我は巨匠なり

プレトニョフのピアニストとしての動画をいくつか見た感想…。

最近は指揮活動に一区切りついたのか、ピアニストとしての活動がお盛んなようです。

演奏そのものが若いころとはずいぶん様変わりしていることは以前にも書いた記憶がありますが、あらためて見てみて、とりわけ目につくのはステージ上での所作などの様子でした。

どこか不自然なほど、悠然と歩を進めて登場し…かたちだけ聴衆へお辞儀をして…ゆったり椅子に座り…やがて弾き始める、その一連の動作があまりにも大物風に過ぎ「自ら巨匠を気取っている」ように見えて仕方がありません。
そこらの若造と一緒にされちゃ困るよ、格が違うんだよということを、彼自身の態度によって前置きされているようで、少なくとも私個人はあまり好ましい印象とはなりません。

とくに協奏曲では、一同が待ち受けるステージへ、指揮者とともに現れますが、ソロではないぶんいよいよ大物風な気配を漂わせるのか、まったくのマイペースであたりを支配し、悠然自若とした様子を振りまくのがあまりに演技的で、可笑しささえ覚えてしまいます。

これまで、アンドラーシュ・シフのステージマナーにほんの少しその気配を感じていましたが、それどころではない。
今後、初老期を迎えたピアニストたちは、こういう風なハッタリをきかせて自分の生きる道を守っていくのか?と思ってしまって、まるで企業秘密の手の内を見てしまった感じです。

中でも驚いたのは、ベートーヴェンの第3番協奏曲で、約4分ほどのオーケストラの序奏の後に、決然と、両手のハ短調スケールでピアノが始まる、あそこで、ただでさえ芝居がかっている感じがある中、そこでみせた彼の仕草はアッと驚くものでした。

その直前まで、プレトニョフはまるで自分が指揮者であるかのように体ごとオケの方を向いており、なかば自分の出番を忘れたかのようにしています。
いよいよピアノの出番が近づき、オケのド、ド、ドーーーッ…というのが終わっても、一瞬そのままで、「エッ、、、何???」と思ったら、やおらゆっくりピアノの方を向いて、破綻寸前のところでかろうじてピアノを弾き始めます。
いやしくも本番の舞台で、これはいくらなんでも過ぎたパフォーマンスだと思いました。

プレトニョフの演奏は、すでに技術の問題はとうに超越した、高い次元に達しているよというメッセージが、どんなシロウトにもわかる調子で、ことさら一切力まず、淡々と、まるで凡人界へ大事なものを教えてやっているという色の強いものでした。

おかげで、このベートーヴェンらしい野趣も含んだ3番が、どうかすると4番のようなやわらかな音楽に聞こえたことは、ひとつの発見ではあったし、それはそれでひとつの演奏と言えなくはないでしょうが、あまりに計算された自己主張で押し通す様子は、もうちょっと自然であったなら演奏の方向としては必ずしも否定はできないもののようにも思うだけに残念です。
個人的には、演奏者には無心さがほしいのです。

別の動画では、モーツァルトの第24番もあって、こちらもハ短調であることもあって、きわめて似た感じの曲に聞こえてしまい、これがいいことなのかどうなのかは私にはよくわかりませんが。

これらの演奏を聴いていると、なぜプレトニョフがSKを選ぶのかがわかるような気がします。
もっと積極的な演奏で成果を出すスタインウェイでは、なかなかこのようにはいかないのだろうと思うと、たしかに自分に合った楽器選びは大切なことだと思います。
ところ構わずピアノを準備しなくちゃいけないカワイも大変だろうなぁと思います。

シューベルティアーデ

BSのプレミアムシアターでピレシュを中心とした、『シューベルティアーデ』の様子が放映されました。
会場はパリのフィルハーモニー・ド・パリ。

ステージのやや左にピアノが置かれ、その傍らには、テーブルを囲んで椅子に腰掛けた男女パフォーマー達が訳ありげな様子に佇み、聴く楽しみにほどよい視覚の楽しみを加えた、なかなか面白いアイデアだと思いました。

クラシックのコンサートは(わけてもソロの演奏では)、ステージ上にソリストがポツンと居てひたすら演奏に打ち込み、それを身じろぎもせず聴くというのが当たり前で、これはちょっとした加減で一転、耐え難い苦行にもなるスタイルです。
演奏者以外に見るものがなく、時に集中力が切れたり、魅力的な音楽がかえって損ねられたり、変な違和感に襲われたりといったことがしばしばあるのも告白しなければなりません。

同じ曲でも、たとえば映画の中で効果的に用いられたりすると、その感動たるや何倍にも膨れ上がって鳥肌が立ち、ひとつのパッセージが心の内に深く迫ってくることがあります。
素晴らしい作品を、素晴らしい演奏によって披露されても、どうも虚しい退嬰的な時間のように感じることが私はないといえばウソになり、そもそも音楽はもう少しほぐれた雰囲気の中で聴けたらというのは、しばしば思うところだったのですが、この時の試みは、そのひとつの回答のような気がしたのです。

