民族性?

新型コロナが感染症法の2類に分類され続けていることに対して、疑問の声が上がりはじめていたのはいつ頃だったか、よくは覚えていませんがかなり前だった気がしますが、なかなか聞き入れられないようでした。
「反対派」の声は大きく、その裏には医療関係の利害に関する事情なども絡んでいるようで、補助金の類は湯水のように垂れ流され、コロナのおかげで黒字転換できた病院も多いともいわれるなど驚きです。
それがついに今春から5類相当に引き下げとなりました。

何事も複雑な裏事情が絡んでいるのはこの世の常なので、一般人が簡単に考えるようなわけにはいかないようで、とくに我が国は何事においても決定決断が遅い体質であることは感じるところ。

くわえて、何事につけても「もしもの場合、誰が責任を取るのか?」というお馴染みの、ほとんど脅迫的なブレーキがかかり、関係者も自分に累が及ぶことを恐れて手を付けきれないのがいつものパターン。
さらに政治家は、それが選挙に与える影響を案じる本能から逃れられないなど、これらの体質が作り出す毎度おなじみの現象なのでしょう。

コロナといえばマスク。
日本人はよほどこれがお好きなのか、いまだに外さない人が少なくないことと言ったら驚くばかり。
感染対策として本当にマスクが必要と思っている方もいらっしゃるでしょうけれど、大半は自分がマスクをしないことで、社会性の欠如した人間として忌避されないための安全マークとしてつけているようにしか見えなかったり…。
私は念の為にポケットなどにしのばせてはいますが、基本的にはもう付けません。

何ヶ月も前の話ですが、ヨーロッパなどはずいぶん早い時期にコロナ前の活気を取り戻し、マスクなしの人でごった返えしているというのに、成田に降り立ったとたん人はまばら、ターミナル内はシャッター街と化し、その上マスクをつけざるをえない状況に強烈な違和感を覚えるのだとか。
用心することは大切だし、日本人のもつ生真面目さや慎重さはむろん素晴らしい面がたくさんあるけれど、素晴らしいばかりではない印象も拭えないのも正直なところ。
とくに個人主義とは真逆の、横並び主義と同調圧力でがんじがらめにされるのは同じ日本人でありながら息苦しく、しばしば反発を覚えます。

以前も書いたかもしれませんが、一台の車に一人で乗っているにもかかわらず、ドライバーはマスクをしている様子に、それを見た外国人が驚愕したそうですが激しく同意します。

海外ドラマを見ていると、携帯電話の使い方にも彼我の違いがあって驚かされます。
日本は、よほどの理由がないと気軽にはできないものというのが常識化しており、これひとつでも陰気で窮屈です。
LINEやショートメールなどで前ふりして、その上で「必要時」だけ直接通話となる雰囲気。
また、常時マナーモードにしておく人も珍しくなく、職場や病院などならわかるけれど、常時というのは何なのか…。
そうする人にその理由を聞いてみたら、公共交通機関や人の多い繁華街、店舗内など他人のいる場で呼び出し音が鳴ったら、周囲に迷惑をかけると真顔で答えられ、それを正しいと考えて自信を持っている様子にびっくりしました。

呼び出し音といっても、別に大音響が響くわけでもなく、今どきは殆どの人が電話を持っているのだからお互い様であるはずなのに、これではいったい何のための電話か?と思います。
電話が個人のものとなって以降のほうが、メールや着信履歴を相手が見るまで待ち状態となるなど便利どころか却って手間隙がかかり、気疲れするようになり、固定電話の時代の気軽さが懐かしく思えることも。

海外の映画やドラマでは、いつどこにいようが容赦なくバンバン電話が鳴って、上記のような斟酌のかけらもありません。
むろん実生活の面でどうなのかはわかりませんが、しかし日本のように過剰に着信音その他に細かく注意を張り巡らせたり、内向きの縮こまったような用心の鎧で身を固めるということは、ずっと少ないだろうと思うのです。
電話ひとつにこれだけ用心深さを費やすというのは、細やかな心遣いや繊細さなどといえば聞こえはいいけれど、日本人固有の体裁や臆病、卑屈さも相当加勢しているのではなかろうかと感じます。

ついでにもうひとつ書くと、夕方のあるチャンネル(民法の全国放送)のニュースでは、番組構成には心の底から呆れています。
全体は2つに分かれ、後半でメインのニュースを扱うようですが、それでも全体はれっきとしたニュース番組であるにもかかわらず、前半はほとんど毎日のように野球のニュースが長時間占めて常態化しているのは尋常ではありません。

