トリフォノフ-2

前回は、ドキュメントだけを見て、それに続く演奏会の様子は見ないで書いていたけれど、少しは演奏を聴かなくてはダメだろうと思い直し、今年のサントリーホールでのコンサートの様子をいちおう聴いてみることにしました。
よっこらしょと再生ボタンを押したところ、ドキュメントで見るよりは例のヒゲも多少は整えられ、シャワーでも浴びてきたのか、だいぶこざっぱりした感じ。

ラモーのクラヴサン曲集やモーツァルト、メンデルスゾーンなどはいつものごとくでときめかなかったのが、ベートーヴェンに至って状況が一変しました。
この日のメインと思しきハンマークラヴィア・ソナタは、始まるやいなや「ん?」となって、いままでになくこちらに迫るものを感じて、思わず集中力が高まりました。

たっぷりとした幅というか、堂に入った恰幅のある演奏で、開始早々から新鮮な印象を覚えたのです。
ベートーヴェンらしい雄渾さがありながら、ただ力で押し切るのではなく随所にデリカシーが息づき、それが的を射ているため曲と演奏が落ちるところへ落ちて、嵌まるところへ嵌まっていくあたりは、視界が開けてゆくようで、多少誇張的にいうなら、フルトヴェングラーなどを連想させるところがあり、こういうこともあるのか!と思いました。

概して多くのピアニストの場合、ハンマークラヴィアという巨峰へ挑むにあたり、さまざまに気負いがあるのは当然としても、この巨きく難解さも内包した作品をできるだけ我が手に掴もうと、説明的圧縮的に弾く人が少なくないように感じますが、トリフォノフはそういうものにはまるで関心がないのか、その場その瞬間をじっくりとあらわし、どれだけ時間を費やそうとも、一向お構いなしに作品を通して吐露することを厭わず、それが細部の魅力を大いに際だたせていたのは、立派だったと感じました。
ピアノ・ソナタというよりシンフォニーようでもあり、もっぱらファンタジーをもって牽引されていくようなやり方に好感と驚きがありました。

ただ、第2楽章は思ったほどではなく、トリフォノフ自身かロシア人故かはわからないけれど、遊びとか諧謔的な表現は得意ではない感じも。
さらに長大な第3楽章は、トリフォノフの世界と相性が合ったのか、そこにひとつの幽玄な世界が現出して、たなびくような弱音が果てしもなく続く様子が、後期の弦楽四重奏を想起させたりで、これはこれだなぁと言う気が…。
第4楽章はやや混沌とし、疲れもあるのか、しだいにスタート時点にあった軸がだんだん崩れていくようでもあったけれど、それでも退屈することなしに聴き終えることができたのは思いもよらないことでした。

今回の収穫は初めてトリフォノフの演奏を楽しむことができたことと、加えて、即興の名人といわれたベートーヴェンの一面を実感的にわかりやすく感じられたことかもしれません。
とくに第3楽章では、ちょうど心に憂いのある人の話が長引いて、本人も止めようとするもどうにも制御できず、いよいよ和声が収束に向かおうとすると、またあちらこちらへと話が広がる方へ動き出してしまって、脆くて、淡い、淋しげな独白が延々と続くあたりは、傷んだ心があてどなく延々とさまよい続けるようで、それがベートーヴェン的でもあったし、それを演奏として変にまとめようと処理することをせず、包み隠さず露わに伝える演奏だったと思いました。

第3〜4楽章は、ベートーヴェン自身もこれという設計や構成があったのかどうかは知りませんが、イメージとしてはどこか行き当たりばったりで、それを後から何度もお得意の推敲で仕上げて、いずれとも言えない曖昧なものを音符として確定させたのだろうという感じがあり、それを耳で体験することができたのは、これはひとえにこのピアニストのおかげだろうと思いました。

