二者択一

「ピアノが好き」といっても、その意味の最大派閥は自分が弾くことにつきるようです。
ピアノという楽器そのものを興味の対象とし、個々の特徴に関心を寄せて向き合う人というのは、何の影響力もない少数会派であることは間違いありません。
ごく一握りの例外を除けば、ピアノは楽器というより音階の出る機械としての役割を与えられているようです。

日本ではYK社が市場をほぼ独占、それ以外に事実上の選択肢はないという現状もありますが、もし昔のように大小さまざまのメーカーがあっても、この状況が変わることはないと思われます。
逆に、その状況があまたのピアノメーカーを消滅させた最大の要因だったかもしれません。
ピアノに限ったことではないけれど、日本人は大手の定評ある製品を手することを好み、そこに安心感を覚え、自分の五感を通して好みの一品に到達するという楽しみ方じたいがそもそもないように思えます。

それゆえ手放すときも、YK社以外のピアノは殆ど値がつかないか、下手をすれば処分代を請求されることさえあるとかで、楽器としての純粋な価値ではなく、もっぱら商品としてのブランド性しか判断されません。

環境が人や物を育てるというけれど、こうなってしまった背景には、良いピアノを正しく評価できなかった市場の責任も小さくないと思うと同時に、ピアノを家電と大差ないものにして「有名どころを一流、それ以外を二流以下」とみなす日本人のメンタリティと、それに乗じた大手の底引き網のような販売戦略もあろうかと思います。

そんな中、私の知る某さんは、まさにその逆をゆく奇跡的な存在のおひとりで、ご自宅にはシュベスターのグランドと、イースタインのアップライトの銘機とされるB型、さらにご実家にはシュベスターのアップライトをお持ちという、相当マニアックな御方です。

その方の近況なのですが、ご了解を得て書いてみることにしました。
やむなき事情から、ご自宅のピアノを一台出さなくてはならない状況となられ、どちらを残すかの決断で迷いに迷っておられるようなのです。

私はグランドということもあって、シュベスターが残るものだと思っていたし、ご家族もそれを希望しておられるとか。
ところが「シュベスターも素晴らしいものの、好みの音色は、二択で選ぶのあれば正直なところイースタインです…。上品なのに低音もしっかり迫力あって、高音もしっかり鳴り、アップライトなのに凄いなと思います。」といわれます。

グランドの優位性は今さら言うまでもなく、それはご当人も重々承知の上で、それでもこのように真剣に悩まれているということに、楽器の魅力とか価値判断というものはなんと深いものだろうかと、あらためて考えさせられます。

どこかフランスピアノのような華やぎとキレのあるシュベスターに対して、イースタインはもっと内的に包み込むような感じがあるようで、次のような表現がありましたので続けて引用させていただきます。
「シュベスターのグランドは、カラッと乾いた音で静かな音も迫力のある音も充分あり表現豊かだと思いますが、イースタインは憂いのある波紋のような深い陰影が出るような感じが、自分の性格に合ってるような気がして好きなんです…。」

これは長いことそれらのピアノと共に暮らしておられる経験者ゆえの感想だろうと唸りました。
この違いは、イースタインがたんに良質なピアノというだけでなく、設計思想や宇都宮という日本のピアノ産業としてはやや北に位置していたことにも関係があるのかもしれません。

これらは2台ともおよそ60年前ほど前の楽器で、響板は北海道の蝦夷松が使われ、温湿度管理もしっかりされています。
私も一度だけ、そのイースタインに触らせていただいたことがありますが、今日のピアノのように弾き手のほうへバンバン音が向かってくるような鬱陶しい圧がなく、どちらかというと、弾き手とピアノがじかに語り合うような親密性があり、柔らかでセンシティヴなピアノという印象だった記憶があります。

この方ご自身も「イースタインを購入するまで、その良さはわからなかった」と正直に言われており、そんな本物だけがもつデリケートな感覚の喜びは、大量生産のピアノとはかなり趣の異なるもので、一度知ってしまうとそこから抜け出すことはなかなか難しいだろうと思います。
そのぶん蒲柳の質なのか、扱いも大変なようで、ちょっとした天候や温湿度の変化によって、ならない音があったりするかと思えば、別の日には何事も無く直っていたりと、わずかな環境の変化がダイレクトに現れてしまうあたりも、困ったことではあるけれど、同時に楽器と付き合っていく面白さががあるようです。

