クラコヴィアク

BSのクラシック倶楽部録画から『歴史的楽器が奏でるショパンの調べ〜名ピアニストたちと18世紀オーケストラ〜』を視聴。
2024年3月11日、東京オペラシティ・コンサートホール、ピアノは川口成彦/トマシュ・リッテル。

ショパンはオーケストラ付きの作品として、2つの協奏曲以外には、ラ・チ・ダレム変奏曲op.2、ポーランド民謡による幻想曲op.13、クラコヴィアクop.14、アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズop.22があるのみ。
いずれも初期の作品で、20歳前に書かれていますが、すでにショパンの作風は見事に確立されているのは信じ難いほどで、歴史に残る天才とは恐ろしいものだと思います。

現在は、残念なことに協奏曲以外はめったなことでは演奏機会がありません。
op.22はピアノソロとして演奏されるし、op.2はやはりソロでブルース・リウがショパンコンクールで弾いたのが記憶に新しいところですが、op.13とop.14は演奏機会はめったにありません。

録音も少なく、私のイチオシはクラウディオ・アラウのもので、生演奏では未だ聴く機会に恵まれていません。
op.13とop.14は演奏時間もほぼ同じで、作品内容としても個人的には双璧だと思うのですが、それでもなんとなくop.14のほうが一段高い評価であるような印象。
随所に美しいノクターン的な要素があるop.13より、活気あるロンド形式のop.14のほうが演奏映えするのかもしれませんが、いずれも非常にショパンらしい魅力的な作品だと思います。

今回はop.13を川口さん、op.14をトマシュ・リッテルさんが演奏されましたが、リッテルさんによるクラコヴィアクが大変素晴らしかったことが印象的で感銘を受けました。
ピアノはタイトルが示すようにフォルテピアノが使われ、現代のパワフルかつ洗練されたピアノに慣らされている耳には、どうしてもやや頼りなく感じることがあるのも正直なところですが、リッテルさんの演奏はそのようなことをすっかり忘れさせるほど濃密で、躍動し、新しい発見がありました。
さらにいうなら、ショパンへの敬意と注意深さも終始途絶えることがなく、作品と演奏が一体のものとなり、聴く悦びを堪能させてくれるものでした。

あらためて感じたことですが、良い演奏というのは作品に対する表現のピントが合っており、すべてが意味をもった言葉となって、こちらの全身へ流れ込んでくるような心地よさがある。

もちろん事前にしっかりと準備されているだろうし、細部も細かく検討されたものでしょうが、さらに本番では霊感を失わず、今そこで音楽が生まれてくるような反応があり、それがさらに次の反応へと繋がって、まるで音符が自分の意志で動き出しているかのように感じました。
聴衆をこの状態に引っ張りこむことができるかどうか、それが演奏家の真の実力ではないかと思います。

最近は、クリアで正確だけど感動できない演奏が主流となっているので、若い世代にも稀にこういう人がいるのかと、久しぶりの満足を得た思いでした。

残り時間は18世紀オーケストラによるモーツァルトの40番でしたが、古楽オーケストラの活き活きした軽快な演奏はわかるのですが、私個人としては昔から抵抗を感じるのは、そこここでしばしば繰り返される強烈なクレッシェンドやアクセントで、あれがどうにも脅迫的で、当時は本当にそういう演奏だったのかなぁ?と思ってしまいます。

顔のない処罰

いまやネットがこの世を支配している勢いですが、思いがけないことに遭遇したので、少し長くなりますが、皆様へのご参考になればという意味も含めて書くことに。

実は、この先使う予定のない家財品などがあり知人に相談したところ、買い取りは価格的に不利なので△△△(有名なフリマサイト)での売却を奨められました。
しかし、△△△はこれまで利用経験もなく躊躇するところもあったのですが、家の中の不要品などなんでも気軽に、しかも「きわめて簡単に」出品できるのだそうで、そちらに疎い私としては、この際よい機会かもと思いアドバイスに従う決断をしました。

まずはアカウントを作りで、銀行口座から運転免許証などの身分証明、さらには顔の撮影などまであるのは驚きました。
運転免許証は表と裏を写真に撮って送るだけでなく、動画でゆっくりと指示通りに免許証の角度を変えながら厚みまで見せなければならないし、顔も動画で正面から左右、笑顔まで撮らせるという念の入れようで、いささか驚きましたがなんとか終了。
自分なりに商品の区別したいという考えがあって、別の端末からもうひとつアカウントを作ることにしたため、また同じ手続きを繰り返し、とくに問題なく終わりました。

