米独共通化

何年何月ということははっきりしないものの、近年スタインウェイの外観の細部が変更されたことを知ったとき、内心小さくない衝撃が走りました。
衝撃なのは、それが、個人的に必ずしも好ましい方向だとは思えないと直感したからです。

ハンブルクの場合、ステージ上のコンサートグランドで最も顕著な変化は足の形状と太さが変わり(やや細くなった)、わずかながら造形上の調和が損なわれ、その印象は時が経過しても変わりません。
さらに大屋根を支える突き上げ棒も見るからに華奢で頼りないものとなり、側板のカーヴのところにあったL字のフックと、それを回す丸い取っ手も廃されました(ニューヨークにはもともと無い)。
譜面台もよりシンプルな形状になり、全体としてはコストダウンされたように見えますが、実際のお値段は容赦なく値上がりを続け、もはや絶望的なまでの高値になっているのはため息が出るばかり。

共通化ということらしいけれど、それに伴う変更は、最近になってあれこれの動画等から確認できたところでは、ニューヨークのほうが甚だしいことがわかり、その驚きは倍増しました。
ニューヨークの新品は普段目にすることはまずないし、まして日本でその最新型を見る機会は皆無でしょう。
結論からいうと、新しいニューヨーク・スタインウェイは、その道のプロか我々のような好事家がよほど目を凝らして見ない限りはわからないところまでハンブルクと瓜二つの外観になってしまいました。

以下、写真や動画などからわかるニューヨーク製における、見た目の具体的な変更点。

▲塗装は伝統のやわらかなヘアライン仕上げではなく、一般的な艶出し仕上げに(これは以前から徐々に見かけるようになっていました)。塗装は音にも影響があり、艶出し仕上げは固めの音になると云われます。
▲大屋根を開けたときに見える側板の内側には、ハンブルク同様の木目の化粧板が貼られて高級感を強調? ニューヨークは伝統的に内側も黒のままでやや素っ気ない印象もありましたが、廉価シリーズのボストンでさえ側板内側には木目が貼られていることから見れば、本家がそうでないことがむしろ奇妙ではありましたが。
▲大屋根を支える突き上げ棒は、簡素な新デザインとして共通化(そのためハンブルクは3段から2段に)。
▲最大の驚きは、最も象徴的な外観上の違いであった鍵盤両脇の腕木の角が直角であったものが、ハンブルクとまったく同じ形状のラウンド形状になっていること!
▲Model-Dでは大屋根の内側に4本あった補強棒(名称は不明)のようなものが、4本から2本に(ハンブルクは従来より2本)。
▲譜面台。ニューヨークのそれは両脇(左右の平らな部分)の出っ張りがあり、手前から奥へ起して立てるスタイルでしたが、一般的な奥から手前へ起こして角度の調整ができるものになっているようで、両者は共通化されたと推察されます。

こうなると、外観からニューヨークとハンブルクを見分ける手立てはほとんどなくなったも同然です。
では、まったく同じかというと、細かい点でそうでない部分もないわけではありません。

▲一番わかりやすいのはペダル部分で、ニューヨーク製は伝統的にハウジング前面に金属プレートが貼られており(靴先による傷へのプロテクター?)、これは残されており形状もハンブルクとは微妙に異なります。
▲ニューヨーク製の各モデルでは、大屋根の前部の、前屋根(閉じたとき譜面台の真上にあたる部分)が折れ曲がって開く面積が、鍵盤側から見るとハンブルクより若干狭いという特徴がありましたが、これはそのまま引き継がれており、よって大屋根を開けたときのフォルムがわずかに異なります。しかし、これを並べて見比べることなく、単独で見破るのは至難の業。
※日本のピアノでは、SK-EXは狭く、CFXは広いのが特徴(そのためCFXはバランス上鈍重に見える)。
▲さらに細かい点では、鍵盤蓋にあるおなじみのSTEINWAY&SONSのロゴとライラマークは、ハンブルクに対してニューヨーク製では若干低めの位置にあるようです。おそらく従来のニューヨーク製は鍵盤蓋の上端が下に折り曲げる仕様だったため、それに合わせて位置決めされたものと思われます。
※ちなみにヤマハのグランドは全機種、書体もサイズも同じですが、見落とされがちな点として、CFシリーズとそれ以外ではロゴの付けられる高さがかなり違います(CFシリーズのみ高い位置で、高級感の演出?)。
▲さらにさらに細かい点では、Model-Dでは大屋根の開閉を支える3つの蝶番が、ハンブルクでは中央がやや前寄りに取り付けられるのに対し、ニューヨーク製では等間隔になっているようです。

フレーム後方には、MADE IN GERMANY HAMBURGもしくはMADE IN USA NEWYORKという小さなエンボス文字があることはありますが、かなり目立たない場所で、要するに普通に見ただけではほとんど区別がつかないようになりました。
いろいろと事情はあるのでしょうが、かなり思い切ったことが断行されたことは間違いないようです。

