なんちゃって

https://www.youtube.com/watch?v=Z_SgfjUaP9w

おお、さすがは中国の富裕層。
白いお部屋に置かれた真っ白のスタインウェイDでお稽古か…と思いきや、なにか違和感を感じて目を凝らしたら、ヤマハのCFではありませんか。
それにしても、よくぞここまでやりますねぇ。
曲も「ため息」というのはシャレをきかせているのか…。

並べられたポケモンなどのぬいぐるみ、マスクにサングラス姿の大人(先生?)、ティンパニ・テーブルもなかなかシュールです。
もしや台湾の可能性もありそうです。
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園田高弘

YouTubeを見ていると、昔のETV特集で『核心へ〜園田高弘』という番組に行き当たりました。
園田高弘さんは戦後日本を代表するピアニストのひとりですが、2004年演奏活動もお盛んな中、突然亡くなられたという印象がいまだに拭えません。
御年76歳だったようです。

この番組は園田氏の70歳を記念するコンサートを軸に取材された番組で、演奏とご自宅でのインタビューなどがほどよく配分された45分の番組、おそらく1998年頃の様子だと思われました。

私は個人的に園田高弘さんの演奏は、好きでも嫌いでもないという位置づけで、特別な感心は寄せていませんでしたが、それでもベートーヴェンのソナタ全集や、晩年に九州交響楽団と全曲録音されたベートーヴェンの協奏曲はじめ、多少のCDはもっているという程度の距離感でした。
当時は熱中すべきピアニストがいろいろあって、とても手が回らないといった感じだったと思います。

そして時代はすっかり変わり、今あらためて接してみると、奇をてらってはいないけれど熱い高揚感があり、ときに全体力を投げ打つような渾身の演奏であったことに心を打たれました。
音に重みと力があって、全体はオーセンティックであるけれど、常に明快さと若々しさに満ちていたことは驚かずにはいられませんでした。
断片的に出てきた曲は、リストのダンテを読んで、シューマンの交響的練習曲などでしたが、いずれも演奏という一発勝負にかける気迫のようなものがひしひしと伝わり、音楽においてこの気迫は決して蔑ろにされてはならないものと痛感しました。

今の若い人たちは、譜面の再現という点にかけては完璧といってもいいような演奏をされるけれど、音符は音楽を書き留める手段であって、その先にある最も大切な目的がないように(私個人は)感じられて虚しさが拭えないことが非常に多く、このぶんではピアニストもAIに取って代わる日も遠くはない気がしています。

それに対して、園田氏の演奏は、いい意味でほんの少し先が見えないところがあって、曲が進むにつれてどういう反応になるか、
いかに解決するかを見守る余地が残されており、それが期待通りだったり、それ以上だったりそうでなかったり。
そのような余地のあるところが、聴くことのワクワク感ではないかと思いました。

また話しぶりも自然で人間味があり、その場で自分が考えたこと感じることが言葉となり、そこにこれまでの生きざまや生涯に裏打ちされた説得力があり、これは演奏にも通じるものでした。

だから、ブーニンを「100年に一人出るかどうかの天才」などと評したのも、おそらくコンクールを目の当たりにした氏はそのときは本当にそう感じて、素直に出た言葉だったと思います。
パリに留学中、もっとも衝撃的だったのはフルトヴェングラー/ベルリン・フィルを聴いたこと、ピアニストではギーゼキング、バックハウス、ケンプとのこと。

園田氏のご自宅は、昔からLPのジャケットになっていたり、雑誌等でも目にすることがありましたが、私としては非常に興味津々の空間で、そこが写真よりも拡大的に映ったのも大いなる収穫でした。
ピアノが4台あり、2台ずつ並んで向かい合わせに、上から見ればきっと揚羽蝶のように置かれています。
ヤマハ、スタインウェイ、ベヒシュタイン、ブリュートナーで、その上や周辺には無数の本や楽譜が積み上がり、壁には作曲家の肖像や美しい絵画が架けられており、その芸術的な雰囲気は何時間でもいたくなるような空間でした。

もう一つ驚いたことは、70歳の記念コンサートでは、ヤマハのCFIIIS(たぶん)が使われていましたが、これまで聴いたことのないような凛として懐の深い、現代的な美しさも持つピアノで、ヤマハにもこんなピアノがあったのかと思うようなピアノでした。
強いて言うなら、ヤマハの個性というより、かなりスタインウェイに近づけたような印象ではあったけれど、しかしあそこまでできれば立派といいたい素晴らしいピアノでした。

