ジェレミー・デンク

店頭での商品のディスプレイというものは、やっぱり大事なんだなあと思います。

マロニエ君行きつけのCD店では、クラシックはオペラなど特定のジャンルを除いて、基本的に作曲家ごとにアルファベット順に棚が整理されています。
大半のCDは背表紙をこちらに向けて並んでいますが、その上部には2段ほどジャケットを見せるスタイルで話題盤などが目につくようにおかれています。

バッハのコーナーを見ていると、その上段にJeremy.Denkという見知らぬピアニストによるゴルトベルクの輸入盤がまとまった枚数置かれていました。
ニューヨークで録音されたもののようで、モノクロでデザインされた紙の簡素なジャケットは、本人の写真と控え目な文字だけで、どことなくジャズのジャケットのようでもあり、どんな演奏だろうというささやかな興味を覚えましたが、とくべつ印象的というわけでもありませんでした。

インスピレーション的には、本当ならたぶん買わない筈のCDですが、前回来たときに300円の割引カードというのをもらっていて、それが使えるのは3000円以上からなのですが、この日買いたかったCDだけではあと1000円ちょっと足りません。
そこへ、この未知のゴルトベルクが目に入ったわけで価格は1590円、なんだかちょうどいい塩梅に思えました。でも失敗したら元も子もないし、いくら割引適用といったって、要らないものを買うほうが無駄なわけで、どうするか猛烈に迷いました。しかしこのとき時間もなく、最後まで躊躇するところも含みながら、破れかぶれで買ってみることにしました。

吉と出るか凶と出るかといったところで、いささか緊張気味に聴いてみましたが、まあ大失敗ではないものの、(マロニエ君にとっては)とくに成功とも言いかねるものでした。
ああ、やっぱり自分の直感には素直に従うべきだと後悔しつつ、割引券&ディスプレイの方法という、お店の計略にまんまと乗せられてしまったお馬鹿な客というわけです。

演奏は、初めはこれといった強い個性や魅力を見出すこともないものでした。なにしろゴルトベルクといえば、グールドの数種を筆頭にコロリオフ、シフ、アンタイ等々挙げだしたらキリがないほど第一級の演奏がゾロゾロ揃っている中、この人の演奏は決して悪くはないけれども、耳慣れた演奏に比べるとどこか緊張感が薄く、それが自由といえば自由なのかもしれません。
考えてみるとゴルトベルクのCDは名演揃いでありながら、だれもがある種の緊迫を背負って弾いているものばかりで、それを考えるとデンクのように気負わずに自然に弾いているところは新鮮でもあり、何度か聴いているうちにその力まぬ演奏の目指すところが少し了解できたようでした。

「ほぅ」と思ったのは、ピアノはニューヨーク・スタインウェイを使っているにもかかわらず、ニューヨーク特有の音のゆらめきが前に出過ぎず、良い意味でのアバウトな響きでもない、珍しいほど粒の揃った行儀の良いピアノでした。またニューヨークではしばしば曖昧になりがちな音の輪郭もかなり出ています。
よほど入念な調整がされたのか、生まれながらにそういう個性をもったピアノなのかはわかりませんが、はじめはハンブルクかと思ったほどでした。

ネットで調べてみると、ジェレミー・デンクは、1970年ノースカロライナ生まれのアメリカのピアニストでバッハから現代音楽にいたる幅広いレパートリーで文筆活動も盛んとありました。
「今日の最も魅力的で説得力のあるアーティストの一人」だそうで、現在のレーベルへのデビューアルバムは、なんと、リゲティのエチュード第1~13番とベートーヴェンのOp.111のソナタをカップリングしたものだそうで、その挑戦的な曲目はいかにも今風だなぁと感じます。
このゴルトベルクも3回を過ぎたあたりから、この人の自然かつ繊細な演奏に気分的に慣れてきたこともあって、なんとなくそちらも聴いてみたくなりました。

それでまたデンクのCDを買ったら、ますます店の思惑通りということになりそうですが…。