日常の中にあるもの

頂戴するコメントの中に、フジコさんの音の美しさに関して、御母上(大月投網子さん)から受け継がれたブリュートナーのことに触れられていたのは、大いに頷けるところでした。

感性の基礎を形成する幼少期から、自宅にそのようなピアノがあったということは、かなりの影響があっただろうと思われます(いつから大月家にあったものか、正確なところはわかりませんが)。

海外の優れたピアノは、とりわけ戦前のものは音そのものが美しいだけでなく、繊細なタッチや音楽性を知らず知らずのうちに引き出してくれるから、さほど意識せずとも美しいものを慈しむ習慣が身につくだろうと思います。
演奏者のタッチや気分の変化に、ピアノが敏感に音として反応してくるのは、弦楽器のボウイングにも通じるものがあるかもしれません。

一般的に雑なタッチで弾く人は、その人が育ってきた教育環境とか、使われた楽器も無関係ではない気がします。
誰がどんな弾き方をしても、それなりに鳴ってしまうピアノを「普通のピアノ」と思ってしまうと、音色への感覚が薄れ、ひいては音楽に対するスタンスまで変わってくるはず。

昔は、多少叩くような弾き方をしてでも、難曲大曲をバンバン演奏できることが正義で、そこに秀でることに価値がありましたが、そうなってしまった原因のひとつに、使われた楽器の性質にも責任の一端があったかもしれません。

全体として、日本のピアノがとても素晴らしいことは誰もが認めるところですが、強いて弱点を挙げるとするなら、音色変化や歌心というか…表情が乏しく、曲になった時の収束感が薄い気がします。

ちなみに、戦前のブリュートナーの中には、フレームも厳かで絢爛たる装飾にあふれたモデルがあり、日々そういうピアノと接するだけでも、感性を刺激するところ大だと思います。
そんな幼少期から、波乱に満ちた数々の人生経験、孤独や絶望、そして晩年になって光が差し込んだフジコさん、だからその演奏には耳を傾けてみる値打ちがあったのだと思います。

写真は海外のサイトより一部を拝借しました