オリンピック

パリ五輪が始まりました。

開会式当日はすでに曇天で、やがて晴れてくるのかなぁと思ったらとんでもない、ほどなくして無情にも雨粒が落ちはじめ、さらに時間が経つほどにそれは強く激しいものとなってしまいました。

そんな状況にもめげることなく、ダンスをはじめ渾身のパフォーマンスに打ち込む大勢の人たちが気の毒なほどの猛烈な雨足。
この雨のせいかどうかはわからないけれど、選手たちの乗る船もときに心配になるほど大きく上下に揺れるのがあったり、いやはや、これは大変なことになったようだと思いました。

ダンスや動きがキレッキレで激しいだけに、いつ転倒するのかとハラハラしましたが、ほとんどそういうこともなく、みなさん大したものだなあと感心させられました。

こんな場合にもついつい目が行くのはピアノで、はじめの頃(雨が降り出す直前)、レディー・ガガが歌って弾いていたのはスタインウェイのBかCで、閉めた大屋根の上に譜面台が置かれていましたが、サイドのロゴは黒いテープのようなもので隠されていました。
だれもが知っている、ルイ・ヴィトンのケースなどはあんなに露わに映しても、ピアノのロゴは隠すんだ…と思いました。

この日のピアノネタで最大のものは、フランス人ピアニストのアレクサンドル・カントロフ(2019年のチャイコフスキーで優勝)のソロでした。
ピアノは激しい雨が叩きつける場所に置かれ、大屋根は閉じられているものの、その上部には大粒の水たまりが無数のアメーバのように広がり、カントロフ自身も後には引けないと覚悟を決めているようで雨を浴びながら弾いており、曲はまさかのラヴェルの「水の戯れ」。戯れどころかずぶ濡れで、これにはもう笑うに笑えず、身を捩るような気持ちになりました。

音はしっかり出ていたけれど、普通サイズのグランドで、あれだけ強い雨の中、しかも大屋根を閉じた状態で、あんなにまともな音がでているとはとても思えず、おそらく音源は別にあったのだろうと思いました。
これだけのピアニストに弾かせておいて、手元は一切映らなかったのも不自然で、やはりいろいろ事情がありそうでした。

ちなみに、これほどの大雨でびしょびしょにされたピアノはどこのメーカーかとずいぶん観察しましたが、残念ながらそれを突き止めることはできませんでした。
細部からも特定には至らず、まさかのダミーでは?などと勘ぐったり。

翌日からはさっそく競技が本格化したようですが、はじめに目にしたのは柔道で、選手であれ審判であれ一人の日本人もいないのに「はじめ!」とか「まて!」とかいうのは、なんだか奇妙な感じがするものですね。
フランスでの柔道人気は昔から根強いものがあるらしく、なんと日本よりも競技人口が多いというのは驚きですし、柔道人気はフランスだけでなく世界的で、あのプーチン大統領も黒帯の有段者というのですから、どこがそんなにいいのやら…。

かく言いつつ、我が身を振り返ればヘンなフランス車に30年も乗っているし、フランスの文物もロシア音楽も大好きなので、そこはお互い様というところでしょうか?

ブッフビンダー

先日のEテレ、クラシック音楽館は前半がブラームスのピアノ協奏曲第1番でした。
ピアノはルドルフ・ブッフビンダー、指揮はファビオ・ルイージ/NHK交響楽団。

ブッフビンダーはウィーンを拠点とするピアニストで現在70代の後半。
ドイツ系音楽のスペシャリストとして数えられる人ですが、個人的には特に強い印象をもった記憶はあまりなく、いわゆる「中堅」という言葉がこれほどピッタリくる人はないイメージです。

際立った魅力も感じないがイヤミもないというところで、ウィーン系のピアニストというと、ティル・フェルナーとか近いところではヴンダーといった名前が浮かびますが、いずれも自身の個性表出より音楽への奉仕に重きをおくタイプの人で、そこがウィーン流なのか?とも思います。

とくにフェルナーの細部に至るまで神経のかよった端正な演奏は舌を巻くところで、様式感を重んじつつ、そこにあふれる清潔な美しさは印象的。

ブッフビンダーはウィーン系でもまた趣が異なりますし、そもそもウィーン系なのかどうかもわからない。
CDなど何枚かは持っているけれど購入当時に幾度か聴いただけで、自分にとってさほど重要な存在にならないまま、以降は手に取ることもほとんどなくなってしまいました。

氏のプロフィールや得意なレパートリーから期待するような、構造感とか折り目正しさというわけでもないし、その音楽には感覚重視の印象もあり、どこか線の細さを感じます。

よって、やはり「中堅」としか思えないのだけれど、最近ではお歳も重ねられたこともあるのか、いつしか「巨匠」へと格上げされているようです。

今回のブラームスでは、テンポが速めで、そうすることでこの長大な作品をまとまりよく聴かせられるということもあるのかもしれないけれど、もう少ししっとりじっくり聴きたい派には、いささか性急で肌理の粗さが目立ちました。