そこでいつも必ず取り上げられているのは、アメリカで活躍するあの日本人選手で、たしかに彼は野球の神様から選ばれし天才でしょうし、日本人の誇りであることにも異論はありません。
だからといって、毎日ニュースの冒頭から彼の姿を見せられ、その名を繰り返し聞かされなくてはいけないのは理解に苦しみます。時間も30分以上これに割かれることも珍しくはなく、スポーツニュースでもないのにこのようなことがなぜ許されるのか?と疑問は募るばかり。
これではご当人の責任ではないのに、だんだん見るのもその名前を聞くのもいやになってくるのは、ご本人にとっても逆に迷惑なことで彼の足を引っ張っているのではないでしょうか。
日本には「贔屓の引き倒し」とか「褒め殺し」というのがありますが、ふとそんなことを連想してしまいます。

決定の遅さやマスクにも通じることで、これを民族性だと言ってしまえばそれっきりですが。
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ホテルの読書灯

所用にかこつけて、4月に車で旅をしたことは書きましたが、いつもホテルに泊まると不便に感じることがあるため、今回はその備えをして出かけましたが大成功でした。

以前から感じていたことですが、ホテルのベッドの枕元には、ちゃんと本が読めるよう照らす機能を備えた読書灯が一見ありそうで、実はほとんどないことが疑問でなりませんでした。
パッと目はいちおうそれらしい照明器具はあるようで、それら大半はデザイン優先なのか読書するに適当とは言いがたい代物ばかり。
装飾としての照明の趣が強いのか、さてそれで就寝前の読書ができるかというと、照らす場所はまったく違うし、暗くて角度の調整は限定される、もしくは固定され全く動かなかいなど、要するに機能的にものの役に立ちません。
結果的に非常に劣悪な明かりで本を読むことになるのは、およそ快適とはいいがたく、いつも閉口させられるばかりでした。

そこで、今回はきわめて簡易的なLED照明具を持っていくことにして、電源はUSBから取る方式で、電源にはモバイルチャージャーという小型の携帯型バッテリーを準備しました。
これはホームセンター等どこにでも売っているし、価格もメーカーや容量によって多少は違うけれど基本的にどれも安価で、私の場合は10000mAhとかいうのを1000円ちょっとで買いました。

これをコンセントに繋いで充電しておけば、あとは充電器として使えるわけで、就寝時はその照明具を繋ぐことで様相以上に実用を満たしてくれて、快適に本を読むことができました。
容量もなかなかのもので、読んでいるうちにそのまま寝てしまうことも何度かありましたが、そんなときは朝までライトはつきっぱなしで、それでもバッテリー自体は殆ど減っていないほど保ちがよく、これはなかなか心強く重宝しました。

それにしてもホテルの枕元というのは、なぜどこも機能的な読書灯がないのか不思議でなりません。
まさか大半の人は就寝前に本を開くことをしないのか?とも思いますが、映画など見ていてもベッドに入ってから寝付くまで本を読むというシーンはよく見かけるし、やはりその理由がわかりません。
例えば飛行機でさえ読書灯はちゃんと使用に堪えるものが各シートの上面に付いているのに、よりくつろぎを求めたいホテルになぜこの点の配慮が疎かなのかは全く解せません。

それでなくても、睡眠というのは導入剤なども多数あるように、現代人は不眠に苦労している人も少なくなく、ましてホテルという普段とは違う環境や寝具となると、寝入るまでが問題となる方はますますいらっしゃるのではなかろうかと思うのです。
そのためにも、睡眠へ移行するための一助としてもベッドでの読書というのは大切でないはずはないと思うのですが…。

ちなみに私も寝付きには苦労しているほうで、少しでも睡眠に入るチャンスを逃せば眠れない状態が延々と続き、ヘタをすると窓の外がしらじらと明るくなってくることも。
そういう意味でも、寝る前の本とのお付き合いはとても重要で、うまくすれば1ページほどで眠りにつくこともあります。

いずれにしろ、ホテルという人の睡眠も預かる業種において、ちょっと枕元で本が読める照明具をつける程度のことは、今どき大したコストでもないはずなので、この点は認識の周知と早急な改革をお願いしたいところです。

逆に、さすがは時代を反映しているなぁと感心したのは、今回利用した6ヶ所すべてのホテルでは一つの例外もなくWi-Fiが使えるようになっており、おかげで使い古したiPadなども役立ったのは大いに助けられました。
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脱ライバル

近ごろ日本の若手有名ピアニストの皆さんの活動で目につくことのひとつは、2台ピアノなど、さまざまな組み合わせによる共演が目立つところでしょうか?

