求めるもの

手持ちのCDの山をゴソゴソ漁っていたら、セルゲイ・エデルマンのショパンが出てきました。
2009年に富山北アルプス文化センターでセッション収録されたCDで、以前ずいぶん聴いた一枚です。
もしかすると一度このCDに関して書いたことがあるかもしれないけれど、その後若い達者なピアニストが続々と現れ、時代による演奏スタイルも変わってきていると思われるので、そんな中であらためて聞き直してみたくなりました。

制作は日本のレーベルで、音質にこだわった質の高い作品の多く送り出しているOctavia Triton、ここのCDは全体にクオリティが高いと定評があり、輸入盤と違って安くはないけれどきちんとしたものが欲しい時は一時期ちょくちょく買っていました。

エデルマンは名前や経歴からロシアのピアニストと思われがちですが、ウクライナの出身。
私が知った時はアメリカ在住だったようですが、一時期国内のどこかの音大で教えるために日本へも長期滞在していたようで、おそらくこのCDはその時期に収録されたものの一つだろうと思われます。

エデルマンはロシアピアニズムの例に漏れず、堅実なテクニックで重量感のある楷書の演奏をする人ですが、そこに聴こえてくる音楽は必ずしも四角四面なものではなく、ガチッとした演奏構成の中から深い音楽への愛情が聴こえてくるもので、そのあたりがただの技巧派ピアニストとは違うといった印象があります。

曲目はショパンのバラード全曲、舟歌、幻想曲、ポロネーズ幻想という絵に描いたような大曲がずらり。
これらの難曲をいささかの破綻もなく基礎のしっかりした石造り建築のように奏していく様はさすがというほかなく、理想のショパンかどうかはさておいても、これはこれで大いに聴き応えがあります。
また、録音会場の富山北アルプス文化センターはそこにあるスタインウェイが好評だったことや、録音に適した諸条件を備えていたためか、一時は収録によく使われていたホールであるし、実際私もここで収録された力強さと甘さを兼備したスタインウェイの音には、他のCDを含めて好感を持っていました。

私の音楽的趣味という点ではエデルマンの演奏はイチオシというわけではないのだけれど、ピアノ演奏としての充実感など、個人的に大切だと思うところをキチッと押さえているピアニストというところでは、認識に刻まれたピアニストの一人です。
演奏スタイルは、ひと時代前の深い打鍵でピアノを鳴らしきるロシアンスタイルで、ショパンやシューマンにはもう少しデリケートな表現もあって良いのではないかと思うこともあるし、全体にガッチリ弾きすぎるという点は否めません。
しかし先にも書いたように、そこには良心的な音楽性が深い部分に生きており、ウソがない。
妙にセーブされて何が言いたいのかわからない、形だけは整った平均ラインを思わせぶりになぞっていて、却って不満を感じてしまう演奏より、痒いところにしっかり手が届くような聴き応えがあり、結局のところはトータルで魅力があることに納得させられてしまいます。

現代の若手のピアニストの演奏は、もちろん素晴らしいと感じる要素は多々あるとは思うけれど(私の耳には)そもそも演奏を通じて曲に没頭しているという気配が感じられません。
音楽(あるいは演奏)を聴くことで自分が酔えない、曲が迫ってこない、率直な感銘や興奮からはかけ離れた、世の中にはこういう飛び抜けた能力の持ち主がいるんだということを見せられているだけのような気になります。
なるほどどの人も着実に上手くクリアだけれど、本音を決して明かさず、各人の感性の発露も極めて抑制的で、建前ばかりを延々と聴かせられるのは意外にしんどく、そこへエデルマンのもつ熱い情が脈打つ演奏を聴くと、それだけでも溜飲が下がるようです。
自分のセンスや美意識を通して、演奏することに全身全霊を込めてやっているときだけに現れるえもいわれぬ品格と覇気こそが人の心を掴むのであって、やはり音楽というものは人が全力を込めて弾くところに、理屈抜きに惹かれるものがあります。

何もかもが素晴らしいと言うつもりはありませんが、少なくとも工業製品のような完成された演奏をあまりに耳にしていると、多少のことは目をつぶっても、このようなしっかりした血の気のある演奏には、おもわず共感し溜飲が下がるような気になります。

