特権

知人の方が、県内のとある市民オーケストラに入団されたことを知りました。

それがきっかけで思い出したお話。
そこは県南部のこじんまりした街ですが、その地で長年親しまれてきた百貨店が廃業し、それを機にデパート跡地を含む一帯が再開発の対象とされ、数年前に大規模な総合文化施設として生まれ変わりました。

落成したことをニュースでも報じられ、そのホール見たさにコンサート情報を探したのですが、なかなかこれというものがなく、かろうじて見つけたのが地元の市民オケの演奏会でした。

思った以上に大規模な施設で、メインのホールも大都市のそれに引けをとらない立派なもので目を見張りましたが、こうなると維持管理だけでも相当なコストがかかるであろうことは想像に難くありませんした。
ホワイエに置かれたイベント予定表を見ると、正直この豪華なホールの本来の使い方かどうか疑わしいようなものばかりで、目ぼしいコンサートなどめったにないのが実情のようでした。

当時の報道でも言っていましたが、構想段階から市民の根強い反対があったようで、それも頷ける感じもありました。
百貨店廃業で出現したまたとない街の中心に位置する一等地で、周囲に連なる商店街はじめ市民の本音は別のものが期待されていたのかもしれませんが、そのあたりはよくわかりません。

ホール入口では、音楽とはまったく関係のない知人にばったり会いました。
首からスタッフらしき札をぶら下げ、お揃いのTシャツ姿でキビキビと忙しそうで、なんとこの市民オケの手伝いをやっておられるとのこと。

「ずいぶん立派なものができましたね」というと、満面の笑顔で鼻高々のご様子。
ほんの少し立ち話になり、「地元では反対も多かったようですね」と聞くと、「そうなんですよ!」と言われたので、自治体の税金の使い方はけしからん!という意味かと思い「本当に必要かどうかではなく、ハコモノを建てたがる悪習は全国どこも同じですね…」というようなことをいったら、「そんなことは自分たちは関係ないですよ」とどこか突き放すような反応をされました。

自分たちが快適に使えているのだから、それ以外のことなんぞ知ったことじゃない!といわんばかりに薄笑いされたとき、そこには特権を得た人間のどこか浮いた勢いだけがあり、まるで人が変わったように見えてしまったのです。
その自信たっぷりの口ぶりには、市民オケもこの施設を使わせてもらっているというより、事実上ここは自分たち専用のホールなんだ!というちょっと傲慢な感じが混ざり込んでいました。

そればかりか、それまでさんざん使っていた旧いホールを小馬鹿にしたような発言まで飛び出して、それ以上会話を続ける意欲もなくしました。
冒頭の方によると、演奏会前は数日前から大型楽器の運びこみなども可能だそうで、そのオケにとってはまさに「自分たちのもの」という特権がいまも継続しているようでした。

…が、ふと考えました。
私だって、もし自分の手に特権的な何かが転がり込んで、大きな声ではいえないようなことでも可能になったとしたら、まったくその恩恵に見向きもせず聖人君子のようにしていられるだろうか?と自問してみると、さほどの自信はないかもなぁ…とも思うのです。
そこに程度問題はあるにせよ、人間というのは多かれ少なかれそういうものかもしれないと思うと、今度は自分まで恐くなりました。

私を含め多くの人は、真面目にやるしか選択肢のない小市民の立場だから、なにかというとけしからんけしからん!と正論のようなことを言っているけれど、ひとたび特権を与えられ、その心地よさを覚えてしまったら、一気にその甘美な毒は体中をまわって、元には戻れなくなるのかもと思うとゾッとします。

すべてとはいいませんが、多くの批判や正義正論は、そのおこぼれに与れない者達の恨み節なのかもしれません。
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家電修理

今年も早いもので12月となり、すっかり寒くなりました。
我が家の暖房は、エアコンを基本としながら、必要に応じて石油ファンヒーターを補助的に使っています。

ある映画で見たところでは、最新の住宅の中には入念な断熱や空調が設計段階から効率的に組み込まれて、常時快適な温度を保たれているようですが、旧式な我が家ではそうは行きません。

寒さが募るにつれ、保管しておいた石油ファンヒーターを数台出すのですが、その中で着火しない個体がありました。
電気店やホームセンターなど、どこにでも売っている小型の定番モデルなので安いし買い換えればいいのですが、ちかごろの家電類は処分のこともあって、そこらを考えたら入れ替えも結構面倒というのがあります。