この作品は長いだけでなく結構な技巧を要するところへ、このテンポ設定も重なったのか、あまり上質な演奏とは思えないものになってしまったのはとても残念でした。
キズのない演奏が大事などとは思いませんが、そういう不備を補って余りある何か大事なものが聴こえてこなかった…というのが私の印象。

さらに追い打ちをかけたのが、最近の機能性抜群のN響の乱れのない演奏で、ピアノとオケがとりわけ対等密接な関係性をもつこの作品においては、ソリストの弱点が否応なく暴かれてしまうようで皮肉な対照でもありました。

そういうことをしばし忘れて楽しめたのは第2楽章。
夢見るような美しい世界の広がりは陶酔的で、そういう趣味の良い叙情美はブラームスの独壇場となるのもしばしば。
この緩徐楽章ではさしものブッフビンダーもほぼ適正なテンポで弾いてくれましたし、時おり特定のバスを深く響かせてくるあたりは、この作品をよく知っているらしいことを感じさせるところではありました。

そして、第2楽章が終わって第3楽章に入る間の取り方は、この曲を聴くときにいつも注目してしまうポイントですが、ほんの一息間を置くだけで、その集中と余韻を切れさせぬところで、決然とピアノのソロが鳴り出したのはホッとさせられました。

ここで、本当の休息をとってしまって、客席からゴホゴホ咳払いなどが出てくるのは、この作品においては適当とは思われませんから。

稼ぐか芸術か

少し前のこと、民放の音楽長寿番組で、立て続けに現代日本を代表する世代のピアニストたちが様々出演されました。
どの方の演奏も指さばきは安定し、なにかが決定的に悪いわけではないけれど、良いとも思わない、いつものスタイルでした。

年齢も経歴も必ずしも同じではないのに、不思議なほど肌触りやあとに残る印象が似ているあたり、まさに大同小異という言葉を思い起こします。

楽譜通りにそつなく弾けているけれど、耳を凝らすと、それぞれに肝心な点でおかしなことをやっている。
わかりやすく云うと、ツボにハマらず、ピントはずれ、歌うべきところで歌うことなく、素通りするかと思うと、思わぬところで意味不明な間をとったり。

指は確かだから、さも完成されているように見えても、作品と演奏者が特別親密な関係になったときだけに発酵する濃密さみたいなものはなく、その場だけ笑顔をかわして会話しているような、ひどく他人行儀なウソっぽさを感じます。
現代人がお得意の、良好な関係の演技をしているだけといった印象。

よって、そつのない演奏に終始し、魅力的な演奏で酔わせてくれることもない。

これが演奏における現代様式なのかとおもうと、気分が自分の中のどこの引き出しに収まることができずに彷徨い、慢性的な倦怠感のようなものに包まれます。

たとえば、いまやモーツァルトの世界的名手のように言われる人などもおいでのようだけれど、何度聴いてみても私にはとてもそのような価値ある演奏とは思えず、そもそも芸術性というものが感じられません。

指もよく動くし、譜読みも早く何でも弾けるのだろうから、むかしならさしずめナクソスレーベル御用達のピアニストぐらいで?

聴く側が演奏に触れるときに期待するものは、作品そのものの世界に浸ってみたいということの他に、演奏者ごとの表現や問いかけに接してみたい、美しさにハッとさせられたい、慰めと悦びで満たされたい、あるいは激しく打ちのめされ翻弄されたいというような思いがあるのですが、この世代の演奏からはほとんど受け取った覚えがない。

なるほど天才なのかもしれないけれど、どれも一様に軽く、小動物の戯れのようで有難味がなく、作品が生きあがってくるとは言い難い。
モーツァルトならやっぱり内田光子のほうが断然好きだなぁと思ったり。

モーツァルトといえば、別の、話題の多い二人のピアニストが出演して、2台のピアノのためのソナタの第3楽章を弾かれましたが、これにもまたかなり唖然とさせられました。

最終楽章というのは、大半はテンポも速く生き生きとして、それまで旅してきた各楽章の意味を引き継いで、まとめるようでもあるし祝祭的でもあるし後片付け的な意味もあるもので、この曲もまさにそういう作りです。

ところが、楽しく浮き立つような要素は私の耳には皆無であったばかりか、ふてぶてしいまでに落ち着き払い、まるで別の曲の第一楽章を聞いているようでした。

もうすこし踏み込んで言うと、作品に対して気持ちが入っていないことが見えてしまっており、曲の表情付けから何からすべてが外形的作為的、ただ人気に慢心し、聴衆を軽く見て、番組の予定をこなしている不誠実なタレントのように見えました。
もしかしたら、ろくに練習もせず、間に合わせ的に本番で弾いたといわれても驚きませんし、この人達ならそれも可能なのでしょう。