残念だったのは、あとで聴き返しても、やはり第1楽章が断然素晴らしく迷いなく仕上がった演奏であったのに対して、2/3/4はやや生煮えの印象だったことです。が、しかし、同時に作品自体も、それほど完成度が高いものとは思えないところがあって、作曲者自身も疲労困憊のあげく終わりへと漕ぎつけるようでもあり、そういうところが感じられたことも今回の演奏の魅力だったのだろうと思います。

前回の続きでいうと、トリフォノフはとくに前髪がおどろくほど長く、しかも演奏に没入すればするだけ背中を丸めて前かがみになるため、どうかすると手の甲へ毛先が接触するようで、やはり刺激的なビジュアルでした。

ピアノはファツィオリのF278で、ハンマークラヴィアのような曲ではこのピアノの特徴であるパステルな音色と、地響きのするような低音はまるでコントラバスのようで、なるほど現代のスタインウェイではこういう味は出なかったのかもしれないと思いました。

トリフォノフ見るたび

腰の具合が長引いて、座る姿勢が保ちにくいのですっかりご無沙汰してしまいました。

すこし前、BSプレミアムでダニール・トリフォノフのドキュメント映像が放送されました。

正直いうと、私はトリフォノフの演奏のどこがそんなにも素晴らしいのか、あまりよくわからず、それでも絶賛する向きもあるようで、少しでもそれを掴みたい気持ちもあってこの映像と向き合いました。

あんなに言葉を尽くされ、焦点を当ててドキュメントフィルムになるということは、こちらにそれを解する耳がないといえばそれまでですが、置き去りにされたような気分にもなるのです。
演奏への理解が最優先ではあるけれど、彼の風貌もどちらかというと苦手であることも、そこに拍車をかけているかもしれません。

2010年のショパンコンクールに上位入賞して、しばらくはロシアの美青年といった風な感じでいたけれど、演奏の様子はちょっと独特なところがあるし、加えて近年は髭を生やしたことで、そのイメージはますます特異なものになりました。

たかがヒゲぐらい、外国人男性なら今どき少しも珍しいことではないけれど、トリフォノフはそれがやけに特徴的に映るのは私だけでしょうか?

このフィルムのインタビューでも、わざわざヒゲのことについて質問されているところをみると、やはり外国人から見ても少しそんな印象があるのかなぁ?と思ったり。
思わず答えに興味をもったものの、明確な答えはありませんでした。

トリフォノフのヒゲの生やし方は顔の下半分が真っ黒になるほど盛大なもので、まるでびっしりと蜂の大群かなにかが群がっているよう。

対照的に頭髪はえらく直毛で、細いそうめんが垂れ下がっているようで、それと硬いヒゲとの対比がいよいよ独特に感じます。
さらにロシア人特有のほとんど笑顔のない沈鬱さが加わることで、それはもう怪僧ラスプーチンのよう…。

それを忘れさせるほど演奏に集中できればいいのだけれど、私には残念ながらそうもいかないため、どうしても意識が散って、あれこれと観察に及んでしまうと、やはり気にかかってしまいます。

ピアニストは演奏で勝負するものだから演奏のみで語るべきという大原則はあるわけですが、そうはいってもやはり視覚的な要素も完全に排除はできないというのが、人間の正直な心じゃないかとも思います。

知り合いには、この点を盛大に主張して憚らない人が居ますが、例えばラドゥ・ルプーなどはどれほど演奏が優れていようが、あの風采を見ただけでまったく受け付けない!とバッサリ切り捨ててしまいます。
これはいささか極端と思ったけれど、人の抱く感情はそれぞれだから、それもわからないでもありません。

また、素晴らしい演奏をしても存在感その他で、演奏に見合った地位を得られないピアニストも現実にいるというのは否定できませんし、一時期より下火になった気もしますが、日本人女性演奏者のお姫様スタイルも、やはりビジュアルが引き起こす問題のひとつです。

