完成度

BSプレミアムでシャルル・リシャール・アムランによる昨年末の来日公演の様子が放送されました。

会場は東京オペラシティ、曲目は55分の番組内では2つのノクターンop.27と24の前奏曲op.28で、むろん実際のコンサートではこれだけではなかったでしょう。

この人は2015年の第17回ショパンコンクールで第2位に輝く実力者で、このときの優勝は韓国のチョ・ソンジン。
度の強い眼鏡とふっくらしたクマさん体型もあってか、温厚な雰囲気があり、飾らないピアノを弾く人で、そこが当時から印象的でした。
それと、今どきの多くの若手ピアニストたちが、コンクール後に実際の演奏活動が始まると、手のひらを返したようにショパンを避けるような振る舞いになっていく傾向があり、それはショパンのピアニストとしてのイメージを剥がそうとする狙いもあるのかもしれませんが、あまり度が過ぎると好意的に見えないようになるのは私だけでしょうか?

ショパンを弾くだけではない、オールマイティなピアニストの資質があることを誇示するあの感じは、今どきのピアニスト自己アピール術という感じが前に出て、ショパンコンクールを出世の階段として利用しただけというしたたかな感じがあり、またこのパターンだな…としか思えなくなりました。

その点ではリシャール・アムランは、他の作曲家の作品も弾くけれど、ショパンは重要なレパートリーという姿勢を崩していないような印象があり、必要以上に野心的でない素直さには好感を持っていました。
そもそも、ショパンコンクールに出場して上位入賞した人に聴衆がショパンを求めるのは至極自然なことで、決してオールショパンである必要はないけれど、プログラムの一角にショパンを入れ込むのは、自分の経歴に対するある種のマナーのような気がします。

中には、ショパンコンクールに何年もかけて周到に準備/出場し上位入賞を果たしながら、今度はピアニストとしてやっていくかどうかもわからない、自分の一番やりたいことは◯◯だ…などと言ってのける人もいたりで、自分の能力をひけらかして世の中を弄ぶのはいかがなものかと思うこのごろだったり。

…さて、アムランですが、彼が出場したコンクールから早いもので8年が経過したことになります。
私はこの人の演奏には、ファンというほどではないけれど一定の好感を持っていましたし、この人が優勝でもよかったのにと思ったこともありました。
その後はCDも数枚購入しましたが、耳を凝らして聴いてみると、意外やイメージよりもドライで詩情がもっとあってもいいように感じるところがしばしばです。
とくに今回の来日公演の演奏では、その点が一層目立ったようでこれは残念な点でした。

アムランに限ったことではありませんが、ショパンコンクールで演奏するということは大変な緊張もあるだろうけれど、やはりその一音一音に当落がかかった真剣勝負であるし、そのための準備も尋常なものではないでしょう。
本人はもとより、周りの指導者たちとのチームによってこのすごいエネルギーを投じて磨き込まれた入魂の演奏であるためか、その後のコンサートで見せる演奏は、もちろん余裕とか深まりとかいい面もあるけれど、どこか真剣度が足りないし、新しいレパートリーに関しては完成度の低さを感じてしまうことが少なくありません。

これはコンクールでの演奏が最高と言っているわけでは決してないけれども、コンクールにフォーカスして練習を積み重ねたものには特別に仕上がった輝きがあるわけで、それに対して同じ弾き手でも通常のコンサートでの演奏とは小さくない溝があるように思います。
他のピアニストでも、コンクールからずいぶん経ってリリースされたショパンのCD(コンクールでは弾かなかった曲)を期待して聴いてみて、あまりの完成度の違いに驚いたこともあります。
それがコンクールのような勝負の場ではできなかったことを表現しようとしているなら、こちらも大いに拝聴するところですが、数を揃えるために雑で生煮えのような演奏が次々に出てくると、その幻滅はたとえようもありません。

今回のアムランがまったくそうだったというのではないけれど、やはり詰めの甘い部分が放置されっぱなしのように聴こえたり、ショパンの演奏様式とか外してはならないポイントからズレたものを感じたりすると、むしろこれがこの人の正直な姿なのかと思って、いささか戸惑いを覚えたのも事実。