ピアノもおそらく1980年代のスタインウェイだと思われますが、やたら派手さを狙わない陰影、同時にほどほどの現代性も備えていて、やはりこの時代の楽器はいいなあと思います。
あたかも間接照明の中に、美しい絵や彫刻が浮かび上がるような世界がまだかすかに残っています。
それにひきかえ、今のピアノは、均一でむらなく電子ピアノのようにきれいに鳴るけれど、仄暗いものなど表現の可能性が薄く、省エネで効率的に計算されたLEDの照明みたいなイメージです。

現代のピアノもピアニストも、その素晴らしさはあると思いますが、やはりどこか自分の求めるものとは違うようです。
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もろもろ

あいも変わらず、テレビ番組から。

▲坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes
新年に放送された、坂本氏がNHKのスタジオで収録したピアノソロ演奏。
大病をされて以降、コンサートは体力を要するため、ゆったりとこのようなスタイルの収録となったというようなことをご本人がコメントされていました。
そもそも私は、坂本龍一氏のお顔と名前はむろん知っているけれど、具体的にどのようなミュージシャンなのかほとんど知りません。
若い頃はYMOというユニットで活躍されていたこと、映画『ラスト・エンペラー』では音楽と、俳優としても満州国の甘粕正彦を演じたことぐらいが知っていることのほとんどで、それ以外は実はよくわからないままなのです。

よくわからないという点では、今回視聴した演奏も作品も恥ずかしながら同様でした。
坂本氏のファンの方からは呆れられるかもしれませんが、この番組でのピアノ演奏を聴いた限りでは、慈しむようにゆるやかに弾き進められているものの、どれも似たような漠然とした感じがあるばかりでした。

強いていうなら、昔のスタイリッシュとされた頃の時代の空気というか価値観を思い出すようで、日本が日本的じゃないものを目指しはじめた頃って、こんな感じだったようなぼんやりした記憶が呼び覚まされたような。

この方は(ご自身でも言っておられましたが)ピアニストではなく、作曲や創作表現のためにピアノが最も手近にある楽器ということで、それを必要に応じて触っておられるということのようですが、もしピアニストだったらかなりの武器になったことだろうと思わせる大きくて立派な手をしておられるのが印象的でした。

ピアノはCFX以前のやや古いヤマハで、そこから聞こえてくる音はヤマハそのもの!といった感じの、まるでスパゲッティナポリタンみたいな洋風和物というか、あの懐かしい日本的なピアノの音でした。
NHKのスタジオならスタインウェイなどいくらでもあったでしょうに、それをあえてこのヤマハを使われたあたりも、坂本氏のこだわりなのか、あるいはそれ以外の事情が潜んでいるのか、そのあたりはまったくわかりませんが…。

▲舘野泉 鬼が弾く 86歳、新たな音楽への挑戦
とにもかくにも、へこたれないこの方のエネルギーに恐れ入りました。
お名前の通り、そのつきないエネルギーはこんこんと湧き出る泉のように。
66歳でコンサート終了後に脳溢血で倒れられてから、早いもので20年。
以降は左手のピアニストへと転身され、そこから再スタートを切って精力的にコンサートをされていたのもすごいなと思うけれど、コロナで全世界のコンサートが中止となり、大きな空白期間を余儀なくされたのは舘野氏も例外ではなかったようです。
そうして、ようやく世の中が動き始め、86歳にして「鬼の学校」というピアノ四重奏の新曲で久々のコンサートをするというドキュメント。
以前より一回りお年を召されたようで、移動は車椅子だったりするけれど、ピアノを弾くことへの情熱は一向に衰える気配がなく、もはやこの方にとって、ピアノに向かうことは人間が呼吸し心臓が動いているのと同じようなものなんでしょう。

ご自宅はフィンランドのヘルシンキと東京の二ケ所にあり、一年の半分ずつを両所で過ごしていらっしゃる由。
ちょうど東京滞在中にコロナ禍となったようで、海外への移動もままならず、その年齢と自由とはいえない身体での一人暮らしを余儀なくされ、近所への買い物は電動のカートに乗って出かけ、食事の準備からなにからお一人でこなしておいでだとか。

