタが一つも二つも違うし、おまけに業者によって費用が倍以上ちがってくるとなると、こちらもよほど警戒してかかる必要がありそうです。

いずれにしろ、住まいのメンテや工事関係はネット検索はやめたほうがいいので、みなさんもくれぐれもご注意ください。
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健康志向の不健康

久々にピアノ以外のお話を少し。
先日、テレビの某トーク番組を見ていたら、いくつかのテーマの中で健康に関するやりとりがありました。

そこで語られたのは様々で、流行りの糖質ダイエット、ヴィーガン、日本人の健康意識から美意識にまで切り込んだもので、頷ける点が多くありました。

若い女性の間では、食事に行ってもダイエット中や特定のこだわりを貫く人がいたり、なんだかんだと制限が多く、無邪気に注文することもできず、気遣いやストレスがあるとのこと。

そもそも、ダイエット中や健康上もしくは思想上特定の考えを持った人は、他者と食事に行ってそれを崩さないとなると、その場の雰囲気や他の人に影響を与えないで済むことはかなり難しいのでは?と私は思いますが…。
そもそも、健康のためと称して、あれこれのこだわりを持ち、食品に対する自説や選択、あるいは運動だ、栄養補給だとさまざまに実践しておられる方がいらっしゃいますが、これは当人以外は甚だしく快適ではない空気を撒き散らすことになるように感じます。

また、ある程度以上の年齢に達してからその面に目覚め、それを中心とした生活を送るのは、正しいことなんだろうとは思いつつ、どこか浅ましさみたいなものが見え隠れしてしまうときがあります。
しかもそのタイプは、それまでの不摂生を一気にリセットしようという思惑なのか、やたら健康志向に転身し、自説に浸り込んでいるのも思い込みが強いぶん周りはウンザリだったり。

もちろん一定の運動が必要であるのは言うまでもないし、健康的な生活を送ることが大切という本質に異論を挟む気はまったくありません。
でも、わざわざ運動のための運動をするよりは、できるだけ自然のリズムの中から出てくるものであるべきでは?と内心では思ってしまうのです。
健康志向の人は、多くの場合、健康データとしての「数値」の獲得が目的で、そのためにやりたくもない運動や食事制限に全生活を縛り付けるなんて、私はどこか大事なポイントがずれているような気がするのです。
食べ物や食べ方、あるいは長らくアルコールに親しみ、偏った食生活を送ってきた人が、急に何もかもをチャラにしたいのでしょうが、それは不摂生をクルッと裏返しただけに見えて、あまり健康的に思えないのです。
身体にとっても、悪いものが入ってこなくなった環境改善より、急激な変化に対するストレスのことは見落とされているのでは?

私の感じる「健康的」の概念には、趣味や文化と同じく、自然に身についたものが必要じゃないかと思います。
極端に甘いものや塩っぱいものは、健康云々以前に、自分がそれほど望まないとか、過度なアルコール摂取や暴飲暴食は、したいけどガマンではなく、そもそも好きではない、自分の快適性に合わないというのが自然だと思います。

若いころはともかく、もう食べ放題なんて行かなくなりましたが、あの過度な満腹感がもたらす不快感がイヤだから行かないだけですし、本来なら野菜でも水分でも、採らなきゃいけないからというだけではなく、それが欲しくなるのが自然であり、そういうサイクルになっていることが健康的だと思うのです。

誰だったか忘れましたが、パネリストの一人がポロリと膝を打つような発言をしました。
「健康オタクの人って、私にはそれが不健康に見えるんですよね」
まさに膝を打つ思いで、まさにその通りなんです!

ご当人はそれまでの不健康な自分とは決別し、いまこそ健康を取り戻しつつあると思っていても、それが悲しいまでに不健康に見えて、そのあたりのギャップが傍目にはどうもしっくりきません。
白髪を隠そうと毛染めをして、老いた顔の上にやけに真っ黒な髪がかぶさっていたりするのを見ると、逆に不自然でより老いが強調されてしまうように。

私は医者ではないけれど、人は40過ぎたら、そこまでやってきたことがその人の基本であり、たとえばよほどの肥満とかは別にして、ちょっとぐらいぽっちゃりの人が、敢えて苦しい思いをして、あれもこれも我慢して、ビジネス臭がプンプンする基準を鵜呑みにして、苦心惨憺の末にすこしばかりスリム体型になったとしても、やつれたようにしか見えず、それが真に健康的で素晴らしいとはどうしても思えないのです。

多少体重は多めでも(極端なことや明らかにアウトなことは別ですが)、常識の範囲でやりたいようにやって、ほがらかに笑っていた時のほうがよほど健康的だったのでは?と思ってしまいます。
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修理はピンキリ

『ピアノ図鑑 歴史、構造、世界の銘器』という本があり、以前購入していたものですが、あらためて本棚から取り出して見直してみました。
これはジョン=ポール・ウィリアムズというイギリスのピアノ技術者による著作で、日本では元井夏彦氏という方の翻訳により、ヤマハミュージックメディアより出版されている、カラー写真が多用された美しい本です。

