見切り性能

マロニエ君の部屋の『ディアパソン210E-7』に少し連なることですが、ピアノに限らず、楽器の表現力というものは、予め限界を作るべきではないというのが、マロニエ君の考えるところです。
言い換えるなら、常に無限へ向かってその表現の扉は開いていて欲しいと思うのです。

もちろん、そんなことを言ってみたところで、現実に限界はあるし、それどころかマロニエ君の稚拙なピアノの腕前を考えれば、どんなにその点に磨きをかけてみたところで、その真価を発揮させることはできないかもしれません。…いや、間違いなくできません。

ただ、たとえ自分の腕前ではできないことでも、できる人が弾いたときにはちゃんとそれに応えられるだけの潜在力というのはもっていて欲しいという拘りがあるのです。

軽く小さなハンマーのもたらす功罪として、昔の日本車を思い出しました。
現在はよく知りませんが、少なくともある時期までの日本車は、街中を走るには並ぶもののないほど快適で静かで高級感たっぷりなのに、ひとたび山道や高速道路を本気で走ると、いっぺんにぼろが出てヨーロッパの大衆車にも遥か及ばないという現実がありました。

ワインディングロードではよろよろと腰くだけになり、法定速度を超える高速では、その挙動はまったくだらしないものでした。街中でのジェントルな振る舞いとは別物のごとく、120km/h以上出すと安定性も操縦性も破綻へ向かい、騒音も一気に増大するというような車が多く存在しました。これは基本的な技術力というより、日本の道路法規に定められた道路環境や、高速道路の最高速度が100km/hであることから、常用域さえ乗りやすく快適であればよいとばかりに、それ以上の性能をはじめから切り捨てた結果であったようです。

かたや欧州車は、日本車の静かな安楽椅子みたいな快適さはないけれども、山道や高速では一段と腰の座った乗り心地となり、いざとなれば最高速度でも安心して巡行することができました。こそには彼我のバックグラウンドの違い、さらには価値観の相違が浮き彫りになりました。

要は性能の焦点をどこに向けるかという、きわめて重要な本質論だと思います。
もちろん音の可能性さえあれば弾きにくくてもいいなどというつもりはありません。しかし、弾きやすければ音は二の次とも思えないわけです。運動的な弾きやすさの代償に、草食系の薄っぺらですぐに音が割れてしまうようなピアノを弾いても、結局は楽しくもなんともありません。

ピアノはまずなにより弾きやすく、音は小綺麗にまとまっていればいいというのも、そういうニーズがあるのならひとつの在り方かもしれず、べつに否定しようとは思いません。
しかし、少なくとも弾き手とピアノと音楽という関係性に重きを置く場合は、こういう価値観は少なくともマロニエ君個人は賛同しかねるわけです。

簡単には弾かれてくれない骨太のピアノのほうが、弾く者を鍛え、喜びを与えてくれる時が必ずやってくるという信念といったら大げさですけれども、そういう考えがあることは確かです。

平生スーパーの野菜などをひどく下に見るかと思うと、こういう安易で底の浅い、いわばビニール栽培のようなピアノにはまるで無抵抗な感覚というのはよくわかりません。
マロニエ君なら、野菜はスーパーでもいいけれど、ピアノはオーガニックなものと過ごしたいと思います。どんなに秀逸でも、突き詰めれば機械でしかないピアノがあるいっぽう、欠点もあるけれども楽器と呼びたいピアノもあるわけで、やっぱり楽器がいいなぁ!と思うのです。