以前の番組では、この東京のご自宅には高齢のお母上がいらしたけれど、もはやその様子もなく、それでも例の淡々とした調子で前向きに毎日を受け容れ、ピアノに向い、どうしたらあんなふうになれるのかと思うばかり。
もともとの出来が違うんだといえばそれっきりだけれど、100分の1でもあのしなやかにして頑健なものが自分にあったらと、ただただ羨ましく思いますね。
ピアノだ音楽だというより、生きるということの価値や人生訓になりました。

▲蛇足
TVではないけれど、週刊誌ネタとして思うところがあったのは、現在最も注目を集める日本人ピアニストが、新年早々、同じコンクールに出場したお相手と結婚されたという話題。
あまりに出来過ぎの観があり、それがむしろ不自然な印象だったけれど、別に贔屓のピアニストではないし、人生すべてをしたたかに計画的に押し進めるこの方であれば、そう驚くことでもなかろうと思いました。
そうしたら、ほどなくして新聞の週間文春の広告に、この人はすでに外国人との離婚歴があるとあり、とたんにすべての辻褄が合って腹に落ちた気分で、さすがは文春砲と感服。
ネット検索したら、とてもここには書けないような事がゾロゾロ出てきて、いよいよ納得。
他人様のプライベートをとやかくいうつもりはないけれど、いつもどこかに感じてていた違和感が、パズルのピースがついに埋まって一つの形が見渡せたような納得感がありました。

まあ…ピアニストといっても昔の芸術家特有の破天荒とはまるで趣が違うし、こんなスキャンダルもうまく着こなしていかれることでしょう。
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通せんぼ妖怪

以前にも似たようなことを書いたような気もするのですが、あまりに多いので再び。

車を運転していると、近ごろはやたら路上での流れが遅くて、ついイライラしてしまうことが多い気がします。
むろん車が多くてそうなるなら普通ですが、夜間など交通量もまばらで、道もガラガラだというのに意味不明に流れが遅く、法定速度以下のアホらしいような速度で走らざるをえないことがしばしば。

あまりのことに前方を注視してみると、やたらゆっくり走っている一台の影響で、その後ろがゾロゾロ続くしかないという現象。
しかも、その車の前は見渡す限り何もなく、ただトロトロ走っているだけ。

以前は、運転中にスマホなどを見ているのか、高齢の方などがよほど慎重運転されているのか…などと思ったものですが、近頃わかってきたことは、どうもそういうことではないらしいのです。
片側一車線でどうしようもありませんが、途中から二車線三車線になると、こちらも一気に行手が開けるのでこの手の極遅車からようやく開放され、空いている車線から前に出るのですが、追い抜きざまについ横を見てしまうことも。

果たして、運転しているのは予想に反してどこにでもいそうな普通の若者だったり、真剣な様子の女性だったり、いずれも運転以外のことにかまけて後続車のことが疎かになっているということでもなく、しっかり前を見て運転していたりする姿によけい驚かされます。

こういう走りの車にかかると、後ろがどんなに詰まって迷惑をかけようが、そんなことはまったく知ったことではないようだし、そもそも周囲に迷惑をかけている事など微塵も意識はないようです。

車関係の知人と雑談をしている時に、こんな状況があまりに多いことが話題となり、そこで驚くべき解説を受けました。
それは通称「通せんぼ妖怪」というのだそうで、比較的若い世代に多く、車や運転に関して一切興味も楽しみも感じない人達で、車の運転は100%移動手段でしかなく、したがってドライブの楽しさや運転技術の向上などにも興味ゼロの種族の由。

自分が運転が苦手だという意識はあるようで、だからとにかく安全にゆっくり走っているのだそうです。
さらに、道交法の解釈にも勘違いがあり、例えば道路標識が40km/hのところを50km/hで走れば違反だが、40km/h以下で走るぶんにはどれだけゆっくり走ってもOKと考えているんだそうです。

