ヘルニアの地獄

ずいぶん長いことお休みしています。
このブログを始めていらい、これほど書き込みを怠ったのはおそらく初めてのことです。

その理由は「椎間板ヘルニア」というものになり、「椅子に座る」という姿勢がまったくとれなくなったのです。
腰の骨の間にある軟骨が何らかの理由で飛び出し、それが神経に触れ圧迫するために引き起こされる激痛です。

思い当たるのは6月8日、ベッドのシーツを取り替えていたところ、あらかた終わってマットレスをギュッと数センチ奥へ押し込んだとき、わずかに腰に変な感覚がありました。そのときはさほど気にもとめずにいたのですが、あとから考えればこれしか思い当たることはなく、そこから徐々に痛みが発生し、数週間をかけて悪化の一途をたどり始めました。

なにより困るのは座る姿勢が取れないということ。
これは生活する上で致命的で、想像を絶する不自由であることをいやというほど思い知らされます。
食事はもちろん、ちょっとコーヒーを飲むことも、ソファで映画やテレビを見ることも、そしてピアノを弾くことなど、椅子に座ることは激痛によってすべてできなくなりました。
当然、車の運転もできないし、病院に行ために助手席に座るだけでも猛烈な痛みとなり、だからパソコンにも迎えずブログも更新できないというわけです。

それにしてもその痛さときたら凄まじく、私のような極度の病院嫌いでも、これほどの激痛にさらされると、もはやそんなことも言っていられないようになり、ついには病院に行く気になりました。
ただ、個人的な印象ですが、医療関係の中でも「整形外科」というのはピンキリというイメージを勝手に持っており、実際へんな整形外科にいったばかりに却って悪くなったというような話も耳にします。

そこで、定評のある大型病院に行ったところ、レントゲンを何枚も取られ、それをもとに医師が判断を下すというものでした。
幸い、骨には異常は見られないとのことで、これ以上の詳細についてはMRIを撮ってみないとわからないとのことですが、MRIを撮るには、予約をして改めて出直さなければならない由。
医師の雰囲気からしても大事ではないという感じであったので、薬を処方されて帰宅したものの、坐骨周辺の痛みは日々増すばかりだから、翌週、街中のペインクリニックにともかく痛みを抑えてもらうため行ってみることに。
ここでまたレントゲン撮影となり、併せて腰周辺の骨をあれこれ押さえたり足を動かすなどの細かいチェックを受けましたが、やはりここでも骨に異常はないようで、しばらくはブロック注射と内服薬で様子を見ることになりました。

ところが、症状は収まるどころかますますひどくなっていくため、ついにはMRIを撮ることになりました。
ペインクリニックではMRIの装置がないので、近くの昔からある外科病院を紹介され、そこで生まれて初めてMRIなるものを体験しました。(これに関しては長くなるので、また別の機会に譲ります)
2日後、その外科病院からペインクリニックへMRIの結果が引き渡され、その結果を聞きに行くと、やはりヘルニアが認められますということで、診察結果が確定しました。

ネットでもいろいろ調べたところ、椎間板ヘルニアには有効な治療というものがなく、ブロック注射や薬で痛さを凌いで、保存療法(要は時間とともに直るのを待つ)で経過を見守るか、歩けないほど症状の酷い場合や短期解決を望む場合は手術ということになるようです。
手術と言っても大したことではないようだから、いよいよという時はそれでもいいのだけれど、私としては入院というのが何よりも嫌なので、なんとか保存療法で直ることを願いつつ、痛みに耐える毎日を送っています。

とはいえ、こんな不自由な生活が一月以上も続いており、もうそろそろ治ってもいいのではないかと切に願っているところです。
この文章も、座ることができないため、パソコンの前にクッションを置いて膝をつき、毎日数行のテンポで書いています。
自分の身に起こるまであまり知りませんでしたが、ヘルニアや骨の不具合で苦しんでいる人は意外に多いのだそうで、4カ所の整形外科に行きましたがどこもうんざりするほど患者さんで満杯でした。

