シューベルティアーデ

BSのプレミアムシアターでピレシュを中心とした、『シューベルティアーデ』の様子が放映されました。
会場はパリのフィルハーモニー・ド・パリ。

ステージのやや左にピアノが置かれ、その傍らには、テーブルを囲んで椅子に腰掛けた男女パフォーマー達が訳ありげな様子に佇み、聴く楽しみにほどよい視覚の楽しみを加えた、なかなか面白いアイデアだと思いました。

クラシックのコンサートは(わけてもソロの演奏では)、ステージ上にソリストがポツンと居てひたすら演奏に打ち込み、それを身じろぎもせず聴くというのが当たり前で、これはちょっとした加減で一転、耐え難い苦行にもなるスタイルです。
演奏者以外に見るものがなく、時に集中力が切れたり、魅力的な音楽がかえって損ねられたり、変な違和感に襲われたりといったことがしばしばあるのも告白しなければなりません。

同じ曲でも、たとえば映画の中で効果的に用いられたりすると、その感動たるや何倍にも膨れ上がって鳥肌が立ち、ひとつのパッセージが心の内に深く迫ってくることがあります。
素晴らしい作品を、素晴らしい演奏によって披露されても、どうも虚しい退嬰的な時間のように感じることが私はないといえばウソになり、そもそも音楽はもう少しほぐれた雰囲気の中で聴けたらというのは、しばしば思うところだったのですが、この時の試みは、そのひとつの回答のような気がしたのです。

そのパフォーマーたちの動きは、まるでお能のように、その動きは極めてスローな最低限の動きで、決して音楽を邪魔するようなものでなかったことも好感が持てました。

個人的にコラボなどに代表される表層的な合体行為あまり好まないけれど、あくまで音楽を聴くことに主軸が置かれ、しかし音楽一辺倒の退屈さをガス抜きできる手立てとしての、こういうスタイルはなかなかいいなぁと感心しました。

印象に残ったのは、冬の旅からの二曲、弦楽四重奏曲の「死と乙女」──これは圧巻の演奏でした──、最後のピアノ・ソナタD.960のあの絶望の淵に落とし込まれる第二楽章で、上半身裸体の男性が金属の翼をつけた扮装で、ピアニストの背後まで迫ってくるのは、まるで天使か死神かわからないけれども息をのむ演出でした。

出演は、ピレシュの他に、イグナシ・カンブラ/トーマス・エンコ(ピアノ)、トーマス・ハンフリーズ(バリトン)、エルメス四重奏団。

ピレシュは、いかにも良心的な音楽作りで、とくにピアノソナタはかなり弾き込んでいると思われ、見事な演奏ではあったけれど、やはり気になるのは、どこか清貧的で、みずみずしさの要素は不足気味に感じます。
かと思うと、それにしてはドラマティックな表現は随所にあって、その際には他に見られるような抑制感がなく、ちょっと大げさな芝居っ気のある節回しは過大に聞こえることがしばしば。

気になるといえば、ピレシュ独特のタッチも何度聴いても気にかかり、注意深く丁寧に奏してほしい箇所でも、手を上げて、上からタッタッタッタッという、音色の配慮を欠いた雑な音が頻繁に出てくるのは、ほかが素晴らしいだけに目立つ気がします。

ほかの二人のピアニストも、おそらくはピレシュの弟子と思われ、それはこのタッタッタッタッという音や、手首から先全体を使う独特な奏法が、ピレシュのそれとそっくりで、そこまで師匠の奏法を踏襲する必要があるのか?は疑問。
まず第一に、ピレシュの奏法は小柄な体格と小さな手のサイズをカバーするために編み出されたものと考えられるので、普通の手のサイズをもった男性ピアニストまで同じ弾き方をして、わざわざ叩くような音を出すのは、なぜだかわからない。

ピレシュは何年か前に引退宣言をしたけれど、相変わらずステージに立っていて、私の印象だけかもしれませんが、ご贔屓だったヤマハを弾く姿は目にすることがなくなり、専らスタインウェイばかり弾いているようです。