ハノンが嫌いな理由

ピアノを楽器マニア的な側面からとらえると、通常の人にはないであろうバカバカしい、しかし大真面目な悩みなどが出てくるものです。
楽器と名のつくものは弾かれることで、さらによく鳴るように育っていくということは常識ですが、マニアはその一面ばかりを喜んでいるわけにもいかなかったりします。

弾けば弾いただけ、消耗品は文字通り消耗することも事実で、これはクルマが走るだけタイヤは減り、ダンパーやブッシュ類はヘタり、機械も傷んでいくのと同じです。
さらにその消耗はというと、常に全音域にわたって好ましく使いこなせるならともかく、いいとこ中級者レベルの弾き手では、低音域と高音域は弾かれる機会はかなり少ないのが現実。
つまり中音域の4〜5オクターブのあたりばかりが常用され、両端の音域は音を出すこともめったになく、そのぶんハンマーの摩耗にも偏りが現れます。

数少ない楽器好きな知人は、いちおう自身の練習もしてはいるものの「ハノンなどやりたくない」と言いますが、その理由が普通とはかなり異なっています。
ハノンが嫌われる一般的な理由は、退屈で、機械的な指訓練に辟易するというようなものですが、この人の場合は「ハノンは特定の音域の、しかも白鍵ばかり使うからハンマーの消耗が(とくに黒鍵と)均等ではなくなるのが気になってイヤだ」というわけで、実は私もまったく同感なのです。
だからといって、ハノンを全音域で、しかも半音階でやっていくわけにもいきません。

楽器マニアというのは、ピアノを道具として割り切ることができないから、ピアニストの弾き方ひとつでもピアノが傷みそうな演奏をする人は、それだけで体質的に好きになれないものがあります。
曲も同様で、シューベルトの魔王などは曲の好みはさておいて、あの終始続く激しいオクターブ連打が気になって仕方ないのです。

いつだったか、NHKの日本人作曲家によるピアノ特集のような番組の中で、2台ピアノとオーケストラの作品が採り上げられ、作曲者名などすっかり忘れましたが、なんと二人のピアニストは開始早々から特定の音だけを執拗に連打し続けるというものでした。
こういうものを見せられると拒絶反応ばかり湧き上がって、作品や演奏を楽しむどころではなく、楽器を傷めているようで、それに使われた2台のスタインウェイが気になって仕方ありませんでした。
仮にお店のショールームでこんな弾き方をしたら、間違いなく追い出されてしまうでしょう。

まあこれは極端としても、自分のピアノが他者に弾かれる場合も演奏の巧拙ではなく、ハンマーに過度な負担のかかるようなタッチを平気でする人には、口には出さないまでも「やめてー!」と心のなかで思ったりしています。

試弾は使用になる?

ピアノの劣化、あるいはパーツの消耗という点でいうと、クルマや電気製品などに比べたら、そのスピードは(使用頻度による差もある)はるかにゆるやかとは思いますが、それでも弾けば確実に消耗することも事実でしょう。

ピアノ店では、展示されているピアノは、お店の許可を得れば基本的にどれも試弾可能で、仮に一台の新品ピアノが数ヶ月から年単位で展示されたとしたら、その間にどれだけの人がどんな弾き方で試弾するのかわかりません。

どこかのタイミングでもし買い手が現れたとき、よほどの長期在庫品でもない限り、それは「新品」として扱われ、販売され、買う側もとくにその点を気にすることはないようです…今のところ。

しかしこれは、ピアノなど一部の商品に限った話で、クルマなどはひとたび試乗車として下ろしたら、その瞬間から「中古車」となり、価格もそれに見合ったものになるのが当たり前です。
もっとすごいのは家電などで、プラグを一度でもコンセントに差し込んで通電してしまうと、お店はもう新品として販売できなくなるのだそうで、新品というものはかくも厳しい条件を課されているのか!と驚いたものです。
これに比べたらピアノの新品の条件はゆるゆるです。