これまでなら、多くのプロ(とりわけ実力あるソロアーティストや、話題の演奏家)などの同業者同士は、少なくとも表立って交流したり、ステージやメディアで共演することは非常に稀であるのが普通で、人気・実力も上がるほどライバルとなり近づくことさえない印象があり、世の中もなんとなくそういうものだと自然に思っていたように思います。

それ故、驚きとして印象深いのは、1970年代だったかカーネギーホールで史上最大のコンサートというのがあり、ホロヴィッツやフィッシャー=ディスカウ、ロストロポーヴィチ、アイザック・スターン、バーンスタインなどが同じ舞台に立ったことは「奇跡じゃないか!?」というほどの事件でした。
それほど音楽の分野ではソロアーティスト同士の共演(弦などのアンサンブルを除く)というのは、少なくとも一般人に見えるかたちではゼロとは言わないまでもほとんどなかったように思いますし、とくにピアニストはその傾向が強かったと思います。

それを打ち破ったのがアルゲリッチで、彼女が多くのソリストはじめ、ピアニストとも連弾や2台ピアノなどで共演をはじめたのは、それじたいがちょっとした驚きだった覚えがあります。
彼女の場合はとにかくソロがいやで、誰かと一緒だったらステージに出るという特殊事情による副産物だったのかもしれませんが、結果的に演奏家間の風通しを良くするきっかけになったように思います。

最近はそのあたりの常識がさらに進化/常態化したのか、違った側面からの動きなのか真相はわかりませんが、少なくとも日本の名だたる若手演奏達は互いに垣根を超えて、あらゆる組み合わせでこだわりなく演奏し合っており、コンサートという名のイベントとして盛り上げる戦略なのかもしれないけれど、いずれにしろそれが今のトレンドのようです。

もはやかつてのような圧倒的なスターや巨匠など、カリスマ性を持った大物がいなくなったことも時代背景としてあるのでしょう。
そもそもそういう大スターや巨匠というものは、時代の求めによって現れてくるもので、逆に言えば現代はそういうものをさほど望んでいないということなのかもしれません。

さらに演奏者の技術的レベルが向上して、なんでも弾けて当たり前の時代だから技術的に少々のことでは興味を掻き立てられることはなくなり、同時に弾く側も聴く側も音楽的芸術的深度の追求は薄まって、もっとカジュアルで芸能人やスポーツ選手感覚に近いものとして捉えられているようにも感じます。

少なくとも今はクラシックのコンサートといっても、御大層に構えていられるご時世ではないことも、このようなスタイルが生まれてきた背景としてあるような気がします。
名のある若手演奏家達は、互いの知名度や人気を今風にいえばシェアして、クラシックのコンサートそのものを新しい手段で活性化しているという事かもしれませんし、これからの時代はそれもアリなのかもしれません。

先日見た『題名のない音楽会』でも、2台ピアノ特集で角野隼人&小林愛実、小曽根真&藤田真央、反田恭平&藤田真央と言った具合に次から次へと組み合わせが変わっていたし、ピアニストも同業者に対してライバルからお友達に変質したようで、結果的に昔とはずいぶん違ったもんだと思います。

同業者として仲良しというのは基本的に結構なことではありますが、一般人にすればある種の特別を求めたい人達が、みんな平和に仲良しですよという在り方は、どこかしっくりこないものを感じる自分がいることも正直なところ。
炸裂する個性、エゴと芸術の危うさ、ヒリヒリするようなライバル関係、すれ違うだけでも火花が散るようなスリルも、我々が彼らに求める特別のひとつですが、今の世代はそういうものは端から求めていないのかもしれません。

老若男女だれもがストレスまみれであるこのご時世に、ライバル同士が確執の炎を上げ続けるのも疲れるだろうし、そのままだと潰し合いになる可能性もあるなら、いっそフツーに仲良くしていたほうが消耗も少ないし、演奏機会という市場規模も拡大できるとなれば結局はメリットも多く、総合的に得策なのかもしれません。
これもいま流行りの「効率化」「費用対効果」と思えば納得がいくし、もっと生々しい言葉を使えば「新しいビジネスモデル」なのかもしれません。

若い世代はこういう波に上手に乗っているようですが、それよりも上の世代になると、そう簡単に方向転換できるものではないでしょうし、なにかと難しい時代になったのかもしれません。
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草むしり

ゴールデンウイークは取り立てて行くところもなく、もっぱら庭の草取りやら掃除やらで過ごしました。

自慢じゃありませんが、私は徹底したインドア派でおまけに怠け者ときているので、庭の草取りなど年に数えるほどしかやらないので、そのぶん毎回大変です。
いつも視野に入っているはずなのに、無関心と逃避意識のなせる技か、そのあたりは自分でもわからないけれど、要するに日頃はほとんど目に入っておらず、なにかの拍子で見てしまった時には愕然とし、雑草の猛烈な繁殖力にただもう戦慄するばかり。1

