脱技巧派?

いつだったか、TVの番組表を見ていると、30分の有名番組で、いま頭角を現しつつある若いピアニストが採り上げられるようで、とりあえず録画予約しました。
近年はきわめて高い技術をもった若いピアニストが続々と出てくるため、顔と名前を覚えるだけでも追いつかないことがしばしばです。

そんな中のひとりが今回の主役で、すでにコンクール歴も輝かしいものがあり、現在は海外在住の修行中でありながら、演奏活動も活発にこなしている由で、今はこういう人は普通になり、もう驚かなくなりました。
今どき名が出た人なら例外なく見事に弾けるし、演奏スタイルはいずれも標準体型のサッパリ系と決まっているから個性など皆無で、演奏から何かが深く心に刻みつけられることもありません。
私の耳が凡庸なことも否定できませんが、ともかく似たりよったりにしか聞こえないので、AKBナンチャラではないけれど、いつしかピアニスト集団のように見えてしまったり。

今回番組で登場する方も技巧派として、すでに評価を得た超絶技巧の使い手だそうで、クラシック倶楽部などで見たような気はするものの、印象に残っているものは残念ながらありませんでした。
番組内のインタビューで、ご本人は「いつまでも超絶技巧ばかり弾いてないで(略)ピアニストとしての幅をもっと広げたい」ということで、最近ではより音楽なもので聞かせる方向を目指そうと、集中的にショパンに取り組んでいるとのこと。

過去の映像でペトルーシュカなどをバンバン弾いているのは圧巻で、この人の本分はこのあたりにあると思われますが、これから別の演奏領域を取り込もうというのは意外に簡単ではないだろうという気がします。
お堅い難しい文章ばかり書いていた人が、繊細な心をそっと映し出すような精妙な詩を書くことはできるのか?

「僕が全力で気持よく弾くと、ショパンのキャパシティをオーバーする」「今はまだショパンが見つかっていない状態」などと言っていましたが、それをどうするのかこちらが心配になりました。
「ショパンの語法というのがある…」というようなことを言っていたけれど、それは単なるスタイルでしかなく、そこへ弾き手の感性が自然に重なってくることで初めて生きた音楽になる筈です。
そのショパンはというと、もちろん今日要求される仕上がりにはなっているから外面的には整っているけれど、どこかよそよそしく、無理しているなぁという印象。

もちろん、試験ならじゅうぶん合格点の取れるものだろうけれど、プロの演奏としてもっと聴きたくなるような魅力的なものだったか?ショパンが聞こえてくるか?といえば、まだまだ疑問が残るものでした。

その人が師事しているという日本人ピアニストによると、楽譜を「顕微鏡で見るように」というご指導で、これにもいささか違和感を覚えました。
むろん楽譜に書かれたものは、漏らさず丁寧に拾い上げ、細心の注意をはらって検討し、注意深く演奏に反映させなくてはならないことは当然ですが、でも、そこに顕微鏡(比喩としても)が必要か?ということになると、私は疑問で、せいぜいルーペぐらいでいいのではと思います。
細かな点検や検討も、やり過ぎると却って全体が空虚になったり、各部の照応とか、作品の必然的な流れや高揚感が失われたりと、音楽のもっとも大事なところが空洞化するのではないかと危惧してしまうし、聞く側がそれで真の音楽的感銘を得られるとは思えないのです。

耳を凝らして演奏を点数化するコンクールでは有効かもしれませんが、私に云わせるならそれは解析され蓄積されたデータに基づく再生作業であって、それが生きた音楽だとは思えません。
全体にも情に乏しく、覇気がなく、とりわけ即興性とダイナミズムがないことは、現代の演奏に接していつも感じるところです。

作品が求める要素と、演奏者の個性が、高い次元で結びついた時、最高の演奏になると思うのですが、どうも最近の人は情報だらけの時代に生きているせいか、最高のものを寄せ集めた中庸に満足し、異論の出ない防衛ラインを守っていくことに汲々としているように思えます。
技巧派を脱したいなら、もっと正直に本音で勝負をかけたら?とおもうのですが、そんな考え自体が古いのかもしれません。
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心よりいでくる能

随筆家の白洲正子氏の著作の中に『心よりいでくる能』という一冊があり、そこに書かれていることは芸術と技術の分かちがたい微妙な関係性が抱える問題で、じつに世阿弥の頃からのテーマであったようです。

