メールと電話

現代人にとって、もはやメールはなくてはならない通信ツールであることはいうまでもありません。

内容をしたため送信ボタンを押せば、時間/距離を問わず、瞬時に世界中どこへでも届くという驚異的な便利さは、昔だったらおよそ考えられなかったものです。

ただ、問題なのは、この便利さが自分の感覚領域にまで染みついて、思わぬ影響が出てくるときだと思います。
伝達手段としてメールが適当な場合にこのツールを使うのは当然としても、電話でもいいような、あるいは「電話のほうがいい」ような場合まで、メールが中心となり、ついそちらへ流れてしまうのはいささか危険なことだと思うのです。

最近の傾向として、電話をすることは、できれば一歩踏みとどまるべきというふうな暗黙の風潮があるように感じます。普通に電話をすることが、あたかも無遠慮で無神経な、ちょっと厚かましいことのように捉えられているふしがなくもないのは、ちょっと賛同しかねるところがあるのです。

必要以上に、迷惑ではないかとか、悪いタイミングにかけてしまって自分が疎まれたくないというような、いろんな心配や自己防衛が先行し、その結果メールが伝達手段の主流になってしまっているのは自分を含めて好ましい習慣とは思えません。
さらには、電話だとよけいな挨拶とかおしゃべりをするのが面倒臭いという、以前では考えられないような後ろ向きな気分が背後にないとは云えないでしょう。

つまりメールは、あたかも相手への配慮や気遣いのような前提をもってはいますが、全部が全部そうとも言い切れず、ある種の卑屈さ、エゴ、保身のいずれかがその都度、都合のいい指令を出して、要するにメールを選択しているというのが実情ではないかと思います。

しかし、人間関係は音楽や食にも通じる、いわば「生もの」であり、その魅力に委ねられているものだと思います。
メールなどなかった時代は、必然的にナマの関わりしかなく、それ以外の選択肢はありませんでした。だから世の中全体が、今にくらべて遥かに人付き合いがいきいきして、おおらかで、今とは比較にならないほど上手だったと思います。

そういうわけでマロニエ君は、メールのほうがいいと確信の持てる場合を除いては、できるだけ電話を優先するよう心がけているつもりです。そうはいっても、自分の都合でメールになってしまうことも無いと云えばウソになりますが、それでも、できるだけ電話で直接話をするに越したことはないと思っているのは確かです。

その理由はいろいろありますが、そのひとつ云うと、他の方のことは知りませんが、少なくともマロニエ君はどんなにタイミングの悪いときにかかってくる電話でも、それが迷惑とか不愉快に感じるということはまったくないし、嬉しいと感じるからです。

むろん折悪しく出られない状況というのはありますが、そのときはかけ直しをすればいいだけのことで、基本的に人間関係というものは会話を基本とする生きた関わりによって常に関係を維持し、それを更新していくものだという考えがあります。メールにその力がゼロだとはいいません。でも、直接の会話にくらべると遥かに非力でしょう。

もちろん、事柄によっては文字伝達の必要がある場合はありますが、それはあくまでも直接会話を補佐するかたちで用いたいもので、メールがレギュラー、電話が特別という順序立てはいかがなものかと思うのです。