とくにこのところは春の陽気となって、雑草の伸び方にもぐんと勢いがついたのか、かなりとんでもないことになっていました。
折からの大型連休到来となり、この機を逃してはかなり恐ろしいことになるという恐怖が湧き上がり、ついには腹をくくって「草むしり」に着手することになりました。
大型バケツ(20Lのペール缶)をぶらさげて、庭の端から格闘がの開始です。
さすがに素手ではできないので軍手を使うことになりますが、それだけでは不十分というのは経験済みなので、まずビニールの作業用手袋をつけ、その上から軍手というように二重にすると、いささか暑苦しいけれどこれで爪の間などに泥が入ることは一切なく、庭仕事などにはオススメです。

作業量/時間からして、ただ膝を折ってかがんだスタイルで済むことではないので、野外作業用にしているお風呂の椅子を引っぱりだしていざ開始…したのはいいけれど、いままでサボっていたぶんちょっとやそっとで終わるようなもの甘いものではありませんでした。
いよいよ始めてみれば結構夢中になり、とくに草を土から引き抜く際の、あの独特な抵抗感を伴う感触には妙な心地よさを感じながら…。
30分ぐらいはなんでもないものの、それ以上になると腰には相当の負担が溜まって固まってしまうのか、バケツの中に溜まった雑草や落ち葉を捨てに行こうとすると、立ち上がろうにもにわかには身体がまっすぐできないほど腰の痛みを伴います。

これを数回繰り返すと、だんだんその痛みも強くなってくるので、2〜3回で止めるようにしており、これを数日にわたって繰り返しました。

さらに自分でも自覚しているところですが、私はヘンなところにヘンなこだわりをもつタイプだから、普段は庭などまったく見向きもせずガーデニングなどの趣味もゼロであるのに、いったん着手すると雑な作業というのがいやで、庭の隅から丁寧に取っていかなくては気が済まないものだから、それもあってひどく時間がかかるのです。

普段は放っているくせに何を言っているんだ!という感じですが、そうしないと気が済みません。
さらに、落ち葉の処理などもあり、掃除ごとのキモは「隅っこ」だと思っているので、隅っこをそこそこにしてお茶を濁すことができず、地面に這いつくばって奥へ手を突っ込んだりしながら、かなり徹底的にやる癖があります。
家の掃除でも、洗車でも、窓拭きでもそうですが、「隅っこ」までしっかり作業が行き届いているかどうかで仕上がりがまったく違います。隅がきれいだとくっきり感がでるんでしょう。

「四角な部屋を丸く掃く」という言葉がありますが、掃除で最も肝心なのはゴミや埃のたまりやすい隅っこなので、ここが疎かだとその効果も半減するので、それだけは許せないのです
普段サボりまくっているくせに勝手なものです。
そこまでせずとも、その半分か3分の1でもいいからもう少し頻繁にやればいいものを、それができない自分が我ながら愚かしく、ずいぶんとバランスを欠いた性分なようです。

こんな調子で腰の痛みと相談しながらの作業となるので、決して広大な庭でもないけれど、どうしても数日がかります。
身体にも結構負担がかかるようで、普段とあまりに違った身体の使い方をするせいか、はじめは右手指が硬直的に痛くなり、そのうち肩が生活に影響が出るほど痛くなり夜には湿布薬を貼ることになり、あと少し作業は残っているけれど一区切りをつける判断となりました。
残りは後日ということになり、連休中に完了しなかったのは悔しいけれど、それでも一定の満足というか効果は得られました。

草むしりを含めて掃除ごとのいいところは、手をつくしたぶん明確な結果が出ることで、投じた労働に対して目に見える好ましい結果が出るというのはかなり爽快で喜びに包まれます。
何かで読んだことがありますが、下手な運動をするより掃除のほうが身体を無理なくまんべんなく使うし、やればやるだけきれいになるという精神的な嬉しさを伴い、そこが心身両面にとって好ましいことだというのですが、それは本当にそうだなぁと思います。

というわけで一区切りをつけたところ、翌日からは「それでは」とばかりに雨が降り出し、いずれにしろ作業は続けられなくなりました。
その雨は勢いが強く、しかもこのブログを書いている時点でもう3日も休みなく続いて尚やむ気配はなく、ここにも近年の異常気象を思わせる不気味さがあり、まるで家も街も水浸しになってしまうようです。
せっかくの連休というのに、最終日までこのうらめしい雨のせいで台無しになった方も大勢いらっしゃることでしょう。
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メイソン&ハムリン

