いま読んでいる本は、ひとりの巨人を軸とした20世紀の日本のピアノ史を縦断する一冊で、ページを開くたび頭の中が昔に引き戻されていくようで、その時代の日本人ピアニストの演奏を少し聞いてみたくなりました。
日本のピアノ教育は戦後の経済成長期を背景にひとつのピークを迎え、その時期に育った戦後世代の実力派が現れます。
その中でも、テクニシャンとして注目され、海外留学/有名コンクールにも上位入賞を果たした男性がおられ、帰国後のリサイタルが行われたときには、子供だった私も親に連れられて行きました。
当時の日本では、ピアノといえばまだまだ女性が多く、ドレスに身を包んだ華奢な女性が大きなピアノに向かって、決然と挑みかかるような姿にはどこか悲壮なものがあって、純粋に演奏を楽しむというのとは少し趣がちがっていたかもしれません。
そんな中、強靭な技巧をひっさげて登場したこのピアニストは、男性ならではの演奏骨格と安定感で鮮烈で、それが子供心にとても印象に残っている覚えがあります。
その後も着実な演奏活動と教育者としても輝かしい足跡も残された、日本のピアノ界の一角を築き上げたおひとりです。
残念ながらCDは持っていないので、こういう時こそネットの出番とばかりに探してみると、いくつかの音源や映像に行き当たりました。
以前、園田高弘さんの演奏で思いがけない感激があったので、単純に同様の期待をしていたところ、今回はややあてが外れてしまいました。
この方のイメージである「逞しいテクニック」には、そこにはなにか人を寄せ付けない冷たい雰囲気があり、なるほど正確に弾かれてはいるけれど、まだ日本人とピアノが完全に融け合ってはいない時代の暗さみたいなものが漂っているようでした。
これは、上に述べた女性の悲壮感と本質のところでは大差ないものかもしれず、音楽的にも知的に完成されたようでありながら、その演奏は硬直して聞こえ、自然な歌心やほほ笑みはなく、どうにも重苦しい印象が拭えません。
ピアノ版巨人の星ではないけれど、当時の過酷なレッスンの情景までもが繋がって見えてくるようで、いわば日本人ピアニストの過渡期の演奏だったと思いました。
やはり当時の本音は、まず正確にバリバリ弾けることが正義だった時代で、その寵児も時代に縛られていた面もあったことでしょう。
音楽や演奏を楽しむというより、追いつけ追い越せで初めて200km/hを超えたクルマみたいな感じで、むしろ前世代の園田氏のほうがはるかに自由があって、音楽がその人の人間性に乗って、どこかおおらかに聴こえてくる演奏だったのは意外でした。
それが戦後世代になると、受験競争にも通じる要素を帯びてくるように感じるのは私だけでしょうか?
なにやら疲れてしまって、試しに現代の日本人ピアニスト(例えば務川慧悟さんや藤田真央さんなど数名)を聴いてみると、あっと驚くばかりに無理なく楽に弾いていて、洗練されていて、ゆとりがあって、とにかくすべてが違っているのに愕然とさせられました。
これまで、さんざん現代のピアニストの問題点ばかりをあげつらってきた自分が恥ずかしくなるほど、なんと無駄なく自然にピアノに向えているのかと感激してしまい、今昔の感に堪えないものがありました。
音色の出し方ひとつでも、気負ったものがないから澄んだ美しい音が出ており、およそ「バリバリ弾く」などという気配もありません。
そもそもバリバリ弾く価値とは、技術的に未発達な環境だから成立するもので、現代は弾けるのは当たり前だから、そんな価値観自体がもはや自然消滅したのでしょう。
例外はあるにせよ、昔の日本人ピアニストの多くは、どこかしらピアノと格闘し自分と格闘しているようで、楽器が悲鳴を上げるぐらいやれれば勝利者のようで、実際そうだったのだろうとも思います。
先達が切り拓いたそういう時代を経て、ついには今日のような国際基準のピアニストが───名前を覚えるひまもないほど、次から次へと輩出される時代になったのかと思うと、旧世代はその前線で苦戦を強いられた勇敢な兵士だったような気がしました。
続きを読む