このところまた腰が痛みだし、パソコンの前に座る時間がを減らさざるを得ず、書き込みが少なくなりました。
安静にしようと、ある随筆を読んでいると、半ば詩のようにやわらかに語られる言葉の中から、昔の情景が自然と目の前に広がってくることが何度かあり、そのたびに遠い昔に連れ戻されるようでした。
幼いころの光景がふわふわとよみがえるのは、なつかしさもあるけれど、どこかもの悲しいのはなぜでしょう…。
生まれてはじめてピアノの先生のところに行った頃のこと。
いわゆる街の先生で、親がなぜその先生につけたのかなど幼稚園の私にはまったくわかりませんでしたが、とくにピアノをさせようというような意思があったとは思えないし、子供の足でも歩いて10分ほどのところにあるというぐらいの、ごく単純な理由だったに違いありません。
先生宅は古い木造の2階建てで、ギィギィときしむ階段を登ると、グランドピアノが二階の板敷きの二間をまたいで前後の足をかけるように置かれていて、後ろ足のほうの床は階段部分にかぶっており、子供心にも不安を覚えたものです。
女の先生で、使われた教本のタイトルは思い出せないけれど、子供の目にもやたらと子供向けの、1ページに音符が一つか二つ大きく書いてあり、ページが進むごとに音符の数が少しずつ増えていくようなもので、これがもう救いようがないほどおもしろくなくて、おそらく1〜2ヶ月通ったあたりで我慢の限界。
私がいやがると、ことさら自由な感性で生きていた父は「いやならやめればいい」と言い出し、母もすんなり「そうね」と同調し、あっけなく止めてしまいました。
それでも誰から強制されるでもなく危なっかしい手つきでレコードを回してはよく聞いていたし、自己流で鍵盤に触れることはやっていたのはピアノは嫌いじゃなかったからだと思います。
自己流で少しずつあれこれ弾くマネごとのようなことをしながら、めちゃくちゃな指使いでエリーゼのためにぐらいを弾けるようになったことは我ながら笑ってしまいます。
コンサートにもよく連れられていったこともあってか、ついに自分から「ピアノを習いたい」と志願したのです。
しかし、それはすでに小学校5年生ぐらいのことで、これがいかにも遅すぎました。
ならばと連れて行かれたのが、泣く子も黙る、超スパルタ音楽院でした。
といっても、あえて厳しいところに入れようというような教育熱からではなく、院長先生と我が家とはちょっとした御縁があったし、ほかにあてもなかったからで、なにごともそんな程度の理由で物事が片付いていく時代でした。
当時、日本のピアノ教育会は井口基成氏がいわば天下人で、他には安川、永井等々いろいろとあったようですが、なにしろ井口先生にはカリスマ性があり、夫人や妹さんまでピアノ教育者として名を馳せた一族で、さらには桐朋の音楽科設立にも寄与した事もあって、当時は他を寄せ付けぬ威光がありました。
…でもそれは東京の話でしょ?と思いがちですが、福岡の院長は基成氏の直弟子たる猛女(先生)で、ご主人が実業家であったこともありそのための音楽院まで作って、飛行機が高名な先生たちをどんどん輸送しました。
まるでドラえもんのどこでもドアのように、そこはまさに井口系のピアノ道場だったのです。
というわけで、そんな環境は私に向いているわけがありません。
それでろくに練習もせず、あれこれと策を弄して逃げまわる数年間を送ったことは過去にも書いたことですが、身近に接する芸大/芸高/桐朋などを受験する生徒の腕前は大したものだったし、発表会ではなんと九州交響楽団が共演することもあり、いま思えば貴重な経験になったとは思っています。