傷み

最近の優秀な若手の演奏を聴いて感じるところは、折々に述べてきたつもりで、とくにブロムシュテット氏の発言は象徴的だったように思います。
その点について、あれこれの演奏に触れては思うこと。

情熱や個性というのも言い尽くした気がするので、別の視点から考えてみると、演奏に表れるべき喜怒哀楽の希薄さで、これがコンクール基準で抑え込まれすぎた結果、気がつけば本当に喪失したのではないかと思います。
外面の完成度は非常に高く仕上がっているから、はじめは感心しても、しだいにシラケてくるというお定まりのパターンです。
血の通わない完璧で、ブロムシュテット氏は「近づいてこない」と仰せでしたが、逆にいうなら、こちらが入っていく足場がなく、お近づきになりたくても、きっぱりそれは制止され、距離感を求められているような。

別に物理的に近づこうというのではなく、その演奏世界に近づいて中に入って行きたいのだけれど、その入り口はどこにも見当たりません。

おしなべて現代の若い世代の感情の在り方がちがうのか、冷静すぎるのか、実際のところはどうなのか私にはわからないけれど、たとえば言葉の点では語彙が非常に少なくなっており、必要最小限の言葉で済ませ、さらにはその言葉も省略して短くしててしまう風潮だから、日本語の多様な言葉や変幻自在なニュアンスなどあったものではなく、そういうことも演奏表現にも出てしまっているのではないか…と思ったり。

一例をあげると、昔なら、ご心配には及びません、結構です、間に合っています、ご遠慮します、元気にしています、必要ありません、差し支えありません等々、時と場合に応じて自然に使いわけられた意味は、今は「大丈夫でぇす!」の一語にすべてが置き換えられてしまい、それが常態化しています。
言葉は思考の基本であり、その言葉がこれだけ合理化されたら、そりゃあ表現力も減じてしまうのも当然なのかもしれません。

とくに演奏で感じるところでは、心の痛み、煩悶、懊悩、絶望や悲しみ等々…が聴こえてこないと少なくとも私は思うのです。
そもそも芸術においては、喜怒哀楽のうち、喜や楽よりも、怒や哀のほうがより重要ではないかと思うのです。
あのお調子者のようなモーツァルトにも悲しみが潜み、シューベルトの清冽な旋律のすぐ隣には暗い恐ろしいものが忍び寄っているように。

楽譜に書かれた音符の再生という点ではまったくお見事で、そこにある種の爽快感がないとはいいません。
しかし、それだけではやはり終われないのです。
その上にあらわれる人間そのものが写り込みやが創造性が感じられず、ただ、きれいなホールの、きれいなピアノで、きれいな演奏というところに留まります。

人は誰しも楽しく幸福ではありたいと願うけれど、多くは裏切られ、現実は苦痛や悲しみのほうが多いわけで、そういうものを心の奥底に抱え持つ人が、美しい音楽の中に込められたそれらの要素に触れて、共感したり慰められたりしたいから、演奏も当然そこのところを素通りしてもらっては困るのです。

アスリートはまったく違い、大谷翔平さんのプレイに、人間の痛みや煩悶や懊悩が反映される必要などまったくないし、むしろ邪魔ですよね。
でも、芸術はやはり精神と感覚の世界だから、根本のボタンをかけちがえるとどうにもならないようです。

それもあって、身体的なハンディや人生の不幸を抱えた人が、時に注目されることがありますが、それはただのお涙頂戴ではなく、ほんの少し芸術の理にかなっているからかもしれません。