さっそく出品してみようとアイテムの写真を撮り、価格を決め、簡単な説明などを書いて、いざ出品しようと最後のボタンをタップしますが、最後の最後で先に進めない。
何度やってもダメで、はじめはわけがわからず、どこか自分の手順が間違っているのかもと思うなど、ずいぶんいろいろ試しましたが、なにをどうやっても出品できません。
翌日になってようやくわかったことは、なんと△△△側から利用制限(使えなくする措置)がかけられていたわけですが、その理由は一切示されず、いきなり真っ暗闇に放り込まれたようでした。

どう対処したらいいのかもわからず、知人にも聞きましたがすぐにはわからないし、電話の受付は一切ないこともこの時知り、なぜ利用制限をかけられたのか、八方塞がりで気分は最悪となりました。
制限をかけるのであれば、せめてその理由を告げるのは当然だろうと私は思うのですが、一切なく、ずいぶん傲慢なやり方で、これではただ個人情報を持って行かれただけじゃないか!と思いました。

そうこうするうちに、「一人につきアカウントはひとつという規定がある」ということがわかり、それでハネられているとしか考えられません。
詳しく見れば、そういう事もどこかに書かれているのかもしれませんが、現実的に細かい同意事項のたぐいを、隅々まで一字一句キッチリ目を通す人がどれだけいるか?と思います。
そういう規定があるのなら、2つ目のアカウントを作る過程で、そういう警告が出るとか、手続きが進めないようになっていればいいものを、そういうことは一切ないまますべてが終了したあとに、いきなりバタンとドアを閉められるのは、まるで囮捜査にでも引っかかったようでした。

これを打開するにはアプリ内から問い合わせするしかなく、そこに行き当たるだけでも一苦労でしたが、ようやく該当するページから事情説明の文章を添えて利用制限解除の申請をしたら、すぐに自動返信らしきものが来て、そこには次のように書かれていました。
申請を受け付けました、一週間経っても解除されない場合はそれで終了となり、その理由には答えない、と。

ずいぶん一方的な言い分に心底おどろきましたが、ともかく待ってみるより手立てがなく、心に不愉快なものを抱えた毎日を過ごすハメに。しかし、一週間を過ぎても10日過ぎても解除になることはありませんでした。
ネットの情報によれば、こうなると制限は無期限とみなされ(つまり重罪?)、ほぼ永久に解除されることはないという扱いだそうで、こちらにしてみれば取引のひとつもやっていないのに、これはいささか度が過ぎやしないかと思いました。

知人もずいぶんと骨を折ってくれて、ついにどこからか探し出してきてくれた打開策は、なんと「詫び状を書く」というものでした。
そこには例文があり、これこれしかじかの事情があったこと、もとより悪意はなく、△△△利用を楽しみにしていた自分は大変悲しい思いをしていること、今後気をつける旨の約束、くわえて謝罪の文言が記され、それでも「必ず解除されるわけではありません」という但し書きがついていました。

本来なら「誰がそんなことするか!」と思うけれど、この頃になると相手はもしやAIではないか?という気もしはじめており、だとするならAI相手に意地を張っても仕方ないと思い、最後の手段としてそれに沿うような詫び状を書いて送りました。
すると、なんたることか、送信から数時間後に「解除」の連絡が来たのです!

このような規約の背景には、悪辣なことをする輩や、違法行為、犯罪に繋がるような事案への対策という意味もあることだろうとは思いますし、それはわかります。
だとしても、もう少し穏当なやり方というのはあるはずで、問答無用で処罰的に切り捨てる前に、最低限の説明とステップを踏むべきだと思います。
それがネットだ!今どきだ!というのなら、今どきは、相手に少しでもストレスを与える行為を☓☓ハラスメントなどと名前をつけて厳しく糾弾される時代となっているのだから、△△△のこの強権的なやり方は何かのハラスメントではないのか?と思いました。

なんとか解除にはなったものの、受けたストレスというか心の疲労はかなりのものに積み上がり、現在はまだ出品する気力がわかないでいます。

ディアパソンUP

大屋根の磨きの最中、技術者さんのスマホにはしばしば電話が入るので、その度に作業は中断を余儀なくされますが、すぐ側なのでいやでも話し声が耳に入ります。

どうやら、電話の主は新たにピアノを買うべくお悩み中らしく、数台の候補があるようで、モデル名からそれらはディアパソンのUPのようでした。
この技術者さんはとくにディアパソンに通じておられることもあり、モデルごとの特徴などを丁寧に説明されていますが、なにぶん中古のことなので、現物を見ないではそれ以上はなんともいえないと繰り返し言われています。

