人間関係において何が一番重要か、これはわかるようでわかりにくいテーマだと思います。
通り一遍の言い方をするなら、人柄であり、信頼であり、相手を思いやる心というあたりを並べることになるのでしょう。
私もそこはむろん同感しますが、事はそう簡単には解決しません。
実際にはそういった大原則だけでは立ち行かない問題が多々あって、本当に好ましくしっくりくる人間関係ということになると、そう簡単に成立するものではないというのが実体験としてあります。
ここ最近、そのあたりを考えさせられることがいろいろあって、自分なりのひとつの結論を得たような気がしました。
若いころは、自分の若さと無知と傲慢から「馬鹿が一番困る、馬鹿は罪だ!」などと勢いに任せた考えを持っていたこともありますが、それは短慮で恥ずかしいことで、まさに若気の至り。
そこでは馬鹿という言葉で、雑駁にいろいろな要素を一掴みにしていたし、多少の偽悪趣味もあったと思います。
いま思うのは、人間関係で大切なのは、ほんの一部でいいから「センス」が共有できるか否かだろうと思い至るようになりました。
センスというのは善悪でもなく、バランスであり、息遣いであり、いわば取捨選択のものさし。
極論すればセンス=人間性といってもいいような気さえします。
まさに感性の問題だから、理屈ではどうにもならないものだとつくづく思います。
ダサいと感じるものはどうしようもないし、感じない人はどんなに說明しても理解できないもの。
人との人の間には、この理屈ではないものが介在することによって心の距離が決定され、しっくりくるものから素通りするものまで、自動的に分別されているのではないかと思ったりします。
関係の保ち方、話の内容や関心を寄せるポイントや重経など、ありとあらゆるところにセンスが果たす役割は、あまりに大きいものがあると言わざるを得ません。
センスが完全に合致するなんてことはあり得ないけれど、一定程度の共有が得られるかどうかはとても重要です。
どんなに正しく聡明で立派な人でも、センスが大きくずれると、なにもかもが皮肉なまでに噛み合わず、絶望的な結果しかないのです。
解決できない壁に阻まれ、当り障りのないことでお茶を濁すだけ。
こちらが大事だと思っているポイントが無価値だったり素通りだったりで、テンションも上がらず、会話も頭打ちで退屈な安全運転に終始するだけ。
よくいう「笑いのツボ」が合う/合わないというのがありますが、これもまさにセンスの問題だと思います。
人には能力、人格、適正などいろいろな要素がありますが、それらを奥深いとこで引き絞って、ひとりの人間として動かし采配しているのは、ほかならぬセンスだと思うのです。
通常はよく価値観という言われ方をしますが、個人的にはそれよりもセンスのほうがより深くて決定的なものがあって大事だと思うのです。
しみじみ思うのは、どんなに立派で温かい心をもった人でも、センスが合わないといちいちが神経に障り、疲れます。
しかも、互いに何が悪いというわけではない分どうにもなりません。
センスは人間関係のみならず、人が関わるあらゆることの中心では?
最後になりましたが、いうまでももなく音楽もそうであって、どんなに練習しても、センスによって統括されなくては決していい演奏にはならないし、そもそも技術もないまま難しい曲に挑戦したがるなんぞ、センスが悪いなによりの証でしょう。
そういう意味では、ピアノが下手なことは許せるけれど、センスが悪いのはガマンできません。
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