同曲異奏

BSのクラシック倶楽部では、内容がしばしば再放送となることがあります。
CDならば繰り返し聴くけれど、録画のほとんどは消してしまうので、この再放送はちょうどよい感じの「もう一度視聴してみる機会」となっています。

過日は、小林愛実さんとリシャール=アムランさんのショパンが立て続けに再放送されました。
両者ともにショパン・コンクールの上位入賞者ですが、今回は偶然なのか2日連続でおふたりの24のプレリュードを聴けたのは興味深い比較となりました。

小林さんは先のショパン・コンクールでもこの作品を弾かれていますが、今回の演奏はコンクール直前に日本で収録されたもので、ほぼ同じような演奏だと感じました。

隅々までよく仕上げられていることは痛いほど伝わりますが、それは「磨き上げられた」というよりは「徹底したコンクール対策」というほうが強く前に出た印象でした。
チリひとつなく、張りつめたような緊張感、すべてがコントロールされているのはすごいなとは思うものの、聴いている側も息がつまってクタクタに疲れます。
なんとしても上位入賞を果たすという強烈な意気込みというか、日本的な精神芸を見せられるようでした。

コンクール終了後の総括として、優れていた演奏のひとつに彼女のプレリュードが入っていたことは驚きで、こういう演奏が今のショパン・コンクールでは評価されるのか?と驚いたし、反田氏も「彼女のプレリュードは素晴らしかったと思う」とわざわざ言っていたことなど、個人的には目を白黒させられるばかり。

翌日のリシャール=アムランは、見事なまでにすべてが違っていました。
全体にも、細部にも、ほどよい情感とバランス感覚がなめらかに行き渡っており、とにかく自然で安定感があるし、それでいて注意深くショパンの世界は尊重され守られいるのは、さすがでした。
ピアニストが作品を通じて呼吸しているとき、演奏は心地よい音楽となり聞くものを悦びに誘われます。

私見ですが、このop.28は各曲が独立したかたちにはなっているけれど、全体を一つの作品としてとらえることが通例化し、多くのピアニストがそういうアプローチをしているよう感じます。
各曲は見えない糸で繋がった、ショパンの音の回廊のような作品だから、各曲とその間合いをどう取り扱うかは演奏者の任意に委ねられていると感じます。

小林さんの場合、その間合いがあまりに長いため、次の曲との関係性や呼吸感が切れてしまいます。
一曲一曲、一音一音を大切にするあまりか、息を止めんばかりの集中は、どうしても重くなり、丁寧な演奏とはこういうことなのか?と考えさせられてしまいます。

小林愛実さんという才能あふれるピアニストは、以前はもっと天真爛漫に元気よく弾かれていたように思いますが、現在のそれはまるで別人の振る舞いのように感じることがあります。
ご本人の成長と円熟によるものかもしれないけれど、どこか演出され制御された感じが拭えず、私は音楽はもうすこし本音で語ってほしいなと思うタイプなので、建前はもう結構ですから「ぶっちゃけ」でしゃべってくださいと言いたくなります。

ピンの根元

チューニングピンを磨いてみたら、意外にきれいになったことで味をしめ「だったらここも…」と欲が出て、その下のフレーム部分のホコリなどをもう少しきれいにしたくなりました。

しかし、ピンの付け根付近は「掃除不可」といわんばかりに弦が整然と張られており、そのわずか数ミリ下をかいくぐるようにして積もったホコリを取り除くのは相当な難題です。
おまけにフレームと弦の間は数ミリと非常に狭く、道具類を差し込む余地がないから、見れば見るほど心が折れそうになります。

除去したい汚れやホコリはすぐ目の前だというのに、弦が立ちはだかって手出しができないのは、もどかしいと言ったらありません。

その難易度はピン磨きどころではないし、無理をして万が一にも弦に損傷を与えるわけにもゆかず、古典的な方法ではあるけれど、綿棒を使ってみることに。

さっそくダイソーに行って、「普通サイズ」とさらに細い「赤ちゃん用」という二種類を購入。

作業をはじめたものの、思った以上に現場は複雑ではかどらず、作業は遅々として進みません。
進まない理由のひとつは、綿棒は思ったよりも先端の接地面積が小さく、なかなか面として広がらないから細いサインペンをコチョコチョ動かしているようなもの。