どれだけ「見た目じゃないんだ!」と言ってみたところで、やっぱりそれは一要素であることも事実でしょう。

宝塚の男役みたいだったアヴデーエワも、基本路線は変わらないけれど、最近では多少やわらかな雰囲気に微修正してきているようにも感じるし、相変わらずなのは、ユジャ・ワンなどでしょうか。
相変わらず水着のような衣装と、床に突き刺さりそうな鋭利で高いヒールの靴をはき、ひょこひょこ歩きでステージに出てくるスタイルはいまもって堅持しているようだけれど、だれであれ、もう少し音楽に集中できるものであったほうが、私などにはありがたいと思います。

谷昴登さん

9月終わりのEテレ・クラシック音楽館では、鹿児島県で45年間続く霧島国際音楽祭のオーケストラによる東京公演の様子が放送されました。
プログラムは、ワーグナー:トリスタンとイゾルデから前奏曲と愛の死、リスト:ピアノ協奏曲第1番、ストラヴィンスキー:春の祭典。

ピアノは谷昴登(たに あきと)さんという、初めて聴く若手でした。
どういう人なのかネットを見ても、近ごろは年齢や出身地があまり書かれないことが多く、これも時代の傾向なのかと思いますが、どうやら北九州市の出身らしいことがかすかにわかりました。
とはいえ、私が経歴で見たいのは、主に年齢と出身地と修行歴ぐらいなもので、問題は演奏であることは云うまでもありません。

リストの協奏曲第1番のピアノの出だしは、有名な両手オクターブの跳躍ですが、今どきにしてはどこか普通とはちがった趣があり、ここからまず「おや?」と思いました。
聴き進むにしたがって、いわゆる通俗的なリスト臭というか、リスト的演歌調ではない、全体に品位を感じる演奏で、今どきの若い人にしては、自分の感じたことを丁寧に表現していく感じが新鮮でした。
少なくとも、ありきたりな演奏情報のコピーで小賢しくまとめ上げたものではなくて、自分の感性の命じるものが前面に出て、その感性に忠実に演奏へと移されている印象を受けたのは好感が持てました。

ときに左右が微妙にずれてでも、バスを強調したりメロディーを際だたせたりするやり方は、最近では珍しいことで、広く跋扈するトレンドに乗らず、こういう人も出てくるようになったのかと思うと、少し救われる気がしました。

どこかまだ、コンチェルトなどの場数が少ない感じは否めなかったけれど、それは初々しさと受け取っておこうと思います。

最近はコンチェルトが終わっても、ソリストは必ずアンコールをすることが常態化しているようで、それもどうかと思う面があるけれど、とはいえ義務は果たしたとばかりにつんと引っ込んでしまうよりは、後にひとつ何か披露されることは楽しみでもあるのも正直なところで、まあ演奏家もサービス業の一面はあるのだから、それも仕方がないと思います。

この時の谷さんもご多分に漏れず、アンコールとしてピアノの前に座りましたが、弾きだしたのはなんと、ペトルーシュカからの3楽章から冒頭の第1楽章で、これはいささか違和感を感じざるを得ませんでした。
説得力のある、上手い説明はできないけれど、個人的なイメージではあれはアンコールに弾くものではないという感覚があって、直前のリストが好感をもって聴き終えたところへ、いきなり腕自慢の調子が混ざってきたのは甚だ残念な流れでした。

好意的に解釈すれば、この後に予定されるオーケストラの曲目が「春の祭典」だったから、ストラヴィンスキー繋がりにしたんだということかもしれませんが、アンコールはあくまで本編の後に付け加えるもので、先駆けるものではないと思うのです。

まあそんなところもあったけれど、リストはいい演奏だったと思ったし、ピアノもサントリーホールなら新しい楽器もあったでしょうに、少し弾き込まれた感じの、やや派手な音のするピアノでした。

最近は、以前より華やかでメタリックな感じのピアノがやや陰をひそめ、新しめの楽器のいかにも粒の揃った、柔らかさのあるピアノが使われるのはいいけれど、どこか精巧なマシンで生産された感じの、電子ピアノ的にあまりに整ったピアノが多く、そこへ今どきの無機質な演奏が加わってくるのは、毒も味もなく、ちっともおもしろくありませんが、久々に楽しめた印象ではありました。