音色/外観、それぞれに特徴があった米独二国で製造されるスタインウェイが、ここまで共通化されてしまうとは、初めはかなりショックで、さらには日本ではニューヨークの最新モデルの実物を目にすることはできないため、確認にもずいぶんと時間を要しました。
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ベルリン・フィル

Eテレのクラシック音楽館から、昨年のベルリン・フィル日本公演の様子が放映されましたが、さらに現代の演奏傾向をまざまざと思い知らされることとなりました。

指揮はキリル・ペトレンコ、演奏曲目はモーツァルトの交響曲第29番、ベルクのオーケストラのための3つの小品、ブラームスの交響曲第4番。
ベルリン・フィルをを批判することは、きっと神を批判するようなものかもしれないけれど、アマチュアの個人的な印象なので敢えて言わせていただくと、残念ながら好みの演奏ではなく、上手さばかりを鼻にかけた高性能マシンのような、イヤミな演奏というように私は受け取りました。
いかにも手慣れて、曲全体をすべて見通し、細部を熟知し、なにもかもが彼らの手の中で飼い慣らされているといわんばかりで、必要以上にスムーズで、音楽的にも完璧で、破綻などまったくないのはご想像のとおりです。
反面、以外に音色のや表現の変化はなく、どの曲のどの箇所も一本調子で、ところどころに出てくるフォルテなどはどこか威嚇的な感じに聞こえるのも、聴衆に凄みを与えるよう狙っているように聞こえました。

音楽を聴くにあたり、未知なるものへの期待や、演奏者の生身の反応などを体験する喜びなどは感じられぬまま、あまりに手際よく小ざっぱりまとめられ過ぎると、音楽が、脂肪のない小さなかたまりのようになってしまうようでした。
音楽のすばらしさを伝えることより、自分達の上手さを誇示することのほうが、前に出ている感覚。

いまのベルリン・フィルを、ニキシュやフルトヴェングラーが聞いたならなんというか、タイムマシンはないけれど、せめてChatGPTにでも聞いてみたいものです。

音楽を聴く意義や楽しみとして、聴き手の想像力を掻き立てるようなものであって欲しいけれど、ベルリン・フィルのそれはあまりにも仕上げられすぎて、これ以外にない、あるはずないだろう…という調子で迫られ、これならどんな人が指揮台に立ってもほぼ似たようなことになるのでは…。

日本人の文化的なメンタルは、謙虚で、曖昧で、はかなくて、ゆらぎがあって、受け止め手の感性が最後を補完することで完成するといった、いわば精神的作法があるように思いますが、ああも自信たっぷりに言い切られ、すべてを断定されてしまうところは、どうしても相容れないところかもしれません。

もちろん、あれだけの人数が一糸乱れぬ演奏で終始できるという点では、素直に驚きで、そこには一種の畏れさえ感じますが、強いていえば弦の音色などはときに圧迫的で、悲鳴のように聞こえる時があり、そんなにカリカリしないで、もうすこし穏やかに行けないものか…と至って素朴なことを思います。

モーツァルトの29番の第一楽章など、モーツァルトの中でもとくにおっとりと温かい曲調だし、ブラームスの4番もいきなり深い悲しみの主題ではじまるシンフォニーですが、いずれもベルリン・フィルというエリート集団によってすべてが処理され、まるでハイテク工場の目もくらむような生産過程を見せられるようで、音楽を聴く喜びとは趣の異なるもののような気がしました。

すでに百年以上にわたって世界の頂点に立ち続け、その実力のほどは世界中が認めているのだから、もう少し泰然と構えて、奥深いところにあるものを聴かせて欲しいのですが、当節は少しでも手を緩めれば、その地位も危ぶまれるというようなことがあるのか。
あるいは私が求めているようなものはもはや時代遅れで、聴衆もあのような演奏を好み求めているのか、そのあたりは判然としません。

ベルリン・フィルに限ったことではありませんが、最近の演奏の上手さについては驚かされるばかりですが、同時に演奏者達が音楽を喜びとしているかどうかが疑わしく、高度な技能保有者が、ただ仕事として、仕上がったものを反復しているだけのように感じるのは、なんだかやるせないものがあります。

そういえば、本間ひろむ著の『日本のピアニスト』(光文社新書)を読んでいると、衝撃的なことが書かれていました。
現代のピアノを専攻している学生世代は、CDプレーヤーもTVも持たず、音楽はスマホかPCで主にYouTubeで鑑賞し、グールドやアルゲリッチを知らなかったりする学生が多いのには驚くとあり、これは読みながら、やはりショックでした。