果たしてどちらのピアノが自宅から出されるのか、いまのところ私にはまったくわかりません。
いまピアノの練習に励んでおられる方も、少しはこのようにピアノ自体のことにも興味を持たれると、その楽しさや興味の視覚は倍増する筈と思うのですが、どうしてもそうはならないようです。
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実物を見ました

レガシーピアノが福岡市美術館で公開されたので、現物を見てきました。
入り口を入ってすぐのロビー正面に据えられており、周囲にはロープが張られて「お手を触れないで…」の状態でした。

せっかく仕上がったピアノをベタベタ触られてもいけないし、まして音を出されては周辺への迷惑以外のなにものでもないので、これは妥当な処置でしょう。

その後も、YouTubeなどでレガシーピアノの事を取り上げたニュース映像の類がいくつかあって、それによると、埼玉の工房で修復作業が行われたのは、日本では数少ない響板の貼り替えができる工房ということが理由のひとつとしてあったようです。

全体はもちろんきれいになっており、子供の頃、市民会館のステージで活躍していた頃の面影もないほど、新しく生まれ変わっていたために懐かしさのようなものは少しも感じませんでした。

ただやはり、フレームとボディとの間の赤いフェルトは雰囲気を損ねているのが残念です。
興味のない人にしてみれば、重箱の隅をつつくようなものと思われるかもしれませんが、「神は細部に宿る」という言葉もあるように、細部は全体を照らすものでもあり、このあたりの考証はとても大切なところだと私は考えます。
仮に純正品がなくてもやり方はあるはずで、もし私が依頼主なら、ここらは決して容認できないところです。

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ところで、PC画面で見て感じていた印象というものは意外に確かで、実はあまり裏切られたことがありません。
このピアノに限ったことではないけれど、経験的に、ネットで入手できる情報というのは思った以上に正確度が高く、細かなところや醸し出す雰囲気まで、よく伝えてくれるものだと個人的に思います。

それでいうと、やはり確認できたのは塗装でした。
この時代、スタインウェイといえば黒のマット仕上げ(つや消し)が普通で、レガシーピアノもつや消しで仕上げられていますが、映像から得た印象では、今回のプロジェクトに見合った仕上がりではないように感じたことは、やはり間違いではありませんでした。
パッと見ただけではわかりにくいかもしれませんが、マットの塗装面には本来あるはずのないムラが散見され、質感もまだらで、均一(ピアノ技術者さんが非常に大切にされる価値)な仕上がりでないことは首を傾げざるを得ません。
さらに、大屋根部分は下地の傷などが完全に取りきれていない点もあって、いかにも中途半端な印象です。

ちなみに、ピアノの塗装では知る人ぞ知る名人といわれ、技術者間でも「先生」と呼ばれる方がさる地域においでで、その方が手がけたピアノを数台見たことがありますが、それはもう非の打ち所のない見事なものでした。
一流の職人の仕事というのは、ただ美しいだけでなく凄みのようなものが宿っているものです。

前回、長めのニュース映像の中で、初めて響板貼り替え作業中の写真を目にしましたが、古い響板が外されるところで、このときボディはすでに全体にペーパー掛けされたような状態で、おそらく響板貼り替えと同じ工房で塗装されたように見えました。
塗装はピアノ技術者の作業の中でも別の分野であって、楽器面の名人級の技術者さんでも、塗装だけは専門家に委ねるというのが一般的です。
簡単な補修などはともかく、本格的な全塗装となると専門家の領域となり、これはクルマでもメカニックが請け負う領域と、板金塗装とでは、その技術も仕事内容もまったく別ものであり、それぞれ分業となるのが一般的であるのと同じです。

中には本格的な塗装の設備/技術まで備えた会社もあるようで、一箇所で全てを賄うこと自体を問題だとは思いませんが、要は仕上がり具合を自分の目で見て、あまり上等なものじゃないと感じたわけです。

誤解なきよう言っておきたいのは、このピアノはもともと福岡市が購入し、60年近くを経て地元有志が復活プロジェクトを立ち上げ、集められた支援金によって実現した修復作業で、事前に公表された高額な修復費用に対する結果として見たときに感じるところであり、それでなければ、私なんぞがとやかくいうことではないのですが…。

なんだかケナしてばかりで申し訳ないので、良いことをいいますと、今の目で見ても、つや消し仕上げのスタインウェイはやはり心惹かれるものがありました。
艶出しのピアノも悪いとは言いませんが、下手をすると図体は大きく、やたらピカピカして暑苦しい場合があるのに対し、つや消しになったとたんこれが一変、彫刻的で、気品があり、あたりに独特のオーラが漂い、まるで京都や奈良などのありがたいものにも通じるような感覚に囚われます。