話の様子ではその音源はYouTubeにあるらしいのですが、「そんなものじゃわかりません」「答えられません」「現物を見て判断されるしかありませんよ」といったことを何度も言われており、至極尤もなお話です。

サイズや色などから、精一杯の説明をされていましたが、終わりのない会話にだんだん疲れられたのか、ようやく話が済むと深い溜息をつかれました。
おおよそのことはわかったので、ちょっと話を向けてみるとまさにそのとおりでした。
「私でよかったら夜その動画見てみましょうか?」というと、それはありがたいとばかりに折り返して電話されて、電話機を渡されて私もその方と話をして、その夜さっそく見てみることになりました。

それは関西の有名なピアノ店で、なんとディアパソンのUPだけが一気に4台も紹介されているものでした。
1台は猫足の125cm、残る3台は132cmですが、ほとんど黒に見える杢目で枠飾りのついたタイプが2台と、もう一台はプレーンなスタイルのマホガニーのピアノでした。
4台とも状態も悪く無い(ように思える)ピアノで、あとは予算と見た目の好みで選ばれたらいいのでは?と思い、その旨を技術者さんに伝えました。

強いて言うなら、125cmはそれ自体のバランスはいいと思ったものの、3台の132cmに囲まれてしまうと、どうしてもひとまわりスケールの小ささがわかってしまうのは、致し方ないところがありました。
ただし、それはあくまで比較するからであって、125cmも普通にいいピアノだと思ったし、さらに132cmに共通しているのは、あきらかに余裕があり、広がりのようなものを備えているなぁと感じるところでした。

ちなみに、以前から思っていたことですが、ディアパソンのUPの中でもこの黒い杢目+角窓のモデルは、色合いスタイルともに重厚なアンティーク調でえもいわれぬ風格があり、なかなか魅力的な一台だと思っていましたが、あらためて目にして「やっぱりいいなぁ!」と思いました。
さらにこの2台、見た目はまったく同じですが、一台はアグラフ仕様でもう一台は普通のタイプというのも面白い違いでした。

音の差は、個体の差なのか、アグラフの効果なのかはわからなかったけれど、アグラフ仕様のほうが若干ですが音の腰が座っているように感じましたが…大差ではなく、なにしろ動画での判断なので、それ以上のことはいえません。
現物に触ったら印象も多少違ってくるかもしれませんが、最近ではネットで見ただけで中古ピアノを買う方も少なくないのだそうで、良し悪しの問題ではなく、そういう時代になったということのようです。

動画とはいえ、ディアパソンの中古UPを4台同時比較というのは初めてだったこともあり、とても面白い経験でした。

佳き時代の名品

磨きの作業中は、技術者さんとあれこれ雑談する機会にもなりました。

とくに印象に残った話など。
むかしは国内大手のピアノメーカーでも、会社が一丸となって「いいピアノ」を作ろうと云う気概と情熱にあふれていたころがあって、今では考えられないような良質な材料を惜しげも無く使うなど、高い理想を掲げて制作されていたとのことでした。
時代的に云うと、1960年代あたりからのようです。

技術者として、その時代のピアノに触れて感じることは、作り手の熱意が直に伝わってくるとのこと。
「三つ子の魂百までと言われるとおり、いかに志をもって制作され、丁寧に調整を施されて出荷されるまでが大事で、それがピアノの一生を決める」というものでした。

カメラなどでもそうだと聞きますが、昔の逸品には作った職人の手間ひまや息吹が感じられて、工芸としての価値や重みもある。
本物だけが持ち得るもので、価値あるものすべてに通底するようです。

時代も移ろい、あらゆることが変化したいま、ピアノづくりだけがそんなにピュアな精神を保っているはずはありませんが、少なくともそういう時代があったこと知るだけでも大事だし、自分で触れるなりして正しくその価値を評価すべきだと思いますが、ピアノはなぜか冷遇され、なかなか再評価の風が吹きません。

たとえば有名なフリマサイトなどにもピアノは多数出品されていますが、そこでは製造年の新しいものが人気で高値で取引されるのに対し、上記の時代のピアノとなると、それがどんなに贅を尽くされた最高級クラスのものであっても、古いというだけで敬遠され、驚くばかりに安く値付けされてしまい、それでもなかなか買い手がつかないのが現実のようです。

