感じたこと

Eテレの「クラシック音楽館」から、尾高忠明指揮・NHK交響楽団/アンスネスのピアノによるベートーヴェンの皇帝、後半はブラームスの交響曲第3番ほかの録画を見てみました。
中堅の印象が強かったアンスネス氏もいまや円熟の世代というべきで、ちょっとした風格さえ漂っていましたから、それだけ月日が流れたということでしょう。

演奏は昔からの印象と大きく変わることはなく、クセのない中庸を重んじるものですが、それなりにしっかり聴かせてくれるところはさすがでした。
良識的に、堅実に弾き進められていくところこそこの人の魅力だろうと感じていますが、それ以上のことを期待することはできないところも昔と変わらない印象です。
必要なものを手堅く着実に表していく演奏、北欧風のルックス、エキサイティングでもマニアックでもないけれど、息の長いコンサートピアニストとしては、これはこれでひとつの道筋なんだろうと思います。

おそらく、実際の演奏会に行って生演奏に接したら、それなりの充実感を得られるのだろうと思われますが、映像やCDを何度も繰り返し観たり聴いたりしようという対象とはなりません。

この文章を書くにあたり、念のためもう一度見てみようと思ったのですが、どうやら見終わって無意識に消去してしまったらしく、残念ながら確認はできませんでしたが、まあそういうピアニストだろうとも思います。

尤も、現代の聴衆の大多数は、聞き耳を立てて一喜一憂し、気持ちを入れて繰り返し楽しむというような人はほとんどないような気もするので、だとすると、それはそれで必要条件をしっかり満たしているとも言えそうです。

アンスネスといえば、海外でもそうだったように、ピアノの大屋根をオリジナル以上の角度に開けるのがよほどお好きなようで、今回の来日公演でも、本来の突き上げ棒ではない茶色の長い棒が使われて、大屋根ははしたないばかりに開けられていました。
自分用のピアノを世界中持ち歩いているのかどうかは知りませんが、少なくとも、あの専用の突き上げ棒だけを送るか荷物として持ち歩くかしているのでしょうか?
製品として存在するものなら、それを好むピアニストもしくは音楽事務所がそれを公演先に持ち込むのか…まあ、甚だどうでもいいようなことですが、そんなくだらないことがやたら気になります。


早朝のクラシック倶楽部では、フランチェスコ・トリスターノのバッハを聴きました。
イギリス組曲を中心にしたプログラムで、55分の番組内では第2番と第6番が中心となっていましたが、歯切れよく快活で、とくにダンスの特徴が強調されているよう感じました。
いまさらながらイギリス組曲の聴き応えと、とりわけ第6番のすばらしさを再認識しました。

ピアノはヤマハCFXで、滑舌もよく華やかですが、その奥に東洋的メンタルを感じてしまう印象。
よく、YouTubeなどでヤマハとカワイの違いや特徴が語られる際、ほとんどの場合「ヤマハは明るい音色」ということが強調されますが、個人的にはヤマハの音は「派手」だとは思うけれど、「明るい」というのとは似て非なるものだというのが正直なところです。

バッハの場合、特定の音域のみの演奏になるため、そのピアノの素の音や歌心のようなものがストレートに聴こえますが、よく鳴ってパンチもあるけれど、楽器自体の歌心によって演奏が収斂されていくようには聞こえないのは不思議です。
ヤマハらしさを感じるのは基音のナチュラルな美しさというより、倍音を強く含んだミックス感のような気がしますが、専門的なことは疎いのであくまで聴いた印象での話です。
良くも悪くもそれがヤマハの魅力でもあるはずだと思いますが、ある種の静謐さとか澄んだ響きの世界ではなく、ゴージャス系の着飾った音に思えます。

そういう意味では、バッハではいささか端正さがない感じがなくもありませんでしたし、思えばグールド晩年のゴルトベルクにもそれを感じて、今でも聴いている間ずっと気にかかります。
ただ、ヤマハならではのインパクト感は満々なので、これを好む方も少なくないそうで、なるほどなぁと思います。
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オオカミ少年

イソップ童話の『オオカミ少年』ではありませんが、最近のお天気など災害に連なる報道はあまりにも大げさすぎて、実態との乖離が甚だしく、結果ほとんど信頼性がありません。
台風の時も同様のことを書いたと思いますが、今度は雪に関するものでした。