アムランのショパンは、全体としては一定のクオリティで保証されているけれど、その実、期待するほど詩的に語りかけるものがなく、意外に配慮に乏しい事務的な処理だったりするのは、どうしようもなく醒めた気分になってしまいます。

ピアノはショパンコンクールでもそうであったようにヤマハで、よほどお気に召したんでしょうね。
音はTVなので厳密なところまではわかりませんでしたが、新型のCFXでした。
見分けるポイントは、大屋根の蝶番が3個になり、外板サイドに取っ手のあるL字フックがないタイプでした。
またTVには映りませんでしたが、フレームも大幅に形状変更されているようです。

全体として、日本のピアノは世代交代する度に外国語が流暢になっていくようですが、願わくばステージ上でのヤマハのボテッとした鈍重なスタイルはなんとかならないものかと思います。
日本製だからといって、なにもピアノでまで胴長短足の日本人体型を貫かなくても…と思うのですが。
一番の問題は前屋根が折れるポイントが後ろすぎで、あと2cm浅ければずいぶん違うと思うのですが、ステージに凛と立って視線を集めるコンサートグランドは、見た目のフォルムの美しさも非常に問われると私は思います。
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向上と退化

このところ、音質もさほど良いとはいえない昔の演奏に耳を傾けることが少なくありません。
理由を考えてみると、現代の演奏はどこか作られたような、ウソっぽさを感じることが多く、昔の演奏にはそういう疑念がない点で、演奏者の本音に触れられるからかもしれません。

とはいえ、新しい世代の演奏もそこそこ積極的に聴いているつもりです。
日本人でもこの数年でワッと増えたように感じますから、あの世界も大変でしょう。
若い世代のピアニストは、いまさら繰り返すまでもないけれど、不自然に完成されておりピカピカで聴いていて見事とは思うけれど、心を掴まれたいのにそうならないまま淡々と進み、ついには後に何も残らないのです。
これは言い換えるなら「もう一度聴いてみたいと思わない」ということかもしれません。
演奏を通じて自分が価値とするものを世の中に投げてみる、あるいは批判覚悟で問うてみるという、とりわけ芸術には必要な個の尊厳のための頑固さとか偏執的なエゴがまったくないのは、まるで売上チャートに合わせた規格品みたいな感じがどうしても拭えません。

評判のいいチェーン店の商品のように安定はしているけれど、マイナスになり得る要素を排除し、わずかなキズや落ち度も消し去って、キラキラに整っているだけの首尾一貫しない演奏。まるで音楽をネタにしたエリートの成功物語に付き合わされているような印象と言ったら言い過ぎでしょうか?

おそらく彼らにも言い分があって、これだけ平均技術が上がりライバルが増えれば、自分の頑なさをアピールして失敗するより、手堅くミスを侵さず、嫌われず、タレントとしての存在力を高めることに注力しなくてはいけないのかもしれません。
一部の鍛えられた耳を持った人をターゲットに芸術性で勝負しても、それは現代が求める価値とは齟齬があり、技巧や入賞歴や、やみくもなレパートリーの量、メディアへの露出、果てはSNSのフォロワー数などが尺度となって、誰にでもすぐにわかるものでなくてはならない。
要するにスーパーマンであることが最も大事なのかも。

私の旧弊な耳には、匿名的な活字印刷したような演奏にしか聴こえず、その演奏から誰の演奏と言い当てることはできません。

海外のピアニストも同様で、だれもが不安のない技術を備え、淡々と既定の演奏をやっているのだから、はじめから終わりまで見通せるようで、ワクワク感がないのも当然ですが、音楽がワクワク感を失うのは大問題という気がします。

これは楽器としてのピアノにも似ていて、昔のピアノは品質も個性も様々で、高級品は夢見るほど素晴らしく中には怪しげな魔力さえ漂っていたりしましたが、大半のピアノメーカーは淘汰され、残ったメーカーはこれという欠点を徹底的に潰して量産品としての改善に努め、標準的な間違いのないものを作っているように見えます。
今は一流品とされるブランドでもコストと利益が最優先で、素晴らしいピアノを作ることに心血を注ぐなどという理想はなく、ビジネスとして与えられた枠の中で、誰からも嫌われないものを、職人不要なマシンを多用しながら、故障しない自動車を作るように製造しているように感じます。
もはやピアノも工場のハイテクの気配はあっても、熟練の職人や工房の匂いがしないのは当然というわけです。