あたかもファイリングされたハンマーのようで、先はごくわずかしか当たらず、こんなことをやっていても埒があかないし、仕上がりも好ましいものにはなりそうにない。
そこで、包丁用の砥石に綿棒の先端を当ててこすって、先端をほぐし、細字から太字ぐらいに拡大したらいくらかマシになりました。

しかも弦の下は普通の綿棒では入らないので、ここでは細い赤ちゃん用がずいぶん役立ちました。

あまり根を詰めると腰や肩がやられそうで、少しずつ数日にわけての作業となりました。
とくに満足というほどでもなく、別の方法も考えみようと思っていましたが、良いアイデアも浮かばないし、日が経つとだんだん面倒くさくなりました。

いやはや…ピアノの内部掃除は大変です。

ロゴ

以前、May4569さんからいただいたコメントの中に、ピアノメーカーのロゴと音の関係に触れておられましたが、たしかにそうだな…と思いました。
人は「名前のような人間になる」というのをむかし聞いた覚えがありますが、ピアノもそうかもしれません。

たしかにスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ヤマハ、ブリュートナーなど、多くのピアノではロゴがなんとはなしにその音や楽器の性格まで表しているように感じます。

中には、伝統的な美しいロゴが変更されて、味気ないものになったりすることもあり、非常に残念に思うことも。

昔のグロトリアンは、ほれぼれするほど美しいロゴだったものが、諸事情から変更になったことは仕方ないにしても、それがただ活字を並べただけの無味乾燥なものになっているのは、ピアノが素晴らしいだけに理解できないものがあります。

ブリュートナーも伝統の流麗な筆記体のものがあると思えば、ただの平凡なフォントのものもあるのは、いったいどういう区別なのやら、これまたよくわかりません。

スタイリッシュで目を引くと仰せのファツィオリは、まさにグッドデザインでさすがはイタリアだと思いますが、音とロゴが一致しているか?となると、私にはどこかしっくりこないものが残ります。
このあたりは各人の感じ方にもよりますが、個人的にはもっとあのロゴのような音であってほしいのです。

時代を反映して個性を出さないよう配慮されているようで、まさに今どきのコンテスタントの演奏のように、だれからも幅広く受け容れられて、アンチを生まないための用心深さを感じてしまうところがもどかしく残念です。
今どきはビジネスのことまで周到かつ分析的に考えるから、まさにコンクールと同じで、まんべんなく加点が得られるよう中庸に躾られているのでしょう。
イタリア的な奔放と豪奢を期待していると、やや肩透かしを喰らうようです。

シゲルカワイはピアノの素晴らしさに対して、ロゴはどうなんでしょう。
とくにスタインウェイのライラマークの位置に、ピアノの形をした枠の中にSKの文字が嵌めこまれたアレは何なのか、まるでわからないし、それが鍵盤蓋やサイドはもちろん、なんと突上棒の途中とか、椅子、譜面台にまで入っているのは…??

ベヒシュタインは、以前は笑わないドイツ人みたいな四角四面なゴチック体で、それが一回転して個性のようになっていましたが、最近のロゴは少し細身になり、ちょっとだけ今風になったというか、頑固なお父さんより息子のほうがフレンドリーになったような感じでしょうか。

ヤマハはまさにヤマハであって、海外に行った人が帰りの空港で鶴のマークを見ると安心するそうですが、同様にあのロゴの前に座ると心が落ち着く人も多いのかもしれません。

ピアノにとってのロゴはまさに顔のようなものだから、非常に大切なものだと思います。

廉価ピアノ

このままピアノ価格が値上げを繰り返して、手に入れることが難しくなればなるほど、中古や廉価なピアノが注目される可能性は高いでしょう。

ただ、始めからロープライス目的で作られるピアノに一抹の不安を覚える人は少なくない気がして、かくいう私もその一人なのですが、その不安は中古ピアノの比ではない予感がします(あくまで予感です)。