新品好きな日本人はとりわけ厳しいものがあるようで、どうかすると外箱のダンボールの傷みさえ嫌ったりしますが、そんな日本人でさえ、ピアノに関してはずいぶんと鷹揚だなあと思います。
ピアノにもし、クルマや家電のような新品の基準があったたなら、新品はほとんど存在しなくなるかもしれません。

クルマにはオドメーターがあるので、製造時から何キロ走行したかは一目瞭然です。
もし500kmでも走ったクルマを新車として販売しようものなら、それは裁判沙汰になるような事ですが、ピアノで同等の使用があってもまったく問題とはならない。
これは実用の点からもまったく問題ではないことが一番大きいし、そもそもどれだけ弾かれたなんて確かめようもないからでしょう。

仮にピアノの88鍵にそれぞれカウンターがあり、受けた全入力を記録することができるなら、人はそれを気にするようになり、弾かれた量が少ないほうが好まれるという実勢がうまれるかも。

幸い、今はまだそんなことにはなっていませんが、こんなくだらないことを考えるのも、時代の急激な変化によって、従来当たり前とされていたことが、ある日を境に許されない行為になったりすることが多いので、ついあれこれ想像を巡らせてしまいます。
ピアノという楽器の性質上、新品の試弾が全面禁止ということはないとしても、きわめて限られた時間とか、店側の監視つきとか、あれこれの条件がついて、少なくともお気の済むまでというわけには行かない制限は、今どきの新しい価値観に直面したとき、起こっても不思議じゃない気がします。

晩年のポリーニ

1990年頃をすぎたあたりからか、向かうところ敵なし、鉄壁の歩みを続けていたポリーニの演奏に、少しずつ小さな傷や乱れが入るようになり、21世紀になるとそれはより顕著になったように思います。

はじめに「あれ?」と思ったのは、アバドの指揮で二度目のベートヴェンのピアノ協奏曲全曲が出たときで、それまでのポリーニには当たり前だった、張りつめた集中力や攻め込みのようなものが薄くなり、全体にひとまわり筋肉が落ちたような印象をもったときからでした。
人間ですから肉体的に衰えるのは当然ですが、それに代わる内的円熟の兆しのようなものが見当たらないことが、よけいそれを際立たせた気がします。

年を追うごとに焦るような咳き込むようなところが目立ちはじめ、お得意の構造感は少しずつ形が崩れていきました。
30〜40代で見せたあの孤高の完成度と、それを支える信じ難いピアニズムの融合を知る者にとって、それは口に出すのも憚られるような深刻さがありました。
巷の論評には、円熟期に入ったポリーニの新しい境地であるというような修辞も見受けられたけれど、私にはかなり苦しいこじつけのようにしか思えなかった。

晩年はショパンのノクターンのような作品においても、かつてのように一音たりとも忽せにはしない冷徹に統御された演奏ではなく、思いがけないところで意味不明のフォルテが飛び出したり、あるいは急にテンポが変わるような弾き方になるなど、かなりの戸惑いもありました。

先日、Eテレのクラシック音楽館で放映された特集でも、2002年のバルトーク1番(ブーレーズ指揮)などはその徴候がすこし出ているし、最後に置かれたベートーヴェン、2019年お気に入りのヘラクレスザールで演奏したop.111の第2楽章などは、曲のもつ深遠なものと演奏がまるで噛み合っていないようにしか思えませんでした。
ふと思い出したのが19歳のポリーニで、数十年にわたる栄光の旅の果てに、そこへ戻ってきたのかもしれません。

ポリーニの演奏の変化を「視覚」として捉えることができたのは椅子の高さでした。
若いころは、普通のコンサートベンチでも座面が高すぎ、彼が使う椅子はいつも足が数センチ切り落とされた、異様なほど低いものでしたが、年月とともにその座面が上がっていきました。
後年は必ずと言っていいほどピアノはファブリーニのスタインウェイ、椅子はランザーニ社の赤いラインの入ったベンチでしたが、その座面はパンタグラフの骨組みが露出するほど高く上げて弾くようになってしまったのは、見ていて悲しくなる変化でした。

