悪しき例外

4月の上旬、所用があって車で関西方面へ数泊の旅にでかけました。
ホテルは今はやりの検索サイトで簡単に予約できるのは、つくづく便利な時代になったことを痛感します。
しかも、さすがは日本というべきか、どのホテルも一定の基準が満たされ、一長一短はあるにせよ安く泊まるにはほぼ満足の行くもので、また同様の機会があればぜひ利用したいと思います。

ただし、ものごとには例外もつきもので、帰りに泊まった倉敷のホテルだけは、どうにも納得の行きかねるものでしたし、一事が万事という言葉があるように、それはあらゆるところに及んでいました。

車の旅なので別途駐車料金がかかりますが、宿泊する場合どこも1000円以内で、神戸のど真ん中のホテルでさえ800円でこれが最高額でした。
ところが、その倉敷のホテルはすぐとなりに大きな駐車場があったにもかかわらず、それは他のホテル用の由、当該ホテルの駐車場の場所を尋ねると、さっぱりわからない妙ちくりんな地図を渡されます。
わかりにくい路地裏のようなところで、見知らぬ土地でこの紙切れ一枚を見てすんなり行けるところではなく、探しまわったあげくについにそれらしきものを発見、到着早々ここを探し出すだけで一苦労でした。
しかも、驚いたことに入り口前には小川のような大きな溝が流れており、そこを渡るため大型の鉄板が渡してるものの、ガードレールのような見切りになるもの一切なく、おまけに夜は真っ暗闇。
少しでも運転を誤れば一気に溝に転落してしまう作りで、今どきこんな危険なものは初めてで目が点になりました。

そこはホテルの駐車場とは程遠い、周りは民家が立ち並んだ土地に線を引いただけの暗くてうら寂しい場所で、こんな最低な雰囲気の駐車場に行かされただけで気分はかなり落ち込みました。

その鉄板を細心の注意でどうにか無事に渡り終え、そこからホテルまで数分歩かなくてはならず、歯をキリキリさせながら正直これは失敗だったというのが去来します。
予約時のネット写真などはさもオシャレさを売り物にしたようなホテルだったので、そのギャップたるや甚だしく、イメージと現実の差をまざまざと見せつけられた思いでした。
ようやくホテルにたどり着くと、中はいかにも今風のスタイリッシュなしつらえにはなっているけれど、ホテルというのにフロントがないのか、玄関脇に小さな司会者用の小机のようなものが立っており、そこで一人の女性がチェックイン業務を担っており、そこでさらに信じられない言葉を聞かされるハメに。
あの遠くて、不便で、不気味で、さらに出入りの危険な駐車場の利用料が一晩2000円!だというのです。

繰り返しますが神戸のど真ん中のホテルでも、宿泊客の駐車料金は800円だったのに、この法外な料金は悪い夢でも見ているようでした。
さらに、ホテルはオシャレ風を気取っているのに、その女性の服装はこのあたりがデニムの産地か何かはしらないけれど、全身デニム地の、まるで主婦が部屋着そのままでいるようで、これもいかがなものかと思いました。

部屋は幸いさほど狭くはなかったものの、ベッドと壁際の机以外あまりにガランとしてなにもなく、窓のそばは椅子の一脚もフロアスタンドも、さらにはコンセントさえもない、倉敷とかオシャレさを微塵も感じないひどく殺風景なもので、ロビーだけいくらスタイリッシュにしてみても、これじゃあ却って悲しくなります。
更に驚きは続きました。
4月上旬は暦の上では春かもしれませんが、まだまだ夜はかなり気温は下がって寒くなるもの。