ああ、今なら園田さんのコンサートがあれば、喜んで行きたいなぁ…と思ってしまいました。
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ペダルはハード

ヘルニアに関する一連の書き込みを見て、心配してくださった方からお見舞いや励ましのメールをいただくなどして、本当にありがたいことでした。

8月の半ばぐらいから少しずつ改善の兆しが見え始め、9月に入るとピーク時にくらべるとかなりマシになり、まず恐る恐る食事やお茶でも座れるようになりました。
パソコンの前にも短時間なら座ったり、近くの買い物ていどならどうにか車の運転も少しずつできるようになり、ともかく日常生活の体裁だけはなんとか取り戻せるまでになりました。

病気の苦痛に順位はつけられませんが、足腰のトラブルで身体の軸が保てなくなるというのは、生活の根底が崩壊することを意味することで、そこに激痛が長期間襲いかかるとなると、想像以上に苛烈なものだというのが今回イヤというほどわかりました。

このブログがピアノに主軸を置いたものだから仕方ありませんが、ピアノも弾けるようになりましたか?弾かれていますか?というようなお言葉をなんどか頂戴しました。

しかし、私はもともとピアノが好きなことは猛烈に好きですが、「自分で弾く」ことに関してさほど熱心なほうではなかったこともあり、ヘルニアを経験してからは、ますます弾かなくなりました。
まったく弾かない、触りもしない、というわけではありませんが、ピアノに向かう時間は明らかにこれまで以上に少なくなりましたし、まったく触れない日のほうが多いでしょう。

そもそも、誤解を恐れずにいうなら、ピアノというものは、かなり弾ける人が相応しい技術と音楽性を兼備できてこそ弾くものだろうという大前提が自分の中にあるため、そのくくりに入っていない自分がピアノを弾かなくなるといったって、とくにどうということもないとしか思っていなかったところがあったように思います。

実際面でいうなら、椅子に座って随時ペダルを踏むという動作が、思っていたよりはるかに厳しいことだというのを、今回はあらためて自覚させられました。
ピアノといえば多くの方が指のことばかりを考えがちですが、例えば一時間練習した場合、とくに右足はその間中、絶えずペダルを大小長短深浅、ときには微妙なコントロールに注意をはらいながら様々に「連続使用」させられるわけで、これは骨と筋肉と神経にとって相当の負担です。

車の運転にくらべると、ピアノのペダルは踏力においても比較にならないほどハードだし、踏む数はケタ違いに多く、痛めた足腰への負担のかかり方がまるで違います。
車なら、アクセルといっても安全に動かすぐらいならソーッと踏むのがほとんどで、ブレーキだって咄嗟の時を除けばゆっくり踏むだけだし、信号停車中はオートホールドなどを使えば足も休ませられる。
つまり大半が、やわらかにゆっくり踏むか離すかの繰り返しに過ぎません。

それがピアノとなると絶え間なく必要な踏み方で応じなくてはなりません。
踏み方もいろいろで、全開からほんのニュアンスをつける程度に薄く踏む、かと思えば鋭く小刻みに踏むなど、常に自分が出来得る限りの手数とコントロールが要求され、わけてもハーフペダルというのが微妙であるだけ調整のための機微的な筋力を要するなど、容赦ないものであることを知りました。

今ほど回復していない頃、たまにほんの少し座れそうなときがあったりすると、ちょっとだけピアノに向かってみたりしましたが、ペダルのせいで症状はみるみる悪化に転じ、そのままベッドに雪崩れ込んで何時間もウンウンいったものです。

そんなことが2ヶ月以上続いてしまうと、精神的にもピアノのペダルが怖くなってしまったこともあり、自然にピアノから距離ができました。

世の中には、ピアノと見ればとにかく弾きたいという動物的な方もおられて、そういう人なら辛いかもしれませんが、私の場合はごくすんなりと弾かない生活に馴染むことができました。
それでも、これまで弾き貯めたものを失ってしまうのはさすがに惜しいので、少しはピアノに向かうかもしれませんが、それも維持できるかどうか甚だ自信はありません。

プロでなくても、なんでも自在に弾けて楽しめるぐらいの腕があれば、また弾くための努力をすることも価値あることだと思いますが、そもそもが私なんぞの腕では、弾かないほうがいいんじゃないの?と思うほうが強いぐらいだから、そういう意味では気楽なものです。
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プレトニョフのSK