とはいえ、ポリーニがとてつもない空前のピアニストであったことは誰がなんと言おうと間違いありません。
コンサートでは毎回熱狂の渦で、なかなかアンコールには応じないものの、やむを得ず、ついにピアノの前に座ったら、いきなりショパンのバラードの第1番だったりと、帰り道は全身から湯気が立つような、そんな経験をさせてくれる特別なピアニストでした。

「時代の寵児」という言葉がありますが、ポリーニは自ら時代を作った人だったと思います。
その黄金期は思ったよりは短かったけれど。

初期のポリーニ

ポリーニの死去を機に、NHKでは1976年の来日公演からブラームスの協奏曲第一番がまず放送され、続いてクラシック音楽館の後半では初来日からの近年までの特集などが組まれました。
またYouTubeでも、これまで見なかった動画や音源が増えている気がします。

ポリーニといえば1960年のショパンコンクール優勝と、そこからさらなる研鑽のため約10年間公の場から遠ざかっていたことが必ずと言っていいほど語られますが、以前、何かでポリーニ自身の言葉として読んだことがあり、10年間公開演奏をしなかったというのは間違いとのことでした。
ピアノ以外のことも学びながら、それなりの演奏会(協奏曲を含む)はやっていたそうで「巷間伝わっているような10年間ではなかった」とはっきり語っていたのを覚えています。

私の手許にも、この時期に演奏した海賊版CDが数枚あるので、本人の言うとおりなのだろうと思います。
コンクール優勝時は19歳という年齢でもあり、少なくとも学業はじめ様々な学びの期間がしばらく続いていたことも事実でしょうから、そのような時を通常より長めに過ごしたのち、いよいよ国際舞台に出てきたんだろうと思います。

ショパンコンクール出場時のポリーニの演奏音源は、彼の名声のわりにこれまで少なく、ポロネーズの5番などは後年のポリーニとはかなり違っていて、まだ青い果実のようでした。
その他の演奏が(彼の死と関係があるのかどうかわからないけれど)かなりまとまった量ネットに出ていましたが、テクニックは際立っているものの、その音楽表現は19歳相応の学生っぽい感じが残っており、オファーのあるままに忙しくステージを駆け回っていたとしたら、果たしてあれほどの名声が得られたかどうか少し疑問に感じたりもしました。

なにしろ音楽の世界は早熟で、十代の中頃にして老成した演奏を聴かせる天才がいることを考えると、その面で19歳のポリーニはさほど天才的とは言い難いような印象でした。
そのことは本人も自覚していたのか、あるいは周りの賢明な判断だったのかはわかりませんが、この期間あってこそポリーニは若者から成熟した大人へと変貌を遂げ、そこからが私達がよく知るあのポリーニなんだろう…という気がします。

ダイヤは磨きとカットが命、ピアノは入念な出荷調整がその後を決定すると言われるように、19歳のポリーニはまだ磨かれる前の原石であったのかもしれません。

その研磨作業が完了したとき、満を持してペトルーシュカやショパンのエチュードがリリースされて世界は驚愕し、以降泣く子も黙るポリーニの快進撃となったことを考えると、ポリーニの魅力には幼さはあってはならないもので、だから彼が大人になるまで待つ必要があった10年間だったとも言えそうです。

ポリーニ思い出

2024年3月23日、ポリーニが亡くなったそうです。
20世紀後半、間違いなく、ピアニスト史に新たな水準を切り拓いた大ピアニストでした。

初来日のリサイタルは福岡でも行われましたが、当時ポリーニはまだ無名に近く、今のように海外の情報がリアルタイムで飛び交う時代でもないから、会場が明治生命ホールという小さなホールだったことは、その後の彼の輝かしいキャリアからすれば信じられない気がします。

シューベルトのさすらい人や、ショパンの24の前奏曲を弾きましたが、その圧倒的な演奏は子供だった私でさえ度肝を向かれるもので、それまでの大ピアニスト達の存在が一気に霞んでいくかのようでした。
当時のポリーニを初めて聴いた人の中には「食事が喉を通らなかった」「しばらくピアノに触れることもいやになった」といわしめるほどの強烈なもので、人生上の忘れがたい衝撃体験となってしまったのです。

