草野政眞さんCD

草野政眞さんのCD7枚を一通り聴き終えるのには、一枚を何度も繰り返して聴くため1ヶ月ちかくかかりました。
期待にたがわぬ感銘三嘆の連続でしたが、同時に音楽を聴く意味や価値について、何度も問い返してみるきっかけにもなりました。

クラシック演奏にまつわる永遠の課題のひとつは、作品か演奏かというテーマだろうと思いますが、その結論を出すことは不可能で、作品そのものに深い感銘を覚えることもあれば、演奏が放つ圧倒的魅力に心を奪われることもあり、草野さんの演奏に触れるとそのは判断は後者に大きく振られます。

演奏のエネルギーが作品構造に融け合って同一の呼吸となったように思えるとき、作品は大きく目の前に立ち現われ、一陣の風や光となって躰を通過していく快感は何物にも代えがたいものがあります。
優れた演奏とは、否応なく聴き手が吸い寄せられ、音の恍惚郷へと強引に拉致されてしまう魔力があり、その独特な充実と満足はほとんど生理的なものかもしれません。

草野さんはレコーディングを好まれず、音源はすべてライブ、すなわち一発勝負の演奏に限られます。
したがって必ずしも最上の音質ではないし、キズやミスもあるけれど、それが却って凄みにもなって、ピアニストが演奏にかける気迫とか、やり直しの効かない緊張感までが記録されているようです。

現在のクラシック演奏の有り様は、まずこの点があまりに軽視されており、見てくればかりで食べる人のことを考えない冷凍食品のようで、演奏家は自ら演奏の芸術的内実に対してあまりに鈍感であり過ぎるのは、甚だ憂慮すべき状態なのではないでしょうか。

有名な国会議員が環境大臣時代に場違いなセクシー発言をして失笑をかいましたが、端的にいって音楽こそもっとセクシーで肉体的であるべきではないかと思います。

草野さんの演奏の真髄を一言で表すことは難しく、私などにできることではないけれど、ピアノ演奏に対する厳しい美意識と、聴く者の神経を覚醒させる強力なドライブ感がすべての演奏に貫かれ、楽曲が見晴らしよく一気呵成に体験できるのは、爽快で、充実して、ひりひりして、まるで自分が何かを達成したかのような錯覚さえ味わえるようです。

ピアノは分厚く咆哮し、繊細さと磊落さが互いを牽制し合い、常に一貫した音楽表現に徹する演奏姿勢には草野さんの壮烈なダンディズムさえ感じます。
表情や歌いこみなどは過度に陥らず、一見平静な節度を保っているけれど、聴こえるすべては草野さんの胸の深いところをくぐり抜けてきた音であり、このピアニストならではの矜持や孤独がいろいろに滲んでいます。

真の芸術は、すべてとはいわないけれど、その大半は悲しみに縁取られているもので、だからかどうかわかりませんが、草野さんのピアノを聴いていると、なぜか涙があふれそうになる瞬間がたびたび訪れました。

話が少し逸れるようですが、昨年は美術史家の高階秀爾氏がお亡くなりになったことを年末の日曜美術館で知りました。
日本に西洋美術を紹介された重鎮で、美術愛好家のバイブルにも近い著作も多く現した方で、ちょうど音楽における吉田秀和氏のようなものではないかと私は勝手に思っています。

東大出身で、若いころヨーロッパを周遊し、存分に本物を躰に叩き込んで帰国、その後は日本で多大な貢献をされ、後年は文化勲章受賞という点でも共通してます。
高階氏いわく、絵にはただ美しいとか綺麗だということだけでなく、作品に描かれたものは当時の歴史の証人でもあり、それを読み解くところにも価値があると仰せでした。

音楽の場合、数々の楽曲だけでなく、個々の演奏も時代ごとに咲いた作品だと私は思っています。
悲しいかな、音楽は時間芸術という宿命によって、作品は発生と同時に消えていくものだから、録音に託すより手段がありませんが…。