ミハイル・プレトニョフがある時期からシゲルカワイを好んで使うようになったというのは何かで読んだ覚えがありましたが、氏の近年の演奏動画などを見ると、たしかにそれが裏付けられているようです。

YouTubeによれば、ここ最近はずっとカワイ一辺倒のようで、プログラムのようなものにもSHIGERU KAWAIの文字が記されているあたり、カワイも社をあげてピアノを提供/サポートしているのかもしれません。

そもそもヨーロッパなどでは、コンサート会場に必ずしも好ましいピアノがあるわけではなく、ピアノ貸出業者もしくはメーカーのコンサートサービスのようなところが楽器を手配することが少なくないようです。
このほうがピアニストが事前にピアノを選べるという点で、楽器との関係を事前に作れるだろうし、ホール側も無駄にピアノを購入し管理する必要もないから合理的です。

さて、プレトニョフ氏の動画の中で、ひとつ「ん?」と思うものがありました。
ステージにSK-EXが設置されると、さっそく技術者が調整にとりかかるべく鍵盤一式を引き出したところ、見慣れぬ細工が施してあって目が釘付けになりました。
鍵盤は奥のハンマーの下まで伸びる細長い木材で、普段目にしない部分は生木色でアクションへとつながっています。
前後の中心がシーソー運動の支点となり、そこにキーバランスブロック(バランスピンが刺さるところの膨らみ部分)があって、人の指がキーの手前を押せば奥側が持ち上りアクションを反応させ、ハンマーが打弦するのはご存知の通り。

その支点のブロックのやや手前の平坦なところに、小さな四角でやや厚みのある金属のようなものが相当数、貼り付けられていました。
しかも88鍵均等にではなく、位置もバラバラ、キーによってはそれがないものもかなりあって、おそらくはウェイトの一種で、プレトニョフ氏の希望で、キーを軽くする(もしくは整える)ために貼り付けられたものだろうと推察しました。
それはバランスピン(テコ原理の支点)に近い位置であるため、私の想像が間違っていなければウェイトをふやしても戻りが悪くなるリスクが小さいということがあるのかも。
これなら、キー側面に穴を開けて鉛を埋め込むのとは違い、気になるところへ、付けたり外したり増やしたり減らしたり、自在に調整可能というメリットもあるのでしょう。
ピアノを傷つけるわけでもなく、すぐに元に戻せる利点もある。

またバランスピンが刺さる穴の両側に貼り付けられるブッシングクロスも、普通のものとは違い、すべてのクロスがやや上部外側に飛び出しており、これも到底オリジナルには見えなかったので、タッチフィールを好みのものにするための工夫のように見えました。

ほんらいなら、演奏家はこのように楽器にあれこれ手を入れて、自分に合った楽器を演奏するのが理想で、大半の器楽奏者はそうしているはずですが、もう何度も書いてきたように、ピアノはその場で与えられたもので弾くしかなく、妥協が当たり前の世界。
公演先に「自分用ピアノ」を運びこむ人は数えるほどしかいないでしょう。

プレトニョフ氏の弾くSKは氏の所有なのか、あるいはカワイから宣伝を兼ねてプ氏専用ピアノとして提供されているものなのか、それはわからないけれど、往々にしてピアニストは「ピアノは借りものが当たり前」みたいなところがあるから、きっと後者かもしれません。
ちなみにアクションは例の黒い化学素材のままのようでした。

音については、SK-EXは以前より良い意味で洗練されて、クセのないピアノになってきていると思います。
とくに最近の均等明快な音がパンパン鳴るピアノにくらべて、音に肉感というか厚みがあり、一定のまろやかさも備わっているから、少しずつ好まれ始めているのかもしれません。

ちなみにアルゲリッチもときどき弾いているようで、ついにはソロでバッハのパルティータを弾いている動画がありました。
とくに驚いたのは、アルゲリッチはヤマハを弾いても「アルゲリッチの音」になってしまうのに、SK-EXでは明らかに楽器固有の音がはっきり現れており、それが新たな味わいになっているのは新鮮でした。

一般にカワイはヤマハと、ファツィオリはスタインウェイと比べられることが多い気がしますが、ピアノの持ち味からすればシゲルカワイvsファツィオリではないかという気が…。
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