昨日は、夕方から出かける予定があり、食事も外で済ませることが決まっていました。
同行者もいましたが、その人からの連絡で「ニュース見たらすごいことになっている!」と言われて、こちらもすぐTVのスイッチを入れてみると、夕方のニュースの時間帯ということもあり、各局が今夜から明け方に襲来するであろう寒波と積雪について、繰り返し強い注意喚起をやっていました。

しかも画面は、災害時用のタテヨコに幅広い帯つきのスタイルとなり、エリアの寒波がいかに注意すべきものであるかを連呼しており、映像は県内山間部の一面銀世界のものであったり、東京から出張できている人にインタビューして「東京より博多のほうがぜんぜん寒いです!」といわせたり、タクシー会社ではあわてて冬用のタイヤに交換する映像など、そんなものばかり。
とりわけ山間部などは、この時期ならいつでも雪に覆われているはずですが…。

そして、天気図を示しながら今年最高の寒波です、夜半から明け方にかけて福岡地方では10cmの積雪と見られています、不要不急の外出は控えてください、どうしても外出される場合は冬用のタイヤやチェーンの準備をし、くれぐれも注意してください!等々を何度も繰り返し言いまくっていました。

私もはじめは、最近のTVのお天気ニュースが必要以上に大げさにいうのは十分心得ていたので、「実際は大したことないのでは?」と考えて、そのまま予定決行する気でいました。
しかし、その後も各局の注意喚起の名のもとに危機感を煽る言い方はますますヒートアップして警告となり、映像の中の人々は家路を急ぎ、だんだん「もしや…」という心配が頭をよぎるようになり、勝手に割り引いて行動した結果、もしものことがあったら…という不安も広がってしまいました。
そもそも、絶対に大丈夫などという自信はどこにもありません。
そして、結果的には不安が勝って、キャンセルの都合もつけられたため、この日の外出は直前で断念してしまいました。

もう大丈夫というわけで、さあ、その大雪とやらはどんなものかと興味津々でしたが、何度外を見ても道は普段通りに白く乾いたままで、なんだかいやな予感が。
予定通り外出していたとしても、とっくに帰宅している時間帯となっても状況はまったく変わる様子もなく、このころには「ああ、またやられた!!!」という思いで歯ぎしりしたくなりました。

夜中になると、多少強い風が吹いているようでしたが、それでも雪の気配はなく、あっても風の中に白いものがほんの少し混ざっている程度で、積雪などとは程遠いレベルです。
朝起きたら銀世界か?…とはもうあまり思ってはいなかったけれど、やはりまったくそういう気配はないばかりか、皮肉な感じに青空さえ覗いており、これってなんなんだ!という思いばかりが残りました。

おそらく、災害という最悪の状況を想定して予防に努めることが絶対優先で、そのためには多少の誇張だろうが何だろうが、そのため結果は違っていようとも、それは構わない!というルールがあるような気がします。
しかも、後日、結果に対して訂正するわけではなく、一方的な言いっ放しで終わりです。
夏にも「最大級の台風で、命を守る行動を取ってください」と半ば脅迫的に言われながら、ほとんど樹の枝も揺れなかったこともありました。

そんなに大事をとって誇張も厭わないスタンスのわりには、能登のあんな酷い地震などはまったく予想できなかったわけで、なにがどうなっているのやらわけがわかりません。

むかし聞いた話で、医者はガンではないものをガンと診断する間違いは許されるが、その逆は許されないというのがありましたが、これと同様で、人々の安全の名のもと、本当の正しい情報提供はないがしろにされ、ただ情報発信者側の責任回避のためのアリバイ作りで騒ぎ立てているように思えてなりません。

これによって、予定変更などを余儀なくされ、多大な迷惑を被った人はおびただしいものがあるはずです。
私ももうさすがに懲りて、今後はこのような情報はまともに取り合わない気でいますから、こんな空虚な報道ばかりしてたら『オオカミ少年』のように信じなくなってしまい、それこそが最も恐ろしいことではないかと思います。
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ドラマからあれこれ

ヘルニア騒ぎから半年を待たずして、再び安静を要する事態となりましたが、肺炎はだいぶ落ち着きつつあるようです。
療養がてら、またも動画配信のお世話になる時間も増えてしまっています。

映画もむろん楽しめますが、気軽さという点ではドラマのほうに分があるのはどうしてだろう…と思うところ。
映画のほうが作品として圧縮されているためか、観る側にも集中が求められるのかもしれません。