ざっと50年ごとに見ても、演奏には各時代の空気や価値観が克明に刻みつけられていており、21世紀の演奏は、音楽においても経済至上主義、情報化と合理化の波に洗われた市場原理で動いていることを見ても、高階氏の主張に合致します。
メディアの発達で世界は急速に結び合わされ、大衆社会は極まって、オリンピックは商業主義に堕し、音楽、映画、スポーツ、出版などあらゆるものが経済主導のデータやランキングの呪縛から逃れることができなくなりました。
すなわち孤高や異端といった存在さえ消え去り、話題の演奏家は主要コンクールの上位入賞者の独壇場と化し、真の芸術家が立つべき場所まで削り取られてしまいました。

番組最後に高階さんのお言葉で印象的な一言が流されました。
「文化の灯というものは、けっして絶やしてはならないもの」という肉声で、いかにもその通りだとは思うけれど、さてこれを現在のクラシック音楽の有り様に引き移してみると、文化の灯が消えかかってはいないか…という切実な恐怖に慄きます。

今どきの演奏に少しでも違和感のある人は、草野さんの演奏を聴くことで、いつの間にか消え去ってしまったものの相当量を取り戻すことができ、一時的にもせよ、カラカラに干からびた精神は久々の水や養分の補給を得て、いっときでも活き返る気がします。

何を聴いても感激しないようになったことを、自分の歳やセンサーの劣化のせいかと思っていたら、幸いそうではないらしく、いつでも敏感に反応できる準備はまだ備わっていたことがわかって自分でも嬉しくなりました。

かつて、真に心を打つ感動的な演奏が存在し、それに興奮したことは、錯覚でも昔語りでもなく、間違いではなかったことを思い出し確認するためにも、草野政眞さんの演奏に接することは大きな意味があり、そこに行けば有無を言わさぬ世界が待っているのは極めて貴重なことだと思います。

こう書きながら、手許にあるCDは容易く聴けるものではないことを考えると、なんとかならないものかなぁ…と思います。

再放送から-2

▼務川慧悟
他日の再放送、「岡本誠司バイオリンリサイタル」では、ピアノを務川慧悟さんが務めていました。
ベートーヴェンのVnソナタ第10番、シューベルトの幻想曲D934という奥深い二曲が並んで、たいへん見事な演奏だったと思います。

ここに聴く務川さんのピアノは、ソロ以上に感服するところがあり、丁寧な仕上げの縫製品のようなピアノパートがヴァイオリンに寄り添うようで、質の高い音楽が紡がれました。
ピアノとヴァイオリンがユニゾンで同じ音型をなぞるときなど、ヴァイオリンのわずかな息遣いにさえ吸いつくごとく合わさって、はじめのベートーヴェンの第一楽章を聴いただけでも、いいものに触れているという満足を覚えました。
こういう演奏はそうざらにあるものではなく、ごく自然に耳が傾いてしまいます。

務川さんのピアノは、今どきの完璧を目指すもどこか空疎な演奏とは少し趣が違っており、演奏の源泉は自らの感性に依ってきたることが伝わってくるもの。
礼儀正しい人に接すると気持ちがいいように、音楽のマナーや様式美がしっかりしていて、演奏の立ち居振る舞いがよく、それでいてさりげない奥深さがあります。

タッチはクリアで明快だけれど、そこに情感と陰影が途切れることなく活動しているから、今どきのドライなピアニストとは一線を画するものがあり、気品ある演奏として仕上がっているように感じます。
そしてそれは、このようなデュオのときにより顕著となるのか…とも思ったり。

ピアノのソロは、正真正銘自分ひとりがすべてを請け負い、全責任を背負う過酷なパフォーマンスだから、その集中力たるや尋常なものではないはずで、そのためには莫大なエネルギーを消費するはず。
それがデュオになることで、全責任の縛りからわずかに開放され、そのわずかのところで呼吸を整え、折々にリフレッシュできるという効果があるのかもしれません。

テンポもむやみに急がず落ち着いているし、細部には切れ目なくデリカシーがかよって、しかも息苦しくないという、なかなか大したものだと思います。
そして良い演奏を聴いた後というのは、それが終わっても耳の内側に記憶とも余韻ともつかないものが残り、そういうときに音楽の不思議な力が生きづいていること思わずにはいられません。

務川さんのことばかりになりましたが、岡本誠司さんもとても音楽的礼節のある演奏で、これほど質の高いデュオはそうそうないものと思います。
残念だったのは、このソナタの中でも美しい第2楽章がカットされ、いきなり第4楽章になってしまったのには、おもわず天を見上げてしまいました。