現代のピアニストの演奏は、印刷された楽譜の存在をイメージさせすぎるように感じます。
多くの奏者は聞き分けよくそれらを正確に伝えてくるけれど、それが本心からその人の感じ取った音楽になっているかとなると甚だ疑問で、それも徹底し過ぎると音の商品といった印象があります。
その点、昔の演奏は演奏者の感性を通し、身体をかけめぐったあげくに作品が昇華され、それぞれの言葉や表現となって聴く者へ届けられてくる気がします。そこには演奏者の体温があり、汗があり、吐息があり、喜怒哀楽が作品を通して翻訳され、山あり谷あり立体感があって、血の通った起承転結を感じます。
結果、何を聞いても同じように聞こえるのではなく、作品の姿形も、作曲者が伝えたかったこともダイレクトになる気がします。
要するに作品が奏者と肉体化しているので、楽譜を感じさせないんだと思います。

同時に、現代の精巧な演奏には及ばない点や、場合によっては違和感やどうみても間違いなど、出来不出来もあるけれど、何のために音楽を聴くのかという点では、前世代の演奏のほうが純粋で、音楽のあるべき姿ではないかと感じるこの頃です。
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ガラス窓

唐突ですが、住まいの窓ガラスの掃除は、なにしろ面倒くいから滅多なことではやらず、恥を忍んで告白すると1年以上ほったらかしになってしまうようなことも常態化しています。
毎日の生活の中で目にしていると、すっかり目に馴染んでほとんど無反応になるものがあるけれど、ふと冷静な目で見てしまうる瞬間があると、その汚れにびっくりしたり…。

外窓は、雨粒はもちろん台風の時に付着したと思われる小さな泥粒などが下部にこびりつき、内側はエアコンはじめホコリの堆積、さらに冬場は加湿器のせいでうっすらと白い膜のようなものが覆っていたりします。
しかし、いつも薄いカーテンを引いているので、おかげでますます気にしなくて済むということもあったり。

そのうちやらなくてはと意識するようになっても重い腰はなかなか上がらず、あれやこれやのせいにして実行は延期に次ぐ延期の繰り返しだったり。着手するまでが大変です。

鏡ぐらいのサイズならともかく、家の窓ともなると面積も広いし、何度も雑巾を洗ったり絞ったり、かつガラスは裏表があるから仕事量も倍で、かなりの重労働となるのでますます敬遠しがち。
それでもなんとか見て見ぬふりできているうちはいいけれど、今年になってからさすがにこれ以上はマズいという一線を超えて、一気に危機感が募りました。

なんでも業者に頼んで、お安くもない料金をすんなり出せるような方は別ですが、自分でもできることをわざわざ頼むのももったないし、だいいち家の中へ半日なり業者が出入りするのも、正直言って気の張る思いをするからできるだけ避けたいということになると、その両方をクリアするには「自分でやる」以外にありません。

そこで思いついたことをやってみた結果、想像以上に簡単で嬉しい発見があったので、ちょっとそのお話を。
IKEAに行くと、ガラス掃除用のT字型の器具で先にゴムの付いたワイパーみたいなものが驚くような低価格で山積みされています。
よくビルの清掃員などがガラス掃除に使っているものを、一般人向けに小型にしたようなアイテムで、これを使ってみることを思い立ちました。

洗剤を希釈した液をスプレーでシュッシュとやって、その手動ワイパーで拭き取るという単純なものですが、予想に反してなかなか思うようにはいきません。
プロが手慣れた手つきであっという間に汚れを落としていくのを感心して見た覚えがありますが、自分でワイパーを動かしたあとには両側に必ず液体の筋が残り、それを別方向から取ろうとすると、その方向へ別の筋が残り、そうこうするうちに斑に乾き始めるなど、仕上がりも一向に思わしくなく、落ちたはずの汚れはヘンな跡やムラになって残るなど布で拭くほうがまだいいようなものでした。
こんなことをやってもダメだと思い、一旦中止に。