だいたいホテルというのは、客室に入るとやや暑すぎるぐらいが普通であるのにここはやけにひんやりで、エアコンを入れても、設定温度をいくら上げても一向に温かくなりません。
操作が悪いのかとホテル側に聞いてみようにも、どこにも電話器がなく、しかたがないので携帯からかけようとすると、チェックイン時に渡されたカード類にもいっさい電話番号らしきものはなく、とうとうネットで調べてやっと出てきた番号は、0570で始まる通話料20秒10円のものだけ。
宿泊客がホテルスタッフに連絡しようにも0570の電話だけとは、ほぼ電話は拒否という印象しかなく、なんだか倉敷のイメージまで悪くなるようでした。
しかもその番号さえ、どこにも記載されておらず、これでは急病とか災害など緊急時に迅速な連絡もできず、最悪の場合、人災をも引き起こすのでは?と思わざるを得ません。

しかたがないので着替えて1Fへ降りて行ったらロビーは無人で、こちらも粘ってウロウロしていたらやっと一人の男性スタッフと出会いました。
部屋が寒いと訴えたところ「現在はすべて冷房になっておりまして、暖房はお使いいただけません」とのにべもない返答で、開いた口がふさがりませんでした。

ホテル側も少しは認識しているのか、同様の苦情があるのかはしらないけれど「毛布をお貸ししましょうか?」といいながら奥からそれらしきものを馴れた感じで持ってきました。
仕方がないから、それを手に部屋に戻りガタガタ震えながら一夜を過ごしたわけですが、もっと安手のホテルでもフロントはあるし深夜でもスタッフの一人は必ずいるし、いなければベルを鳴らせば奥からすぐに出てくるのは常識では…。
さらに今どき、各部屋のエアコンは利用者が自由に冷暖房の切り替えが容易に利くものになっているのが普通で、ここまで表面だけのお客を馬鹿にしたようなホテルがあるのかと相当驚きました。

表面だけといえば、宿泊客にはロビーで紅茶などの飲み物が無料で振る舞われるようですが、そのサービスもどこかわざとらしく、まさに何が大事かという本質を履き違えていると言わざるを得ません。
フロントがないので、部屋のカードはチェックアウト時にどうするのかというと、エレベーター内の壁に貼り付けられた「箱」に放り込むだけ。ホテルを出る際だれとも接触することなく一言の挨拶もないまま終わりで、これじゃあラブホテルと大差ないですね。

お客さんの不便不快の上にホテルにとって都合の良いやり方を押し通しても、それは合理的とも機能的ともいえるものではなく、二度と利用するつもりはありませんし、ここ以外のとくにカッコもつけていない実用的なホテルがいかにまともだったかとわかるものでした。
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やわらかい

一週間ほど自宅に不在だったため、すっかり書き込みの間隔が空いてしまいました。

隣県のピアノ店のご主人から、50年ほど前のスタインウェイDを仕上げたので、いちど触ってみてくださいというありがたいお申し出があったこともあり、先日ちょっとだけ立ち寄って触らせていただきました。

そこにあったのは、ある意味懐かしいディテールをもつD型でした。
ちょうど70年台から80年台に切り替わる時代のピアノで、鍵盤蓋のロゴは現在のものより全体に太字で、足にはダブルキャスターもなければサイドロゴも入っていないものの、椀木やフレームなどはそれ以降の現在と同様の形状となっているなど、まさに過渡期のモデルだったように思います。

このピアノは、近年亡くなられた有名な某ピアニストの個人所有だったそうで、そのためホールのピアノのような外観上の傷みはなく、安全な場所で大事にされたピアノという印象でした。

アクションはオリジナルのものと、この店のご主人が独自に作った「入れ替え用」の2つがあり、これはこの店の昔からの流儀で、ピアニストの好みで適宜使い分けることができるようになっています。
さっそく音を出してみると、少なくとも80年代からこちらの耳慣れた華やかな音ではなく、人によっては地味と感じるような優しい感じのするピアノで、スタインウェイのDといえばおおよそこんな感じという感覚があるものですが、音を出した途端、その範疇に入っていないのはちょっと戸惑うほどでした。