それに見た目も現在売られているものと同じで、とくに寿命で使い切ったという感じでもありません。
そこで、以前もブルーレイレコーダーの修理で書いたような気がしますが、YouTubeに型番を入れて検索すると、やっぱり修理動画が「ある」んですね。

しかもその作業の様子はというと、いかにもスイスイ苦も無くやっている感じで、「ハイ、以上です」「これだけで新品のように…」などといわれると、ついやってみようかな?という気にさせられるのです。
で、今回もダメなら買い換えるというつもりで挑戦してみることになり、とある日曜の午後、友人の手を借りながらこの作業に挑みました。

液晶部分のエラーコードは着火不良を意味しているらしく、ヒーターの最も中心にあるバーナーとかいう火が燃えるあたりがススなどで汚れているため安全機能が働き、着火しないようになっているとのこと。
なので、分解して、その部分を布や歯ブラシで汚れを落すなど、要は掃除をすることが修理であるようです。

ただ、人生でこれまで一度もヒーターの分解などやったことはなく、分解するということは、当然あとで元通りに組み上げることでもあり、これが最も苦労しました。
分解するにも順序があって、ここらが慣れない私にとっては簡単じゃありません。
ひとつパネルを外すと内側はネジだらけで、これを外しながら分類するだけでも大変でしたし、鉄のパーツは内側や断面が鋭いので、注意しないとケガをしそうです。
とくに問題のバーナー付近は二重三重に鉄の構造に囲まれており、ここにたどり着くまでが一苦労でした。

作業中、常に横にiPadを置いて、ひとつひとつ見ながらやることでかなり助かりますが、とうてい動画でやっているようにスムーズにはいかないことも今回わかりました。
ついに核心の炉の部分に到達し、布や歯ブラシなどで磨いて周辺のホコリをとるなどして、それ以外にも燃料フィルターの掃除など、バラしたついでにやっておくことが2つほどあるということで、そちらも動画の指示通りに済ませました。

やはり組み上げは分解よりも大変で、なんどもやり直ししたり、合うはずのパネルとネジ穴が合わなかったりで、締めたネジをまた外したりを繰り返しながら、悪戦苦闘の末、ついに元の姿に戻ることができました。
動画はわずか10分ほどのものですが、気がつけば2時間半ぐらいかかっており、途中で「やはり買い換えたほうがいいのでは?」という思いが何度か頭をよぎりましたが、同時にここまできて後にも引けないという意地みたいなものも芽生えて、お陰ですっかり熱中できました。

他のものならすぐに動作確認するところですが、なにしろ火のつく代物だけに、万が一のことを考えて比較的安全な場所に移して電気コードを差し、おそるおそるスイッチを入れます。
ここから着火に至るまでは正直恐怖感があり、もしボンッ!などといったらどうしようかと消火器のことなども考えてドキドキでしたが、やがて着火直前に聞こえるジーという音がして、そこから一息おいて、まったく静かな安定した着火に至ったのは、ほっとすると同時に、張り詰めていた緊張が一気に達成感に変わりました。

もちろん危険を伴うことなので、ヒーターに関しては決してオススメはしませんが、それ以外のことなら家電の修理というのも見よう見まねでやってみるのも楽しいですよ。
それによって買い替えや安くもない修理代のことを考えると、満足気分に浸れます。
こんなことが言えるのもYouTubeの動画があるからこそで、これがなければ私なんぞには決してできないことですが、言い換えるならレシピ動画を見ながら料理をするようなものかもしれません。

やってみてわかったことでは、このヒーターの場合、要は火の周辺の小さなパーツの掃除だけで済んだわけで、そうとも知らず全体を買い換えるというのは極めてナンセンスだと実感させられます。
ただし、メーカーはそのへんで買い換えてもらわなくては困るということでしょうが。

とはいえ、我々はメーカー側ではなく、いち購入者であり使用者なのですから、できるだけムダは抑えて、可能な範囲で効率的でありたいと思います。
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悲愴

数年に一度ぐらいでしょうか、無性にチャイコフスキーを聴きたくなるときがあって、しばらくはドップリになります。
今回はシンフォニーを中心とする管弦楽曲に限定して、主に4番からはじめ、もっとも繰り返し聴いたのはテンペストとマンフレッド交響曲のCDだったのは自分でも意外でした。

個人的に、チャイコフスキーの管弦楽作品では指揮者/オーケストラだけはこだわりたいところで、ひとことでいうと、ロシアの演奏じゃないとイヤなのです。
西側のハイクオリティのオーケストラによって知的に鳴らされるチャイコフスキーはシャープすぎ、無用なエッジが効いていたり、情や哀愁に身を任せたいところを、わざわざ構造的に解像度を高くしたりすると、それが仇となって逆に俗っぽく、あるいは味わいを損なって、かえって泥臭いだけの音楽になってしまうよう感じます。
今どきの、なにもかもスキャンしてあばくような演奏は、とりわけチャイコフスキーには向かないよう感じます。