その後、考えたことは、クルマの仲間から教わったものですが、一点の曇りも好ましくないクルマのガラス拭きには下手な専用洗剤より精製水を使ったほうが効果的という、あのやり方でした。
洗車の手法を応用するなら、間髪を入れずにメリヤスのシャツなどで補助的に拭き足すことも効果的では?と思いつきました。

すぐに100円ショップで新しいスプレーボトルを買って精製水を入れ、それをガラス面にシュッシュッとたっぷり(下にダラダラ流れだすほど)吹き付けました。
一息おいてワイパーで上から下に向かってザーッと拭き取りをし、すかさずメリヤス地に持ち替えて軽く拭いてみると、なんとこれだけでかなり綺麗になることがわかりました。ムラもほとんどなく、パッと見には十分満足というレベルの仕上がり。
また、精製水は洗剤でもないのでケミカル品特有の膜や拭きムラなどもなく、これだと望外の少ない労力で、すくなくともみっともなくない程度にガラスが綺麗になることがわかり、ヨーシ!というわけで、これで気になるところを次々に掃除していきました。良い結果が出始めると、俄に嬉しくなって、張り合いも出るというものです。

遠目であれば、さっきまで惨めにくすんでいたガラスは、ガラスを外したの?というぐらいビシッと綺麗になり、その労力/コストに対する目覚ましい結果には感動すら覚えました。

現在のところ広いガラス面をこれ以上ラクに、効果的に掃除する方法はちょっと思いつきません。
下処理などもなく、汚れたガラス面にいきなりスプレーすればいいので短時間で済むし、道具といえば、スプレーボトル入りの精製水、窓拭き用ワイパー、着古したメリヤスシャツ、位置が高いなら脚立、さらに窓枠の汚れ(特に下部)を拭き取るためのウェットティッシュ、とせいぜいこれぐらいです。

精製水は薬局に行けば大体100円ちょっとで500mlのものが売っており、2〜3個買っておけば安心ですが、実際は1本でも相当の面積がカバーできます。
この精製水はガラスはもちろん、食器棚でも家電でも、ウェスを固く絞ってシュッシュと精製水を吹き付ければ、なんでも気軽にきれいになります。
この手軽さを覚えたら、目的ごとに分かれた各種洗剤など、よほどのことでないと使う気にならないこの頃です。
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厳しい現実

以下に書くことはあくまでも筆者個人に限ったことなので、まずその点を明確にお断りしておきたいと思います。

楽器(私の場合はピアノ)を奏でることの楽しさはいまさら言うまでもなく、その大いなる喜びや魅力は自分の半生を通じてよく承知しているつもりです。
とりわけピアノという楽器の美しい音や万能性、さらに無限ともいえる膨大かつ偉大なレパートリー、それを自分自身の手で音にするのは他のいかなることからも得られない、まさに代え難い喜びがあるものです。

そもそも好みのピアノは見ているだけでも快いし、ましてキーに触れて音が出すとなると、自分ひとりのために楽器は反応し、鳴動し、その生の音に全身が包まれる感触、さらにそこから曲になっていく喜びはまさにピアノを弾く醍醐味。
そんな基本は決して変わらないけれど、その喜びと背中合わせに、ピアノを弾くことで常に付きまとってくる虚しさみたいなものからも逃れられない負の感覚が貼り付いているのも私の場合は紛れもない事実です。

その一番の理由は?というと、どんなに練習しても(〜ろくに練習もしない人間がこの言葉を使う資格もありませんが)、基本的な自分の演奏技量にはどうにもならない限界があり、これが分厚い壁となって行く手を阻み、そこを打破することは不可能だという事実があることです。
子供の頃に、ろくに練習もせずいい加減に過ごしてしまったツケが、はっきりとこの結果にでていることは疑いようがないわけで、自業自得なのはむろんわかっていますが…。