純粋に音色の点でも、つや消しのほうが深くやわらかい音になるということは知られているし、立ち姿も軽やかでスリムに見えるし、ボディに変な映り込みもないぶん造形の美しさもくっきり際立つなど、ピアノ自体がアートのようでほれぼれしてしまいます。
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レガシーピアノ

1963年開館の福岡市民会館は、昭和の後半、地元におけるクラシックコンサートやバレエ公演の中心地でした。
私の幼少期、生のスタインウェイの音として耳の奥深くに刻み込まれたのは、ほとんどがこの市民会館のピアノだったということは以前に書いたとおりです。
時代はめぐって音楽専用ホールというものがポツポツ出現してくると、市民会館はメインホールとしての立ち位置をしだいに失っていきました。
ピアノも同じ運命で、いつしか別のホールに移され、近年その倉庫で眠っていたところ、フレームに市民会館時代にこのピアノを弾いた往年の巨匠たちはじめ、多くの演奏家のサインが40ほどあるということから、福岡の音楽シーンの歴史的価値を伝えるピアノとみなされ、これを修復して残すという運動が始まったようです。

それが公にされたのは昨年のことで、詳しい時期は忘れましたが、今後一年をかけて修復されるとのこと。
そして10月には古巣の福岡市民会館においてお披露目コンサートが行われ、その後は福岡市美術館の収蔵となり、美術館内でのコンサートなどに供される由。

修復費用はクラウドファンディングによって集められ、個人的にもきわめて思い出深いピアノであるため、本来ならほんの気持ちだけでも参加したいところでしたが、どうも話の具合いがしっくり来ないため、結果はなにもしませんでした。

昨年の報道によれば、修復には1800万円が必要と発表され、ピアノの修復はどれぐらいかかるのか、おおよその相場は知っているつもりだったので、まずその数字に激しく驚きました。
記憶違いでなければドイツに送って作業するらしいとも聞いた覚えがあり、優秀なピアノ技術者が多く揃っている日本で、まして現役でもないピアノにはいささか過剰ではないのか?という気持ちを抱きました。
そしてピアノは既に「埼玉に送られた」ということで、そこがドイツへ送る仲介をするのか?…たにかく、そのあたりの事情は一切語られないのでまるでわかりません。
複数の技術者さん(関東の方を含む)とも考えましたが、埼玉でそこまでする工房というのはついに思いつきませんでした。

これが個人もしくは民間の会社や団体などのピアノなら、どこでどのような修復するかの判断は所有者の自由ですが、市が購入し長く市民に親しまれてきたピアノであれば公共性が絡んでいる筈で、それなら地元(もしくは近隣)の相応しい技術者によって修復されることにも意味があり、それが本筋ではないかとも思います。
しかし、なんら経緯は明かされないまま、事後報告と支援募集のみでは、なにか釈然としないものを感じました。

それから一年余。
ようやく「レガシーピアノ」が修復を終え、再び市民会館のステージに帰ってお披露目コンサートが行われたというニュースを目にしました。

ニュース映像を見て、はじめに違和感をもったのは足の部分。
スタインウェイのC/Dのような大型モデルでも、1970年代ぐらいまでは足先には小さなキャスターが付いているだけでしたが、ホールやスタジオなど移動が多い使用には不向きなことから、後年ダブルキャスターという大径の車輪がつくようになります。
それにともない足の形状もダブルキャスターの高さに合わせて形状が修正され、例えば以前書いたNHKのクラシックTVでMCの清塚氏が使っている古いスタインウェイも、足はしっかりダブルキャスター用に付け替えられています。
いっぽう2300万円もの支援金を得て生まれ変わったレガシーピアノではダブルキャスターになっているけれど、足の交換はされておらず、古い足が大型キャスターの高さに合わせて切り落とされているのみ。
オリジナルを重視したとも言われそうですが、一般にダブルキャスター変更時に足を切って使うのはコスト上の理由以外には考えられません。

響板は張り替えられたようで白く美しいものになっており、ボディの塗装は塗り直されてきれいですが、ニュース映像で見るかぎりでは第一級のクオリティとまでは思えませんでした。
フレームは歴史的サインを残すためそのままで、これはこのピアノの存在価値を示すものだからしかたないところでしょう。

そのフレーム関連で目を引いたのは、演奏者から見てフレームの最も手前側、つまり鍵盤寄りの直線部分で、ここにはボディとフレームの間に1cmにも満たない隙間があり、この当時のスタインウェイは深い緑のフェルトがキッチリと差し込まれていて、その後1990年代中頃からは上部に黒の細長い棒がかぶせられるスタイルになっています。