中古ピアノは根本が良いものであれば「直す」という道があるのに対し、材質や作りそれ自体に問題がある場合、打つ手がないからです。

今や有名ブランドの高級機種でも、部分的に木材以外の素材が使われていることは周知の事実として囁かれていることです。

それは天然資源の枯渇だなんだと表向きはいわれますが、個人的にはもっぱらコストではないかと考えています。

いま、木以外の素材が使われている部分というのは、いちおう直接音には影響しない、もしくは影響の少ない部分なのだろうとは信じたいところですが、その一線が守られているかさえ確かなことはわかりません。

譜面台や足やペダルユニットが天然木でなくてもいいとなれば、生産する側は都合がいいはずです。

当節、天然資源の枯渇だ地球環境だと言えばだれも反論できないし、いかにも納得の得られやすい話のように聞こえますが、建築資材や木を必要とするあまたの製品など、そのとてつもない消費規模に比べたら、たいした数でもないピアノのパーツが作れないほど、この世の木材が枯渇しているなどとは、私にはとても思えないのです。

ただ、天然木はピアノのパーツにするまでには水分除去から木工作業など、多くの手間ひまがかかるわけで、それを別の素材でガッチャンと型にはめて作って済むのなら、比較にならないほど低コスト、しかも製品として安定したものがいくらでもできるでしょう。

では直接音に関わる部分とはなにかといえば、響板、駒、フレーム、ボディ、フェルトや弦などということになりますが、躯体部分が透明な樹脂製のピアノがあるように、要は何を使ってもいちおうピアノにはなるし、セオリー通りの構造につくればそれなりのピアノの音は「出る」わけで、欧州では化学素材の響板の試作などもされているようです。
それをおもしろいと見る向きもあるかもしれませんが、真っ当なピアノがほしいと願う人にとっては疑心暗鬼が広がって怖い話でもあります。

また、粗悪なピアノ中には、ベニア合版の上に白っぽいいかにもな杢目のシールを貼って響板として使ったピアノもあるようで、裏を返せばそれでも音や音階はいちおう出るわけだから、闇は深いといいますか…ほとんどホラーですよね。

遠くなるピアノ

ネットを何気なく見ていると、思いがけない記事に出くわすことがありますが、読むなり気分が曇っていくようなものを目にしてしまいました。

ピアノの価格に関するもので、国内産のピアノは(すべてかどうかはともかく)毎年10%!もの値上げを繰り返しているという記述があり、まったく知らなかったので、単純に、素朴に、驚きました。
GDPの成長率も思うよう伸びないのに、毎年10%アップとはおだやかではない話です。

値上げの理由はいろいろあるようですが、需要の減少、熟練工の不足、天然資材の枯渇、物価上昇、賃金の値上がり、さらには長引く円安なども絡んでいるようで、もしかすると中国市場の極端な低迷なども影響しているかもしれません。
しかも、この「毎年値上げの方針」は、当分収まる気配がないというのですから深刻です。

以前であれば、日本人にとってピアノは国内メーカーのおかげもあり、その気になればなんとか手に入れられるものでしたが、それらも近ごろではずいぶんと立派なプライスとなり、さらにこの先そのような値上げが続いたら、時が経つほど縁遠い存在になる。

もし毎年10%の値上がりが続くと、5年後には手ごろなグランドでも400〜500万円、プレミアムモデルではその遥か上を行く価格となり、10年後には1000万円を越えるものも珍しくなくなるだろうとの予測までされており、開いた口がふさがりませんでした。

フェイクが横行するネットの世界、はじめは「まさか!」と思いつつ、K社の価格改定をみると確かに全機種がほぼそうになっているし、Y社も時期や値上げ幅にはばらつきはあるものの値上げ方向であることに変わりなく、この先、ピアノは文字通り高嶺の花になってしまうのか?
将来ピアノを買う(買い換える)という目標があっても、年々ピアノのほうが空高く離れていくようで、なんたることか!と思いました。