会場は浜離宮朝日ホール、ピアノはベーゼンドルファー。
てっきり新しい280VCだろうと思っていたのが、このメーカーの伝統のトーンが思いの外よく表れているから、なんだかんだといいながら血は争えないものだなぁ…と思っていら、よくよく細部をみると旧い275で、どうりでと納得でした。

ベーゼンドルファーは、ピアニストのタッチ感を際立たせる粒立ちがあり、古楽器的なニュアンスも併せ持つためか、弦楽器と合わせるとき素朴な鍵盤楽器らしさがあり、これはこれで見識ある選択だと思いました。
ベーゼンドルファーの魅力というと木の音の温もり云々…とする意見が大勢で、それも頷けるけれど、誤解を恐れず言うと個人的には良い意味での「どぎつさ」にあるとも思います。
京都とかウィーンのような古都には、そういう説明のできない何物かが棲んでいるのかも…。

演奏以外でちょっと目についたのは、拍手に応える二人の様子。
それぞれに相手を立てて譲り合い、何度も互いに拍手を送り合う姿は、もちろんそれは奥ゆかしくて素敵なことではあるけれど、何度も何度も「あなたが、あなたが」の譲り合いのゼスチャーを繰り返れると、さすがにくどい感じを受けました。
デュオなんだから、もっと普通に、二人並んで素直に答礼してもらったほうが、拍手する側も嬉しいのではないか?と私は思います。

再放送から-1

BSプレミアムのクラシック倶楽部では再放送もよくあって、一度目は見過ごしていたものなど、あらたに聴いてみるきっかけになることも珍しくありません。

▼キーシン
2021年のザルツブルク音楽祭からキーシンのリサイタルが放送され、これは以前フルバージョンを視たような覚えがありましたが、抜粋が放送されたので再びその演奏に接することに。
ベルクのソナタ、ほかにフレンニコフ、ガーシュウィンと、オーストリア、ロシア、アメリカをまわってショパンに至り、アンコールは自作のドデカフォニック・タンゴとかいうもの。

なんだかよくわからないプログラムで、私自身ベルクなどは苦手な上、さらにキーシンとベルクというのもしっくり来ない気がするし、フレンニコフやガーシュインはあまり気を入れて聞く気になれず、ショパンに至っても意外やその気分が切り替わることはありませんでした。
充実した演奏というものは、演奏家と、作品と、鑑賞者の3つの要素が円満な形になった時だと思いますが、残念ながらそのようには思えない齟齬があり、それはついに一度も解消されることはなかったように感じました。

12歳で世界に衝撃を走らせたキーシンも、このとき概ね50歳と知ると、それだけ時が流れたことを知らされます。
真の天才は、若くして異常に老成して完成されており、青年期を過ぎても良くも悪くもあまり変わらないという研究もあるようですが、たしかに彼の音楽はある地点で止まっている感じを受けなくもありません。
10代から青年期にかけては、眩いばかりに溢れる天与の才と、多感で痛々しいまでの感受性に吐露しながらストレートに弾いていて、それがキーシンの抗し難い魅力であったけれど、それ以降は妙に深沈的になって、それが却って普遍性を失っていった気がします。

50歳になるキーシンのピアノは、彼自身はウソのない真摯な演奏をしているのだろうけれど、いち鑑賞者の立場でいうと、やけにねっとりこってり、重ったるいイントネーションにとめどなく付き合わされているようでした。
ところどころにはキーシンならではの充実した色艶があるし、可憐な旋律の歌い上げも健在だけれど、全体にはいささか胃もたれするところがあり、近年よく耳にする若い演奏家が、さほど個性的ではないにせよ、力まないスッキリした演奏を聴かせていることとも、知らぬ間に対照的なコントラストを生じさせているかもしれません。

キーシンといえば現役ピアニストの中では最高位にあるひとりで、一般論的にいうと年齢的にも充実しきった時期にある筈ですが、なぜか焦点が少しずれてしまっているように感じるのは、素地がすばらしいだけに惜しいような気がします。

芸術家は強烈な自我やエゴの塊であると同時に、自分の芸術そのものに対しては、だれより厳しく謙虚である必要があるものだけれど、どこか独りよがりで、問い返しをしない、頑固で話の通じない人といったイメージ。
アンナ・カントール女史が亡き今、彼に率直な意見をいう人がいないのかなぁ?と思うけれど、いまさら先生の助言を必要とする歳でもありませんし。
彼ほどの天分に恵まれたピアノの天使が、どことなく浮いているように感じてしまうのは私だけでしょうか?