正子氏は、薩摩藩士の樺山家の令嬢として生まれ、幼少期より能楽に打ち込み、夫は吉田茂の片腕であった白洲次郎。
青山二郎や小林秀雄はじめ数多くの傑出した教養人と交流し、後年はアマチュアとして骨董や各地の仏像などにも造詣を深めた、日本の美の語り部でもあります。

『心よりいでくる能』の冒頭は、
「惣じて、目さきばかりにて、能を知らぬ人もあり」という世阿弥が老年になって記したという『花鏡』の中の言葉ではじまります。

以下、少し引用してみます。
「惣じて知的な批評眼ばかり発達して、能の本質を知らぬ人もある、というのは、現代にも通用する名言で、あらゆる芸術一般についていえることだろう。特に近ごろはその傾向が強く、知識がすべてと信じている人たちは少なくない。」
「たしかに知識はあるに越したことはないけれども、能を見ている最中は能に没頭しなければ何物もつかめない。」
「ここで「目きき」といっているのは、能にまつわる型とか約束事に通暁している人々のことである。世阿弥のころにはもっと自由でゆるやかであったものが、時代を経るとともに何十倍にも殖え、茶道と同じように洗練を重ねるとともに、型でがんじがらめとなり、身動きができなくなった。」
「古典芸能に型が大切なことは今さらいうまでもないが、あくまでも人間の便宜のためにあるので、型を正確に守ることだけが、能を知ることにはなるまい。」
「型だけのことをいうなら、一糸乱れず、完璧に舞う能楽師は何人かいる。彼らは達人の域に達しているが、見た目に美しいだけで何の感動も与えない。」

〜まだまだ引用したいところもありますが、これぐらいにしておきます。
ここで白洲さんの文章から読みとれることは、型や約束事ももちろん大事であるけれど、それに縛られて本質を見失うのは本末転倒であるということだろうと解釈しました。
能をピアノ、能楽師をピアニスト、型を楽譜や解釈におきかえたら、そのまま現代の演奏がはらむ問題に通底し、違和感なく浮かび上がってくるあたり、どの世界も同じなんだなぁと思うわけです。

観阿弥・世阿弥が生きた室町のころから、すでにものの本質を見失い、芸の向上と洗練ばかりに気を取られて大切なものを見失い、技術というわかりやすいものへ人は流れていたのかと思うと、要するに知識や技巧というものは、己の名を挙げるために示しやすい最短ルートということなんでしょうか。
技術や型を完璧にこなせるということは、わかりやすい根拠となり、一定の基準を満たすことで評価の目的が絞りやすいのでしょう。
その点、深い教養の中からものの本質をつかみ、自由で闊達さを失わずに本分を極めることは、まず他者と競うという目的とはそぐわないし、わかる人だけにわかればよいという高尚で無欲な精神の世界だから、曖昧で、主観的で、審美の目を前提とする。

これでは評価は分かれ、時間がかかり、回り道、寄り道、無駄や失敗をものともしない道であるから、とても今の競争社会のスピードにはそぐわない。

しかし芸術に触れるよろこびとは、天才や真の理解者だけが神に近い領域から持ち帰ったものを示してくれること、その尋常ならぬ感性によって選びとられ、濾過された貴重なしずくの滴りを、下界の凡人が口を開けて待っているようなものだと思います。

ピアノでいうと、最大の罪作りと思われるのは、ピアニストをがんじがらめにしておいて、その罪にも問われずますます拡大していくコンクール主義。
しかも近年のそれは、悪しき方向へといよいよアップグレードされており、コンクールそのもの、コンテスタント、審査員らの権威、ピアノ会社、音楽事務所、メディアなどが寄り集まる総合競技の様相を呈しているといっても言い過ぎではない。

中には必ずしも賛同はしないけれど、現実的にその洗礼を受けないことにはステージチャンスもないということで、やむなく受容する向きも多いようで、コンクールのドキュメントなどを見ていると、ああいうものに勝ち抜いていける人は、まぎれもないアスリート。
たいへんタフで、たいへん有能で、その事自体は大したものとは思うけれど、それは凡俗の勝者であって、芸術家には見えません。

