低体温演奏

アンスネスの皇帝を視聴して、今回は言い様のない不思議な印象が後に残りました。
ベートーヴェンの皇帝という、自分のからだの細胞の中まで浸透しているような曲が、ふいになんだかとても奇異な感じに聞こえてしまったのです。
演奏自体はピアノ/オーケストラ共にたいへん立派なものであったにもかかわらず…。
それを私ごときが、下手な文章をひねり回してみても、なかなか伝えられそうにないから書かないつもりでしたが、あえて少しだけ触れてみます。

ひとことだけいうなら、今の演奏スタイルと、時代と、作品の、あれこれの何かがちょっとズレて、齟齬が生じているような感覚に囚われたのかもしれません。
「皇帝」は「肯定」とさえ云いたくなるような作品で、祝祭的な要素も帯びているから、そういう曲にはそれなりの演奏のありかたというのがあるはずで、それらの要素が馴染んでいない違和感みたいなものを感じたのかもしれません。
今どきのスタイルに沿って、客観的に、端正に、理知的に、ちりひとつなく丁寧に掃除をしたような演奏すればいいのかという疑問で、もうすこし単純な力強さや推進力が前に出るような演奏であったほうが、この音楽には似つかわしいのではなかろうかと思いました。

小さな傷やミスに拘泥せず、一つの目的地に向かって迷いなく信じる方向へ突き進んだとき真価が出る…ベートーヴェンにはそういう作品がいくつもあるように思います。
もし、黄金期のクイーンが汗一つ垂らさず、練習に練習を重ね、最高のアンサンブルとバランスをもって「ボヘミアン・ラプソディ」をひんやりした工芸品のような美しさで演奏したとしたらどうでしょう?
まず間違いなく、あの熱狂はなくなり、後世まで語り継がれるようなものにはならなかったはずです。

そういう意味では、いささか誇張が過ぎるかもしれませんが、皇帝は多少の野性味や熱量が伴わないと作品の本質を見失ってしまうようで、そんな危うい境目のようなものをこのとき見てしまったのかもしれません。
単なる慣れの問題で、こちらの耳が新しい演奏スタイルについていけないだけなのかもしれませんが。

熱狂ということなら、1980年頃のアバドとポリーニによる皇帝のすさまじい放送録音がありましたが、まるで最高最強の剣闘士が汗みずくになって極限の剣さばきを見せているようで、そこに居合わせた聴衆の驚きと興奮とが相俟ってホールの中に火柱が立つような演奏でした。
これを音楽的にあれこれいうのは無粋というもので、やり過ぎの面もあったでしょう。
でも、そこには音楽が本源的に必要とする、人間の素朴な本能とか快楽を気の済むまで揺さぶり刺激してくれるものであったと思います。

誤解しないでいただきたいのは、だからこういうものじゃなかったからつまらなかったと単純に言いたいわけではありません。
ただ、音楽にはもっといろいろな演奏(演奏の自由)があっていいはずで、現代のクラシック音楽はますます固定化された演奏スタイルによる締め付けが強くなり、演奏者の率直な表現や創造力といったものが、きびしく制限されていないだろうかと思うのです。

音楽を聴いて、演奏に立ち会って、非日常の感興と喜びに身を浸し、精神が時空を飛ぶように開放され、なにか溜飲の下がるような体験をすることは、きわめて大事な事だと思うのです。

ようは、クラシック音楽がつまらないのではなく、クラシック音楽の演奏上の暗黙のトレンドが、感動や喜びを奪っているのかもしれない、そんな気がしているこの頃です。
多くの演奏は一見どれも見事で、その高水準には驚くべきものがありますが、それをただステージ上で反復再現するだけで各地を飛び回るような演奏では、人の心を喜びや充実感で満腹にすることはできないでしょう。
その場かぎりの出来事のような、一度現れてはすぐに消え去ってしまう一発勝負にかける演奏、即興性、ある意味でのリスクや挑戦が含まれる演奏こそ魅力的ですが、現代の演奏にはおよそそういうものが抜き取られている気がするわけです。

よく仕上がって隅々までぬかりなく整えられているけれど、どこか企画品みたいな気配のする演奏を繰り返すことは、さしあったって拍手喝采は得られたとしても、一方でこれほどすばらしい音楽芸術の世界をどんどん窮屈なものに変質させ、やせ細らせてしまっているような気がするのです。
もちろん、これはアンスネスのことというより、現代の演奏全般に感じていることというべきでしょう。
その点では、アンスネスはまだしも体温のある演奏だと感じますから、こういってしまうと、なんだか矛盾しているようですが、たまたま彼の皇帝を聞いたことから、勝手に発展して、そんなことを考えてしまいました。
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