その時点で入っている鍵盤〜アクション一式は新たに作られたものなので、よけいそうなのかどうかはわからないけれど、とにかく柔らかで慎ましさを感じさせる音は意外でもあったし、正直いうとこれでコンサートができるのか?と思うほど。
ご主人のありがたいお申し出により「オリジナルのアクションも弾いてみてください」というわけで、ものの数分で鍵盤一式をごっそり入れ替えてみるとことに。
こちらは長年にわたりこのピアノを鳴らしてきたものなので、多少それらしい音がするのかと思っていたら、こちらも意外なことに似たような感じで、ハンマーが旧いぶん、より輪郭が曖昧なような感じがあり、ようするにそういう性格のピアノなんだなと思いました。
もちろん、硬めのハンマーで鳴らせばそれなりの音で鳴ってくるのだろうとは思いますが、それよりもピアノそのものの核となる性格みたいなものを感じさせられました。

個々のご主人曰く、どんなにあれこれやろうとも、そのピアノが生まれ持っている個性や器は変えられないということで、そのあたりもピアノというのは面白いもんだと思いました。
このピアノに触れてみて感じたことですが、いわゆる我々が「スタインウェイサウンド」と思っているあの輝かしい音は、半生記も前の時代背景の中で、いまほど細やかな整備や消耗品の交換などもされず、ただ使うに任せてハンマーは硬くなり、やがてギラついた音になっていたのでしょうか?
しかもスタインウェイともなると潜在力が違うので、それはそれで銘器の音として魅了されていたのかもしれないな…などと想像がぐるぐる回りました。

おそらくは調整を重ねながら、新しいハンマーも弾き込まれて馴染んでくると、より深みのあるトーンが出てくるような気もしますが、実際のところどうなるのかはわかりません。

いずれにしても、この時代以降のスタインウェイはよりダイレクトにブリリアントな方向に舵を切り、またそれが時代の求めでもあったでしょうから、そちらの道へ進むことに拍車がかかったのだろうと思います。
とくにハンブルクはその傾向が強く、まだニューヨークのほうが一定のクラシックなスタンスが守られていたのかもしれません。

ただ、面白いのは、どの時代のどのスタインウェイに触れてみても、直接的な音はいろいろあるけれど、本質的な部分のスタインウェイらしさというのはまったく変わっておらず、こういうことを血脈というのか、なんとも不思議なような面白いような気がしました。

スタインウェイは弾く人と聴く人では、ピアノが発する音が大きく異るということは、これまでにも再三書いてきたことですが、もしこのピアノを何処かのホールのステージに上げてコンサートをやったら、今回の印象とはまたぜんぜん違うものになるのかもしれません。

たとえば某メーカーのピアノなどは、狭い空間で聴いたらそれなりの悪くないものに聴こえるけれど、コンサートに使ったらいっぺんにアラが見えてしまうようなことがあるので、やはり本物というのは秘めたる力がどこまで破綻しないかと言えるような気もします。

こんなことを書いていて思い出しましたが、昔のピアニストの演奏を聴いていると、ピアノの音は絶えずキラキラしているわけではなく、音にも底知れない厚みがあったように思いますし「スタインウェイを弾きこなせるか…」という事もよく言われたものでした。
現代のスタインウェイは誰が弾いいても美しい音が泉のようにこんこんと湧いてきますが、昔はそうではなく、それなりの人がそれなりの演奏をした時に、ようやくピアノの真価も出てくるように多層的に作られていたのかもしれません。
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ハオチェン・チャン

クラシック音楽館の4月2日の放送は、今年3年ぶりに来日したというトゥガン・ソフィエフの指揮で、ブラームスのピアノ協奏曲第2番/ベートーヴェンの交響曲第4番が放送されました。
ソリストは2009年のクライバーンコンクールで辻井伸行と同時優勝した、中国のハオチェン・チャン。

全体として、細部までしっかり弾き込まれたクリアな演奏で、全体として見事なものだったという印象。
とくにブラームスの協奏曲はシンフォニックな要素が求められ、若書きの第1番と同様、ピアノ付き交響曲と言ってもいいような作風でで、演奏時間も50分前後と数あるピアノ協奏曲の中でも最も演奏時間の長い部類であることは有名です。