個人的にはアクション系は好きではないし、刑事物・医療物もできるだけ避けたいというのがありますが、知人がすすめるのでBOSCHという刑事ドラマに手をかけてしまいました。
舞台はロス市警、主人公は離婚歴のあるベテラン刑事で、お定まりのちょっとアウトローだけれど、小柄な体躯の中にグリーンベレー出身のタフさと気骨があり、刑事としては一流という設定です。

ロサンゼルスというのはそもそもアメリカのエンタメ文化の聖地でもあり、この地が舞台というのは数しれず、警察物ではもはや古典ともいえるコロンボ警部もロス市警でした。
切れ者の刑事というのは大抵小柄で、見た目は決して派手なタイプではないのも、ある種お約束のように思います。

凶悪犯罪に挑んで犯人を追い詰め、悪に斬り込んでいくには、長身のイケメンやマッチョより、小柄で型にはまらないタイプのほうが味があり、収まりもよく、見る側も楽しめるのだろうと思います。
相撲で、小兵力士が横綱に土をつけるときなどに相撲の醍醐味があるのと似たようなものかもしれません。

さて、このボッシュ刑事ですが、顔を見るたび誰かにいていると気になって仕方がなかったのですが、シーズン3に至ってようやくわかったのは、なんと帝王カラヤンでした。
ヘアースタイルがまるで違うのと、時代もジャンルもあまりに別世界なので、なかなか結びつきませんでした。
そういえばカラヤンも小柄で、小柄というのは、逆にある種の凄みや存在感があることがありますね。
たしかナポレオンもそうだと読んだ覚えがあるし、現ロシア大統領大統領もそうですね。

話は飛んで、昨年の秋ごろ、もう一つの趣味であるクルマで、カーグラという月刊誌があるのですが、その定期購読をついにやめたことは、もしかしたら書いたかもしれません。
免許取得前から40数年にわたり、一冊も欠かさず愛読してきた月刊誌でしたが、カリスマ性のある小林彰太郎という創刊者の死後、その内容は目に見えてつまらなくなり、さらには時代の変化もクルマには逆風だったのか、ついには(私にとっては)立ち読みする価値もないまでになり、とうとうふんぎりをつけたのですが、意外に予想したよりはるかにサッパリしました。

クルマの知人が「カーグラは昔のものを読むべき」としきりにいうので、そうかと思い50年前のものをパラパラやっていたら、そこにはまさに小林彰太郎全盛期の文章がふんだんに並んでおり、引き寄せられるように読みふけってしまいました。
小林氏は日本の自動車ジャーナリズムの草分にして圧倒的な存在でしたが、東大卒の大変な教養人で、実はクラシック音楽の大ファンでもあり、中でもとくにピアノ音楽を好まれていたことは驚くべき偶然でした。
一度きりでしたがお目にかかったことがあり、クルマの話もそこそこに話題は一気にピアノになりコルトーについて会話した特別な思い出があります。
さて、1974年の号(これはバックナンバーで入手したもの)にはロンドンのクリスティーズオークションを見学した時のレポートがあり、その中の一台は元のオーナーがカラヤンだそうで、ごく簡潔に「元ヘルベルト・カラヤン所有」と書かれてところに、さすがは小林氏と唸ってしまいました。
というのも、カラヤンは、世界的に、そして終生、ヘルベルト・フォン・カラヤンの名で認知されていましたが、ものの本によると、ドイツでフォンを名乗るのは貴族だけで、彼はオーストリア出身かつ自分の出自が貴族でないにもかかわらず、その強烈なる虚栄心から、フォンを勝手に使っているとありました。

小林氏は文章上の言葉や名称にはとくに正確を期する厳格なスタンスを貫いた人で、だからこの表記はおそらくそのことを知っての上だったと思われます。
すなわち、「フォン」を書き忘れたのではなく、意図的に「外した」のだと想像すると思わずニンマリしました。
それにしても自分でフォンをつけて定着させるとは、やはりタダモノではありません。
日本人なら、自分でミナモトノオザワセイジなんていったらびっくりしますよね。

ちなみにルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンやフィンセント・ファン・ゴッホもどこか似ていますが、こちらは貴族由来ではないようです。
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肺炎