本来なら、ヤマハが出版するピアノ関連の本であれば、参考写真もヤマハピアノが徹底して使われるはずですが、これは海外で出版されたものの日本語版なのでそうもいかなかったのか、おかげで様々なメーカーのピアノが出てくるのが面白く、強烈な自社愛のヤマハにしては珍しく理解なのか忍耐なのか、微妙なところはわからないけれどその点でも興味を引きました。

内容は主に「ピアノの歴史と発展」「ピアノメーカー総覧」「メンテナンス」という三部にわけられており、メンテナンスの章では認識を新たにする記述が散見されました。

例えば、ピアノの修理には「レストア」「リビルド」「リコンディション」というように分けられるとあります。
レストアやリビルドは、ざっくりとオーバーホールというような言葉で、その意味することろを深く考えることもないままに適当に使っていましたが、どうやら日本にはそのあたりの明確な区分がないようにも感じます。

説明によればおもに以下のようになるようです。
▲レストア
レストアの定義は「原型に近い状態に戻すこと」とありますので、おそらくオリジナルを毀損せず本来の姿や内容を忠実に復元するというものでしょう。
長年弾かれてきたもの、放置されていたもの、乱暴に扱われたもの、気候変化や戦争を経たものなどをオリジナルの状態を保ちながら楽器を補強することだそうで、古いピアノのレストアは現代のピアノを作ることではない由。
歴史的価値に重きを置くということでもあるようです。
使用される部材もその楽器の作られた年代の木材、フェルトや弦も当時の素材や製法を考慮しながら、慎重かつ丁寧に再現することで、いうなれば美術館の修復に似たようなものと思えばいいのかもしれないと思いました。

▲リビルド
リビルドは、楽器を元の状態またはそれ以上の状態に再生するために行われ、部品も最小単位まで分解する必要があり、ひとつひとつをきれいにし、不備があれば修理もしくは新品と交換するため、費用もかなり高額となり、品質の高い貴重な楽器に行うのがふさわしいとあります。
塗装、響板、フレームからネジ一本まで、これでもかと徹底しているので、昔の姿を偲ぶ要素も見い出せません。
楽器店に行くと、戦前などかなり古い時代のピアノでありながら、いわれなければ新品と見まごうばかりに内部に至るまで眩いばかりにピカピカにされ、かなり強気な金額で販売されているのを見かけることがありますが、あれがリビルドなんでしょう。

▲リコンディション
経済的または技術的理由から、完全なオーバーホールができない場合、消耗の激しい箇所のみ処置を行うことで、コストを抑え、適正に機能するピアノに修復することのようです。必ずしも楽器を完全に分解することはなく、部品は必要に応じて掃除、修理、再配置され、どうしても交換する必要があるもの以外は再利用される。
各種調整やハンマーの形成など、手掛ける項目は多岐にわたるようで、個人的なイメージとしてはホールのピアノの保守点検のようなもの、もしくはその延長ではないかと思いました。
ところが、実際には必要な箇所さえ省略された、甚だ不完全なものが多いことも否定できません。

我々が、安易にオーバーホールと呼んでいるものは、弦やハンマーに代表される消耗品の交換を中心としたリコンディションであって、正確に言うならリビルドとリコンディションの間にあるように感じました。

リビルドはかなりの費用と時間的な余裕を必要とするので、楽器の価値などおいそれとは着手できることではありません。
ただ、仮に100年経ったピアノを、たった今、工場で出来上がったばかりのようにピカピカギラギラにしてしまうのは、その美しさや技術には感心しますが、諸手を上げて賛同する気にもなれません。
というのも、あまりに過剰なリビルドは、そのピアノの生まれた時代や経てきた歴史まで消し去ってしまうようで、商品としてはアリなのかもしれませんが、センスとしては個人的には違和感が拭えないことも事実です。

過度に傷んだもの汚いものはさすがに好みませんが、古くて好ましいピアノには相応の歴史を感じるものであって欲しいし、そこをどう見るかは所有者や修復する人の価値観や美意識に大きく委ねられていると思います。
もし興福寺の阿修羅像が真新しいピカピカ状態になったら…それはもう完全な別物となってしまうでしょう。
古いピアノの魅力や音を楽しむには、そのピアノの歴史や個性を受け容れて楽しみ、そこに自らも参加していくことではないかと個人的には思います。

だからといって機能的に問題があっては困るので、そこはきちんと健康体に整備された上でのことですが。
よく耳にするのが、「ハンマーを換えた」「弦も換えた」というけれど、それ以外は手付かずで、本来はタッチコントロールに直結する各種フェルトやローラーなど、細かい点まで配慮されないことには、いつまでも満足行く結果は得られないと思います。
むろんコストの掛かることなので、できるだけ切り詰めたいというのはわかりますが、中途半端なことをして延々と不満が続くことがいちばんもったいない気がします。
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