内田の3番

過日のBSプレミアムシアターでは、英国ロイヤルバレエのドン・キホーテ全幕のあとの余り時間を埋めるように、ミュンヘンのガスタイクでおこなわれた、マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団の演奏会のもようが放映されました。

ソリストは内田光子で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。

ものものしい序奏のあとに出てくる両手のユニゾンによるハ短調のスケールは、経験的にこの曲のソリストの演奏の在り方を、これでほぼ決定付けるものだと思います。
この上昇スケールとそれに続くオクターブの第一主題が、何らかの理由で収まらなかった演奏は、以降もほぼ間違いなくその印象を引きずっていくという点で、非常に決定的な部分だと思われ、いわばソロの見通しがついてしまうほど重要な意味をもっている…といえば大げさすぎるでしょうか。

いまさらですが、内田の演奏は音量がミニマムというか、場所によっては完全に不足していて、せっかくのきめの細かい演奏も、こういう曲ではあまりその魅力が発揮されるとは思えません。
ベートーヴェンの5曲の中でも、最も内田に向いているのは4番で、逆に3番はザンデルリンクと入れたCDもまるで納得できないものでしたが、今回はそれとは多少違った演奏ではあったものの、もうひとつという印象でした。

5曲中、最も繊細かつセンシティヴなのは4番、そして最も力強さが求められるのは皇帝のイメージがありますが、それはむしろ華麗さとかぶっている面もあるのでは…。皇帝にくらべて和音や重音の少ない3番ですが、それでいて骨格の確かさが要求されるため、マロニエ君の主観ですが、音楽として形にするのが難しいのも皇帝より3番ではないかという気がします。

内田のピアノは、最大のウリである繊細さの輝きに、このところやや翳りが出ているように感じてしまいます。以前のような、ハッと息を呑むようなこの人ならではのデリカシーの極限を味わうような楽しみが薄れ、演奏の冴えのようなものがだいぶ変質してきたようにも感じます。
作品に対する異常なまでのこだわりと熱気という点でも、以前の内田はとてもこんなものではなかったように思うのはマロニエ君だけでしょうか…。

彼女がその弛まぬ努力によって打ち立てた名声が、近年は少々無理を強いる結果を招いたのではないかという心配が頭をよぎります。

ところで、マロニエ君はこれまで折に触れ書いてきたように、日本人の女性ピアニストの多くが好む、フランス人形みたいなお姫様スタイルは、演奏家としての品位に欠ける俗悪趣味としか言いようがなく、どうにもいただけません。そのいっぽうで、これとは真逆の内田の独特の出で立ちにも、これはこれで見るたびに小さな衝撃を感じてしまいます。

とりわけ、ここ数年はいつも同じスタイルで、上半身はインナーの上に、超スケスケの生地で縫われたジャケットともシャツともつかない、なんとも摩訶不思議なものを着ています。

まるで海中をたゆたうクラゲか、はたまた養蜂業者が着る防護服のようでもあり、同じものの色違いを何色も確認しているので、きっと何着もお持ちなんだろうと思います。
こういつも同じデザインだということは、よほどのお気に入りということでしょうが、何度見ても大昔のSF映画のようで、不思議としかいいようのない衣装です。