ヤマハの場合、そこに赤のフェルトが使われていて、それがフレームより上まで飛び出しているので、ピアノのお尻側からピアニストの顔が映るような角度から見ると、顔の下に派手な赤の一直線が左右に走り、これだけでヤマハとひと目でわかる部分です。

ところが、このレガシーピアノでは、なんとそこが赤のフェルトになっており「わぁ、ヤマハっぽい!」という感じでした。
ほかにも気にかかる点はありますが、やめておきます。

さて、この文章を書くにあたってネット上に残っているニュース映像を再確認したところ、まだ見ていなかった長いバージョンがあり、そこにはお若い感じの技術者の姿があって、アナウンスによれば「このピアノの修復を担当した◯◯さん」といわれたのには驚きました。
この方が一年かけて作業されたのだそうで、ピアノはドイツになど行っていないということがわかり、そこで初めて工房で修復中の写真なども映し出されました。

ちなみに、福岡市美術館の公式ページからリンクするかたちで「レガシーピアノ保存プロジェクト」という別サイトがありましたが、修復作業をなぜ遠方の工房へ依頼することになったかの経緯や、修復過程の写真なども一切なく、作業に関連することが皆無であるのは、肝心のものがストンと抜け落ちているようでした。

さらに、市民会館でのお披露目コンサートは一回限りで、有名ピアニストを4人も招いて行われたにもかかわらず、知るかぎり一般公開はされず、寄付をした企業や個人だけが対象だったようです。
市民会館のピアノが修復されて古巣に戻ってきたというのであれば、入場料はあっていいから誰でも聴きに行けるものにしてほしかったし、支援者には優先的招待でよかったのでは?と思います。
支援した招待客で満席というのならやむを得ませんが、映像で見た限り、客席後方はかなりガラガラで、私も行けるものなら行きたかっただけに残念ですし、やはりこのお話はどこかしっくり来ないのです。
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生活裏ワザ

テレビは基本あまり好きではないけれど、ではこれを一切視ないとか、テレビ自体を家に置かないというほど徹底した信念もなく、動画配信や録画などを中心に中途半端に接している私です。
それ以外ではニュースを見たり、片付け事をするときなどちょっとスイッチを入れたりしますが、そんなときに思いがけなく役立つ情報をゲットできることがあったりすると得した気分です。

ニュースの一部だったか、別の番組だったかは思い出せないけれど、洗濯に関する裏ワザがあると、その道のプロというような人が出てきて「ひと工夫」を紹介されたことがありました。
ちょうど夏真っ盛りで、汗をかくシーズンの洗濯物にニオイを残さない、部屋干しする人には部屋が匂わないための簡単なワザとして紹介されたのですが、それはまったく意外な、なんでもないものでした。

これまでは、場合によっては洗剤を既定量より多目に入れてみたり、洗濯機の既定コースに洗濯時間のプラアルファを加えるなど、さほど効果も疑わしいようなことをやるのがせいぜいでした。
洗濯物に残るニオイは人一倍嫌いですが、だからといって、わざとらしい香りのする柔軟剤などを入れるような手間はかけたくないから、長らくこのような方法でごまかしていたわけです。

さて、そのプロによると、洗剤を増やすのは却って逆効果となったりするのだそうで(なぜかは不明)、好ましい結果につながらないとの仰せです。
ではどうするか?
答えは簡単で、洗濯機のコースにプログラムされた水量を「一段階もしくは二段階、多めにする」ただそれだけでした。

これをやってみると、なるほど洗剤の量は変えず水量だけで結果に明らかな違いが感じられたのです。
乾燥機から取り出して、真っ先に匂いチェックをするのが昔からの妙なクセですが、これが明らかに違っており、水量を増やすだけでこのような効果があるとは思いもよりませんでした。
加えて、ここ最近の激しい物価高騰の折から、以前のように洗剤を見境なく入れるのもためらわれるようになり、今ではなんと良いことを教えてもらったのか!とひたすら感謝するばかりです。

今どきは、なにかと情報通の方も多くおいでとは思いますが、もしご存知でなければぜひお試しを。


お試しといえば、もうひとつ思い出しました。
魚など生臭いものを扱うと、どんなに石鹸で洗ってもしばらく手にニオイが残り、これがなかなか取れないものですが、これにも目からウロコの簡単な技がありました。