病気ネタなどを繰り返し書くとは、無粋の極みではありますが、いまさら粋人を気取るつもりもなく、どうせ無粋な私だし、さしあたって目の前はそれ一色だからお許しを。
発症から7日目に突入した真夜中、やや落ち着きかげんに思えた病状は再び悪化しだして、体温は39℃に迫る勢いとなりました。

知り合いの中には、夫婦揃って異様なほど医療知識に詳しい人達がいて、ハァハァいいながら話をするのも辛いのでLINEの往復が続きました。
そもそもインフルエンザでこれほど長期間というのはおかしいこと、また仮にインフルエンザであればロキソニンは飲んではいけない薬の一つだということも、多少批判的に知らされました。

ここまできたら病院嫌いなどと言っている場合ではないと腹をくくり、翌朝病院に行く決心をつけました。
ところが朝目が覚めると、昨日の苦しみは何だったのかと思うほど症状が軽くなっており、熱もさほどでもありません。
これまでの私なら、これ幸いに病院行きは即刻キャンセルするところですが、この一週間のことを振り返り、そしてまた明日から週末になることを考えたら、やはりここは自分でしっかり決心したことでもあるから、行くことに決めて近所の大型病院の予約を取りました。

初めて知りましたが、発熱外来というのは入り口からして違っており、裏手の通用口のようなところからブザーを押して入ります。
そのエリアだけ厳重に遮断されており、物々しい姿の看護師さんが対応に出てこられ、あれこれ聞かれたあとに診察室へ。
医師も同様の姿で目元以外は顔も見えません。

問診のあとすぐに抗原検査となり、これも初めての体験でしたが、細い棒を鼻の奥深くまで容赦なく突っ込まれ、それは思わず「ひぃ」と声が出てしまうほどでした。
ほどなく結果が出たのですが、なんとインフルエンザでもコロナでもない!というもの。
そうとなれば別の検査をしなくてはならないそうで、「2時間ほどかかりますが、お時間よろしいですか?」と迫られました。
よろしくないに決まっているけど、ここまで苦しんだあげく重い腰を上げてやってきた病院なんだし、もし厄介な病気があるとすればそれを放置することもできないというようなことも頭をかけ回り、心配と投げやりの「どうにでもしやがれ」気分になって了解しました。

抗原検査が陰性だったため、規制線内の立ち入り可となり、ただちに病院内の検査にまわされました。
ちなみに、ではインフルエンザではなかったのか?というと、インフルエンザだとしても数日で消えるために、発症後6日も経つと検査には出ないのだとか。

CT、レントゲン、血液検査、採尿検査となり、それらが終わって一時間ほどすると結果が出るとのこと。
待合室でぼんやり待っていると、担当医が歩み寄ってきて「いま検査していますが、肺炎の症状がでているようです」とわざわざ言ってきました。
肺炎は入院治療が基本なのだそうですが、程度によっては内服治療も可能とのこと。
ここまで譲歩して検査までしたのに、そのうえ入院なんてとんでもないと思い「入院はちょっと…」というと、「では結果次第ですが、できるだけお薬で様子を見るようにしましょうか?」「お願いします」となりました。

ほーら、言わんこっちゃない、病院なんぞに行ったらこんな面倒なことになるんだという思いと、とはいえ、今の段階でそれがわかってよかった、あのまま自宅で放置していたらどういうことになっていたか…という二つの思いが妙な感じに交差しました。

やがて診察室への呼び出しがあり、そこでレントゲンやCTの画像を見せられ、左の肺の下のほうにわずかにそれらしきものを目にしました。それが肺炎なのかどうか自分ではわからないけれど、医師からこれがそうなんだと言われるから、そうなんだ…と思ったわけです。
薬の説明を受けたあと、否応なく翌週の何曜日何時という予約までさせられ、さすがに応じるしかありませんでした。

病院に入ってから再び車が動き出すまで約3時間、すっかりお腹も空いて、同行者もいたので、そのままフェミレスに行ってランチを食べて帰宅しましたが、肺炎ならそんなところに行くことも褒められたことではなかったかもしれません。
同行者は私の病院嫌いをよく知っているので、助手席で「思い切って行って良かったね」を繰り返していました。

ま、それもそうだと思いつつ、帰宅後すぐに3種類の薬を飲みました。
できるだけ安静を心がけますので、できるだけ早く治りますように。

インフルエンザから肺炎に発展することは珍しくないのだそうで、皆様もどうぞお気をつけください。
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インフルエンザ