変化もここまで凄まじいものになると、音楽というものの概念や存在価値はもとより、演奏スタイルも大きく変わってくるのでしょうから、なんだかもう頭がクラクラしてしまいます。
そのうち「AIの演奏でも充分!」という日が、ほんとうにやってくるのかもしれません。
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低体温演奏

アンスネスの皇帝を視聴して、今回は言い様のない不思議な印象が後に残りました。
ベートーヴェンの皇帝という、自分のからだの細胞の中まで浸透しているような曲が、ふいになんだかとても奇異な感じに聞こえてしまったのです。
演奏自体はピアノ/オーケストラ共にたいへん立派なものであったにもかかわらず…。
それを私ごときが、下手な文章をひねり回してみても、なかなか伝えられそうにないから書かないつもりでしたが、あえて少しだけ触れてみます。

ひとことだけいうなら、今の演奏スタイルと、時代と、作品の、あれこれの何かがちょっとズレて、齟齬が生じているような感覚に囚われたのかもしれません。
「皇帝」は「肯定」とさえ云いたくなるような作品で、祝祭的な要素も帯びているから、そういう曲にはそれなりの演奏のありかたというのがあるはずで、それらの要素が馴染んでいない違和感みたいなものを感じたのかもしれません。
今どきのスタイルに沿って、客観的に、端正に、理知的に、ちりひとつなく丁寧に掃除をしたような演奏すればいいのかという疑問で、もうすこし単純な力強さや推進力が前に出るような演奏であったほうが、この音楽には似つかわしいのではなかろうかと思いました。

小さな傷やミスに拘泥せず、一つの目的地に向かって迷いなく信じる方向へ突き進んだとき真価が出る…ベートーヴェンにはそういう作品がいくつもあるように思います。
もし、黄金期のクイーンが汗一つ垂らさず、練習に練習を重ね、最高のアンサンブルとバランスをもって「ボヘミアン・ラプソディ」をひんやりした工芸品のような美しさで演奏したとしたらどうでしょう?
まず間違いなく、あの熱狂はなくなり、後世まで語り継がれるようなものにはならなかったはずです。

そういう意味では、いささか誇張が過ぎるかもしれませんが、皇帝は多少の野性味や熱量が伴わないと作品の本質を見失ってしまうようで、そんな危うい境目のようなものをこのとき見てしまったのかもしれません。
単なる慣れの問題で、こちらの耳が新しい演奏スタイルについていけないだけなのかもしれませんが。

熱狂ということなら、1980年頃のアバドとポリーニによる皇帝のすさまじい放送録音がありましたが、まるで最高最強の剣闘士が汗みずくになって極限の剣さばきを見せているようで、そこに居合わせた聴衆の驚きと興奮とが相俟ってホールの中に火柱が立つような演奏でした。
これを音楽的にあれこれいうのは無粋というもので、やり過ぎの面もあったでしょう。
でも、そこには音楽が本源的に必要とする、人間の素朴な本能とか快楽を気の済むまで揺さぶり刺激してくれるものであったと思います。

誤解しないでいただきたいのは、だからこういうものじゃなかったからつまらなかったと単純に言いたいわけではありません。
ただ、音楽にはもっといろいろな演奏(演奏の自由)があっていいはずで、現代のクラシック音楽はますます固定化された演奏スタイルによる締め付けが強くなり、演奏者の率直な表現や創造力といったものが、きびしく制限されていないだろうかと思うのです。

音楽を聴いて、演奏に立ち会って、非日常の感興と喜びに身を浸し、精神が時空を飛ぶように開放され、なにか溜飲の下がるような体験をすることは、きわめて大事な事だと思うのです。

ようは、クラシック音楽がつまらないのではなく、クラシック音楽の演奏上の暗黙のトレンドが、感動や喜びを奪っているのかもしれない、そんな気がしているこの頃です。
多くの演奏は一見どれも見事で、その高水準には驚くべきものがありますが、それをただステージ上で反復再現するだけで各地を飛び回るような演奏では、人の心を喜びや充実感で満腹にすることはできないでしょう。
その場かぎりの出来事のような、一度現れてはすぐに消え去ってしまう一発勝負にかける演奏、即興性、ある意味でのリスクや挑戦が含まれる演奏こそ魅力的ですが、現代の演奏にはおよそそういうものが抜き取られている気がするわけです。

よく仕上がって隅々までぬかりなく整えられているけれど、どこか企画品みたいな気配のする演奏を繰り返すことは、さしあったって拍手喝采は得られたとしても、一方でこれほどすばらしい音楽芸術の世界をどんどん窮屈なものに変質させ、やせ細らせてしまっているような気がするのです。
もちろん、これはアンスネスのことというより、現代の演奏全般に感じていることというべきでしょう。
その点では、アンスネスはまだしも体温のある演奏だと感じますから、こういってしまうと、なんだか矛盾しているようですが、たまたま彼の皇帝を聞いたことから、勝手に発展して、そんなことを考えてしまいました。
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