それは、上記の洗濯よりさらに簡単で「手を洗い、最後に金属に触れる」というものです。
ただ金属といわれてもピンときませんが、最も手近なところでは水道の蛇口まわりなどに触れて手先をスリスリすればいいだけで、これであのイヤな生臭さが取れるというのです。
番組でもいくつか検証していて、中には高級鮨店のベテラン板前さんもおられましたが「長年やってますが、そんなことは聞いたことないですねぇ!」と、はじめはやや上から目線の苦笑いでしたが、その結果「あれ、ほんとだ、臭わない…」と、同じ苦笑いでもちょっと面目ない感じに変わったように見えました。
私も実際にやってみましたが、たしかに魚介の生臭さが感じられず、これまた驚きでした。
すっかり忘れましたが、科学的根拠もあるようです。

今どきはビニールの使い捨て手袋などもありますが、調理中にそのつど着けたり外したりするのも面倒だし、ないほうがいい場合もありますから、これは有効だと思います。

このように、なんでもないことで結果に違いが出るのは、妙にうれしいものです。
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森本隼太

園田高弘さんを聴いて、思いがけない感動を得たことを書いたばかりでしたが、今度は若手ピアニストによる嬉しい驚きに出会いました。

こちらも出どころはYouTubeですが、森本隼太さんという18歳のピアニストでいまも海外で修行中の由。
クラバーンのジュニア部門とか、いくつかのコンクールに出場しておられるようですが、それは私にとってはあまり重要ではなく、たとえショパンやチャイコフスキーの優勝者であっても、良いと思えなければそれっきりで、そのへんはあくまで参考程度でしかありません。

森本隼太さんは、2004年生まれの京都出身、だからというわけでもないでしょうが、まるでお寺の小僧さんのような雰囲気、早くから単身イタリアにわたって勉強を続けておられるようです。
今どきは、ただ指が回って大曲/難曲なんでも弾けるぐらいでは、もうなんとも思わなくなってしまっていますが、この森本さんの演奏には、他の人たちとは一線を画す独特の輝きと魅力を感じたのです。
まだ音源も少ないのですが、中でも2021年演奏のシューマンのピアノ協奏曲には衝撃に近いものを感じました。

なにより、ひたむきで清冽、内側から光を発するような演奏に心を打たれます。
正確にきちんと弾かれているのは当然ですが、耳を凝らすと誰の真似でもないこの青年特有の息吹きが切れ目なく機能しており、それは訓練や努力で得ることのできない、この人の生まれ持った細胞そのものでもあるでしょう。

音の冴えわたる感じ、気品、趣味の良さなど、その演奏には天から授かったものの存在を感じます。
たまに音を外すこともあるけれど、それは聴いていればわかることで、おそらく演奏の目的が物理的ノーミスのようなものを目指していないことの現れのように思われます。
小さなミスより作品に対する感興や音楽の流れや起伏を優先している印象が抱ける人は、そう多くはありません。

言い古された表現ですが、充分に知っているはずの曲が、まるで初めて聴くような新鮮さで迫ってくるのは、その演奏がいかに瑞々しく創造的で、何かのコピーではないということだと思われます。

キーシンが出現したときの驚きを少し思い出したり、シューマンの協奏曲という点ではリパッティの端正な熱気を髣髴とさせるような感じがあり、また若くしてハイフェッツに認められた渡辺茂夫さんの演奏なども想起させられました。
それらに共通するのは天才特有の軽やかで大胆、初々しさと老成の同居、そして一途なゆえにどこか痛々しさがつきまとうところでしょうか。

ピアニストの仕事はまず指の技術がなくてははじまりませんが、ほんらい目指すべきものはその向こうにある芸術表現であり、この領域に達した人だけが真のピアニストだろうと私は思っています。
しかし優れた演奏技術があれば、そこに当り障りのない解釈を割り振りしておけばピアニストとしては成立するため、自分の演奏表現のために技術を使っている人というのは多くはなく、この方にはもっとそちらの世界に踏み込んで欲しいものです。

ほかには、なんと14歳の時にピティナのコンペティションでラフマニノフの3番を弾いている動画がありますが、このときの演奏はさすがに気負いすぎで、全体に前のめりな感じでしたが、わずか数年後のシューマンでは何段階も成長された感じでした。
ただし、シューマンはさらに翌年の英国でのコンクール動画もあり、こちらのほうがよりしっかりと着実に弾かれており、そのぶん力強いけれど失われたものもあって、私は日本での演奏がしなやかさにあふれて好みでした。

曲との相性というのもあるので、何もかもがシューマンの協奏曲のように上手くいくとは限らないかもしれませんが、今後を注視していきたいひとりだと思いました。
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