今年の正月休みは、例年にはないものずくしで、新年早々は一連の災害や事故で肝を冷やし、後半はインフルエンザにかかるという、散々なことで終わってしまいました。

もちろん、ニュースに出てくる方々の苦しみに比べたら、インフルエンザなどものの数ではないとお叱りを受けそうですが、個人的にはかつてない強烈なもので参りました。
潜伏期間などを考えると、いつかかったのかはいまだにわからないものの、はっきり発熱を実感したのは6日土曜で、カレンダー上はそこから3連休となるあたり、どうして病気になるのは、いつも必ずと言っていいほどこういうタイミングになるのか…。

知り合いの自然派の方に云わせると、発熱するのは体にとって、発熱し外敵と戦う必要があるから熱が出るわけだから、それをむやみに解熱剤などで抑えこんでいると、かえって不調が長引いて、いつまでも症状が改善されないと力説されます。
悪寒がしたら、熱い風呂に長めに入って、そのあとは汁物や麺類など温かいものを体に入れて出来る限り汗を出し、体を冷やさぬよう布団に入って睡眠をしっかりとれば、多くの場合ごく短期間ですっきり回復できるのだとか。

ふんふんなるほど…とは思っていたけれど、普通の風邪ぐらいならともかくインフルエンザともなると、なかなかそういう荒技を試してみる興味もなにもすっかり消え去ってしまうものです。
熱は右肩上がりに急上昇を続け、二日目には40℃という、これまでの人生で一度も経験したことのない数値に達し、併せて体の具合の悪さときたら、およそ耐え難いばかりに悪化。

病院のことも思わないでもなかったけれど、生来の病院嫌いにとって、救急外来のある病院などに行くのもそれはそれでイヤだし、ある人から「救急車を呼ぶべき!」とアドバイスされたりすると、ああもうこの人には言うまい…と思ったり。
もちろんこちらを心配してのことではあるとしても、病院への移動手段として、気安く「救急車を呼ぶ」ような考え方は、どうも性に合いません。

〜というわけで、10日水曜の時点で丸5日経過ですが、かすかに回復傾向にはあるものの一進一退で、とにかくそのしつこさと言ったら並大抵ではないなというのが、今回のインフルエンザの正気な印象でした。
数名の人から聞き集めたところでは、すべてに共通しているのは「今度のインフルエンザは強烈!」ということ。
たしかに以前コロナにかかったときより、あきらかに苦しさの次元が違うし、そのパワーやしつこさもコロナの比ではありません(私個人の場合)。

病院に行けばタミフルなどが手に入ったのでしょうが、それもない以上、今回はロキソニンが唯一の頼りでした。
これを飲めば、わりに熱は下がるし、効能時間も意外に長いので、以前のヘルニアのときに溜め込んでいたロキソニンがたっぷり手元にあったことはせめてもの救いでした。

これまでは風邪を引いても食欲が落ちたことはなく、平気でステーキでも平らげていた私にしてみれば、まったく何も食べる気がしないしゼリーぐらいしか受け付けないのは、我ながらこれは相当なものだろうと思えて怖くなりました。
食べるといえば驚いたのは、高熱が続いたあとは、ものの味が微妙に変わってしまい、簡単に言うと全体に美味しさが損なわれてしまったのはショックで、すぐには気付かなかったものの、あれ?ん??を繰り返すうちにこちらの味覚が狂っているこおがわかりました。
高熱というのは様々な影響があるということがわかりました。

毎日、はじめにがっかりするのは、朝目覚めたとき。
この手の病気になると、どうしても「明日になったら良くなっているのでは?」という淡い期待があるものですが、目が覚めても体調が少しも良くなっていないことがはっきりするときの、あのときのなんともやるせない失望感!
それを裏付けるべく、枕元の体温計を引き寄せてみれば、毎日38℃台から一日をスタートせざるを得ないのは、いいようのない無常感に苛まれます。

日がな一日、折あらば体温計を脇に挟むのが習慣化してしまい、その数字に一喜一憂するのはなんと嫌なことでしょう!

