ミクロの権利2

ミクロの権利の行使は駐車場だけではありません。

ちょっとしたお店や書店などに行っても、今はさりげない譲り合いの精神というものはまず期待できません。むしろその逆で、自分が見たい商品の前に人がいたりすると、少し横から見るようになりますが、昔なら人の気配を感じると、互いに場所を譲ったり、ちょっとした遠慮がちな動きや反応などがありました。
「謙譲の美徳」などはもはや死語だとしても、少なくとも、どうぞとかお互い様という気持ちがあったように思います。

ところが今どきは、そんな気配を察知するや、却ってそこに執拗に居座ろうという「意志的な独占」を感じられることも少なくなく、何のためにそこまでしなくてはいけないの?という疑念に駆られます。

過日もスーパーで急ぎの買い物を済ませようと立ち寄ったときのこと。生鮮食品の売り場で、こちらの目的の商品の真ん前にひとりの女性が立っていました。冷蔵の棚は2段になっており、上の段の商品をしきりに見ています。マロニエ君の買うものはその真下の段にあります。

その女性のほうが先なので、もちろんしばらくは待ちますが、他者が自分の次を待っていると気配でわかっている筈なのに、いくら待ってもその女性は尚も食い下がらんばかりにその場を離れません。

しかもその女性は手押しカートを使わず、買い物カゴを下の段の商品の上にどっかり置いています。
ラップがかけてあるとはいうものの生のお肉ですから、感心できない行為です。

おそらくその気持ちはこんなところでしょう。
人が自分と同じ場所を見たいと思っているなら、今の瞬間は自分が先着して見ている(あるいは品定めしている)最中なのだから、そこには優先権がある。これは常識でなんらルール違反ではない。である以上は自分が納得するまでその場を独占する権利があり、むやみに明け渡す必要などない。他者は自分の必要が終了しその場を立ち去るまで、黙して静かに、そして無期限に耐えて待つべきであろう。

…。こんな小さな小さな、みみっちい権利を行使することに、一服の薄暗い快楽を覚えているのだというのがひしひしと感じられるのです。もちろんその快楽の中には、自分が先であるというただそれだけの優越性と、遅参者に対するささやかな意地悪がこめられているのはいうまでもありません。
しかもその快楽は、この状況に流れる合法的行為という安全の上に成り立っているわけですから、まことにくだらない心情だとしか思えません。

自分が商品を見ていて、そこに別の人がやってきたら、ちょっと半身でも左右いずれかに動いて譲るぐらいの気持ちがどうして持てないものかと不思議で仕方ありません。
残りわずかというようなことならまだしも、商品はじゅうぶんあったのですが…。

これと対照的なのは、エレベーターなどで先に中に入った人が「開」ボタンを押して、人が乗り込むのを待つときなどです。人の目が多いほど、いつまでも遅れてきた人にも気を配り、少しの乗り損ねもないよう最大限の気配りをするする人がいて、これはこれでちょっぴり芝居がかった印象を受けます。
これに呼応するように、乗る人も、降りる人も、ありがとうございますという言葉をいささか過剰では?と思えるほど連発しますが、そこだけ切り取って見ていると麗しい日本人の礼儀正しさのように思えないこともありません。

でもきっと同じ人が、別の場所では、別人のような行動をとるような気がして、そういう意味では、最近の親切や礼儀も、どうも信じられない一面があるのは残念です。