その信じ難いテクニックと完成度の高い仕上がり、筋肉的なフォルテ、シルクのようなピアニッシモ、それでいて音色の美しさと全体にみなぎる格調高さなど、幾つもの要件を兼ね備えたポリーニは、たちまち既存のピアノ演奏の水準を書き換えました。
その後も、東京大阪など幾度となくポリーニの演奏会には行きましたが、ピアノはこれ以上ないほど充実して鳴り響き、まさに世界記録保持者の演奏現場に立ち会っているような、そんな独特な興奮を伴うものでした。

初来日は1974年だったと思いますが、それからのおよそ十数年間の演奏こそ、私はポリーニの絶頂期だったように思います。

もちろんリリースされるレコードはすべて買って、かたっぱしから聴き入りました。
ポリーニには事あるごとに「完璧」という言葉が使われましたが、その演奏はまさに建築か美術作品のようで、ピアノという枠には収まりきれないような強烈で圧倒的なものを撒き散らしていたように思います。
少なくともステージに居る限り、ポリーニはピアニストというより戦いに勝利するダビデのようでした。

ネットで調べると、初来日のリサイタルは東京・大阪・福岡の3ヶ所、福岡ではプログラム2でシューマンのクライスレリアーナを含むものになっていますが、実際にはさすらい人を弾いて、曲中なんども現れる下降するピアニシモのスケールに驚いたことを鮮明に覚えているので、おそらくは変更になったのだと思われます。

余談ですが、この時、最も恐れる先生から当日お達しがあって、客席から花束を渡してほしいとのこと。
この先生の言葉は、当時は断ることなど許されない事実上の命令であったので、我が家はあわてて花束を準備し、ショパンのプレリュードが終わって、いったん袖に下がったポリーニが再びステージに現れたとき、意を決して座席を立ってステージへ近づいて渡しました。

汗だくで無表情なポリーニが、ほのかな笑顔のようなそうでもないような感じで受け取ってくれましたが、握手は決してこちらから求めてはならないと母から言われていたので、それはナシで終わりましたが、今となってはいい思い出です。
翌日、空港まで見送りに行かれた先生が、ポリーニ夫妻は貴方が渡した花束を飛行機に乗る時も持っていたと仰って、後日その写真をくださいました。

ホロデンコとファツィオリ

クラシック倶楽部で、ヴァディム・ホロデンコの指揮とピアノによる演奏会の様子を視聴。
2023年12月、紀尾井ホール、東京21世紀管弦楽団で曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。

この方はウクライナ人だそうで、この2年というものウクライナと聞くだけで暗い気持ちになりますが、こうして外国で音楽活動ができている一面があるというだけでも、一瞬ホッとさせられます。
2013年のクライバーン・コンクールの覇者だけあって、確かな腕の持ち主のようで、まったくの危なげない弾きっぷり。

ただ、個人的には「弾き振り」というのは、昔からどうもあまり好きなスタイルではありません。
ピアノを弾きながら、その合間には間髪を入れず指揮のパフォーマンスに充てられるこの一人二役は、誰の場合でもせわしなく、見ていて落ち着けないものがあるのです。

ホロデンコは今回が初めての弾き振りだったようで、それだけ気合が入っていたのかもしれないけれど、演奏中ほんの僅かな隙間にも両手(あるいは片手)は宙を舞い、指揮者としての身振りとなり、それがあまりに熱が入っていることもあって、そこまでしなくちゃいけないものか?と思ってしまいます。
極端なことをいうと、ピアニストがそんなにまでしなくても、小編成のオーケストラはとくに問題もなく演奏できるはずです。

個人的には、事前に音楽的な面でしっかり打ち合わせをしておくことが「弾き振り」の大きな意味ではないのか?と思うし、本番ではピアニストはより演奏に打ち込んでもらったほうがいいのでは?と思うのです。

どのみちピアノパートがあるところでは指揮はしていないわけで、オケの団員にとって、ピアニストの指揮はどれくらい意味があるのだろう?と思うのですが、こんなことを考えるのは私だけでしょうか。