では、芸術原理主義のようなものにしがみついて、ゴッホのような悲惨な生涯を送ることがいいと言いたいわけではありませんが、そこに一定の良識の働きとか、程よさというのは保てないものかと思います。
すくなくとも今のピアニストの演奏は、音楽として聴いた場合、優秀なアナウンサーの完璧な原稿読み上げ術のようで、音楽のようで音楽ではない、何か別のものを聞かされているような後味が残ります。
これをフェイクというのかどうかわかりませんが、聴いていて心が素直な感動や喜びに満たされないのは、やはり根本的な何かが間違っているような気がします。

文化芸術の在り方というものは、常にこういう問題がついてまわり、よくよく難しいもののようです。
世阿弥が呈した問題は、700年経った今も生き延びて、解決に至らず、いよいよ増殖を繰り返しているということかもしれません。
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初期のCF

クラシック倶楽部、アン・セット・シス・ピアノ・デュオ(山中惇史/高橋優介)。
2022年6月、北海道の北見市民会館での収録から。

ピアノは2台とも旧型のヤマハでした。
とくに第一ピアノはかなり年季の入ったピアノで、足もとはダブルキャスターでもなく、腕木の形状が後年とは若干異なる点から、おそらく1970年代頃の初期のCFだろうと思われ、それが逆に興味を掻き立てられました。

CFはその後CF2、CF3、CF3Sといった具合に改良が重ねられ、CFXへと繋がっていくわけですが、その過程ですべてが良くなったのか?というと、そこは素人には軽々な断定はできません。
ただ聴く立場でいうと功罪両面ありそうな印象もあって、個人的には初期のころのCFに、無骨だがつくり手の真っ直ぐな意気込みや謙虚さみたいなものを感じるところがあり、そんな実直なCFが嫌いではありません。

華やかさや洗練という点では降年のモデルのほうが分があるとしても、楽器としての深みやポテンシャル、さらに性能をギリギリまで使い切らない余裕という点では、この初期型CFのほうが上を行って(いるような気がする)し、化学調味料を使わない基本に忠実な料理のホッとする味のようなところにも好感を覚えます。

今回の2台ピアノでも、より古いCFのほうが低音などは迫力があり、ブォッと震えんばかりの厚みのある鳴り方をするのがわかる瞬間がありました。
低音がただパワフルに鳴ればいいという単純な話でもありませんが、そこに楽器の基礎体力のようなものを感じることも事実です。
低音のパワーでいうと、スタインウェイでさえ時代とともにだんだんに痩せてきて、よりクリアでヴィヴィッドな、効率的な音作りに向いていったように思います。

初代CFは、リヒテルがヤマハを愛用するようになって脚光を浴び、多くのコンサートや録音に最も使われた時代のピアノでもあります。しかしホロヴィッツが決して新しいスタインウェイを弾かなかったように、リヒテルも現代のCFXだったら喜んで弾くだろうか?…そんなことを考えてしまいます。

往々にして言えることは、昔のピアノ(の丁寧に作られたもの)は深いところから鳴るけれど、それでいて必要以上にピアノが前に出てくることはなく、あくまでもピアニストが主役、ピアノは一歩控えることを忘れません。楽器としてのわきまえというか慎みみたいなものがあったように思いますが、そういう奥まった価値は、なんでも表面的な効果が求められる時代にはもはや意味を成さない気もします。

本当に強い人間は、その強さをひけらかすことはしないけれど、そうでもない人に限ってやけに自己主張が強かったりするのと似ているかもしれません。

今回のヤマハで感じたことは、2台に共通して音の立ち上がりがよく明快で、そこが魅力のひとつだろうと思いましたが、少し残念なのは全体に音がベチャッとつぶれて聞こえ、ともするとカオスになってしまうところでしょうか?

それでも、古いCFにはヤマハのまっすぐな魅力も詰まっていると感じたことは事実です。
この文章を書いていて突然思い出したのですが、もうずいぶん前のこと、当時交流のあったピアニストがリサイタルをするにあたり、訳あって普段クラシックのコンサートではまず使われることのないホールでの開催となりましたが、そこにこの時代のCFがあって、状態も必ずしも好ましいとは言い難いピアノのようでした。
それをコンサートがお得意の技術者さんが、前日から入って短期集中的に調整したところ、望外の好ましいピアノとなり、力強い演奏にもまったく破綻を見せない、骨太のしっかり感があふれていました。

