演奏の力

草野政眞さんの演奏による、矢代秋雄のピアノ協奏曲の録音に接する機会がありました。

だれもがすぐに聴くことのできない音源のことを書くのもどうかとは思いつつ、そこは先々にチャンスがあるかもしれませんのでお許しください。

草野政眞さんのピアノに接する度に、その圧倒的な演奏力量にノックアウトされます。
ただ上手いという人なら、日本人の中にもたくさんおられることでしょうが、つい聴き入ってしまう充実感、フォルムの美しさ、器の大きさなど、幾つかの要件を兼ね備えた人となると、なかなか見当たりません。

とくに器の大きさは日本人の苦手分野ですが、草野さんのピアノにはそれがあります。
どこかひ弱な日本人がここまで頑張れているといった必死感や、国内専用ピアニストという限定感がゼロ。
ピアノという大きな楽器を完全に我がものとし、泰然としているのに演奏に必要な集中と緊張感も途絶えることがなく、聴くたびに感銘をあらたにさせられます。

日本人ということでいえば、よくあるのは(もちろん個人差はあるけれど)、楽譜から読み取った音符を音に変換するときに、知らず知らずのうちにそれがなんらかの和風になってしまうところが、なかなか排除しきれないように感じます。
日本人が日本人的になるのは当然でもあるし、それをすべて悪いと言っているのではないけれど、西洋で生まれた音楽を取り扱うからには、やはりあちらの流儀にかなって歪みなく発達したものの方が、私はうれしいし好ましいわけです。

矢代秋雄は日本人だからそれにはあたらない!と言われそうですが、あくまで西洋音楽の語法と編成に則して現された作品だと思えば、やはり西洋流の演奏であることが作曲家の本来のイメージではなかったかと想像します。

この作品は1960年代にNHKからの委嘱で書かれたもののようですが、初演は中村紘子さんでした。
ネットに音源があったので聴いてみると、晩年より遥かに普通の演奏だったことのほうが意外だったし、その後も舘野泉さん、最近では河村尚子さんが弾かれていたようですが、こちらも私には、どうしても和風の醤油を垂らしたような感じは残ったままでした。

ところが草野さんの演奏は、それらとはまったく違っていて、知らずに聴けば日本人とはまず思わない巨きさとセンスで作品をぐんぐん引っ張っていくようで、まったく景色が違い、絵で言えば光と空気が違うようです。
ごく当たり前のことをしていると言わんばかりに、毅然として音楽が組み立てられてゆくおかげで、どこかモダンにさえ感じ、作品に対する長年の印象がすっかり覆りました。

私は日本人の現代作曲家の作品はほとんど知らないし、わかってもいないし、正直いえばさほどの興味もなく過ごしてきたのですが、この曲はごくたまに演奏機会があるようです。
大雑把な素人の印象では、正直をいうとどこか垢抜けない、それでも西洋に負けじと必死にもがいて作り上げられた作品というような勝手なイメージで、それは半分はピアニストによるもの、半分は作品がそういうものという印象がありましたが、ひとたび草野さんの手にかかると、たちまちあれこれの整理がついて、よくわからなかったところが、明瞭な言葉となり意味を得て、一気に腹に落ちてゆくようです。

まさに演奏の力というものを感じるところです。
おそらくこれがこの作品の本当の姿なのだろうと思いますが、矢代氏はこの草野さんの演奏を耳にすることのないまま、この演奏よりわずか2年前にお亡くなりになった由、なんとも残念な話です。