ロシアのオーケストラでいいのは、音とアンサンブルがふくよかで、なにより情感が豊かで、必要以上に細部を追い詰めない…それでこそチャイコフスキーの世界に浸れます。
そのバランスを保ったときに聴こえてくるチャイコフスキーは、優雅で官能的だと思います。

チャイコフスキーといえば、一部の音楽愛好家の中では低俗音楽との烙印を押して、まったく取り合おうともしない方がおられます。
むろん人の好みは自由ですが、そこにチャイコフスキーあるいはピアノにおけるショパンをあえて避けることが「通」だといわんばかりの狙いが透けて見えるときがあって、そういう捉え方のほうがむしろ俗っぽいなぁと思います。

話は戻って、私のお気に入りはなにかというと、プレトニョフ指揮/ロシアナショナルフィル。
少なくともチャイコフスキーに関してはこれがあれば、もうなにもいらないというほど満足しています。

たしかにムラヴィンスキーの名演や、現代の巨匠でいえばゲルギエフなどもありますが、ムラヴィンスキーはあまりにも立派でブロンズ彫刻のようだし、ゲルギエフはやや自己顕示欲が強くて、チャイコフスキーの世界に浸りたいという目的からすると、ちょっと違うのです。

ところで第6番「悲愴」についてはさまざまなエピソードがあるようで、私は多くは知らないものの「第4楽章は鬱病の人が聴いたら発狂する危ない音楽」などといわれていた覚えがあります。
たしかにあの、恥も外聞もなく痛ましい感じを吐露した第4楽章は特異な存在とは思いますが、今回あらためて聴いてみて感じたところは、その問題は別の楽章との関係も大きいのではないか?と感じました。

鬱病の人に悪いのはむしろ第1楽章と第3楽章で、これらは全編を通じて神経衰弱的な不安定感が脈打っているように感じます。
第1楽章ではあの執拗に繰り返される第一主題がいやでも耳に食い込んでくるし、そうかと思えば突如として爆弾でも炸裂するような発作的な展開部となり、曲がどこに行くかも迷走しているようで、この感じはなかなかついていけません。

第2楽章は気を取り直したのか、いかにも優美なチャイコフスキーらしさにあふれて軸が定まっており、まるで美しいコールドバレエのような情景が目に浮かぶようです。

第3楽章になると、さらに興が乗って陽気になってきますが、周囲から浮いていることにも気づかず、やみくもにはしゃいでしゃべりまくる人のようで、それが却って悲しげな印象を覚えます。さらにエスカレートを続けて、どんどん高いところに登っていき、ついに最後は一気に転落してしまうのは、まるで上昇角度がつきすぎた飛行機が失速して墜落するよう。

そしてあの第4楽章が場面転換のように登場する。
各楽章の内容もさることながら、その4つの楽章の組み合わせが作り出すものが極めて不安定で、精神的に深く追い詰められた痛々しさ危うさを感じてしまいます。

随所に感嘆すべき魅力があふれているのは聞けば聞くほど感じるのも事実で、これが最後の大作にして最高傑作ともいわれるけれど、彼の才能はいささかも衰えていないことがわかります。
とりわけ悲劇性・特異性ばかりが注目される第4楽章ですが、しっかり聴いてみると、人間の避けがたい悲しみや諦念をこれほど赤裸々に、美しい音楽にしたという点であらためて感銘を受けました。

余談ですが、ロシアナショナルフィルはもともとプレトニョフが1990年頃に創設したオーケストラとされていましたが、現在はCDが出るわけでもなく、プレトニョフ自身も指揮をしているのかどうかは知らないけれど、近年はまたピアノに向かっているようにも見えるのは、あの国のことだから何か事情があったのだろうか?と思ったり…。
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負け慣れ?