そこにあったアドバイスのひとつは、欲しい人は一日も早く購入すべき!というもの。
長期ローンを組んだとしても、毎年10%の値上がりよりはbetterというもので、反論できないシンプルな理屈でした。
個人的には新品に未練はないけれど、中古ピアノも新品と価格連動するから相場全体が上がっていくだろうし、なんとも息苦しい時代に突入したものです。

試しに電卓を打ってみたら、毎年10%ずつ高くなると5年後には1.6倍、10年後には2.6倍で、100万円は260万円に、300万円は780万円になるとわかり、クラクラしました。

何度も聴きたいか

最近はいろいろコメントを頂いて、ありがたいやら嬉しいやら。

少し前、近ごろのピアニストついて「指がよく回って、上手だなとは思いますが、何度も聴きたいとは思わない」という意味のことを仰っていました。
これはおおいに共感するところがあり、どれほど見事な指さばきであっても、それだけでは感動的な演奏とはならず、感動の不在は演奏家として、これこそ最大の、そして「決定的に残念」なところだと思うのです。

何度も聴きたい演奏は、聴いた人の心になにか深いものを残していくもの。
聴くことで、何かが呼び起こされたり、慰められたり、悦びになったり、なんらかの精神と結び合うところに音楽を聞く意味があるように思います。

楽器用語ふうに言うと「心が共振する演奏」ということになるのでしょうか?
一度聴いたら、それで終わってしまう演奏は、強いていうなら「消費」であり、どれほど体裁は整っていても人の感覚を揺り動かすパワーはありません。

フォーレ四重奏団という素晴らしく魅力的なピアノ四重奏団がありますが、その演奏を聴いたアルゲリッチは「何度も聴きたくなる演奏」と言ったそうで、これこそが演奏家に最も求められることであり、つまり最高の賛辞なんだと思いました。

今日のコンサート現場では、まずなによりもチケットが完売になることが評価の尺度でしょう。
どれほど芸術的な素晴らしい演奏をしても、人が集まらなければ意味がないというのも、きわめて現実的な問題ということは否定しません。

だからといって、コンクールに出て、武功を上げて、メディアに数多く露出して、なにより「売れる」ことに目的が絞られ、肝心の演奏は全体の一部のようになっているのを見ていると、やはり辛いものがあります。

演奏家も有名になったらなったで、世渡りというか人気商売の海を泳がされ、俗世のことに目配りができなければ置いて行かれるし、しかも演奏もしなくちゃいけないとなると大変だろうとは思います。
真の芸術家を目指すことより、まずは自分のマネージメントや有効な企画を打っていくことが大事で、それに長けた人や組織に付いて、指示通りに動くだけでも一苦労でしょう。

そうなると、ある種ナイーブな演奏とは似て非なるものになってしまうのも、やむなきところもあるだろうことは、世情に沿って考えたらわかるような気がしました。
そりゃあ、みなさん小粒にもなりますよ。

日常の中にあるもの

頂戴するコメントの中に、フジコさんの音の美しさに関して、御母上(大月投網子さん)から受け継がれたブリュートナーのことに触れられていたのは、大いに頷けるところでした。

感性の基礎を形成する幼少期から、自宅にそのようなピアノがあったということは、かなりの影響があっただろうと思われます(いつから大月家にあったものか、正確なところはわかりませんが)。

海外の優れたピアノは、とりわけ戦前のものは音そのものが美しいだけでなく、繊細なタッチや音楽性を知らず知らずのうちに引き出してくれるから、さほど意識せずとも美しいものを慈しむ習慣が身につくだろうと思います。
演奏者のタッチや気分の変化に、ピアノが敏感に音として反応してくるのは、弦楽器のボウイングにも通じるものがあるかもしれません。