現在の自動車学校の教えがどうなのかは知りませんが、我々の時代は「安全運転」はもちろん第一でしたが、そのためにも「交通の円滑」を心がけることが必要だと繰り返し叩きこまれたものでした。
仮に50km/hの道をみんなが60km/hで走っているときは、一台だけ異なる速度で走るのは却って危険であり、そういう場合は同じ速度で走るべきであると教えこまれたものです。

これは集団であれば速度違反をしていいということではなく、交通状況というものは絶え間なく変化する生きものだから、臨機応変に状況を察知し、神経の行き届いた円滑な走行を心がけることが安全にも繋がるという考えだと思います。
なので、一台だけ極端に周りと違った動きをすることは却って混乱をきたし、危険要因を増やしてしまうという考え方で、その柔軟な感覚はつねに交通安全に求められる要素だと思います。

他車に対する配慮が極端にできない視野の狭いドライバーが専らマイペースで、周囲の状況へのセンサーが働かないような動きをしていると危険が迫ってきたときの認知も遅れ、当然ながら咄嗟の対応も後手にまわり危険度はずっと増すはずです。
とくに高速道路ではスピードの調和が乱れることで危険性も増大することから、最低速度というものが課されていることからもそれは察せられます。

この「通せんぼ妖怪」は、自分は40km/hの道を30km/hで走るぶんには、自分には何の非もなく、むしろより安全運転にいそしんでいるとでも思っているかもしれませんが、それは勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。
周囲のドライバーをイライラさせる原因を作っていることこそ、安全とは反対の危険行為だと思いますが、いかんせんご当人は妖怪さんだからそこに気づくはずもないということのようです。

これと感覚的に似ている気がするのですが、夜間、無灯火(ライト類をまったく点灯していない)の車が少なくないことにも、この鈍感さが現れていると思います。
街中がいくら明るいとはいえ、夜道でハンドルを握ろうというのに、自分の車のヘッドライトが点いていないことにまったく気づかずに平気な顔して走っているなんて、その鈍感さが私から見ればかなりこわい気がするし、これはもう酒気帯び運転並みに恐ろしいような気がします。
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続・TVから

昨年末に書いたピアノ関連のTV番組の感想続編ですが、あまり年始めにふさわしい話題とも思わないけれど、敢えて書いてみました。

【NHKショパン国際コンクールのドキュメント(再放送)】
12月のいつだったかNHK-BSのプレミアムシアターの後半で放送されたもので、私自身コンクールが終わってほどなくして放送された折には一度見ている番組。
ピアニストで審査員もつとめられた海老彰子さん、ショパンに造詣が深いとされる作家の平野啓一郎さん、音楽ジャーナリストで2021年のショパンコンクール全日程を取材したという高坂はる香さん、さらには自らピアノ好きと称するNHKアナウンサー2人による進行によって、映像/演奏を交えながらコンクールを振り返るという番組。

プレミアムシアターは毎回録画設定しており、せっかく入っているなら暇つぶしにもう一度見てみようかと再生ボタンを押しましたが、実をいうとはじめの30分足らで妙なストレスを感じはじめてやめてしまいました。
理由はいまさらくどくど書く必要もないので細かくは省きますが、簡単にいうと全体に同意しかねるところが多く、評価の傾向としても自分の価値観とは相容れないものが中心になっており、のみならず、なんというか…こちらの判断基準にまで踏み込まれてくるようで、今どきはこれがショパンなんだ、これが新しくて良いんだ、それがわからなければ時代遅れの耳の持ち主だと、いわば判断のアップデートを迫られるようで、要は今風にいうなら「価値ハラ」を受けるような感じがあって疲れるのです。
自分がさほどいいと思わないものを、皆さんこぞってこれでもかと褒めちぎるのもしんどいのです。

オリンピックやFIFAワールドカップのように競技としてはっきり勝ち負けが吹っ切れた世界なら構いませんが、主観や情感など芸術性が問われるべきピアノ演奏において、この「競技」はコンクールという枠を超えて、音楽シーン全体の価値観の変容にも一定の影響があるようにさえ感じるのです。