終わったら楽屋で着替えて、お付や関係者と次の事務連絡をして、出待ちのファンに対応することもなく、待ち受けるハイヤーにサッと乗ってホールを後にするんだろうなという光景が目に浮かぶようでした。

昔の演奏家は、根を詰めて作品と対峙し、納得した時だけステージに上げるというようなことをやっていましたから、好みはあるにせよ、いちおうは聴く価値のあるものでした。

でも、今そんなことをしていたら、ライバルにどんどん仕事を取られるし、極限まで突き詰めた演奏をしてもしなくても、大半の人にはどうせわからない、芸術家として苦しみに喘ぎながらごく一部の理解者に賞賛されることより、演奏タレントと割りきって忙しく飛び回り、拍手とギャラにまみれるほうが、楽しいし時代の価値にも合っているんでしょうね。

あるある

ピアノには関係ないのですが、現代どこででも遭遇する、あるあるな景色。
先週、クルマの整備でとあるショップに行ったときのこと、1時間ほどの作業の間、併設された待合室で過ごすことに。

そこにはテーブルとイスが、窓に寄せて二セット置かれています。
厳密にいうと、奥には一人用の緊急用みたいな小さなテーブルがあるにはあるけれど、実質的には二つのテーブルと考えて良い設えです。

そこへ入室したとき、すでにお店のスタッフと一人のお客さんが向き合って話し中で、その隣のテーブルが空いていたので座ろうとすると、そのイスに女性用らしきバッグが置かれていて、すぐ脇のキッズスペースでは小さな子がひとりで遊んでいました。
とっさに母親はちょっと席を外しているだけで、二組のお客さんがいるらしいと理解して、やむなく一番奥の小さなテーブルの方へ行って腰掛けましたが、なんとなく落ち着かない席だし、すぐ横では至近距離で人の話し声がしているなど、もってきた本を取り出して読む気にもなれません。

やがて、そのお母さんらしき人が戻ってきましたが、イスに座ることなくキッズスペースで子どもと遊ぶばかりで、バッグはそのまま。
なんとなく、釈然としないものはあったけれど、先客だし仕方ないかと思っていましたが、30分ほどたった頃でしょうか、「領収書は?」とか「次回までには…」などという言葉になり、となりは終わって帰りそうな雰囲気になりました。

そしてついに「ありがとうございました」という言葉とともに、イスから立ち上がったので、空いたらそちらへ移動しようと思っていたら、なんたることか、その後ろの女性と子供もその人の連れ(つまり家族)だったようで、いっぺんに私一人になりました。

普通なら、夫婦と幼児の3人が4人用のテーブルを二つも使う必要はなく、そこへ別の人間が入ってきた時点で、自分のバッグぐらいちょっと引き取って、場所を譲るものだと思いますが、そんな気配はこれっぽっちもありませんでした。
話し中のテーブル(4人がけ)にも空きイスはあったのだから、そちらにちょっと置き換えればいいだけのことですが、状況はまったく動く気配もなく、おまけに横柄さも悪意も見受けられませんから、さらにやりきれないものが残ります。

いま、こういうことがあまりにも多い気がします。
譲り合いの精神とか、お互い様の気持ちとか、そういうものがまったく欠落しているだけで、きっと普通の善人だろうと思われます。
こういうちょっとしたことで、他者へ迷惑やストレスを発生させていることを、もう少し意識するようになってほしいものですが…たぶん無理でしょうね。

ゴミの収集員にむけて袋に「いつもありがとう」と書くとか、海外でのスポーツ観戦の後、みんなできれいに掃除してゴミを持ち帰り、そっと折り鶴を置いていくといった行動に世界が大絶賛!…なんて話も聞きますが、本当に大事なことはもっと手前にあるように思えて、なんだかフーッと大きく深呼吸したくなります。

タブーとの戦い

このところ、更新のエネルギーがふっつり消えて、いろいろなことに迷っています。

ここはピアノを主軸にしたブログだから、単純にピアノおよびそれに連なることを書けばいいのですが、心情としてはなかなかそういう感じにも行かないときがあったりして、あれこれ考えさせられてしまいます。

昔は「たかだか個人ブログ」だからと気軽に考えていましたが、今は個人においても思いもよらないルールが求められ、そう無邪気には構えていられないようで、いちいち慎重にならざるを得ません。

少し大袈裟にいうなら、心の求めるまま、関心の命ずるままに書くと、そのほとんどはアウトの領域に入ってしまいます。
あるいは一生活者であればピアノ以外のことにも無関心ではいられず、以前はそういう時は素直に書いていましたが、そうすることが正しいのかどうかも、最近はよくわからないのです。
また、内容としても、どこまで踏み込んでいいのかいけないのか…といった見極めに多くのエネルギーをさいて、以前よりも言葉や表現にも数倍気を使うようになりました。