体温計といえば、家にあったこれまでのものは検温に何分間もかかり、待ちくたびれたころにようやくピピッピピッと音がしますが、本当に具合が悪いときは、これさえも苦痛で我慢できないもの。
そういえばコロナ騒ぎの頃、体温計を買っておいたほうがいいということで、ネットで2本購入したけど一度も使っていなかったことを思い出しました。

高熱うなされながら、やっとそれを探し出したところ、パッケージに「検温15秒」と書かれており、え?まさか?とは思いつつ、開封してさっそく使ってみると、なんたることか、それはもう信じられないほど早く、脇に押しやった手を服の中から外に出しかけた頃には、はやくもピピッピピッと音がして、これにはびっくりしました。
正確に15秒かどうかはしらないけれど、とにかく従来のものに比べたら信じられないスピード差で、バスと飛行機ぐらいの違いです。

こんな高性能なものを使ったが最後、もう二度とあのちんたら体温計には戻れません。
…と、体温計はいいけれど、もうそろそろインフルエンザにもおいとまいただきたいものです。
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SKの脅威

あけましておめでとうございます。

2024年は、元日早々に発生した能登方面の大地震、翌日にはJALと海保機の衝突事故、さらにやや地方ネタにはなりますが、福岡県北九州市では古い商店街が大規模火災に見舞われるなど、きわめて厳しいスタートとなりました。

ここ最近は、国外国内どこを見渡しても心が塞ぐようなニュースばかりが横行し、なかなか希望を見出すことの難しい時代になっているように思います。

昨日は、知人のお宅に招かれてそこのシゲルカワイ(SK-5)に触らせていただきましたが、久々に素晴らしいピアノに触れて、深い感銘を覚えました。
購入後数年を経て、まさに本領発揮というべき熟成状態にあり、これまでの日本の大半を占めるピアノとはほぼ完全に袂を分かった充実ぶりに圧倒され、これはまさに一流品だと思いました。
日本のピアノ独特のあの「和風」な感じから解き放たれ、完全に国際化できた初のピアノでは?と本気で思いました。

低音から高音までバランスも見事という他なく、すべての音に深いコクがあり、表現力も豊かで、これといった不満がどこにもみつからないものでした。
音は暗くも明るくもないバランスがとれており、良いピアノが必ず備えている重心の低さがあるし、それでいて部屋中に鳴りわたるダイナミズムと立体感があり、ふと戦前のスタインウェイに存在したA3という隠れた銘器として知られるあのピアノに触れた時の記憶が蘇りました。

何より特筆したいのは、ヴィヴィッドで密度感のある美音であり、それをしっとり感あふれるタッチが支えており、それらが相俟って心地よい親しみのようなものを伴いながら、弾き手に寄り添うように反応してくれるところでした。
SK-5といえばサイズ的にはいわゆる中型ピアノですが、その全体からくる印象は限りなくコンサートピアノに近いもので、コンサートグランドからあのいささか大仰すぎるところを削り取って、扱いやすく手に馴染むようにまとめたピアノといっても差し支えないと私は思いました。

巷でのシゲルカワイの評判が「なるほど」とストンと落ちてきたように思いますし、むしろこれまでの私の中にはどこか偏見があったのか、正しい評価を下すのが遅くなってしまったような忸怩たるものさえあって、この点は大いに反省する必要がありそうです。

シゲルカワイを語るとき、とくに強調しておくべきことはその価格で、絶対額は決してお安いものではないけれど、輸入ピアノの価格を基準に考えれば、各サイズごとにくらべると概ね3分の1から、ものによっては4分の1ほどであり、これはその内容からすれば信じ難いもので、その人気は当然だろうと思います。
裏を返せば、SKはその価格帯のピアノと互角に比べられる内容を持っていると思われ、今風にいうなら「これは相当やばい」と思った次第です。

せっかく感銘を受けたというのに、生臭い値段の話なんぞするのはどうかと思いましたが、モノの良し悪しを判断するのに価格を考慮に入れないことは現実的ではないし、フェアでもないから、やはりここは避けては通れない問題だと思います。

そういえば、ポーランド仕込みのショパン弾きとして有名な遠藤郁子さんも、ご自宅のピアノがスタインウェイからシゲルカワイに変わっている動画をいつだったか見たのを思い出しましたが、今なら「なるほどね…」と思えます。
スタインウェイはむろん素晴らしいけれど、たとえばModel-AとSK-3はほぼ同サイズですが、価格は5倍です。
スタインウェイAにはSK-3の5倍の価値があるのか?といえば、私には到底そうは思えません。

世界的にも、とりわけ上級グレードのピアノにとってSKシリーズは相当な脅威であることは間違いないことをしっかり思い知らされた今年のお正月でした。

今年もよろしくお願い致します。
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