ライト2

かなり前のことですが、来日した黄金期のポリーニが得意のベートーヴェンのソナタを弾いたとき、NHKのインタビューで述べた言葉を覚えています。

「ベートーヴェンはありふれた断片から崇高なテーマを作り上げます。」と、当時のすさまじい演奏とは裏腹な、至って控え目な調子で語り、傍らにあったピアノに向かって『熱情』の第一楽章の出だしをほんの軽く弾きました。(もしかしたら、弾いてから語ったのだったかも。その順序は覚えていません。)

これにはまったく膝を打つ思いで、多くのベートーヴェンの作品に共通した特徴です。
形而上学的世界といわれる最後の3つのソナタでさえ、第一楽章の第一主題など「ありふれた断片」といえばそのように思われます。
ひとつの主題をこれでもかとばかりに彫琢し、推敲し、いじりまわた挙げ句に壮大なフィナーレへとなだれ込む。また、変奏がとりわけ得意だったこともそんな彼の特徴があらわれていると見ることもできるように思います。

頭にベートーヴェンをもってくると話が大げさになり、ちょっと後が書きづらくなりますが、前回のライトの設計にもあるように、本物のクリエイターには独自のイメージや美学が力強く流れていて、むしろ素材にはそれほどこだわらないという場合も少なくありません。これはすべての分野に通じる一流とそれ以外の差でもあると思います。

極論かもしれませんが、何でもないものを最高の価値あるものへ変身させ、あらたな命を吹き込むことこそ芸術の極意なのかもしれません。

しかし、それは必ずしも芸術の世界の専売特許というわけでもありません。
余り物で美味しい料理を作ってしまう才能、はぎれやリフォームによってオシャレな服をこしらえる才能、棄てられる廃材を見た人が自分も欲しいと思うようなモダンなインテリアに変えてしまうなど、ある種の制約の中にあってこそ、人間の能力はより真価を発揮しやすいものではないだろうかとも思うのです。

場合によってはそんな制約があるほうが、ある意味では目的と方向性が明快となって、生み出されるものも心地よい調べをもっていることが少なくないように思います。
まったくの自由意志からなにか立派な作品を作ることも素晴らしいけれども、これこれのものが必要である、あるいは使い道のない素材を活かしたい、指定された予算と材料だけで何かを作らなくてはならないというような一見不自由な発想点からも、多くの傑作が生み出されていることも事実であり、それはそれで立派なモチベーションなのだと思います。

むかしお邪魔したある個人宅に、細長のなんともシックで美しいテーブルがあってまっ先に目に止まりましたが、なんとそれは市販の集成材にダーク系の艶のないオイルニスを重ね塗りし、そこへ足をつけただけというものでとても驚いた記憶があります。その趣味の良さとえもいわれぬ風合いには痛く感銘を受け、何十万もするような輸入家具を買うよりよほど尊敬に値すると思いました。

動機は部屋のサイズにジャストフィットするテーブルがどこにもなかったので、だったら自作してやろうと思い立ったとのことで、結果的にコストも望外の安さで事足りたということでした。

マロニエ君にはそのような技も才能もありませんが、それでも、そんな真似事のようなことをやってみたいという憧れのようなものがあるのも確かです。
なにか虚しい挑戦を、いつかやってみたいという気持ちだけはくすぶっています。