世の中は際限なく変化して、価値観や、ルールや、新常識といったものが猛スピードで変容していくから、こちらも時代の空気を嗅ぎ取りながらついて行かなくてはならないし、下手をすると、どんなことから槍玉に上がって不愉快な奈落へ落ち込むかもわからないので、その匙加減が非常に難しくなりました。

以前なら、自分が何ほどの人物でもあるまいし、ただ個人的に思ったことを個人的文章として書くのは、よほど過激なことや社会正義に反しないことであれば構わないだろうと判断していましたが、ネットというものがいよいよ怪物化してきた今日では、どこまでがボーダーラインなのか、正直言ってもうわかりません。

このところ世界で起こっている様々な出来事、プ氏が引き起した侵略戦争、隣国の脅威、北部にある異様な小国、パとイの争い、欧州の混乱、国内でも片づかない永田町の問題、東京都議選等々、そのつど思うことはいろいろあるけれど、それらはピアノとは関係ないし、そもそもそれを考えとしてまとめて文章にするほどの知見もないし、だいいち今どきはタブー(もしくはその可能性がある)とされるものがあまりに多すぎて窒息しそうになります。

もちろん一小市民のささやかな感じ方として書くことはアリかもしれませんが、そんな駄文拙文をわざわざネットに挙げる価値があるとも思えないし、あれこれと考えているうちに、ぽかんと空白地帯が生まれたように感じているこの頃です。

…と、ここまで書いてみたら、少し区切りがついた気もするので、また少しずつ書いてみようかと思います。

生産国の曖昧

3月2日にアップした拙文「共通化-追記」の終わりに、「いつの日か、スタインウェイもどこ製か伏せらてわからなくなる日がくるのかも?といった想像さえしてしまうこの頃です。」と書いたばかりですが、その杞憂はすでに到来しているのでは?…という疑念に駆られる事がありました。

YouTubeでスタインウェイ&サンズ東京を訪ねる動画は複数いろいろ存在しますが、その中に「…ん?」と思うシルエットが映りました。
これまでは、ニューヨーク製(NY)とハンブルク製(HB)を見分けるのはわけもないことで、特殊モデルは別として、近代のレギュラーモデルではそれを見誤ることはありませんでした。

ところが、最近の共通化によって、従来の違いはほぼなくなり、HBスタイルに覆い尽くされてしまいました。
かろうじて残るいくつかの違いのひとつが、大屋根を開けた時のシルエットですが、これは前屋根を開ける(折り曲げる)位置と面積の違いによるもので、その結果はNYのほうが狭くスマートなのが特徴でした。
ちなみにヤマハのコンサートグランドが、ステージ上で鈍重に見えるのも、ほぼ同じ理由からです。

言葉だけではわかりにくいので、図を作ってみました。

AとB、実は奥行きも形状もまったく同じですが、違いは前屋根部分をどこで切り分けているか、それによるカタチと面積のみ。
前屋根の面積が狭いのがA、広いのがBで、たったこれだけのことでピアノのフォルムは大きく違って見えるのです。
感じ方は人それぞれだと思いますが、私はAのほうがスマートで美しく、Bはややボテッとした重い印象となり、ファッションでいうなら、手足が長く見える着こなしと、そうではない場合の、2つの例のように見えませんか?
繰り返しますが、両方とも原形はまったく同じ寸法・形状です。

前置きが長くなりましたが、動画の店舗に並ぶピアノは、手前右のBから大きさ順に並んでいて、奥にあるのがOもしくはMだと思われますが、その大屋根の形がNYの比率のように見えたのです。
しかも上記のように、現在はNYもHB仕様のルックスになっているので、パッと見だけではわかりません。

動画出演者は店員さんと会話をしながらあれこれのモデルを試しますが、なぜかそのピアノには行き当たらないあたり、偶然かもしれないけれど、それがよけい疑念を膨らます要因の一つになりました。
実際には、購入を検討するお客さんには生産国は告知されるのかもしれないから、ここでなにかを断定することはできませんが、以前よりもずっと曖昧になっていることは間違いないような気配です。

いずれにしろ、スタインウェイ級の新品ピアノを買う人にとって、その生産国がドイツかアメリカかは、「どうでもいいこと…ではないだろう」と思うのです。
ジャーナリズム的にいうなら「知る権利の問題」というところでしょうか?

現代のピアノ生産においては、多くのメーカーで生産国の問題はかなりグレーな領域のようで、それはますます加速していくようですが、「iPhoneは中国製です、それが何か?」みたいに開き直りもピアノではできないのでしょうね。