動画配信というものができたお陰で、かつてだったら考えられなかったペースで、日常的に映画やドラマを見るようになりました。
少し大げさに言えば、生活が変わったと言ってもいいかもしれません。

むかしむかし、貸ビデオというものが始まった時、自宅に居ながらにして見たい映画を個人が任意に見られるということに驚いたものですが、いまやそれがポケベルからスマホになるぐらいの進歩を遂げたわけですね。

映画好きの知人などは、毎日深夜まで一本以上の映画やドラマを見ているそうで、私はそこまでのパワーはないけれど、それでも二つの配信会社と契約して、これをまったく見ない日というのはほとんどありません。

とくにこだわりもないので、面白そうなものがあれば国内外を問わずなんでも見てみる派ですが、強いて言うと日本が世界に冠たるアニメだけは、まだ選択の対象にはなっていないぐらいでしょうか。
なので、もっぱら普通の映画/ドラマということになりますが、そこでいつも残念に感じることがあります。
個別の作品ではなく、全体を通じてのざっくりした話ですが、どうして日本映画はこうも遅れているのかと思うことが多すぎ、これには各作品の出来不出来を超えたものを感じます。

概ね作りも内容も浅薄で、ことさらな叙情やきれい事が横溢、人間や社会の真相に迫るパワーはあまりに小さく、なんのための作品なのかもよくわかりません。
見る人を楽しませる、あるいは社会的な何かを問いかけるといった目的意識も薄く、ほとんど作り手の甘い自己満足としか思えないことが多すぎて、見ていて恥ずかしく、情けなく、腹立たしくなるのです。

なにより日本映画/ドラマの甚だしい遅れを感じるのは、韓国のそれにくらべた時です。
韓国が国をあげてエンターテイメントの分野に注力していることは近年知られているところですが、もはや手が届かないまでに引き離され、このままではその差が縮まる希望もありません。
こうしてはいられない!勝負してやろう!という気迫がまったく感じられないのは歯がゆいばかり。

目の前の韓国があれだけのものを続々と作り出しているのだから、触発されて日本もレベルが変わってくるはずだと思うのですが、そんな気配もないのはもはや開き直りでしょうか?

韓国の作品といえども出来不出来はもちろん、ツッコミどころもあるけれど、全体としての出来ばえは圧倒的で、まず単純に面白いしストーリー展開もしっかり練りこまれており、まぎれもないプロの作品で、幼稚で学芸会みたいな日本は相手になりません。
日本は経済だけでなく、すべての面で負けグセがついてガッツまで失っているのでしょうか!?

ひとつ聞いた覚えがあるのは、日本映画は国内需要を満たせばそれでどうにかなるのに対して、韓国は国内だけでは市場規模が小さいので始めから世界を目指しているというのですが、それだけとは思えません。
アメリカや中国のような大国ならともかく、日本の国内需要など韓国より少しぐらい大きいといったって、たかが知れている筈です。
エンタメ文化が、まるで軽自動車のように、はじめから見切りをつけて作られているのなら、海外の映画祭などに未練を残すこともないのでは?
日本作品の特徴はまずセリフが少なく、やたら沈黙するシーンだらけです。
脚本自体もプロの書き手とは言いがたいような稚拙なものが多すぎて話が心地よく運んでいかないから集中力が途切れ、いつも赤信号の横断歩道で待たされているようです。
沈黙によって登場人物の心情を語らせているなどと抗弁されそうですが、説得力のある筋立てや雄弁な台詞が書けないから、動きのない沈黙で時間を稼ぎ、お茶を濁しているようにしか思えないのです。

もうひとついうなら、映画に必要なダイナミズムもエグさもなく、なにもかもが淡白な枠の中で小さく処理され片付いてしまうのは、楽しむための映画でまでそんなものを見たいとは、私は思いません。

マンガやアニメのことはわかりませんが、あちらは海外に向けて勝負に打って出て勝利を勝ち取ったのでしょうか?
私の印象では、たまたま海外から思いがけない高評価が得られたので、評価の逆輸入という現象によって、認識されたような印象が拭えません。

その他、ドラマでいうと、海外モノと著しく違うのはエピソードの数です。
日本のものは、だいたい6話ぐらいで、たまに10話とか12話があれば珍しいほうでしょう。

それが海外作品では、一昔前に流行ったSUITSなどは百数十話で、これだけの数を見通すだけで大変でしたが、トルコの「オスマン帝国外伝」に至っては500話近い超大作で、それを見続け、作り続けるエネルギーに感心してしまいます。
この手をいくつか制覇してしまうと、数十話なんて珍しく思わなくなり、日本の全6話など笑ってしまうほど規模が小さい…という感じしかありません。
むろん長ければいいというわけではありませんが、海外ドラマの多くは数十話、人気作になれば3桁のエピソード数になるということは、それだけ見る人を惹きつける魅力があるということでもあり、実際、ドラマといっても映画並みに小道具にまでこだわった高いクオリティが保たれているのは感心するばかりで、日本は真剣さや熱量がずいぶん足りないように感じるこの頃です。
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