京響の魅力

NHKのクラシック音楽館で京都市交響楽団の定期公演の様子が放映されました。

冒頭の紹介によると、常任指揮者に広上淳一さん就任されてからオーケストラの魅力がアップし、「かつてない人気を集めて」おり「定期会員の数もこの数年で倍近くにふえている」ということです。
チケット販売も好調の由で、今日のようなクラシック離れ/コンサート不況をよそに、なんと1年3ヶ月連続のチケット完売、現在も記録更新を続けているとか。

曲目は、前半はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でソリストはニコライ・ルガンスキー、後半はマーラーの交響曲第1番「巨人」という大曲2つです。

来場者によると、京響の魅力は「団員がみんな楽しそうに演奏している」「活き活きして、いろいろな外国のオーケストラも聴いているが、ぜんぜん遜色ない」「京響のほうがすごいなと思うことがある」「京都の宝です」などと、評判も上々のようでした。

こんなふうに聞かされると、いやが上にも期待をしてしまいますが、残念ながらはじめのラフマニノフはあんまりいいとは思いませんでした。
ただし、これは専らルガンスキーのピアノに責任があるようで、あまり音楽的な演奏とは感じられませんでした。なによりマロニエ君の好みでないのは歌わない技巧的な演奏で、随所にある粘っこさも、わざわざ取って付けた表情という感じで、聴く喜びが感じられません。

強靱な音を要する箇所では、ばんばんピアノを叩く奏法で、音に潤いや肉付きがなく、突き刺さるような音の連続となり、どちらかというとスポーツ的な腕前だけが前面に出ているようにしか感じられませんでした。彼は、バッハとショスタコーヴィチの名手でもあったタチアナ・ニコラーエワのお弟子さんですが、ロマンティックな師匠とはなにもかもが違うようです。

そのためかどうかはわかりませんが、京響も期待したほどではなく、全体に精彩を欠いた演奏だったことにがっかりしました。

ところが、マーラーになると状況は一変します。
冒頭に寄せられたコメントも、マーラーに至ってようやく納得できるものになり、活き活きして柔軟な演奏が繰り広げられました。「巨人」はマーラーの中では親しみやすい作品かもしれませんが、あまりマロニエ君好みの曲ではなく、なんだか田舎臭い交響曲というイメージがあります。

ところが広上淳一&京響は、この作品から魅力を損なうことなく、泥臭さだけを抜き取って、清新でみずみずしく演奏したのはちょっと意外でした。解釈もアンサンブルも見事。
ちなみに、広上氏のリハーサルは音楽用語をあまり使わず、日常の言葉や情景に喩えるのが上手いのだそうです。そして各奏者に自分の考えを強要するのではなく、自由度を与えるというスタンスが楽員にやる気をおこさせているようでした。

比喩が上手い指揮者としてまっ先に思い出すのはカルロス・クライバーですが、彼は楽員に自由は許しませんでした。ただ、音楽的イメージや演奏上のポイントを瞬時に何かに喩えて表現できることは、指揮者の伝達テクニックとしては非常に有効かつ重要なものだと思います。

なにをするにも「楽しそうに」というのは極めて大切なことで、そもそもこの広上氏の指揮ぶりが、音楽することの楽しさを全身で表現しているようです。
まさか京都だからということもないのでしょうが、広上氏の風貌はまるで古刹の僧侶が洋装して指揮台に上がってきたようでもあります。小柄な身体のすべてと、豊かな表情を駆使して、常に燃え立つように指揮をされている姿は、音楽に対する真摯な姿であるとともにどこか愛嬌があり、多くの人を惹きつけるなにかを備えているようです。

広上氏の指揮はたえず音楽のために常に全力を注ぎ込んで躍動し、そのエネルギッシュな姿は、どことなく今は亡きショルティを彷彿とさせるようでした。