ピアノほど技術向上のための短い成長期を取り逃してしまうと、後からどうあがいても基本力が上達しないものは、そうはないように思います。
技術と名のつくものはおしなべてそうなのかもしれませんが…。
私などは生来の意思薄弱な人間だから、技術の向上がまったく見込めないことに、無償の努力を注ぎ練習に打ち込むことは、やはりどんな言葉を並べてみたところでモチベーションは上げられません。
「どんなに下手でもいいから、一曲を心をこめて弾く事が大切」「自分の技量に応じて楽しめるのがピアノの魅力」といった慰めの言葉は山ほどあってむろんその通りでしょう。だからといって心底からそんな気にはなれないのも事実です。

弾きたい曲が自在に弾ける世界には手が届かず、やむを得ず自分の技術に見合ったレベルの曲を幾日も(ときに何ヶ月も)辛抱強く練習するしかなく、それが全く楽しくなくはないけれど、やはり楽しさの幅は大きく制限され、欲求が満たされることより、不満の増幅のほうが勝るわけです。
技術的に大したことない曲を一つ仕上げるにも、日々の努力と練習に勤しまざるをえず、加えて昔は自分なりにできていた暗譜さえ明らかに記憶力が減退しており、自分の求めているピアノへのイメージから離れていくのをイヤでも感じるこのごろ。

こういう厳然たる事実が年とともに、よりはっきり鮮明に見えてくるようで、そうなればなるだけささやかな練習をするのも以前にも増して億劫になり、勢いピアノに向かう時間も意欲も弱くなっていくようです。
そもそも練習というのは、それそのものに才能と意志力と忍耐が必要だし、ある程度の若さや体力的なもの、そして向上するという喜びの後押しも必要なんだと思います。

ピアノを趣味でやっている人の中には、自分の技量にはさほど頓着せずコツコツと練習し、レッスンに通い、それを喜びとできる方もおいでのようだし、近隣の騒音問題などがなければいくらでも弾いていたいという方も少なくなく、これには感心もするけれど、個人的にはそんな気持ちはほとんど信じられないのです。
中には、それでも練習を積み重ねれば、技術は向上すると本気で信じている方もおられるようで、それは結構なことですが、私は逆立ちしてもそんな希望は抱けないし、自分の考えが嬉しいほうに間違っているとも思えない。

ピアノの演奏技術は、いろいろな見方があるにせよ遅くとも十代までで大枠は決まってしまい、それ以降はどんなに努力をしても大きく変わることはないでしょう。

思うにピアノの演奏技術向上というのは身長が伸びるのと同じようなもので、伸びる時期に(効果的な訓練をすれば)ぐんぐん進み、それでもどこかの時点で残酷なまでにバタッと止まってしまうもの。

世の中には、つべこべ言わずにきちんと頑張り通して何かを成し遂げる御方もおられますが、「ヨーシ自分も!」というような気概というか、ある種の執念がまるきりないのが我ながら情けない限りです。
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聴き応え

いつものTV視聴から。

▲アンヌ・ケフェレック
来日公演からシューベルトの最後のソナタD960と同じくベートヴェンのop.111。
時間の関係でシューベルトは第1/4楽章のみ、ベートーヴェンは全曲でしたが、普通に考えればシューベルトはまだしも、このフランスの小柄な閨秀ピアニストが弾くには、ベートーヴェンの最後のソナタなどいささか荷が勝ちすぎやしないか…という予断があったのですが、それは私の浅はかな間違いでした。
一般的に、最後の…と名のつくソナタなどになると、どうしても精神性の表出を意識しているようで、大上段に構えて大仕事に挑んでいるといった演奏になりがちですが、ケフェレックのそれはいささか趣の異なるもので、そういう過剰な気構えなしに、ケレン味なく、曲を曲らしく、正にありのままであるため、それが逆に極めて深い説得力をもっていたことは驚きでした。
長年の研究や解釈の手垢があまり付かない、作品の自然な姿をそのまま描き出し、力むことではない音楽としての美しさの中から精神的な奥深さのようなものを、聴くものが恭しく押し付けられるのではなく、自然に自由に受け取るという手筈になっているような演奏。
凡庸なピアニストは、作品の背景や深いところを見落としているという批判を恐れるあまり、必要以上に難問を解読するように振る舞い、そして形而上学的なものへ到達したことを見せねばならぬと奮闘するため、あるがままの姿が逆に見落とされてしまっているようにも気づきました。
しかも、ケフェレックは決して曲を小さく弾いたわけでもなければ、フランス的な軽妙な感性の中に落とし込んだのでもなかった印象をもちました。
耳にしたのは、あくまで自然な語りであり、こういう弾き方もあるのかと唸らされたとともに、おそらくこの人にしかできない演奏なのだろうと深い感銘を覚えました。
とかく現代の情報過多の時代にあって、ピアニストも頭でっかちになり、高尚さを狙いすぎて、却ってありきたりな聞き飽きた、つまり通俗的な演奏になっていることを大いに反省すべきだろうと思います。
「楽譜にすべてが書かれている」という言葉がありますが、現代のピアニストの多くはなるほど楽譜に正確ではあるけれど、同時に情報や環境にきつく縛られているという意味で、甚だ退屈かつ凡庸な演奏に陥りすぎていることを、ケフェレックの演奏はまざまざと感じさせるもので、この録画はなかなか消去できそうにありません。