ピアノの価値基準というのはなかなか判断が難しいところがあることも否定できませんが、それにしてもそのあまりの不当評価にはやるせないものを感じます。
まるでクルマのように年式と走行距離とコンディションで…といいたいところですが、実はクルマのほうが熱心なファンが多いせいか旧き佳き時代のものは、とくに近年は価値が見直されています。
いったんその風が吹くと、「こんなものが?」と思うようなものまで連動して価格高騰しています。
古くて希少というだけで、ほとんど見るべきもののない中古車なんぞに比べたら、この時代のピアノは比較にならないほどの高い価値があると思うのですが、悲しいかな市場がまったく反応しない。

もしUPで50〜100万円ぐらいの予算があるなら、新しいというだけでペラペラの「合成ピアノ」を買うより、佳き時代の名品を買ってリニューアルして使ったほうが、どれだけ豊かで実り多いピアノライフが送れるだろう…と思います。

尤も、いまピアノを買う人は、仮に子供にピアノを習わせるというような動機だとすると、その子が成長して独り立ちすると弾く人がいなくなる、あるいは大人になって趣味でピアノを買う人も、その当人が弾かなくなったらたちまちジャマモノ扱いとなり処分されるなど、せいぜい20年ぐらいしか使われないケースが多いのかもしれず、家の中でもピアノを弾くのは特殊な存在で、なかなか生活に自然に根付く存在とはならないようです。

現実はそうだとしても、でもしかし、はじめから使う期間のおしりを切って、それに見合ったものでよいというのも、あまりに寂しい気がするし、だったらいっそピアノなんかやらなくてもいいのでは?

磨き作業に参加-2

二日目はバフ研磨で、電動工具を使うため、私はさすがに遠慮しましたが、何枚もの円形の布をバウムクーヘンのように重ねた部分が高速回転し、そこにコンパウンドの塊のようなもの(名前を失念しました)を当てながら、端から丁寧に磨いていくと、少しずつ艶らしきものが現れてきます。

バフがけは熟練を要する作業で、バフの当て方とか力の加減、動かす方向によって仕上がりを左右するので、見ているぶんには面白かったけれど、集中力を要する大変な作業で、大屋根は面積も広いため時間もかかります。

ひと通りバフ研磨が終わったところで、方々から角度を変えながら仕上がりをチェックし、少しでも磨き足りないところや、磨き目のムラなどがあるとすぐに修正が入って、そういうことが延々と繰り返されます。

これが終わるとピカピカですが、さらにここから極細コンパウンドによる鏡面磨きとなり、ここでは手作業となるため大いに手伝いました。

最後にピアノ本体に取り付けて完成ですが、2日間にわたって12時間ほどかかり、ヘトヘトに疲れましたが、そのぶん普段できない、貴重な経験をさせてもらいました。

これまで「外観だけ磨いて、中の整備はそれほどでもない」などと軽口を叩いていましたが、GPにしろUPにしろ、使用感のあるピアノの外観をきれいに変身させるまでには、実は相当な人手を経ていることが身をもってわかりました。

外観を磨くことをどこかで「ごまかし」のように思う部分もありましたが、これもれっきとした手作業の世界とわかりました。
プロと呼ばれる人たちの作業の丁寧さと、そのための集中と忍耐力には頭が下がります。

素人はワザ云々の前に、何時間でも黙々と同じことをやり続けるだけの忍耐力さえないわけで、やはりプロの仕事というのはすごいものだとあらためて知りました。

学びの多い、貴重な二日間でした。

↑バフ研磨が終わった段階。
ここからコンパウンドによる鏡面磨きと、まだまだ作業は続きます。

磨き作業に参加-1

ある技術者さんとの話の成り行きから、大屋根が傷だらけになったGPの塗装の磨きをお手伝いしてみることになりました。

中古ピアノを取り扱うお店に行くと、かなり古いピアノでも外観は新品のようにピカピカに磨き上げられているのを目にすることがありますが、これは一般人が真似できるような次元のものではないから、その磨き術には強く興味を覚えるところでした。
それをほんの一部でも垣間見る、いいチャンスが到来したわけです。

そのピアノの傷とくすみはかなりのもので、長年カバーもないまま上に物が置かれたりの繰り返しで、素人目にもコンパウンド等で磨いてどうこうなるような生やさしいものではありませんでした。