一般的に雑なタッチで弾く人は、その人が育ってきた教育環境とか、使われた楽器も無関係ではない気がします。
誰がどんな弾き方をしても、それなりに鳴ってしまうピアノを「普通のピアノ」と思ってしまうと、音色への感覚が薄れ、ひいては音楽に対するスタンスまで変わってくるはず。

昔は、多少叩くような弾き方をしてでも、難曲大曲をバンバン演奏できることが正義で、そこに秀でることに価値がありましたが、そうなってしまった原因のひとつに、使われた楽器の性質にも責任の一端があったかもしれません。

全体として、日本のピアノがとても素晴らしいことは誰もが認めるところですが、強いて弱点を挙げるとするなら、音色変化や歌心というか…表情が乏しく、曲になった時の収束感が薄い気がします。

ちなみに、戦前のブリュートナーの中には、フレームも厳かで絢爛たる装飾にあふれたモデルがあり、日々そういうピアノと接するだけでも、感性を刺激するところ大だと思います。
そんな幼少期から、波乱に満ちた数々の人生経験、孤独や絶望、そして晩年になって光が差し込んだフジコさん、だからその演奏には耳を傾けてみる値打ちがあったのだと思います。

写真は海外のサイトより一部を拝借しました

理由さまざま

フジコさんについての投稿にいくつものコメントをいただきましたが、やはりあの方には一時的な現象だけでは収まらない、継続的な人気が維持できるだけの魅力があったことを感じさせられました。

ブレーク早々、ラ・カンパネラが代表曲となり、そのCDもクラシックとしては桁違いの売れ行きであったことも話題でしたが、同業者はじめ少なくない層からの反感を買うことにもなり、言い方は不適当かもしれませんが「面白い現象だった」と思います。

コンサートでも、少なくともフジコさん登場以前に比べたら、あきらかにラ・カンパネラが多く弾かれるようになったと感じました。
もちろん、聴衆が好む曲だからという素直な動機もあったと思いますが、あきらかに「フジコのラ・カンパネラ」を意識して、ことさらにハイスピードで技巧的に弾いてみせるところに「これが本当のラ・カンパネラですよ!」というブームへの批判が透けて見えるようでした。

むろん、そんなことで怯むようなフジコさんではありませんでしたが。

フジコさんのピアノの特徴のひとつが、聴くものを誘う美しい音色だったと思います。
ご自身が語っていたところでは、「アタシの音がきれいだって言われるのは、指がこんなに太いでしょ、だからいい音がするのよ!」と両手をかざしながら言われていましたが、ただそれだけではない気がします。

フジコさんは聴覚にご不自由があったようで、そのことと関係があるのでは?と思うのです。
本能的か無意識かはわからないけれど、少しでも自分の出す音を捉えようとすることが、結果的に、通りのよい澄んだ音を生み出す誘因となったのではないか?という気がするのです…あくまで想像の域を出ませんが。

…それにしても、ラ・カンパネラがどうしてああも好まれるのか?
パガニーニによるキャッチーなメロディもあるだろうし、「ラ・カンパネラ」といういかにも華やいだ響きの名前とも無関係ではないかもしれません。
「ため息」もいいけれど、一般ウケするには「ラ・カンパネラ」のハレな感じには及ばないのでしょう。
ショパンの「幻想即興曲」も名前の力はあるはずで、即興曲第4番「幻想」ではダメだったのでは?

※写真は前回と併せて著作権フリーの画像からお借りしています。

新品とは?