YouTubeで、日本ではなかなかお目にかかれないピアノの紹介動画に行き当たりました。
メイソン&ハムリンのModel 50というアップライトピアノです。

メイソン&ハムリンは説明するまでもない、アメリカの名門メーカーで、スタインウェイはじめボールドウィン、チッカリングなどと覇を競ったピアノというイメージですが、日本ではアメリカ製のピアノはほとんど国内で流通しておらず、スタインウェイ以外はほとんど触ったことがなく、じっさいの感触などはよくわかりません。

産業革命以降、ピアノに大音量やパワーが求められるようになってから、家内工業的な製作方法であったピアノ製造は、堅牢な金属フレームや外板の強力な曲げや圧着製法など工業力を必要とする生産品目になったと背景もあってか、19世紀後半からアメリカがピアノ生産大国だったようです。
とくに大ホールの多いアメリカのような環境では、広大な空間に轟くパワーが必要とされ、石造りのサロンのような空間がメインだったヨーロッパとは、ピアノに対する要求も背景も違っていたのでしょう。

というわけでかつてアメリカは世界に冠たるピアノ生産国となり、そんなアメリカのピアノ黄金期を代表するブランドの一角を担っていたのがメイソン&ハムリンです。
私はメイソン&ハムリンに触れたことは一度もありませんが、数少ないレコード/CDなどで聴いた限りではNYスタインウェイと互角に渡り合えるピアノという印象がありました。しっとり感があり、やや雑みのあるボールドウィンより音や響きのクオリティは優っているのでは?と感じることも何度かありました。

メイソン&ハムリンのグランドの写真では、響板の張力を調整するための金属装置が裏側の支柱と響板の間に装着されており、その効果がどのようなものかはわからないけれど、いずれにしろ様々な工夫を凝らして素晴らしいピアノを作ろうという各社の意気込みがあふれていたことが察せられます。

さて、そのModel 50というのはアップライトで高さは127cmですが、YouTubeを通して聴く限りにおいては、温かく語りかけてくるような落ち着きがあり、やわらかい音色と伸びやかさがあり低音も重厚、くわえて良い意味でのアメリカらしいおおらかさがあり、こういうピアノを聞くとヨーロッパのピアノはもちろん素晴らしいけれど、やさしみというより緊張感みたいなものがあるようにも思ってしまいます。

このピアノが鳴り出すと、ふわんとあたりの空気が動きだすというか、音楽の楽しさに誘い込まれていくようで、これはタダモノではないかも…と感じました。実物に触れても同様に思えるかどうかはわかりませんが、聴いている限りにおいては、ふくよかな心地よさが漂ってくるようです。

なんとなく新品のような気配があり、だとするといまだにこんなピアノが作られているということ自体、驚くべきことだと思いました。
楽器とはそもそもそういうものでなければならないのではと思うというか、楽器の本質というものを失っていないというか、大半のピアノはその逆で、華やかなようでいてカサカサの乾燥肌みたいなピアノのなんと多いことか!

ちなみに、グランドの写真にあった響板のテンション調整のための装置は、なんとこのアップライトにも装着されており、さらに背後の支柱はこれまで見たことがないほど堅牢で、両サイドを入れると、6本もの太い支柱が縦に並ぶさまは圧巻です。

アップライトの支柱といえばX型のものがグロトリアンにあり、これを模して一時期高級機にX支柱を取り入れたのがヤマハでしたが、その効果の程はどうなんでしょう?
あくまで聞いた話ですが、アップライトピアノで重要なのは天地方向の強度だそうで、X型支柱の効果には賛否両論あり、少なくとも他のメーカーでは縦支柱以外は見たことありません。
しかも、高級品ほど支柱の数が多くて太く、安いものはその逆のようで、やはり縦の支柱こそが大事という説は、このメイソン&ハムリンの裏側を見ると、納得してしまうようでした。

その後、YouTubeでこのModel 50を検索するといくつか出てきましたが、さほどと思えないものもあったのも事実で、もしかすると潜在力はあるけれど調整がずさんなのでは?という気がしなくもありませんでした。
またグランドの紹介動画でおや?と思ったのは、メイソン&ハムリンはカワイのような非木材の真っ黒なアクションを使っており、アメリカという国は妙に贅沢なところがあるかと思えば、合理化のためにドライに割り切ってしまう、ふたつの面を併せ持っているようなイメージがあります。

価格を調べてみると$35000強で、ちなみにボストンの同サイズが$16400と、その倍以上もするピアノなので、それなりの高級品なのかもしれません。
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