まず慎重に大屋根を外し、作業スペースに広げられたビニールシート上に移動、さらには大屋根じたいも前後バラバラにされ、小さなゴムパーツなども外しますが、これだけでもかなり手間のかかる作業で、この時点からすでに大変さを予感。

ペーパー(紙やすり)を硬いスポンジにあてがい、水や石鹸を含ませながら表面を削っていきますが、技術者さんが言われるには決して円を描いたりせず、決まった方向にだけ直線的に磨くようにとのこと。

これがいきなりの重労働で、墨汁のような黒い汁がそれらじゅうにあふれるし、準備していたビニールの使い捨て手袋など、あっけなく破れてしまってものの役にも立ちません。

さらに、ペーパーは荒いものから目の細いものへと、順次変えながらひたすらこれを続けます。
おしゃべりはできるけど、手は休められないという作業です。

途中休憩以外はこれだけで数時間を費やし、不慣れな私の疲れ具合も考慮されたのか、残りは後日に持ち越されました。

この時点で、表面はニューヨークスタインウェイのヘアライン仕上げのようになり、個人的にはこれが一番いいなあ…と思うほど雰囲気はガラリと変わってしまいました。

─続く─

窮屈になる時代

コンサートに行く頻度はめっきり減りましたが、その理由はいろいろあるけれど、ざっくりした理由としては、聴いてみたい演奏家の激減、演奏スタイルの変化により結果が見えていてワクワク感がない、地方公演での演奏の質、残響ばかり強くて音が混濁するホール、などがあります。

…が、そればかりでなく、コンサート会場に流れる空気も、昔の自由な、楽しい雰囲気は失われ、最近はますます悪い方向に強化される方向だと聞きます。

例えばホールに行くと、いまどきの人手不足というのに、エントランス前後から多くの職員があちこちに立って、お客さんを案内するという名のもと、実は厳しく行動は監視され、なにか見張られているような気配を感じます。

座席に行くにも、その経路さえも関係者からやんわり管理されているのか、なんとなく自由にウロチョロできない雰囲気。
ようやく座席につくと、こんどは「開園に際しまして…」のたぐいの注意放送が降り注ぎます。

録音/撮影はダメ、携帯電話の電源を切る、演奏中の出入りはダメ、花束を渡すのもダメ、プログラムなどの紙類は落とすと周囲のご迷惑になるから注意しろ、など、次から次です。
内容的には当然のことではあるけれど、せっかくこれからいい音楽を聞こうという期待に身をおいているのに、頭の上を流れるアナウンスは、あれもダメこれもダメのダメダメづくしで、まるでこちらがコンサートのマナーを知らない野蛮人のようで、しかもそれが何度も何度も無遠慮に繰り返されます。

ようやく注意が終わったかと思ったら、次は「ただいまロビーで☓☓のCDを発売しております」「終演後はサイン会を予定しております」「どうぞ本日の記念に…」と一転して商売の話に切り替わり、これがまた何度もしつこくてイヤになります。

お手洗いに行くにも、楽屋へ通じるルートなど、いかめしい制服のガードマンが棒立ちで、何様でもあるまいにと思うし、ことほどさようにその息苦しさといったら、なにげに不快感を感じるのみ。

主催者側、ホール側にしてみれば、もちろん言い分はいくらでもあるのでしょうが、アナウンスはじめ流れる空気がどこか高圧的で、チケットを買って楽しみに来たはずの気分はこういうことから少しずつ息苦しくなり、それがが積み重なるうちに楽しい気持ちは減退して、不愉快になっていきます。

だいたい、入り口から入っても、何人ものスタッフから「いらっしゃいませ」帰りは「ありがとうございました」を言われるけれど、飛行機やホテルじゃあるまいし、こっちは音楽を聴きに来て、終わっから帰っているだけであって、そこにいちいちそん挨拶は無用だし、どこかなんだか鬱陶しくて仕方なく、もうすこしサッパリできないものかと思います。

いまどきなので、万一に備えてのトラブル対策というか、外形的な安全を張り巡らせているだけで、来場者のためというより自分達のためという印象しかありません。
時代も変わり、客層も変わったといえば、そのひとことで終わりますが、なんだか福袋の行列と大差ない扱いを受けているような…。

ヤマハの価値-追記

一部の高級機のことはわからないけれど、ヤマハピアノの中核をなすのは世界の頂点に君臨する量産ピアノで、その高い信頼性や工作精度の確かさはもはや世界の認識。
ヤマハはピアノ界のトヨタといって間違いありません。