現代の機能性の高いピアノもすばらしいけれど、その逆の、古き良さにも捨てがたいものがあります。
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共通化-追記

蛇足ながら…

従来のニューヨーク・スタインウェイの外観デザインは、時代をさかのぼるほど繊細で装飾的なラインが重ねられた独特な味わいと風格があり、まさにニューヨークの歴史的な建築や景観にも通じる美しさがありました。

勝手な連想かもしれませんが、フランク・ロイド・ライトの世界にも通じるような、気品に満ちたアメリカの(しかも繊細な)造形美を感じないではいられないもの。
それが今回の変更にあたって完全消去され、ピアノにおけるニューヨーク流の意匠や様式を失ったことは甚だ残念で、時代と割り切るしかないのでしょうが、なかなか簡単には割り切れません。

複数の技術者さんから伺った話では、このところスタインウェイをとりまく状況もずいぶんと変化があり、わけても修理をする側にとってはかなり深刻な事態に陥っていると、口をそろえてみなさん言われます。
特筆すべきは、消耗品や中古補修のための純正パーツ類の入手が極めて困難となっているそうで、これは古いピアノが蘇る修理をさせないようメーカーがパーツ供給の元栓を閉めたという意味でしょう。
どうしても入手したい場合は、しかるべきルートを通じ、手続きに則って言い値で入手するしかないとか。

メーカーには以前から『スタインウェイ最大のライバルは、他社ではなく、中古スタインウェイである』という認識があり、これはわからなくはありませんが、だからといって古い個体を生きながらえさせるためのパーツの供給を断つことは、ビジネス理論としては正論だとしても、楽器メーカーのやり方としては疑問を感じます。
古いピアノにはそんな冷淡な態度をとりながら、一方で新品価格は容赦なく値上げされている現実にも、ヒリヒリするような厳しさを感じます。

では新品の品質はそれだけ素晴らしいのか?といえば、大いに疑問ありで、そもそも米独共通化の目指すものはコストダウンという面もあるように思われます。

聞いた話でついで言うと、近年最大のマーケットであり、一時はあちらで製造までされているのでは?というようなウワサまであった中国ですが、現在は状況が一変のようです。
人々がピアノから一斉に離れてしまい、当然ピアノビジネスは直撃を受け、パッタリ売れなくなってしまったのだそうで、そのあまりの急激な変化には、ただただ驚かされます。

ネットニュースによれば、政府指導部の決定で、芸術分野優秀者への進学に関する優遇措置が、小中高大学において段階的に廃止されたらしく、それで蜘蛛の子を散らしたように人々がピアノから離れてしまうという、いかにもあの国らしい現象。
まさに鶴の一声で世の中がひっくり返るお国なんだということがはっきりわかります。
一時は飛ぶように売れていた日本の人気ブランドでさえ、現在は値下げしても見向きもされないようで、本当に予測のつかない高リスクのマーケットのようです。

スタインウェイにおけるニューヨーク/ハンブルクの共通化には、そんな事情も絡んでいるのかいないのか、そのあたりはわかりませんが、どうしても関連付けて考えてしまいます。
ちなみに、ドイツもGDPで日本を抜いたというニュースが駆け巡っていますが、実際は極右政党が出てくるほど景気の不安が広がり、その一因が主要輸出品目である自動車などの中国市場での大幅な販売減だとも言われており、まだまだ当分はあの国によって世界は振り回されるのでしょうね。

自動車といえば、こちらはかなり前から世界各地に生産拠点が分散され、ドイツの☓☓☓といっても、生産国は南アフリカだった!などということは珍しくなく、割り振られた番号や記号などから、ようやく生産国を知ることができるようになっています。
製品には生産国の表示義務があると聞きますが、クルマの場合どこにもMade in ☓☓☓といった表記はないし、日本車もわざわざ「日本製」とは書いていませんよね(たぶん)。

ベヒシュタインはドイツ製を謳っていますが、近年はチェコとの国境近くに工場があって、一部か全員かはしらないけれど、多くのチェコの労働者が作業しているというような話を聞いたこともあり、ベヒシュタインの廉価ブランドのホフマンがペトロフで作られているということからしても、なるほどなぁ…と思ったり。
いつの日か、スタインウェイもどこ製か伏せらてわからなくなる日がくるのかも?といった想像さえしてしまうこの頃です。
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