ショパン予備予選

気がつけば今年はショパンコンクールの開催年だそうで、秋の本線に向けて、予備予選なるものがワルシャワで始まったというので、動画を見てみました。

私はコンクールの規定などにはまるで不案内なので、そもそも予備予選とはなんなのか?さえ知りませんでした。
そもそもコンクールというものに大いなる疑問を持っているものの、ネットによると応募者はなんと642名にのぼり、それを書類と音源審査で通過した164名が出場するのだそうで、まずその数に仰天してしまいました。

そんな数字を見ただけで、とにかく何とかしてふるいにかけ、数を絞らざるを得ないだろうから、こういう一段階を設けるというのも一応はなるほどとは思います。

で、エチュード、マズルカ、ノクターン、スケルツォからなる30分の演奏が課されていましたが、はじめの数名ぐらいで、だんだん疲れてきて、やがて曲を進めたり飛ばしたりする頻度も量も増えました。
そのために大変な準備をしてくる出場者には申し訳ないけれど、とても全部を視聴するなど不可能で、第一日目にしてもうお腹いっぱいになりました。

なにしろこちらは自由気ままな視聴者だから、はじめの数分を聴いただけでこれはいただけないと思ったら、興味も集中も続きません。
多くの人が概ね同様ではないかと思うのですが、コンクールがお好きな方は連日ずっとこれを見ている猛者も少なくないようなので、そのあたりはまた違った楽しみ方があるのかもしれませんが、私はできないこと。

まして、ひとり30分といっても160人強ともなれば、審査するのもさぞや重労働でしょう。
その出身はピアニストが大半ですが、中には毎度毎回同じような名前があり、他のコンクールでも審査員だったりするのは、演奏より審査員が本業のようになっているのか?とさえ思ったり。

コンクールが与えるものとは、若い弾き手に対する栄冠だけではなく、ピアノメーカーにとっても最大の宣伝であり戦場でもあることがわかったし、そうなると審査する側もコンクールの権威を享受している側ではないか?と思うと、なんだか少しバカバカしいような気分にも陥ります。

出場者側も上位入賞を果たすような人達の多くは、あちこちのコンクールを渡り歩いているという話もしばしば聞くことだから、出場者も審査員もあっちこっちと場所が変わるだけで、実は同じような顔ぶれが何度も相対しているのかもしれません。

甚だ勝手な、短時間の視聴で感じたことは、日本人の演奏は細部まで詰めた準備をしすぎるのか、より、ゆとりがなく、顔の表情までもが決まったもののように感じたりするのは、これはもしかしたら自分も日本人だから、そのあたりが却って身につまされるのかもしれません。
対して、外国勢は、基本的に奏者の自由裁量の部分が多いように感じられ、そうあるべきだといつも思います。

むちろん人によってはおかしな点もあるから、それに比べれば日本人のきちんとしたもののほうがいいように感じるところもあるものの、やはりどこかずんぐりむっくりして、息が詰まります。

ずんぐりむっくりといえば、彼我の決定的な差を根底において感じるのは、やはり持って生まれた体格差からくるところがあるのでは?と思われて、これは今後も日本人が背負っていく部分なのかと思いました。

音楽的には韓国人はよほど自然で、運びにも必然性が宿っており、この差はなんなのかといつも考えさせられるところです。
日本人は、準備も訓練も立派にできているけれど、音楽が自然に流れないのはなぜでしょう?

政治家でも国際舞台ではむやみに緊張感があり、どこか卑屈な感じがしたりするのは、島国であるせいか、上記のように体格差からくるものか、あるいは日本語という言語に由来するのか、そのあたりのことはよくわかりませんが、非常に残念に感じるところです。
もしかしたら、どこか自分を見ているような気がしているのかもしれませんが。