そのパフォーマーたちの動きは、まるでお能のように、その動きは極めてスローな最低限の動きで、決して音楽を邪魔するようなものでなかったことも好感が持てました。

個人的にコラボなどに代表される表層的な合体行為あまり好まないけれど、あくまで音楽を聴くことに主軸が置かれ、しかし音楽一辺倒の退屈さをガス抜きできる手立てとしての、こういうスタイルはなかなかいいなぁと感心しました。

印象に残ったのは、冬の旅からの二曲、弦楽四重奏曲の「死と乙女」──これは圧巻の演奏でした──、最後のピアノ・ソナタD.960のあの絶望の淵に落とし込まれる第二楽章で、上半身裸体の男性が金属の翼をつけた扮装で、ピアニストの背後まで迫ってくるのは、まるで天使か死神かわからないけれども息をのむ演出でした。

出演は、ピレシュの他に、イグナシ・カンブラ/トーマス・エンコ(ピアノ)、トーマス・ハンフリーズ(バリトン)、エルメス四重奏団。

ピレシュは、いかにも良心的な音楽作りで、とくにピアノソナタはかなり弾き込んでいると思われ、見事な演奏ではあったけれど、やはり気になるのは、どこか清貧的で、みずみずしさの要素は不足気味に感じます。
かと思うと、それにしてはドラマティックな表現は随所にあって、その際には他に見られるような抑制感がなく、ちょっと大げさな芝居っ気のある節回しは過大に聞こえることがしばしば。

気になるといえば、ピレシュ独特のタッチも何度聴いても気にかかり、注意深く丁寧に奏してほしい箇所でも、手を上げて、上からタッタッタッタッという、音色の配慮を欠いた雑な音が頻繁に出てくるのは、ほかが素晴らしいだけに目立つ気がします。

ほかの二人のピアニストも、おそらくはピレシュの弟子と思われ、それはこのタッタッタッタッという音や、手首から先全体を使う独特な奏法が、ピレシュのそれとそっくりで、そこまで師匠の奏法を踏襲する必要があるのか?は疑問。
まず第一に、ピレシュの奏法は小柄な体格と小さな手のサイズをカバーするために編み出されたものと考えられるので、普通の手のサイズをもった男性ピアニストまで同じ弾き方をして、わざわざ叩くような音を出すのは、なぜだかわからない。

ピレシュは何年か前に引退宣言をしたけれど、相変わらずステージに立っていて、私の印象だけかもしれませんが、ご贔屓だったヤマハを弾く姿は目にすることがなくなり、専らスタインウェイばかり弾いているようです。

ガジェヴ

このところ、BSのクラシック倶楽部その他で、立て続けにアレクサンダー・ガジェヴの演奏に接しました。
日本では前回ショパンコンクールで、反田さんと2位を分け合ったピアニストというほうがわかりやすいかもしれません。

東京音大を訪ねて学生たちとの対話をしたり、主には同校ホールでの演奏会の様子が収録され、放送は2回に及ぶものでした。
プログラムもずいぶんと狙いのあるもののような雰囲気で、意欲を示した取り組みだったと思われますが、何をどう聴いたらいいのかもうひとつ掴めなかった…というのが個人的に正直なところ。

リスト編曲のベートーヴェン交響曲第7番の第二楽章とか、リストの葬送、スクリャービンのエチュードや黒ミサ、コリリャーノのオスティナートによる幻想曲、ベートーヴェンのエロイカ変奏曲、さらにはショパンのプレリュードから数曲を通常とは逆方向に並べて弾くなど、あれこれと風変わりなものでした。
全体にほの暗い、死の気配を滲ませたようなものだったのかもしれません。

ただ曲を弾くだけのピアニストではないんだぞという、アーティストとしての思索やテーマ性が込められているようでしたが、鈍感な私には音楽的に何をどのように言いたかったのかよくわからなかったし、学生さんたちとの会話も、こう言っては申し訳ないけれどごくありきたりなものにしか思えませんでした。
これとは別に、N響との共演で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番も聴きました。

ガジェヴの演奏については、全体に曲のフォルムがすっきりしており、一定のセンスのある人だとは思うけれど、どれを聴いても一様に彫りの深さが感じられず、もっぱら軽いテイストのピアニストという印象です。
今どきの基準でいうと、とりたてて技巧的というわけでもないし、そうかといって個性的とか、深いオリジナリティや芸術性で勝負しているわけでもなく、要するにこの人でないと、という印象が残らないのは惜しい気がします。
イタリア人で風貌の点からしても、いかにも深沈型の哲学者のような感じに見えますが、おもいのほかあっさりしていて、あえて云うなら軽い水彩画のような演奏のようにも思います。