▲イリーナ・メジューエワ
長く日本に住むこのロシアのピアニストは、その華奢な風貌とは裏腹に、重厚かつ正統的なピアノを聴かせる実力派で、私はこの人のお陰でメトネルのピアノ曲にずいぶん親しむきっかけを作ってもらった(主にCD)と思っています。
いまや日本語も達者で、昔の謙虚さを失っていない頃の慎ましい日本人のような語り口で、その内容と併せてまずもって驚かされました。
この日はラフマニノフ・プログラムで、使われるピアノもラフマニノフが10年ほど自宅で使っていたというニューヨークスタインウェイのDで、現在は東京のピアノ貸出会社が所有しているようです。
メジューエワ氏もこのピアノを通じて、ラフマニノフからいろいろな教えを受けているような心地がするというような、畏敬の念に満ちた意味のことを語っておられました。
楽器としての内部は充分な修復や手入れがなされているようですが、外観は意図的に手を付けられていないようで傷みもかなりあるけれど、それが歴史を感じさせる凄みとなり、とりわけ目を引いたのは鍵盤蓋に残る無数の生々しい傷あとでした。
それも引っかき傷のような軽いものではなく、おそらくは巨大な手の持ち主としても有名だったラフマニノフの爪や指先が激しく衝突していたのか、木肌がえぐれて木の地肌が銃痕のように無数にできてしまっており、生きていたラフマニノフの息吹を感じさせないではおかない壮絶な証拠のようでした。
とりわけニューヨークスタインウェイ(アメリカのピアノ全般?)は、ハンブルクやその他の標準的なピアノに比べて、キー(特に白鍵)がわずかに短かかったので、いよいよラフマニノフにとっては指先が鍵盤蓋につっかえて仕方がなかったのかもしれません。

メジューエワの演奏は派手さで人の気を引くものではなく「滅私奉公」という古い言葉を連想してしまうような誠実さというか、礼儀正しさみたいなものを感じます。
かといって、いわゆる退屈な先生タイプではなく、楽器をよく鳴らす厚みがあり、同時にロマンティックなので、聴く側も集中力が途切れないのは稀な存在だと思います。
テンポも許容できる範囲でのやや遅めの設定で、圧倒的な疾走感などはないかわりに、細かいディテールを漏らさず聴くには、こういう演奏をしてもらえると、じっくりと作品に触れることができるのは好ましく思います。
とくにソナタ第2番はラフマニノフのピアノ曲の中でも、代表作であるだけでなく、ひときわ壮大かつ官能的な作品である気がしました。
ピアノ自体にも生命感があって、奏者と楽器が常になにかのやりとりをしているよう。

つくづく現代のピアノの大半は、音を出すための無機質な装置になってしまったように感じないではいられませんでした。
とくに低音域の豊かな響きなどは比類無いものがあったし、弾けばピアノが反応しているという独特な感じは、楽器の最も大切なところではないかと思います。
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