少し前に書いた、「試弾は使用になる?」という疑問は自分の中にぼんやりあったのですが、大元になる経験を「そうだ、あれだった!」と突然思い出しました。

たしか5〜6年前のこと、ある輸入物の小型アップライトピアノを試弾したくて、やがてそれは岡山から東京まで広がりましたが、これという結論も出せずにいた時のことです。

ネットに関東のあるピアノ店で、同型の在庫をもっているところがありました。
そのピアノはすでに数年が経過しているらしく、その間にフェルトの色が新色に変わるなど、厳密には旧型といえるものでした。

数年間という短くはない期間、店舗に置かれていたということは、大事にされていたにしても、試弾も繰り返しされただろうし、お店の小さなコンサートなどでも使われることがあったようでした。
つまり楽器としての価値云々ではなく、商品としてみれば「旧型で長期在庫品」という事実を背負ったもので、こちらからみれば「新古品」というぐらいのイメージでした。

そういうことを踏まえて、価格などをごく普通に質問してみたつもりでしたが、返ってきたメールはえらく憤慨の様子で、およそ以下の様な主張を頂戴することに。
「そのピアノは発売された当初、自分が惚れ込んで仕入れたもので、一度も販売していない新品です!」
「入荷いらい、極めて大切に管理しており、しっかり整備もしている」
「今入ってきたものよりも熟成しており、最高の状態にあるにもかかわらず、そのようなことを聞かれたのは心外であり驚いた」
「このピアノの価値を理解される方に販売したいと考えています」というようなものでした。

驚いたのはこちらのほうで、「お気持ちを傷つけたのならお詫びします」と返信して、連絡を絶ちました。

人気のモデルで、中古も出たらすぐに売れてしまうのに、何年も買い手がつかないのはそういう訳かと苦笑いでした。
しかし、このことは結構なインパクトがあって、新品ピアノに対する定義を考えさせられるきっかけとなったのです。

入荷して一度も販売されていなければ、たとえ何年経過しても新品といえるのか?…と。

ピン磨き

新しいピアノ、あるいは弦を交換したピアノで目を引くものに、キラキラと眩しいチューニングピンがあります。
銀色に輝くピンの森は、目にも心地よいもの。

しかし、このピン周りのエリアは掃除がやっかい(というか不可能に近い)で、無数の弦が邪魔をしてなかなか手がつけられないため、どうしても汚れとホコリが年々堆積してしまいます。
そんな汚れなど、ピアノの音や本質には関係ないと言われてしまえばそうかもしれませんが、それでも、やはりきれいであることに越したことはありません。

我が家のグランドは30年ほど前のものですが、チューニングピンのキラキラする輝きはもはや失われ、全体にうっすらくすんでおり、新しいピアノのピンを見ると「わぁ…」となっていました。
そこはもうあきらめていた筈なのに、ボディをきれいにすると、どうしてもそのあたりが気になってくる。
いまさらですが、なんとかしたいという思いがついに抑えられなくなり、少しずつでも挑戦してみようという気になりました。

とはいえ、場所が場所だけにあまりヘンなことをするわけにもいきません。
クルマ磨きの経験から考えたのは、化学雑巾に某クリーナー(ココナッツオイル由来の天然成分による)をほんの少量ですが繊維にうすく染み込ませてからおそるおそる一本ずつ磨いてみることに…。

ところがピン同士の間隔が狭いため、周囲のピンがつねに指先に接触するのが邪魔だし痛いしで、作業がやりにくいといったらありません。
おまけに数が多いから(約230本?)、結構時間もかかってかなり疲れるので、休憩を挟みつつ数回に分けて磨き作業を続けたところ意外ときれいになりました。

サビや変質であればこうはいかないと思いますが、比較的順調に汚れが取り除けたということは、単純な汚れの蓄積だったのだろうと思います。
こんなことならもっと早くやればよかったと思いつつ、やり出すと、次なるターゲットが出てきてまた頭を悩ませます。

フジコ・ヘミング

2024年4月21日、フジコ・ヘミングさんが亡くなられました。
生前、年齢は公表されなかったけれど、92歳だったと知って驚きました。

このピアニストについては、擁護派と批判派が真っ二つであったことが印象的で、日本の音楽界で好みがこれほど分かれたピアニストは珍しいでしょう。
フジコさんは、ピアノだけでなく、生き様のすべてを自分の感性で染め上げた方でしたが、ツッコミどころも満載でした。