ピアニストに限ったことではありませんが、人間は地位が高くなればなるほどイエスマンに囲まれるから、より客観的で、ときに耳の痛い意見が耳に届くことが大切なところだと思います。

キーシンがどうであるかは知りませんが、ふとそういうことを考えてしまいました。

ブルース・リウ

ビデオの録画がたまるとハードディスクの容量がなくなるため、ときどき整理して大掃除します。

その折に見たひとつが、「題名のない音楽会」からブルース・リウがスタジオに招かれた回でした。
MCとの雑談や質問などを交えつつ弾いたのは3曲、ショパンの幻想即興曲、チャイコフスキーの四季から「舟歌」と「松雪草」。

演奏はショパン・コンクールの時の記憶そのままで、それに驚いたというのも変な言い方ですが…。
というのも、むかしの印象というのは勘違いや誤解をしていることもあるし、コンクールという縛りが外れてその人本来の音楽表現が放たれたり、ステージ経験を積むことで磨きがかかったり、良くも悪くも素顔が出たり、変化していることも少なくないからです。

ところがこの時の演奏は、曲は違うけれど印象として3年前のワルシャワとほとんどなにも変わっていないものでした。
恵まれた大きな手の持ち主だし、なにしろショパン・コンクールの覇者なのだから、好き嫌いにかかわらず、場所を移してあらためて聴いてみれば、その栄冠にふさわしいものがあるだろうと予想しました。

しかし、聞こえてくる演奏は、ピアノとピアニストと曲がもうひとつ融け合っていないのか、こんな小品でもなにか表現がはっきりせず、コンクール本選の協奏曲でも、思わず滑稽に感じるところなどもありましたが、すべてがそのままという印象。
ひとつ具体的にいうと、彼のアーティキュレーションは迷い気味でメリハリがなく、おまけにパッパッとスタッカートのように切る癖があったり。

本人の話すところでは、コンクール後は世界中を巡り、空港とホテルと会場の3ヶ所を回る生活に明け暮れているそうで、ピアニストとして充分に忙しい日々を送っているようだから、下世話な言い方をすると「じゅうぶん稼いで喰って行けてる」らしく、社会的には成立しているわけで、だから多くがこの方向を目指すらしいこともわかるけれど、やはり納得はできません。

ただ、ピアノではあまり評価できなかったけれど、人間的にはとても真っ当で、落ち着きのある好青年でした。
ほどよい礼節と笑顔とやさしみがあり、人として魅力的だった点は思いがけず好感をもちました。
ことに日本人は、どこか陰気なくせに文化人ぶって、その振る舞いも言葉も演技くさいのを見慣れていることもあって、彼の柔和で、いかにも自然体なところが、とても新鮮に映りました。

…なのですが、やはり彼はピアニストなのだから、肝心なことはピアノを弾いてこそであって、そこのところがもうひとつ評価できにくいのは、なんとも残念でした。

ピアノ以外ではレースや手品が好きだそうで、その手品というのをやってくれましたが、トランプを使ったもので、見ていてそのタネはわかったように思えたのですが、まぁそこに触れるのは無粋というものだから書かないでおきます。

それと、以下は番組についての苦言ですが、冒頭、彼を紹介する際に使われた言葉に何度も「エッ!?」となりました。
ショパン・コンクールの覇者ということだからか、「世界最高峰」「世界一のピアニスト!」「それでは世界一の演奏を」と何度も断言的に言ったし、画面上の文字にもされたのです。

記録や数値で評価されるアスリートと間違えているのか、世界一と決めつける根拠はなんですか?
では、彼以外のピアニストは、すくなくとも世界二位以下なのですか?
メディアによるこういう不見識も、コンクール至上主義を後押しする力となっているのだと思うと、情けないばかり。

しかも「題名のない音楽会」は音楽に特化した長寿番組なのだから、その不注意には唖然とするばかり。
ついでにいうと、スタジオはいつも昭和風のお花まみれのセットで、そのダサいことといったら見ているだけで恥ずかしく、あんなところで弾かされるのでは出演者が気の毒です。
MCの質問もあまりにわざとらしい幼稚でくだらないもので、そこまでレベルを下げるのはゲストと視聴者の両方が馬鹿されているようで、少し考えて欲しい気がしました。