さて、この日のピアノはファツィオリで、しかも3mオーバーの最大モデルが使われていました。
弾き振りなので、オケの中にピアノを縦に突っ込み、大屋根を取り外したスタイルですが、いまさらですがこのピアノの魅力がうまく捉え切れませんでした。

私なりのファツィオリの印象としては、音色そのものに目をみはるものがあるというより、比較的ソフトな音を上質な響板によって分厚く聞かせるといったイメージでした。
馥郁とした音が、太字のペン書きのように聞こえてくるとき、少しずつこのピアノの魅力や美点を捉えている気がしたものでしたが、今回はまったく印象が異なり、それは必ずしも弾き方の問題とも思えなかったので、またも印象は迷走状態に…。

個体の問題なのか、技術者の意図による結果なのか、音は硬めでやや荒々しく、生臭い木の音がしてくるようでした。
聞くところでは、ファツィオリは常に研究や改良を怠らない会社だそうだから、これまでとはまた違った仕様の楽器だったのか、そのあたりの事情は知る由もありませんが、かなり意外な感じを受けました。

出張料?

なにかとお気の毒に感じる事が多いピアノ技術者さんですが、疑問に感じるところがないわけではありません。
それは、調律料金に「出張料」というものが加算される場合があり、私自身も数回経験したことがあり、知人からも同様の話を聞いた覚えがあります。

ただし、これはあくまで一部であって、多くの方は請求されない場合のほうが多く、その違いがどこにあるのかと思います。
印象としては、メーカーや販売店がらみの調律で出張料の別途請求が多いような印象ですが、未確認です。

出張料は、文字通り人に出向いてもらう際に生じる料金ということでしょうが、私見ですが、ユーザー自身がその気になれば依頼する対象物を相手側に持ち込むことができるけれど、それを選択的に技術側に来てもらう場合などに発生する料金ではないのか?〜と思うのです。
しかし、ピアノは使い手が技術者のところへ持ち込むなど到底不可能だから、依頼者側にその点での選択肢は絶無です。
ここが、ケースに入れて持ち運びできる楽器と、決定的に、かつ宿命的に違うところ。

よってピアノ技術者さんのお仕事は、ピアノのある場所へ移動することが当たり前で、それをひっくるめての仕事だと思うのです。

もちろんお気に入りの技術者さんを、自分のこだわりで遠方から呼ぶ場合などは、応分の交通費などを負担するのはその限りではありませんが、普通に移動できるエリア内にもかかわらず、一律に出張料を上乗せするのは納得しかねるところ。
金額の問題もさることながら、気分的に納得感が得られず、あとにも疑問が残ります。

要するに、調律依頼とは技術者さんの移動なしにははじまらないもので、そこへ出張料を別途請求するのはセンスとしても考え方としても同意しかねるのです。
考えてみれば家の修理でも、庭木の手入れでも、WiFiの工事でも、そこにいちいち出張費用などという慣習はありませんよね。
もしかすると一部あるのかもしれませんが、少なくとも私は経験したことがない。

むろん移動距離の限度というものはあるだろうから、それは一定の基準を設ければいいことですが、少なくとも距離に関係なく、訪問=出張料発生では、それだけで首を傾げ、またお願いしようという親密感も生まれにくい。

要は事実上の値上げだろうとも思われるので、例えば15,000円の調律料だとすると、消費税込みで16,500円、それに出張料3,000円というようになるなら、いっそシンプルに20,000円と云われたほうが、私はまだサッパリします。

ただし、フリーでやっておられる技術者さんなどの多くは、従来通りのスタイルが多数派で、出張料などと言われることはありませんので、この点は念のため付け加えておきます。

無知と悪習

他の楽器はともかく、ピアノに「メンテ」という言葉はあまり馴染みがありません。
「調律」という言葉がそれに代わるものとして、あいまいな概念として通用しているだけです。

そもそも、ピアノは楽器というより、音階の出る大型装置のように捉えられているフシがないでしょうか?
数人がかりでないとちょっと動かすこともできないサイズと重量があり、このあたりも手入れを必要とする繊細な楽器という意識が抱きにくいのかもしれず、それはイメージとしてわからないではありません。