番組始めのあたりに、みなさんの押しの演奏は?というのがあり、平野氏が今回のコンクールで弾かれた優勝者のop.25-4を挙げました。「自分はショパンのエチュードといえばポリーニの世代だが」と前置きしながら、ますます解像度が上がってショパンの音楽の構造がよく見え、デジタル的なまでにクリアな演奏となり、左手と右手のコンビネーションがわかる…「ポリーニのエチュードは金字塔として変わらないが、その先があったのかと思った」というようなことを言われ、これも実際の演奏が流れましたが、私はすこしも感銘を覚えず、だからなに?としか思いませんでした。
あげくに「ショパンの演奏が50年の間にこんなに進歩したのか…」というようなことを堂々と仰るのには、強い違和感を感じましたし、海老さんのコメントも全般的に技巧目線で、同様の印象でした。

確かにクリアというならそうかもしれませんが、それがそんなに価値あることとも思えないし、むしろ音楽的にはやせ細って平坦で、ショパン作品に求めたい香り立つようなニュアンスもなく、スマホの早打ちのように終始せかせかした感じで、背中を丸めゲームにでも没頭するかのように上半身を小刻みに上下させる姿も違和感を覚えたり…。

より美しく、より芸術的な方向へ深化するなら大歓迎ですが、デジタル機器ではあるまいし、私は一人の音楽愛好家として、ある種一定の明晰さは求めたいけれど「解像度」という言葉自体も無機質でちょっとそぐわない気がしました。
むろんこれは、ものの喩えとしての表現かもしれませんが、そのままの概念のようでもあり、ある種の本質を孕んでいるような気がしてどうにもひっかかるのです。
技術や楽曲分析が向上するのは結構ですが、人間臭さを失ってまでそれを求めたいとは思いません。

【ブーニンの復活コンサート完全版】
9年ぶりに八ヶ岳で行われたコンサートで、シューマンの色とりどりの作品(小品とも)op.99の全曲版。
身体的に様々な不調に襲われ、再起をかけて実に9年ぶりに公開演奏に挑んだ演奏。
そんな開演直前ともなればどれだけナーバスになっているのかとおもいきや、控室にいたブーニン氏は優雅な笑みとともに、夫人と連れ立って通路をゆったりと進んでステージに向かう姿は印象的で、やはりこの人は独特な存在だと思いました。

演奏は率直に言って、かつての奔放で思うままにピアノと戯れていたブーニンではないことが悲しくはあるけれど、それでも随所のアーティキュレーションとか、ちょっと溜めて歌い込むポイントをむしろスカッとクールに処理されるあたり、かつて聞いた覚えのあるブーニンの語り口を垣間見るところがはっきりあって、ああこの人はこれだった!と思いました。
人間の感性は生涯不変という話はやはり間違いないようです。

世界にはあまたのピアニストがいるけれど、あの何事にも動じない、貴族的ともいいたい所作や笑顔、自然な語り口、なにより彼が醸しだす繊細さ、それでいて超然としたあの誇り高い雰囲気は比べるものがない、この人だけの世界があるようです。
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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

今年も良い年でありますようにと穏やかにご挨拶したいところですが、世の中はロシアのウクライナ侵攻はじめ、大国のエゴがいよいよ顕在化するなど、しだいに緊張の度合いを増しているようで、なんとか世界の平和が保たれますよう祈るばかりです。

かつて日本では「平和ボケ」なんていう言葉が盛んに使われたものでしたが、もはやそんな無邪気な時代ははるか彼方に霞んでしまったようです。
コロナも概ね収束方向かと思っていたら、中国のゼロコロナ政策の緩和によって、一転して爆発的な感染拡大となり、そこからまたあらたな変異株が出てくる可能性があるといううんざりするような説もあったりで、現代人は今やどちらを向いても不安要因にとり囲まれてしまったようです。
とはいえ、嘆いてばかりもいられないので、なんとか現状の中で前を向いていくしかありませんね。

毎年、年初のコメントには同じことを書きますが、このブログも14年目を迎えることになりました。
お読みくださる方がいらっしゃるのはただありがたいとしか言いようがなく、本年も何卒よろしくお付き合いくだされば幸せです。
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