とりわけアクションの精度の高さは、他の追随を許さぬものがあり、一説によれば「二位がないほど世界一」なんだとか。
そのためヤマハのアクションを使っているヨーロッパメーカーも存在するらしく、到底かなわないものは、それ自体を使ったほうが得策だという発想でしょう。

ヤマハのアクション技術の高さについては、多くの技術者さんが口をそろえて言われるところで、これについては批判の声を聞いたことがありません。
しかもそれは大量生産品であるとなると二重の驚きでもありますが、よくよく考えてみれば、その高いクオリティは最高級の機械による大量生産だからこそ成し遂げられたことかもしれない…とも思うことがあります。

手作り手作業が価値をもつピアノの世界ですが、手作業なら何でも良いというものでもなく、精度がものをいうパーツなど、高度な機械から生み出されるほうが好ましい部分も確実にある筈で、ヤマハのアクションはまさにその賜物だろうと思います。
その意味で、ヤマハはピアノ生産の新たな地平を切り拓いた偉大なメーカーと思います。

ただ、個人的な好みで云うと、このピアノも他で弾いたGPも同様ですが、アクションという複雑な構造をおよそ感じさせない軽やかなタッチは「弾きやす過ぎて、弾きにくい」とへんな言葉ですが、そう感じるのも事実です。
個人的にはもう少ししっとりした抵抗(重いという意味ではなく)や、弾いている実感が伴うがほうが好みではあります。

良心的な価格、高い品質、パワー、信頼感という点においては、これに勝るピアノはないのではないかと思いました。
しかもそれは西洋音楽の歴史もない、東洋のメーカーから生み出されたのですから、ヤマハの出現はピアノ界にとっては黒船だったことでしょう。

ショパン・コンクールの公式ピアノになったときも「はじめは我々も懐疑的だった」といっていましたが、カワイともどもよくぞそれを突破したものだと思います。

ヤマハの価値

ヤマハのUPピアノを落ち着いて弾く機会がありました。
1996年製のUX300で、X支柱、アグラフ仕様、サイズは131cm、トーンエスケープという譜面台を手前に引き出すタイプで、その両端には縦に木目があしわれた、現在もYUS5として続いているおなじみのスタイル。

ヤマハは子供の頃から20年以上お世話になったので、私の体の深いところにはその経験が残っているようで、眠っていたものがよみがえって懐かしく感じるところが多々ありました。
どのメーカーにも言えることですが、サイズや形状(GPかUPか)や製造年が違っても、ブランドの個性は綿々と引き継がれるものらしく、これは考えてみればきわめて不思議な事だなぁと思います。
いわばピアノのDNAみたいなものでしょうか?

以前、有名ショップでスタインウェイのUPを触らせてもらったとき、あまりにもスタインウェイの音だったことは想像以上で、かなり衝撃的だった記憶があります。

ヤマハに戻ると、やはりGPでもUPでも、そこに通底するものは同じ肌触りであることをまざまざと感じます。
もちろん、各モデルや個々の状態で違いがあるのは当然ですが、ここで言いたいことは、そこに吹きこまれたメーカー独特の世界や手触り、スピリットが同じだということでしょうか。
こういうことをひっくるめて「ブランド」というかもしれません。

ヤマハでなによりも感じるのは、健康な骨格に恵まれたアスリートのような頼もしさと、全音域にわたるヤマハらしいバランスでしょうか。
どの音域も互いの連携がとれており、中音以上での華やかな輝き、低音の太い迫力などいずれもぬかりなく、さらによく出来たアクションに支えられてタッチも軽快、どこをみても死角のない製品で素直に大したものだと思います。

音にはガツっとくる迫力があり、労せずしてよく鳴ってくれますが、あまりに奏者に向けて音が盛大に向けられてくるあたり、これは慣れないと少し戸惑いました。
逆にこれが普通になってしまうと、他のピアノでは物足りなさを感じてしまうのではないか?と心配になるほど。
人間の感覚は、かなりの部分が相対的だから、濃い味付けに慣れている人が薄味の料理を食すと、食べた気がしないようなものかもしれません。

いずれにしても、量産ピアノでこれだけ活気があって、バラつきのない高品質が維持され、耐久力にも整備性にも優れる(らしい)というのは驚くほかはなく、ヤマハが世界を制したのも納得です。