しかし、少しでも、ピアノのことを深く知ろうとすれば、それが間違いであることは明らかで、音色やタッチは僅かな感興の変化でも変わってくるし、それを知ることはそう難しいことではありません。
しかし、ピアノに限っては、そういう部分が見過ごされ、理解されないまま放置されるのが一般的。

音楽に限らず、何かを学び始める際、使う道具の手入れも同時に学んでいくの通常は当たり前ですが、なぜかピアノにそれはなく、私が知るかぎりでも、ピアノを弾くことはかなり好きな方でも、楽器にはほとんど注意を払わず、無関心に近いものを感じます。
せいぜいメーカー名と、アップライトかグランドかという違いぐらい。

音楽する人間は、楽器の健康にも敏感であることが不可欠であるのに、ピアノの場合、まず先生といわれる人達が使いっぱなしの代表格で、教室のピアノの酷さときたら、ピアノにうるさくない人の口からも不満が聞こえてくるほど。
これでは、生徒が楽器を慈しむような心が育つはずもありません。

とくに悪質なのは、お弟子さんをたくさん抱える有名な先生などになると、生徒のピアノ購入などにもかかわったりするためか楽器店が頭が上がらないのをいいことに、中には自分のピアノに関することはすべてサービス扱いが当たり前のように思っている先生もおられる由で、ある修理が終わって請求書をわたそうとしたところ、「えっ、私に請求するの?」と真顔で云われた…というようなウソみたいな話があったりします。
こうなると「請求を取り下げる」か「出入り禁止になるか」のどちらかでしょう。

さらには楽器店の人材は、発表会やコンサートになると、土日などがお構いなしに準備から片づけまでフルに駆り出されるのは普通で、私はこういう光景を目にするだけでも内心では憤慨します。
今風にいえばパワハラかイジメの類だろうと思いますが、こういう悪習は脈々と受け継がれて、なかなか正されません。

近年はやれ人の権利やブラックな環境が厳しく問題にされる時代ですから、こういうことも昔からの慣習とも決別し、毅然として相応の対価を求めるべきでは?
大手の楽器メーカーが共同戦線を張れば、可能だと思うのですが…。

メンテ料

ピアノユーザーが技術者さんに依頼するピアノの主たるメンテは、一般に「調律」のことであり、この言葉にすべてが集約されている印象です。

しかし、実際に必要なことは調律・整調・整音という基本的な作業項目があり、それ以外の調整や修理なども必要に応じて行う必要が大いにありますが、ピアノという楽器固有の不思議というか、慣習なのか何なのか、概して調律さえやっていればいいというのが一般認識のようです。

さらに不思議なことは、上記の3つの中で、まともに料金として請求できるのは調律だけで、整調・整音は調律の際のついでのサービス作業が当然のように捉えられており、まるで車の整備に出した際に洗車してもらうようなもので?
よって、これを単独で料金請求しようものなら、お客さんはぼったくられたかの如くに感じてしまうかもしれません。

私が思うところでは、家庭のピアノで最も大事というか、技術者さんに来ていただいたからには、なにより集中的に取り組んで欲しいと思うところは整調で、ちょっと極端な言い方をすれば、その仕上げに調律もやってもらうというぐらいな感覚です。
弾きやすいタッチ、思いのまま手になじむタッチは、日ごろ接するピアノはなにより重要と思うからです。

技術者は専門的な修行を積んで、その技術によって対価を得る技術のプロであり、整調であれ整音であれ、いずれもれっきと仕事であるし、整調を徹底的になるとなると、これが最も時間を要することでですが、それらの重要性はほとんど無視されているのが現実でしょう。
結局は調律をして、それ以外のことは手早く済ませて切り上げる、あるいは調律以外は露骨に何もしないという人もおいでだとか。
技術者としてそういうスタンスはどうかという意見もあろうかと思いますが、対価を得られない仕事をそうそうやってられるか!という言い分もあるわけで、やはり技術に見合った、正当な料金体系というものが必要だろうと思います。
すでに固定化したユーザーの「調律」への認識を変えていくのは難しいでしょうが。
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