とくに気にかかる点としては、音楽では随所に存在する転調や和声や表情が切り替わるポイントというか、部位の取扱いで、明暗や景色を変えるなど、曲中の場面転換に対しての注意深さがあまりなく、いつもそのままススッと通過してしまうところに、どうにも物足りないものを覚えます。
こういう要所は音楽を聴く上での大事なツボであるのに、それがとくにマーキングされないままあっけなく通過してしまうのが、信号のない交差点を速度を落とさず走り去るみたいで、これはどの曲を聞いている場合にも共通して感じるところでした。

また、折々にかなり情熱的な弾き方をすることもあるにもかかわらず、終わってみると、さほど情熱的な演奏に接したような気分が残らず、むしろ淡白な印象だけになってしまうあたりは、なんとも不思議でなりません。
どんなに熱っぽく弾いても、結果的にそういうものしか残らないというのは、要するにこの人の本質が淡白な良さにあるということかもしれません。
本当におしゃれな人は、どんなに泥臭くふるまっても、どこかおしゃれなところが顔を覗かせてしまうように。

ガジェヴは、2015年に浜松コンクールで優勝しており、その時からのご縁なのかどうかしらないけれど、ショパン・コンクールのときも私の記憶違いでなければシゲルカワイを弾いていて、その後来日してTVなどに出演した折にもスタジオでSKを弾いていたけれど、今回はいずれもスタインウェイでした。
ほかならぬSKの祖国である日本であるだけに、なんだか不思議でしたが、宗旨変えしたのか、たまたまなのか、はたまた別な事情があるのか…。

危険

ピアノの話でも音楽のことでもないのですが…ちょっとした恐怖体験をしたので。

私は肌があまり強くないこともあり、ここ数年は入浴時にはオリーブオイルから抽出したという、輸入物で不格好な茶色の石鹸を使っています。
といっても高価なものではなく、この手のものの中では安物の部類で、普通の石鹸よりはわずかに値がはるといった程度のものです。

おかげで肌荒れなどはせずに済んでいるものの、普通の石鹸のように使いやすく面取りなどされていないので、そのぶん使いやすい形にこなれてくるまでが大変で、どうかすると小さくなったもののほうが使いやすいのですが、じきに角が取れてくるとやがて小さい方は出番がなくなります。
しかし捨ててしまうのはどうにも気が進まないし、さりとて大きい方にくっつけようにも平面ではないため、これがまたなかなか思うようになりません。

なにか良い方法はないかとYouTubeを見てみると、「この手の石鹸は大きいので電子レンジで温めて使いやすい大きさにカットできますよ」とか「同時に小さくなった石鹸も容易に接着できます」というのがあったので、「ああ、なるほど!」とひとり合点して、動画をよく見ぬまま小さくなった石鹸を、小皿に乗せてチンすべく、すんなりスイッチを押してしまいました。

その間、キッチンで他事にかまけていると、電子レンジの方から唐突に「ボンッ!!!」という大きな音がしてびっくり仰天。
あわてて駆け寄ると、中はまったく見えないまでに白い煙で充満しており、しかもレンジはまだ作動中なので、恐怖におののきながら必死にスイッチをOFFにし、すぐまたそこから離れました。

なにかしくじってしまったらしいことは明らかで、レンジのドアを開けるのも恐ろしくて躊躇われましたが、だからといってとてもこのままというわけにもいかず、ゴクンと唾を飲み込むようにしておずおずとドアを開けると、凄まじい量の白い煙と鼻を突くような異臭が猛然とこちらへ襲いかかってきました。

キッチンは警報機が作動するのでは?と思うほど容赦なく煙が流れだし、しばらくは近辺の視界が効かないほどで、臭いもかなりのもの、とりあえず最寄りの窓を開けながら、これはえらいことになったという認識が遅れて付いてくるようでした。

意を決してようやく中を覗くと、皿は見事に三つに割れていて、中に置いたはずの小さな石鹸はまるで姿を消しており、代わりにコールタールのようなどぎつい茶色の液体がだらしなくそこらに広がっていました。
割れた皿を取り出そうとすると、これがまた信じられないほどの高温に熱されており、回収作業にはかなりの手間を要することに。

考えてみれば、石鹸は油からできているわけだから、ひとえに自分の短慮を恥じるばかりですが、容易にYouTubeの主張を短絡的に捉え、鵜呑みにしたことにも非があります。

幸い怪我などはありませんでしたが、下手をすれば大事にもなりかねないことで、危ないところでした。
というわけで、馬鹿なことをしたおかげでかなりな危険を感じましたので、私の阿呆さ加減をどうぞお笑いください。