新年おめでとうございます

本年もよろしくお願い致します。


昨日、大晦日の夜19時ごろ、すなわちあと5時間足らずで年が明けるというときに、せわしげに宅急便が届きました。
開けてみると、なんと7枚ものCDが入っており、そこにはお手紙も添えられていました。

ピアニストの草野政眞さんから届けられたもので、ご自身のアーカイブをお作りの由は伺っていましたが、これは試作段階のもので正式なものは少し違ったものになるとのこと。

一面識もない、一介のアマチュアにすぎない私のような者に、このような貴重なCDをお送りくださるとは、なんとありがたいことかと深謝しながらさっそくVoi.1をプレーヤーに入れてライナーノートを手に開いたところ、我が目を疑いました。

そこには何年も前、草野政眞さんの演奏をYouTubeで聴いて感激したときに書いたブログの文章が冒頭より転載されており、しかも当時は自分の一人称を「マロニエ君」などと我ながら気持ちの悪い言い方をしながら、甚だ無責任なことを書き散らしたもの。

それがまさかピアニストご本人の目に触れるなどまったくの想定外であったし、そもそもブログという次々に更新していく性質のものであることもあって、感じたままを勝手放題に書きつけたものだったから、見るのが怖くていまだに目が通せない状態です。

「顔から火が出る」とはこのことで、顔の皮膚の表面がいきなり発火するようで、同時に胸の奥が寒く落ちてゆくようで、恥ずかしさと申し訳なさで、鳴り出した演奏もしばらく耳に入りませんでした。
すぐにご本人にメールすると、そういわずに…というような内容の返事が返ってきましたが、もうできあがっているものだからどうしようもありません。

調べると2017年だったようで、草野政眞さんの存在を知った時、ご自身のHPからCDを購入したことから、奥様とメールを交わすようにはなっていましたが、その中でいつだったか私のブログのことに触れられたことがあり、使ってもいいかどうかのお尋ねがあました。
もしお役に立つことがあるならどうぞなどと迂闊にも返答していたものが、まさかこんなことになるなど思っていなかったので、とても光栄なことではあるけれど、それよりも驚きと恐縮でいたたまれないような気持ちになりました。

このピアニストにつては、いずれまた触れていきたいとは思いますが、日本人ピアニストとは思えぬスケールの大きさ、技巧、熱量、そして演奏に対する峻厳なスタンスを持つ方ですが、なぜか、どうしてなのか、その理由はわからないけれど、日本では適切な評価を受けることのないまま今日に至っているという不条理が横たわっています。

いかに突出した実力があっても、一定のコマーシャリズムにのらなければスターピアニストとして遇されないということなのか、ご本人がそういう俗事に関わりたくないということなのか、いずれにしろ、こういう本物のピアニストの存在に気づいて、発掘して、光を当てるという積極的な網をはらなかった日本の音楽界に、あらためて失望するきっかけとなりました。

私自身はじめて聴いたとき身震いしたことをいまでも生々しく覚えており、そのときの興奮に任せて書いたものが時間を経てお目に留まったのか…、むろんCD購入時もブログのブの字も言わなかったのですが、これがいわゆるネットの恐ろしさというものなのか、滅多なことは書けないとの戒めにもなりました。

草野さんの演奏に接して、惜しみない賛辞を贈ったのは、伝説の巨匠として名高いシューラ・チェルカスキーだったそうです。

チェルカスキーのみならず、ホフマンやホロヴィッツのような、絢爛たる演奏で聴衆を酔わせ、演奏が放つ一期一会の音の魔力に身を委ねるといったスタイルが、本質的に日本人の肌に合わないのか?と思ったりしますが、どうもそのあたりのことはよくわかりません。

少なくとも、日本における演奏評価の基準は、ありふれたピアノ教育の延長線上に実を結ぶつるんとした果実のような、どこかイジケたところのある小粒なもののほうが性に合うのかもしれません。

ご存じない方は、今からでもYouTubeで検索してみてください。
数は多くはないけれど、驚くような演奏がでてきますよ!