その長さも納得のきわめて素晴らしい作品であえるにもかかわらず、コンクールでブラームスを選択すると入賞できないなどというジンクスもまことしやかに囁かれており、コンクールという審査員も聴衆も次々に演奏を聴かなければならない疲労感の中で、この長大な協奏曲に付き合わされるのがウンザリなのだそうで、笑うに笑えない話です。

それは余談として、ほんとうに素晴らしい作品であるのは誰もが知るところです。
ハオチェン・チャンは従来のこの第2番のいぶし銀のようなイメージ(第1番よりは明るい曲調だとしても)ではなく、華やかさを絶やさないピアノコンチェルトとしてのアプローチなのか、ときにチャイコフスキーあたりを髣髴とさせる瞬間もあったほどピアノの存在と輪郭ががはっきりしていたように思いました。

そういう意味では、いわゆるブラームス臭がプンプンするような演奏とは感じなかったけれど、古いものに新しい照明をあてて、これまで見ることのなかった新鮮な景色があったように感じ、これはこれで一つのやり方だろうという気はしました。
これまでブラームスといえば、佳き時代の都会のシックで陰鬱な夜みたいな、どこかあやふやで仄暗い大人のトーンが聞きどころだったけれども、どちらかと言うと古典の要素を踏まえつつもリメイクされたアップデート版という感じでしょうか。
どうしても不足しているように感じたのは、光と影のコントラストの交差なのか、特にブラームスでは影の表現は大事だと思うだけに、その点が少し平坦過ぎたようにも思えたり…。
とはいえ、いかなる場所も隅々まで危なげなく弾き込まれ疾走感があり、いかにも一流のクオリティをもって演奏されているあたりはN響にも通じるようで、そういう意味でもこの両者は相性が良いような気がしました。

ちなみに、中国人ピアニストを視聴するたび共通して感じるのは、よく鍛え込まれたテクニックとメンタルの強さが見事に合体している点が強みなのかどの人も自信たっぷりで、ときに快楽的なほどの自我表出を堂々とやってのけるあたりに毎回独特な印象を受けてしまいます。
演奏じたいもしっかりしたものではあるけれど、それは欧米風でもなければ東洋的な繊細さというのでもなく、表情の付け方などもためらいとか痛みなどのデリカシーの妙よりは、中国という風土と訓練によって身についた演技的なものを感じるときがあります。

演奏中は、顔の表情も百面相のように変化めまぐるしく、笑ったり怒ったり、陶酔や喜びに浸っているかと思えば、一瞬にして予期せぬ恐怖に身構えて目をむくような表情になったり、ついそちらに目が行ったり。
どうかすると目は怒っているのに口元は笑っていたり、あるいは難しいパッセージでもまったく手元を見ることなく、空を見つめながら忘我の境地のようになるなど、幼少期からの指導法がまるで違うのかもしれません。
その代表格がラン・ランでしょう。

ハオチェン・チャンの場合はラン・ランよりはよほど抑制的ではあるけれど、見ていればそれらの要素はやはり随所にあって、そこは中国人ピアニストに共通して流れるDNAなのかと思います。ただし、音だけを聴いているとさほど違和感はなく、素直に立派な演奏といって差し支えないと思ったことも事実です。

冒頭インタビューによれば、ハオチェン・チャンはこのところブラームスに傾倒しているのだそうで、アンコールにはop117-1が弾かれましたが、長大なコンチェルトを聴き終えたあとに涼しいデザートを振る舞われたようで、「ああ、なんという美しい曲か!」と素直に思いました。
こういう気持ちにさせるというのは、やっぱり演奏が素晴らしかったという証でもあるでしょう。

この印象もあってか、またもコンチェルトから聴いてみた(3回目)のですが、いささかこちらの耳が少し固定観念に囚われていたのか、明晰でメリハリのあるいい演奏だと思えてくるようになりました。
よってハオチェン・チャンは、現代のピアニストとしてはかなり好ましい一人だというのが、個人的にはやや回り道をした気もしますが、その挙句に到達した結論となりました。
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