批判派の言い分もわかるところはあるけれど、普段あまり自分の意見を示さないような人まで、フジコとなると気色ばんで容赦ない口調となるのはいささか面食らったものです。
好みや感じ方だからそれも自由ですが、ならば他のピアニストに対しても、それぐらいはっきり自分の感想や意見を持ってほしいと思ったり。

なぜそんなに好みが分かれたのか。
第一には演奏のテクニック(主には指のメカニック)のことが大きいようで、ピアニストとしてステージで演奏するような腕ではないというのが主な言い分のようでした。

たったひとつのドキュメント番組によって、突如世間の注目を集めるところとなり、いらいCDもコンサートも売上は記録破りで、その人気ぶりは、一部の人達には容認できないものだったようです。

もちろんプロのピアニストにとっての技術は不可欠で、それなくしては成り立たないものですが、フジコさんのピアノはそれを承知でも聴いてみる価値があったと思うし、美しい音、とろみのある表現、さらにそこからフジコさんお好みの文化の世界が切れ目なく広がっていることを、感じる人は感じたに違いなく、私もその一人でした。

好みが分かれたもうひとつは、世間の基準に従わず、おもねらず、びくつくことなく、誰がなんと言おうと自分流を貫いて平然としているその様子が、ある種の人達には快く映らなかったのでは?

きっかけはたしかにNHKのドキュメント番組でしたが、私の見るところ、それ以降はご本人の実力でしょう。
ピアノはもとより、絵画、服飾、動物愛など、稀有な芸術家としての総合力で立ち位置を得た方だと思います。

フジコさんの手から紡がれるスローで孤独なピアノには人の体温があり、なにか心に届いてくる不思議な魅力があって、それが多くの人達に受け入れられたのだと思います。

実際の演奏会にも行ったことがありますが、たしかに技術の弱さでハラハラすることもあったけれど、同時に「美しいなぁ〜」「ピアノっていいなぁ〜」と思う部分がいくつもあり、これはなかなか得難いことだし、結果的にそんなに悪い印象は持っていません。

難曲をことも無げに弾くばかりが正義じゃないと、技術偏重の世界に一石を投じたような意義は「あった」と私は思っています。

調律の力

我が家のグランドは、これまで少々遠方から調律師の方に来ていただいていましたが、このところお呼びする暇もなく、さらにあまり弾かないことも重なって、つい間隔が空いてしまいました。
先日、気になっていた調律をようやく終えることができました。

今回は「試しに」といったら語弊があるけれど、比較的近くにお住まいのとても誠実な調律師さんがおられるので、その方にお願いすることに。
女性の方で、現在は女性のピアノ技術者さんも珍しい存在ではなくなりましたが、そうなる以前に修行を積まれた方です。

その方の師匠は地元ではかなりその名が轟いた方で、ご当人の真面目なお人柄とあいまって、しっかりと技術を積み上げておられ、これまでにも幾度かお願いしていました。
技術的にも奇抜なワザなどは一切使われない、ごまかしのない仕事をされ、まさに正攻法の調律を信条とされているようです。

その結果、今回は思わぬ発見がありました。
今回は時間の関係で整音はされず、ほとんどを丁寧な調律に費やされたのですが、その結果、ピアノは美しく整っただけでなく、予想以上に派手できらびやかな音になり、大げさにいうとホールのピアノみたいで、すっかり恐れをなしてしまうほどでした。

ということは、調律すれば、ピッチが上がって全体が整い、音の印象が明るくなるだけでなく、かなり華やかにもなるということを体験できたのかもしれません。
ある程度はわかっていたつもりでしたが、そこには想像をこえた効果があり、あらためて調律というものの効果というか、威力に驚ろかされることになりました。

これまでは、調律と併せて多少の整音作業が行われるので、音の角が丸められることで調律効果による華やかさはかなり抑えられ、ずいぶん相殺されていたんだということが、はっきりわかりました。

技術者の方にしてみれば、アナタ、いまごろそんなことで驚いているんですか?と一笑に付されるかもしれませんが、素人ですから、そうなんです。