皆さんもくれぐれもお気をつけ下さい。
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ファブリーニの本−3

いささかしつこいようですが、もうひとつピアノの話題で記憶に残ったものとしては、次のような一文が。

19世紀から20世紀にかけてヨーロッパには素晴らしいピアノメーカーがいくつもあったけれど、アジア大手の台頭によって押しつぶされ、ピアノの音の均一化が避けられなくなってしまった、と。
均一化については頷けるものの、アジアの大手のせいでヨーロッパの伝統的なピアノが押しつぶされたというのは、正確にはどうでしょう?
個人的には、大戦後の時代変化によって多くの伝統的なピアノメーカーが生息できるだけの需要がなくなり、(とても残念ですが)淘汰された結果であって、アジア勢(おそらく日本)の台頭はその後ではないかと思います。

均一化については、日本人のピアノ関係者の方々は、美しく芸術的な音質や響きのことより、パーツの「精度」とか、なにかにつけ「均一化」ということを金科玉条のように信じ込んでおられる印象はあります。
おそらくそういう価値観に基づいた教育を叩きこまれて技術者になったのでしょうし、もともと日本人は「揃える」といったたぐいは民族的に好きで得意なところですから。
そこでいう均一とは全音域のことでもあるだろうし、タッチやアクションのことでもあり、高品質大量生産が手工業に打ち勝つことを是とするもので、日本人はこういうわかりやすい正義を与えられると俄然本領発揮です。

低音から高音までむらなく整えられていることは大筋で大事とは思うけれど、言われるほど均一が絶対的に正しいことなのかどうか、以前から疑問でしたのでここは膝を打つ思いでした。

スタインウェイなどはセクションごとに音質が異なり、個人的にはそれがまた素晴らしいと思っています。
各音には個性があり、極端に言えばところどころの隣り合う音の個性がむしろ違っていたりするけれど、それが曲になるとなんとも言えない深みを帯びたりところにも西洋的な魅力を感じていたので、均一というものの価値がどうもわかりません。
弦楽器に例えるなら、もしコントラバスからヴァイオリンまでのすべての音域を均一にまかなえるものがあったら、そのほうがいいのか?というと、私はとてもそうは思いませんし、それぞれの楽器の個性があればこそ、多層的な魅力になっていると思います。

ピアノはオーケストラのような楽器だと喩えられることがありますが、だとするならむしろ過度に均一であってはならないような気がするし、様々な要素を内包しているからこそ計り知れない魅力や可能性を秘めているとも思うのです。
音域によって張弦されたセクションが変わったり、芯線が巻線になったら、音質が変わるのは当然で、それを最大限活かすのがピアノづくりの極意じゃないか?という思いが拭えず、ただスムーズな音の高低だけに整えることは、ただきれいにまとまっただけのものにしかならないような気がします。

実際そのような方向で作られたピアノに触れると、ある一面においては感心はしてもやはりあまり面白くはないし、想像力が掻き立てられず、なにやらピアノの表現力そのものが小さく限定されてしまったような気がしました。

ショパンが、人間の指はどれも同じではなく長さも構造も違い、それぞれに個性があるのだからスケールでもロ長調やホ長調などが自然で、逆にハ長調が一番難しいといったように、各音域はそれぞれの個性を隠そうとしないほうが、演奏した時にさまざまな色合いや雰囲気が立ち現れるように思います。

最後にもう一つ思い出しましたが、ファブリーニ氏によれば調律は上手か下手ではなく、美しいかどうかで判断すべきとあり、これには大いに膝を打つ思いがしました。
もちろん、ある程度以上の次元でのお話だと思いますが、ただ定規で計ったようなカチカチの調律をすることを正しいと思っている調律士さんがいらっしゃいますが、心に訴える美しい調律であってほしいものです。
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